獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
転生、という言葉を思い出したのは、僕がゼロスとして生まれて数年が経った頃だった。
思い出した、というのは少し違うかもしれない。ある日、獣王様の御前で頭を下げていたら、ふと「あ、これ知ってる」と思ったのだ。
獣神官ゼロス。獣王ゼラス=メタリオム直属の、ただ一人の部下。胡散臭い笑顔で、肝心なことは全部「それは秘密です」で済ませる、あの魔族。
前の僕は――いや、あの頃の私は、どこにでもいる普通の女だった。朝に電車へ乗り、昼にコンビニのおにぎりを食べ、夜はベッドでスマホを眺めた。本棚の隅には、子供の頃に夢中で読んだスレイヤーズが、日に焼けた背表紙のまま並んでいた。
子供の頃の私は、リナ=インバースが大好きだった。
欲しいものは、欲しいと言う。気に入らないものには、気に入らないと言う。誰に何と言われようと、自分の考えを曲げない。行く手に何が立ち塞がろうと――盗賊だろうが、竜だろうが、魔族だろうが――臆せずにぶち壊して、まっすぐ前へ進んでいく。
頁をめくるたびに、胸がすくようだった。
大人になってからも、時折、手に取った。そのたびに思った。私には、できない生き方だ、と。
朝の電車も、昼のおにぎりも、夜のスマホも。毎日は、なんとなく過ぎていった。何かを強く望んだことも、誰かとぶつかってまで何かを通したことも、たぶん、一度もなかった。
だから、憧れたのだと思う。眩しかったのだと思う。
刀剣乱舞を始めたのは、働き始めてからだった。毎朝ログインすると、近侍の刀が「おはよう、主」と言った。画面の向こうの声だ。それでも、一日の始まりの合図としては悪くなかった。
その私が、どうして男の姿の魔族に――ゼロスになったのかは分からない。分からないまま、時間だけが過ぎた。
一人称が「私」から「僕」に変わったことにも、いつの間にか慣れてしまった。
*
結論から言うと、僕は何もしなかった。
この先に起きることを先回りしてどうにかしようとか、そういうことは一切考えなかった。物語が始まるのは、千年も先の話だ。頁の上の人たちは、まだ誰一人として生まれていない。遠すぎて、実感が湧かなかった。それに、魔族の身で何をどう変えられるのか見当もつかなかったし、そもそも変える理由が見つからなかった。
それに、誰にも気づかれなかったのだ。
思い出す前と同じ顔で命令をこなしていれば、誰も何も疑わなかった。自らの手で生み出したはずの部下の魂に、人間の名残が混じっていることに、獣王様は少しも気づいておられないようだった。
ただ一人、冥王様だけは警戒した。
人の魂を見通し、命の輪廻を司るお方だ。混じり物の魂など、ひと目で見抜かれてもおかしくない。思い出してから初めて御前に呼ばれたときは、さすがに滅ぼされる覚悟をした。
結果は、拍子抜けするほど何もなかった。
冥王様は僕の顔を見て、いつものように笑って、用件だけ告げて僕を下がらせた。次も、その次も、同じだった。
それ以来、僕は秘密を抱えたまま今に至っている。誰にも気づかれていないのなら、わざわざ波風を立てることもない。
獣王様から命令が下る。僕はそれをこなす。それだけだ。
感覚としては、役所の窓口に近い。書類が回ってきたら判を押す。前例のないことはしない。上から言われた範囲のことを、言われた通りに処理する。頁の上のゼロスが、胡散臭い笑顔で肝心なことをはぐらかしながら、主の命令だけは淡々とこなしていたように。
千年前の降魔戦争では、黄金竜の群れを相手に戦った。記録の上では、たしか数千を屠ったことになっている。
それだけではない。命令が下れば、街を焼いた。村をいくつも、地図の上から消した。逃げ惑う人間を、数えるのも面倒になるほど手にかけた。理由を問うたことは、一度もない。
不思議なことに、そのどれについても何も感じなかった。
人間だった頃の私なら、たぶん吐いていた。夜も眠れなかったと思う。けれど魔族の僕は、返り血が乾く前に次の命令のことを考えていた。
罪悪感は、湧かなかった。湧く場所が、最初から体のどこにもないような感じだった。
魔族とはそういうものなのだろう。負の感情を糧にし、世界の滅びを願う存在。人の心など、千年もあれば擦り切れて消える。
――はずなのに、どういうわけか、僕はまだ僕だった。
朝の電車の揺れを覚えている。コンビニのおにぎりの、海苔がうまく剥がれなかった苛立ちを覚えている。近侍の刀の声も、まだ耳の奥に残っている。
残っているのは、記憶だけではなかった。好きなものも、苦手なものも、ものの考え方の癖も。リナさんに憧れた気持ちさえ、色褪せずにそこにある。
けれど、それだけだった。
手にかけた誰かの顔を思い浮かべても、胸は少しも痛まない。前の私なら泣いたであろう場面を、今の僕は、帳簿の一行のように眺めていられる。
自分が消えるのは、怖い。
誰かが消えるのは、何とも思わない。
人の記憶と、魔族の心。その二つが、僕の中で、混じり合うこともなく並んでいた。
何かが、僕の中の人間を繋ぎ止めている。それが何なのかは、千年経っても分からなかった。
分からないことは考えない。それも役所仕事の鉄則だ。
*
「やあ、ゼロス。久しぶりだね」
冥王フィブリゾ様に呼び出されたのは、ある夜のことだった。
冥界の玉座に、子供が腰掛けている。足をぶらぶらさせて、退屈そうに頬杖をついて。見た目だけなら、どこかの村の男の子と変わらない。
僕は恭しく頭を下げた。
「これはこれは、冥王様。僕のような下っ端に、何のご用でしょう」
「とぼけなくていいよ。ゼラスには話を通してあるから」
冥王様は、楽しそうに目を細めた。
「リナ=インバースって人間、知ってる?」
知っている。たぶん、この世界の誰よりも。
「お名前だけは。ドラまたのリナ、でしたか」
「そう、それ。君、しばらくあの子を見張っててくれないかな。クレアバイブルのこととか、いろいろ嗅ぎ回ってるみたいでさ。いい感じに、こっちの都合のいい方へ転がしてほしいんだ」
――ああ、ここか。
僕は頭を下げたまま、心の中で頁をめくった。
この先に何があるのか、僕は知っている。カタート山脈。魔竜王ガーヴ。サイラーグ。そして、重破斬(ギガ・スレイブ)。
冥王様は、その最後の頁で、自分が呼び出したものに滅ぼされる。
「承知いたしました」
僕は言った。声は少しも揺れなかった。
教える理由はない。止める理由もない。筋書きは、筋書き通りに進む。僕はその中で、与えられた役を演じればいい。
「うん、いい子だね。じゃあ、よろしく」
冥王様が手を振る。僕は闇に溶けるように、その場を辞した。
冥界を出ると、夜空に細い月が浮かんでいた。
三日月だった。
特に、何も思わなかった。そのときは、まだ。