獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
異界黙示録は、書物ではなかった。
光の満ちる空間の中心に、それは在った。形はない。澄んだ水の塊のようにも、静かに脈打つ心臓のようにも見える。近づくと、意識の表面に、さざ波のような気配が触れてくる。
「これは、水竜王(アクア・ロード)ラグラディアの遺したものだ」
ミルガズィアさんが、低い声で言った。
「降魔戦争で滅びる間際、水竜王が遺した膨大な記憶。それが、人間たちの間で異界黙示録と呼ばれてきたものの正体だ。問えば、答える。ただし、受け止めきれるかどうかは、問う者次第だ」
リナさんは、ごくりと唾を飲み込んだ。
それから、光の前に進み出た。
僕とミルガズィアさんは、少し離れた場所でそれを見守った。
筋書き通りだった。ここでリナさんは、全てを知る。
*
「魔竜王ガーヴについて、教えて」
リナさんの問いに、光がゆらりと揺れた。
答えは、声ではなかった。リナさんの表情が、それを受け取っていく様子で分かった。
千年前の降魔戦争。北の魔王と共に水竜王と戦った魔竜王。竜の名を冠するがゆえに、魔王は彼を通して水竜王を攻撃した。その代償に、水竜王は滅びる寸前、魔竜王の魂を人間の輪廻へと封じた。
人として生まれ、人として死ぬ。それを繰り返すうちに、魔竜王は知ってしまったのだ。生きたい、という欲を。
世界の滅びを望む魔族でありながら、生き続けることを望む者。だから彼は、魔族に背いた。
「……そういう、ことだったの」
リナさんが、かすれた声で呟いた。
そして、少しの沈黙の後、もう一つ問いを口にした。
「じゃあ……金色の魔王(ロード・オブ・ナイトメア)って、何?」
光が、さっきよりも深く揺れた。
リナさんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
混沌の海。全ての世界の始まりであり、終わりであるもの。神も魔も、その海から生まれ、いずれその海へ還る。魔王でも、神でもない。その全てを超えた、全ての母。
重破斬(ギガ・スレイブ)は、その力を借りる術だった。
制御を誤れば、術者だけでは済まない。世界そのものが、混沌に呑み込まれる。
「……あたし」
リナさんの声が、震えていた。
「あたし、そんなものを……使ってたの……?」
いつも強気なリナさんの肩が、小さく揺れていた。拳を握りしめ、それでも震えが止まらないようだった。
ミルガズィアさんが、静かに目を伏せた。
僕は、何も言わなかった。
知っていた。この場面も、リナさんの恐怖も、全て頁の上で読んだ通りだった。
そして、この後に何が来るのかも。
*
空間が、裂けた。
音もなく。前触れもなく。光の満ちる静寂を、横殴りの刃が切り裂いた。
「――なっ」
リナさんが振り返る。ミルガズィアさんが目を見開く。
その二人の前に、僕は立っていた。
振り下ろされた剣を、杖で受け止める。
重い。
腕が、いや、存在そのものが軋んだ。衝撃が杖を伝って、僕の芯まで響いてくる。
「……ちっ」
剣の向こうで、男が舌打ちした。
燃えるような赤い髪。獣のように鋭い目。人間の大男の姿をしていたが、その身から溢れ出す気配は、人間のものでは断じてなかった。
魔竜王ガーヴ。
「獣王の犬か。邪魔しやがって」
「いやあ、どうも。お久しぶりですね、ガーヴ」
笑顔を作るのに、少し苦労した。
「ガーヴ!? まさか、こんなところまで……!」
リナさんが叫んだ。
「馬鹿な、この空間に、外から……!」
ミルガズィアさんの声にも、動揺が滲んでいた。竜族が長く守ってきた聖域に、魔竜王が踏み込んできたのだ。無理もない。
驚いていないのは、僕だけだった。
知っていたからだ。この人がここに来ることを。リナさんの命を狙って、この聖域にまで手を伸ばしてくることを。
「リナさん、ミルガズィアさん」
僕は、ガーヴの剣を押し返しながら言った。
「ここは僕が引き受けます。今のうちに、逃げてください」
「で、でも!」
「早く。ミルガズィアさん、帰り道はご存じでしょう?」
ミルガズィアさんは、一瞬だけ僕を見た。複雑な目だった。憎しみと、困惑と、それから何か別のものが混じった目。
「……行くぞ、人間の魔導士」
ミルガズィアさんが、リナさんの腕を掴んだ。
「ちょっ、待って!」
リナさんは引きずられながら、振り返った。
