神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
補給所は、施療所から丘をひとつ戻ったところにある石造りの倉だった。
窓口の向こうに座っていたのは、灰色の毛並みをした獣人の補給官で、グレンが差し出した受け取りの札を見るなり、鼻先にしわを寄せた。奥の棚から袋をひとつ下ろしてきて、窓口の台にどさりと置く。グレンが口を開いて中を覗くと、神骸片は札に書かれた数の半分ほどしか入っていなかった。
「足りない」
「坑道の件で、騎士団に先に回した。年季兵の分は、残りから出すことになってる」
「その騎士団は、坑道の入口で見張りに立ってるだけだろう」
補給官は答えずに、台の上の帳面に何か書きつけた。それからグレンの顔を見て、少しだけ声を落とした。
「坑道から腕を一本持って帰ってきた小隊ってのは、お前らか」
「そうだ」
「そうか」
補給官はそれだけ言うと、奥の棚へもう一度引っ込んで、小さな布袋をひとつ持ってきた。それを黙って最初の袋の上に載せる。中身は神骸片で、ざっと見て十粒ほどあった。
「帳面には載せない。落としたとでも言っておけ」
グレンは礼を言いかけたが、補給官はもう次の札を受け取っていて、こちらを見ようともしなかった。
帰り道、ユーリは来たときよりもさらに口数が少なかった。丘を越えて塹壕が見えてきたころ、ようやく一度だけ口を開いた。
「あの紋、神学校の写本で見たことがある気がするんです」
壕に戻ったのは、日が落ちてからだった。
ユーリが施療所で見てきたことを話しているあいだ、誰も口を挟まなかった。双子はカードを手にしたまま固まっていて、リーフェは壁際で焚べ筒を抱えたまま、じっとユーリの顔を見ていた。ピートは藁の上で毛布をかぶって寝たふりをしていたが、たぶん全部聞いていた。
ユーリは帳面の封蝋のことまで話し終えると、少し迷うように言葉を継いだ。
「あの輪の紋、神学校の写本で見たことがあるんです。神の声を聴くための祈りを守っている、古い修道の会の紋だと習いました。俗世とは関わらずに、ただ静かに祈り続けている人たちだって」
マルタは煙草を口から離した。
「静かに、ねえ」
「隊長は、ご存じなんですか」
マルタはしばらく黙って灯りを見ていた。
「若いころに一度だけ、見たことがあるよ。居住区で、礼拝所の司祭が急にいなくなったことがあってね。代わりに来た連中が、その輪の紋を胸に下げてた」
マルタは煙草の灰を指で弾いた。
「それからひと月もしないうちに、居住区から何人か人が消えた。熱を出して寝込んでた年寄りやら、変な夢を見るって騒いでた子どもやらがね。どこへ行ったのか、誰も知らなかった」
ユーリは何か言おうとして、口を閉じた。
「あたしが見たのは、そんな静かなもんじゃなかったけどね」
「神様の声」とグレンは繰り返した。自分の右の前腕に、意識が向くのを止められなかった。
「グレンさん」
毛布の中から声がした。ピートが顔を半分だけ出して、こちらを見ていた。
「俺、あの札、使いたくないです」
誰も何も言わなかった。ユーリが胸の隠しに手をやって、そのまま止めた。
「教会に行ったら、あの第七の人みたいに、死んだことにされて連れていかれるんでしょう。俺、そんなのは嫌です。母ちゃんにも弟にも、死んだって手紙が届くだけで、本当はどこにいるのかもわからないなんて」
「まだ、そうなると決まったわけじゃない」とユーリは言ったが、その声には自分でも信じきれていない響きがあった。
「じゃあ、どうするんだよ」と双子の片方が言った。
「痣が膝まで行ったら、どうなるんだ。坑道の壁の連中みたいになるのか」
「わからないよ」ユーリは首を振った。
「でも第七の人の痣は、坑道から出たあとも広がっていた。ピートの痣も、毎晩伸びてる。ピートは夜になると、坑道のほうから心臓の音が聞こえるって言ってた。」
双子がそろってピートのほうを見た。ピートは毛布を鼻の上まで引き上げた。
それまで黙っていたリーフェが、壁際から口を開いた。
「元を断てばいい」
全員の目が、リーフェに向いた。
「坑道の奥のあれが、痣を広げているのだろう。音がそこから聞こえて、そのあいだにも痣が伸び続けているのなら、そう考えるのが筋だ」
リーフェは焚べ筒の銃身を指でなぞった。
「あれを殺せば、少なくとも痣はそれ以上広がらないかもしれない」
「かもしれない、で坑道に戻るのかよ」
