獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
どれくらい、そうしていたのか分からない。
刺される。抜かれる。また刺される。
ガーヴの剣は、決して急所を狙わなかった。存在の芯には触れずに、その周りだけを丁寧に削り取っていく。消えない程度に。けれど、確実に。
視界が、ぶれていた。
光の満ちていたはずの空間が、滲んで見える。音が遠い。自分の形が、ところどころ曖昧になっているのが分かった。精神世界に置いた本体が、ひび割れた器のように軋んでいる。
「まだ喋る気にならねえか」
ガーヴの声が、どこか遠くから聞こえた。
「しぶとい野郎だ。獣王の犬にしちゃ、根性あるじゃねえか」
根性。
そんなものではない、と思った。ただ、言えないだけだ。言ったら筋書きが変わる。変わった先が分からない。分からないのが、怖い。それだけのことだった。
岩壁にもたれて、僕はずるずると座り込んだ。
笑顔は、まだ貼りついているだろうか。もう、よく分からなかった。
*
「……ガーヴ」
口が、勝手に動いていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「あ?」
剣先が、僕の喉元で止まった。
「なんで、反逆なんてしたんです」
ずっと、どこかにあった疑問だった。頁の上で読んだときから。この人の生き方を知ったときから。
「おとなしく、魔王様に従っていれば……よかったじゃないですか。いずれ滅びは来るにしても……全部を敵に回すより、ずっと……長く、生きていられたのに」
言葉が、途切れ途切れになった。
「命令に従って、流されて、余計なことをしなければ……少なくとも……魔族にも、神族にも、全部に追われる身になんて、ならなかった」
ガーヴは、しばらく黙っていた。
やがて、鼻で笑った。
「……お前、生きるってのが何か、分かってねえな」
剣先が、わずかに下がった。
「命令に従って、言われた通りに動いて、それで長く在り続けたところで、そいつは生きてるって言わねえんだよ。ただの奴隷と変わりゃしねえ」
獣のような目が、まっすぐに僕を見下ろしていた。
「てめえがやりたいことを、てめえの意志で選んで、そこへ向かって進む。たとえそれで全部を敵に回してもな。それが、生きるってことだ」
静かな声だった。
人間の輪廻を、何度も繰り返してきた人の声だった。生まれて、生きて、死んで、また生まれて。その中で掴み取った、たった一つの答えを語る声だった。
「……分かりませんねえ」
僕は、笑おうとした。
「だろうな」
ガーヴは、短く言った。
その一言が、思っていたよりずっと深く刺さった。
剣が、また振り下ろされた。
問答は、それで終わりだった。ガーヴは、もう何も言わなかった。黙って刺し、黙って抜き、また刺した。急所は外したまま、端から少しずつ、削っていく。
避けようとした。避けきれなかった。空間を渡ろうとすれば、その前に剣先が逃げ道を塞いだ。反撃の術を編もうとすれば、編み終わる前に、腕ごと斬り払われた。
攻防、と呼べるようなものではなかった。
時間の感覚が、薄れていった。削られた存在の端から、黒い靄が零れ落ちていく。そのたびに、頭の芯が、少しずつ遠くなっていった。
それでも、あの言葉だけは、消えなかった。
――お前、生きるってのが何か、分かってねえな。
刺されるたびに。抜かれるたびに。同じ言葉が、頭の中で、繰り返された。
*
分からない、と言った。
嘘だった。
分かってしまったのだ。分かってしまったから、笑えなかった。
千年。
命令が下れば、それをこなした。何を命じられても、そうした。自分が何をしたいかなど、考えたこともなかった。
考える必要がなかった。流されていれば、それで在り続けられたから。
それを、この人は奴隷と呼んだ。
生きてすらいない、と。
他の誰かの言葉なら、聞き流せた。
リナさんに言われたのなら、人間だから言えることだと、笑ってやり過ごせただろう。神族に言われたのなら、なおさらだ。
けれど、この人は違う。
魔王様に生み出され、命じられるままに在った者。僕と同じ側から始まった者だ。
降魔戦争で、水竜王の手によって人の器に封じられ、それから千年、人として生まれ、生きて、死んで、また生まれてきた。魔でありながら、人の器で。
僕は、その逆だ。人の魂のまま、魔の器で、千年。
人と魔の、混じり物。
入っている器が逆なだけで、この人と僕は、よく似ていた。
同じところから始まって、この人は選んだ。主に背き、全てを敵に回すことを。
僕は、選ばなかった。
だから、言い返せなかった。
この人は、僕が選ばなかった方の、答えだった。
「……そう、ですか」
声が、震えた。
朦朧とした頭では、もう、取り繕う力が残っていなかった。
「じゃあ、僕は……今まで、生きてすらいなかったんですね」
ガーヴの眉が、わずかに動いた。
「千年も……在ったのに。ずっと……何もしてこなかったんですね、僕は」
言葉が、止まらなかった。
「なら……どうすれば、よかったんですかね」
喉の奥から、何かがせり上がってくる。
「あなたほどの力も、ないんですよ、僕は。獣王様の、ただの部下で……足掻いたところで、消されるだけでしょう。逆らったら、一瞬で……それくらい、分かってたから……だから」
だから、流されてきた。
怖かったのだ。
ずっと。思い出したあの日から。この世界で、たった一人だということが。いつ気づかれて、消されるか分からないことが。何かを選んで、それが間違っていたらと考えることが。
だから、何も選ばなかった。選ばなければ、間違えることもない。
「……怖かったんですよ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「何か一つでも、自分で決めたら……もう、戻れない気がして。私は、ただ……普通に、毎日を過ごしたかっただけなのに」
――私。
口にしてから、気づいた。
千年、一度も使わなかった一人称だった。
*
ガーヴの剣が、止まっていた。
獣の目が、見開かれている。
「……お前」
声に、困惑が滲んでいた。
ガーヴは、僕を見ていた。
いや、僕ではなかった。僕の奥にあるものを見ていた。
この人は、知っているのだ。人間の魂というものを。千年、人間として生まれては死んできた人だ。人の匂いを、誰よりもよく知っている。
「魔族のくせに……なんで、人間の――」
その瞬間、剣先が完全に下がった。
隙だった。
狙ったわけではなかった。計算も、駆け引きもなかった。ただ、体が勝手に動いていた。
空間を渡った。
削られてぼろぼろの存在を、無理やり精神世界の裂け目にねじ込む。形が崩れかける。それでも構わなかった。
「てめえ、待ちやがれ!」
ガーヴの怒声が、遠ざかっていく。
振り返らなかった。振り返る余裕など、どこにもなかった。
*
灰色の虚無の中を、僕は落ちるように進んでいた。
方向は、分からない。帰り道を知っているのはミルガズィアさんだけだ。それでも、僕は魔族だ。この空間の外へ出ることくらいは、できるはずだった。
逃げている。
命令も、筋書きも、もう頭になかった。
ただ、死にたくなかった。
このまま消えたくなかった。
まだ、何もしていないのに。千年在って、何一つ自分で選ばないまま、ここで終わるなんて。
まだ、生きてすらいないのに。
崩れかけた意識の中で、浮かんだのは一つの顔だった。
三日月の浮かぶ瞳。袖を揺らして、のんびりと笑う人。
――会いたい。
理由は、分からなかった。
会って何を言いたいのかも、何をしたいのかも、分からなかった。ただ、無性に会いたかった。あの穏やかな声を聞きたかった。気をつけてな、と言ってくれたあの声を。
それだけだった。
本当に、ただそれだけだった。
灰色の向こうに、かすかな光が見えた。
僕は、その光へ向かって、ぼろぼろの手を伸ばした。