神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
坑道から戻って四日が経った。
そのあいだに泥鼠へ回ってきた仕事は、骸杭の打ち直しと、第三防衛線の夜番が二回だけだった。異形の群れは来なかった。坑道の入口は崩れたまま騎士団が見張りを立てていて、中から何かが這い出してきたという話も聞かない。湿地のほうも静かで、ドミとダミは暇を持て余してカードばかりしていた。
ダミの腕は三日目に吊り布が取れた。もっとも、取れたのが本当にダミの腕だったのかどうかは、本人たちにもあまり自信がないようだった。
ユーリは毎晩、寝る前にピートの包帯を解いた。結び目をいくつも作った細い糸を、くるぶしから痣の先端までまっすぐ当てて、どの結び目まで届いたかを確かめる。それが済むと、何も言わずに新しい包帯を巻いた。
一日目の痣は、くるぶしの上に指一本分だった。四日目の晩、糸の上の結び目は脛の半ばを越えていた。
「膝まで、あとどれくらいですか」
ピートが訊いた。いつもの調子で訊いたつもりだったのだろうが、声が少し上ずっていた。
「まだ遠いよ」とユーリは答えた。
糸を丸めて胸の隠しにしまう手つきが、少しだけ早かった。そこにはテオから預かった鉄の小札も入っているはずだった。
双子はカードを配る手を止めて、黙ってそれを見ていた。マルタは入口のそばで煙草を吸っていた。テオが帰り際に家族登録のことを口にしてから、マルタは何となく口数が減っていて、灯りを落とすのもいつもより早かった。
その晩の夜番は、グレンとピートだった。
雨は上がっていたが、雲が厚くて月も星も見えない。胸壁の上に置いた小さな灯りだけが、湿地の泥を鈍く照らしていた。グレンは胸壁にもたれて湿地を見張り、ピートはその隣で膝を抱えて座っていた。包帯を巻いた足を、ときどき伸ばしたり縮めたりしている。
「痛むのか」
「痛くはないです。ちょっと熱いだけで」ピートは膝に顎を載せた。
「グレンさん、昼間、隊長に何か言われました?」
「何をだ」
「なんか最近、隊長が静かなんで。グレンさんが何かやらかしたのかと思って」
「俺は何もしてない」
「じゃあ、あの司祭さんのせいですかね」
グレンは答えなかった。ピートもそれ以上は訊かず、しばらく黙って湿地を眺めていた。
やがてピートが、ぽつりと言った。
「夜になると、聞こえるんです」
グレンは湿地から目を離した。
「何が」
「心臓の音です。坑道の壁で聞いたのと同じやつ。最初は気のせいだと思ってたんですけど、毎晩、だんだんはっきりしてきてて」ピートは東のほう、坑道のある方角を顎でさした。
「向こうから聞こえるんです。こんなに離れてるのに。それと」
ピートは包帯の上から、自分の脛を押さえた。
「ここからも。向こうの音と同じ拍子で、ここの中で何かが打ってるんです」
グレンはしばらく何も言わなかった。少年の手の下で、包帯がわずかに脈打っているように見えたのは、灯りが揺れたせいかもしれなかった。
「ユーリには言ったのか」
「言ってないです。言ったら、あの札を使うって言い出しそうで」
ピートは膝に額をつけた。
「教会に連れていかれたら、どうなるんですか、俺」
「わからん」
正直に答えると、ピートは顔を上げて、少し笑った。
「グレンさん、そういうとき嘘つかないですよね」
「つくのが下手なだけだ」
グレンは右の前腕の刻印に目を落とした。袖の上からでも、どこに線が走っているかは指で辿れる。
「俺も、ときどき聞こえる」
ピートが黙ってこちらを見た。
「心臓の音じゃないがな。焚べた日の夕方に、遠くで誰かが何か言ってる。もう何年もだ。何を言ってるのかは、いまだにわからない」
「怖くないんですか」
「最初のうちはな。そのうち、腹が減るのと同じくらいのことになった」
ピートはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いたようだった。グレンは自分の言ったことが本当なのかどうか、よくわからなかった。坑道で刻印を焚べたあの日から、声は前よりも近くなっている。腹が減るのと同じくらいだと言えたのは、たぶん四日前までのことだった。
翌朝、ユーリがマルタに、後方の施療所へ行かせてほしいと願い出た。