「札を使って、ピートを見知らぬ者たちに渡すよりはましだ」
双子は言い返そうとして、結局黙った。
グレンは、坑道で走りながら刃に神骸片を焚べていたときのことを思い出していた。刻印の熱で耳の奥の声が鳴りはじめて、その声が、背後から追ってくる気配と同じ方角から聞こえていた。ピートの言う心臓の音と、自分の聞いている声とが、同じところから来ているのかどうかはわからない。ただ、どちらも坑道の奥を指しているのは確かだった。
「リーフェの言う通りだと思う」とグレンは言った。
「確かなことは言えない。だが、あれを放っておいて、ピートの痣が止まるとは思えない」
マルタは、何も言わずに煙草を吸っていた。長い一服だった。煙を吐き終えてから、ようやく口を開いた。
「命令は出てないよ」
「わかってる」
「命令なしに坑道に入れば、それだけで罰になる。核を何十個持ち帰ったって、功績点は一粒もつかない。下手をすりゃ、年季が延びる」
マルタはひとりずつ顔を見ていった。双子、ユーリ、リーフェ、それからグレン。最後に毛布の中のピートのところで、目が止まった。
「それでもいいって馬鹿だけ、ついてきな」
双子が顔を見合わせて、同時に肩をすくめた。
「年季なんて、どうせ延びたり縮んだりしてるし」
「査定官に削られるのと大して変わらないよな」
ユーリは胸の隠しから鉄の小札を取り出して、しばらく手のひらの上で眺めていた。それから、それをまた隠しに戻した。捨てはしなかったが、使うつもりもないという手つきだった。
リーフェは何も言わずに、焚べ筒の手入れを始めていた。
グレンは右の前腕の袖をまくって、刻印の線を灯りにかざした。坑道で焚べたところが、まだうっすらと赤い。ニナのことを考えないわけではなかった。命令なしに動けば年季が延びる。年季が延びれば、そのぶんニナに市民権が届くのが遅れる。わかっていて、それでもグレンは袖を下ろした。
「隊長は、どうして行くんだ」とグレンは訊いた。
マルタはすぐには答えなかった。煙草の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「生きてる人間が死んだことにされるのは、もう見飽きたんだよ」
それ以上は何も言わず、マルタは灯りを落とした。
夜が明ける前に、泥鼠は壕を出た。
神骸片は、補給所から持ち帰った分に、それぞれが手元に残していたものを足して分けた。双子は藁の下から小さな袋を引っ張り出してきて、マルタに睨まれた。マルタ自身も、寝床の木箱の底から、古い革袋を取り出してきた。中の結晶は少し曇っていて、何年もそこにしまわれていたものらしかった。
「隊長、それ」とダミが言いかけた。
「黙ってな。使う日が来たってだけだよ」
ピートは、自分も行くと言って聞かなかった。痣のある足では走れないとユーリが止めたが、ピートは首を振った。
「坑道の中じゃ、俺の耳がいちばん早いです。俺がいなかったら、あれがどこから来るのか誰もわからないでしょう」
それを言われると、誰も言い返せなかった。灯りの届かない坑道の中で、あれがどこにいて、どちらへ動いているのかを真っ先に聞き分けられるのは、ピートの耳だけだった。
坑道の入口までは、まだ暗いうちに着いた。崩れた岩の山の前に、篝火がひとつ焚かれている。騎士団の見張りだろうと身構えたが、篝火のそばに立っていたのは一人だけだった。
銀の胸甲が、火の明かりを受けて鈍く光っていた。
アイレンは、近づいてくる泥鼠を見ても剣に手をかけなかった。ただ腕を組んで、マルタの顔をまっすぐに見た。
「命令は出ていない」
「承知の上ですよ」とマルタは言った。
「見張りの兵は、今夜は下がらせた。騎士団のほうでも、坑道の奥を調べろという命令はまだ出ていない。大神官府から書状が届いたのは、お前たちのところだけだ」
アイレンは崩れた岩の山を振り返った。岩の隙間から、かすかに生温かい風が吹き出している。
「湿地の死骸の話を聞いてから、ずっと考えていた」アイレンは低い声で言った。「エルフの腕が、人間の手と同じ胴から生えていたと言ったな」
「言いましたよ」
「なら、私も行く」
泥鼠の誰も、すぐには返事ができなかった。双子が顔を見合わせ、ユーリが口を開けたまま固まっている。
アイレンはそれに構わず、腰の剣を抜いて、刃の具合を篝火にかざして確かめた。
「勘違いするな。お前たちを助けに行くわけではない。私が確かめたいことがあるだけだ」