「ゼロス! あんた、気をつけなさいよ!」
――気をつけなさいよ、か。
思わず、苦笑が漏れた。
魔族の僕に。リナさんを利用している僕に。さっき正体を知ったばかりの、胡散臭い獣神官に。
本当に、リナさんらしい。
「はいはい。善処しますよ」
二人の姿が、光の道の向こうへ消えていく。
「行かせるかよ!」
ガーヴが地を蹴った。その前に、僕は回り込んだ。
「おっと。通しませんよ」
「……てめえ」
獣の目が、まっすぐに僕を射抜いた。
*
さて。
正直に言おう。
やりたくない。
この人は、魔竜王だ。北の魔王様の五人の腹心の一人。人間の輪廻に封じられて力が衰えているとはいえ、格が違う。腹心に仕える神官にすぎない僕とは、そもそも存在の桁が違うのだ。
正面からやり合って、勝てる相手ではない。
けれど、命令は命令だ。リナさんを守り、冥王様の計画通りに事を運ぶ。そのためには、ここで足止めしなければならない。
お役所仕事の悲しいところだった。嫌な案件でも、回ってきたら処理するしかない。
しかも、この人相手では、いつものように適当に巻いて誤魔化すこともできない。手を抜けば、その瞬間に終わる。
筋書きで、ここで対峙することは知っていた。知っていたからといって、嫌なものは嫌だった。
「おらぁっ!」
剣が来た。
避ける。半身をずらし、紙一重で刃をやり過ごす。続く二撃目を杖でいなし、三撃目は空間を渡って躱した。
けれど、四撃目は躱せなかった。
肩口を、刃がかすめた。
痛み、というものとは少し違う。存在の一部が、削り取られる感覚。精神世界に置いた僕の本体が、ぐらりと揺れた。
「どうした、獣神官。逃げてばかりか」
「いやあ、荒事は苦手でして」
「抜かせ」
次の一撃は、脇腹だった。
その次は、背中。
避ける。いなす。それでも避けきれない攻撃が、少しずつ、確実に僕を削っていく。神官服の裾が裂け、杖を握る手がぶれた。
劣勢だった。それも、ひどい劣勢だった。
*
「一つ聞かせろ」
剣を振るいながら、ガーヴが言った。
「冥王の野郎は、何を企んでやがる」
刃が、頬をかすめる。
「リナ=インバースを使って、何をやらせようとしてる」
「さあ、何でしょうねえ」
「とぼけるな」
剣圧が、僕を岩壁まで吹き飛ばした。
背中を打ちつけ、体勢を立て直す間もなく、次の斬撃が来る。転がるように躱して、なんとか距離を取った。
「本当に、聞かされていないんですよ」
息を整えるふりをしながら、僕は笑った。
嘘ではなかった。冥王様は、僕に計画の全てを話してはいない。命令はいつも、断片だけだ。リナさんを見張れ。カタートへ連れて来い。何のために、とは、一度も言われない。
けれど、推察はできる。
いや、推察どころではない。僕は知っている。冥王様が、リナさんに重破斬を使わせようとしていることを。その力で、世界を混沌に還そうとしていることを。そして、その最後に何が待っているのかも。
言えるわけがなかった。
ここで口を割れば、筋書きが変わる。ガーヴがそれを知れば、動きが変わる。動きが変われば、この先の全てが狂う。
狂った先で、何が起きるか分からない。
分からない頁の上には、三日月さんがいる。
「……そうかよ」
ガーヴが、剣を下ろした。
ほんの一瞬、攻撃が止んだ。
安堵しかけた僕の目の前で、ガーヴがにやりと笑った。
獣が、獲物の喉笛を見定めたときの笑みだった。
「なら、喋りたくなるまで付き合ってもらおうか」
次の瞬間、剣が僕の腕を貫いていた。
避けられなかった。避けさせてもらえなかった、と言う方が正しい。さっきまでとは、剣筋がまるで違った。殺すための剣ではない。削るための剣だった。
一撃で終わらせるつもりはないのだ。
少しずつ。ゆっくりと。口を割るまで。
「どうした。痛くねえのか、魔族ってのは」
剣が引き抜かれ、すぐに別の場所へ突き立てられる。
僕は、笑顔を崩さなかった。崩さないようにするのが、精一杯だった。
――まずいなあ。
心の中で、他人事のように呟いた。
筋書きでは、ここで僕は手傷を負って退く。それは知っている。けれど、この痛みも、この恐怖も、頁の上には書かれていなかった。
削られていく意識の片隅で、なぜか、あの声が聞こえた。
気をつけてな、と。
扉の前で、何も変わらない穏やかな声で、あの人が言った言葉。
――気をつけろって、言われていたのになあ。
ガーヴの剣が、また振り上げられた。