「第七の人の様子を見てきたいんです。あの人の痣がどうなったのかがわかれば、ピートの痣がこれからどうなるのかも、少しはわかるかもしれないので」
マルタは煙草をくわえたまま、しばらくユーリの顔を見ていた。
「一人じゃ行かせないよ。グレン、あんたもついていきな。ついでに補給所で神骸片の受け取りを済ませてきてくれ。坑道で使った分が、まだ戻ってきてないんだ」
施療所までは、塹壕の後ろの丘を越えて、半日ほど歩いた。
道の途中で、ユーリはほとんど口をきかなかった。グレンの少し前を、ときどき胸の隠しに手をやりながら歩いている。そのたびに、布越しに鉄の小札の角が浮き上がるのが見えた。
「膝まで、あとどのくらいなんだ」とグレンは訊いた。
ユーリは足を止めずに答えた。
「指三本くらいです。このままなら、あと四、五日で届くと思います」
「届いたら、札を使うのか」
「わかりません」ユーリは少し黙ってから続けた。
「教会に任せたほうが、ピートのためなのかもしれないとは思うんです。教会には治癒の祝福があるし、書記局は痣のことを何か知ってるみたいだったし。でも、あの札を渡されたとき、テオさんは治すとは一言も言わなかった。知らせが届くようにする、って言っただけで」
グレンは昨夜のピートの言葉を思い出した。教会に連れていかれたらどうなるのか、と少年は訊いていた。
「ピートが、夜に心臓の音を聞いてるそうだ」とグレンは言った。
「坑道のほうからと、自分の脛の中から。同じ拍子で」
ユーリの足が止まった。振り返った顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
「どうして僕に言ってくれなかったんでしょう」
「言ったら、お前が札を使うと思ったんだろう」
ユーリは何か言い返そうとして口を開いたが、言葉は出てこなかった。しばらくして、また前を向いて歩き出した。さっきよりも少し早足になっていた。
後方の施療所は、古い農家の納屋を板で仕切っただけの建物だった。
中に入ると、藁を敷いた寝台がずらりと並んでいて、包帯を巻いた年季兵たちが寝かされていた。血と膿と、安い酒精の臭いが混じっている。祝福による治癒は、ここには来ない。働いているのは人間の老いた看護婦が二人きりで、その二人も、包帯を替えて回るだけで手一杯のようだった。
グレンはふと、居住区の施療院のことを思い出した。ニナが寝ている寝台も、たぶんこれとそう変わらない。違うのは、あそこにいるのが傷病兵ではなく病人だということくらいだった。
ユーリが看護婦の一人をつかまえて、第七小隊の生き残りのことを訊いた。年配の看護婦は、手を拭きながら納屋の奥を顎でしゃくった。
「あの手に痣のある人だろう。奥の、窓際の寝台だったけどね」
「だった?」
「二日前に、教会の人が連れていったよ」
ユーリが息を呑むのが聞こえた。グレンは看護婦の顔を見た。
「教会の、どんなやつだ」
「エルフの司祭さんが二人。白い法衣を着てて、担架も自分たちで持ってきてたね。上からの指示だから、記録はこっちで書くって言って、名前も名乗らずに帰っていったよ」
「人間の司祭じゃなかったのか。テオという名の」
「人間の司祭なんて、ここ何年も見てないよ」
看護婦はそう言うと、棚から分厚い帳面を下ろして、ぱらぱらとめくった。二日前の日付のところで手を止め、指でなぞる。
「ほら、ここに書いてある」
グレンとユーリは、帳面を覗き込んだ。
第七小隊、生存者一名。容体急変により死亡、埋葬済み。
その横に、教会の紋の封蝋が押されていた。
「死亡って」ユーリの声がかすれた。
「連れていかれたときは、生きてたんですよね」
「生きてたよ。担架の上で、ずっと何か呟いてた」
看護婦は帳面を閉じかけて、顔をしかめた。
「埋葬なんて、ここじゃしてないよ。あたしは、あの人が生きたまま運ばれていくのを見たんだから」
グレンは、看護婦の手から帳面を受け取って、もう一度その頁を開いた。
封蝋の紋は、教会の紋で間違いなかった。
ただ、テオの馬の鞍に括りつけてあった木箱や、ユーリが預かった小札に刻まれていた紋とは、少しだけ形が違っていた。教会の紋の外側に、細い輪がひとつ重ねてある。
隣で、ユーリが胸の隠しを押さえていた。布の下で、鉄の小札の角が、さっきよりもはっきりと浮き上がっていた。