神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
グレンは灯りを奥の壁に近づけた。
最初は濡れた岩肌にしか見えなかった。灯りの輪を広げていくと、岩だと思っていた表面に細かな皺が寄っているのがわかった。皺のあいだに薄く毛が生えていて、ところどころに爪のようなものがのぞいている。壁全体が、ゆっくり膨らんではしぼんでいた。
「下がれ、ピート」
ピートは壁から耳を離したが、足が動いていなかった。グレンは少年の肩を掴んで自分の後ろへ回し、もう一度灯りをかざした。
壁の中ほどに、顔があった。人間の男の顔で、目を閉じている。頬から下は壁と同じ色の皮膚に覆われていて、首から先がどこへつながっているのかはわからない。隣にもひとつ、その上にもひとつ顔があり、灯りの届く範囲だけでは、いくつあるのか数えきれなかった。顔の下のほうには、年季兵の外套の切れ端が、皮膚に巻きこまれて埋まっていた。
「第七の者たちだ」リーフェの声が低くなった。
「生きてるのか」
「心臓の音がすると、ピートが」
リーフェの声が途切れた。いちばん手前の顔が、目を開けていた。
濁った目がしばらく宙をさまよって、グレンの持つ灯りのところで止まった。唇が動く。声はかすれていて、ほとんど息の音だけだったが、横穴が静まり返っていたので聞き取れた。
「……あつい」
男は同じ言葉を何度か繰り返した。熱いのか暑いのか、グレンにはわからなかった。
「グレン」リーフェは焚べ筒を構えかけて、銃口を下げた。
「どうする」
答えるより先に、ピートが短く悲鳴を上げた。
少年の右足が、くるぶしまで床に沈んでいた。さっきまで靴底がわずかに沈む程度だった床が、粘土みたいにピートの足を呑みこみかけている。ピートが足を引くと、床がそれを追って盛り上がった。
グレンは刃筒の刃の根元に神骸片を押しこみ、灼けた刃をピートの足元に突き立てた。焦げる臭いが立って、床がよじれるように縮んだ。その隙に少年の襟首を掴んで引き抜くと、靴が片方だけ床に残った。
「出るぞ」
「でも、あの人たち」
「出てから考える」
横穴の入口から、双子とユーリが灯りをこちらへ向けていた。グレンがピートを押し出すと、ユーリが受け止めて主坑道へ引きずっていった。
振り返ると、リーフェがまだ壁の前にいた。焚べ筒を構えて、手前の顔に狙いをつけている。
「リーフェ」
「現物を持ち帰れと言われているのだろう」リーフェは振り向かなかった。
「それに、あの者たちをこのまま置いていくのか」
グレンは返事をせずに、壁際まで戻った。手前の男の顔のすぐ下に、壁から半分だけ突き出した腕があった。人間の腕で、手首に認識札の紐が巻きついている。札はもう付いていない。リーフェが持ち帰った束の中に、この男の札も入っていたはずだった。
男の目が、グレンを見ていた。
グレンは右の前腕の刻印に神骸片を押し当てた。腕の筋が内側から押し広げられて、肘がみしりと鳴る。灼けた刃を男の腕の付け根に当てて、一息に引き切った。壁が大きく波打って、横穴全体が呻いた。切り離した腕を掴んで後ろへ跳んだのと、壁の顔がいっせいに目を開けたのは、ほとんど同時だった。
リーフェが撃った。光の杭が手前の男の額を抜けて、男の目が閉じた。ほかの顔は開いたままで、どれも灯りのほうを見ていた。
「行くぞ」
リーフェは今度は素直についてきた。
主坑道に戻ると、ピートが片足を引きずりながら壁に耳をつけていた。
「来ます、奥から。重いのがひとつ……ひとつなのに、足音がいっぱいで」
双子が大筒を構え、ダミが吊っていないほうの手で神骸片を装填した。
「何が来るんだよ」
「わかんないです。わかんないけど、坑道より大きいかもしれない」
奥の暗がりで、岩を擦る音がした。支柱の折れる乾いた音が続いて、天井からぱらぱらと砂が落ちてくる。灯りの届かない闇の向こうで、何本もの腕が壁を掴みながら、こちらへ這い寄ってくる気配があった。
「撃て」
双子の砲が火を噴いた。光の塊が坑道の奥へ飛んで、闇の中で弾けた。一瞬だけ照らされたものを、グレンはまともに見てしまった。獣の胴がいくつも、縫い目なくつながってひとつの大きな塊になっていた。表面から人間の腕やエルフの脚が、でたらめな向きに生えている。塊の真ん中には裂け目のような口があって、その縁にも、人の顔がいくつか並んでいた。
「走れ!」
誰が叫んだのか、わからなかった。泥鼠は来た道を駆け戻った。ユーリがピートの腕を肩に回して引きずり、双子は走りながら交互に振り返っては大筒を撃った。
グレンは最後尾について、切り落とした腕を脇に抱えたまま、追いすがってくる腕の一本を刃で払った。払っても、すぐに別の腕が闇から伸びてくる。刃の赤みが引いてきたので、走りながらもう一粒、窪みに押しこんだ。前腕の刻印にはまだ熱がこもっていて、耳の奥であの声が鳴りはじめていた。いつもより近い。坑道の奥から追ってくるものと、同じ方角から聞こえてくる。
入口の明かりが見えたところで、脇の暗がりに煙草の火がひとつ浮かんだ。
「遅いよ」
マルタがくわえた煙草の先を、足元の紐に押しつけた。火が泥の上を這って、坑道の奥へ走っていく。泥鼠の最後の一人が入口を抜けたのと、背後で埋め火がいっせいに弾けたのは、ほとんど同時だった。白い火柱が坑道を塞ぎ、崩れた天井の岩がその上に降り注いだ。
入口の外で、全員がしばらく地面に転がって息をしていた。坑道の奥からは、もう何の音もしなかった。死んだのか、奥へ引っこんだだけなのかは、誰にもわからない。
グレンは脇に抱えていた腕を地面に置いた。切り口は焦げていて、血は出ていない。手首には、札のない紐が巻きついたままだった。
「それが現物かい」
「ほかに持ってこれるものがなかった」
マルタは腕とグレンの顔を見比べて、煙草をくわえ直した。
ユーリはピートの足首を診ていた。床に呑まれかけたところが、靴下ごと赤く腫れている。靴下を剥がすと、くるぶしの上に細い線がうっすら浮いていた。蔦が這ったような形で、第七の男の手の甲にあったものとよく似ていた。
ピートが自分の足を見下ろして、口を開いた。
ユーリのほうが先に「大丈夫、すぐ消えるよ」と言った。
早口だった。ピート以外は、みんなそれに気づいていた。
坑道へ続く道の向こうから、蹄の音が近づいてきたのは、そのときだった。現れたのは、白い法衣を着た男だった。馬を降りると、裾の泥を気にもせず、まっすぐこちらへ歩いてくる。耳は丸く、顔には年相応の皺が刻まれていて、どう見ても人間だった。胸に教会の紋が縫い取られている。人間の司祭が前線まで出てくるのを、グレンは初めて見た。
男は地面の腕と、崩れた坑道の入口とを見比べてから、グレンの前で足を止めた。
「グレン殿ですね」
泥鼠に来てまだ五日目の名前を、この男は知っていた。隊長でさえ、初日の戦いが終わるまで覚えようとしなかった名前だ。
「大神官ヴァレリオ様の使いで参りました。それを、こちらでお預かりします」