獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】   作:半熟ハラミ丼

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第十五話 囲炉裏の火

 結局、僕は戻ってきてしまった。

 戻ってきた、と言っていいのかは分からない。物質世界には姿を現していないのだから。精神世界の側に身を潜め、気配を限界まで薄くして、その向こうから覗いているだけだ。

 峰の上で膝を抱えているうちに、日が暮れた。月が昇った。それを見ないように俯いているうちに、どうにもならなくなった。

 確かめたかった。それだけだった。

 カタート山脈の中腹に、古い山小屋があった。猟師か薬草採りが使っていたものだろう。板壁は風雨に晒されて黒ずみ、屋根の一部は崩れかけている。リナさんたちは、そこで夜を明かすことにしたようだった。

 囲炉裏に、小さな火が燃えていた。

 ぱち、と薪がはぜた。誰も、そちらを見なかった。

 リナさんは、その前に座り込んでいた。膝を抱え、炎を見つめたまま、ぴくりとも動かない。いつも誰より騒がしいリナさんが、一言も喋らなかった。

「リナさん。スープ、温まりましたよ。少しでも食べないと」

 アメリアさんが、木の椀を差し出していた。

「……ありがと。でも、いいわ」

「よくありません! ガウリイさんを助けに行くんでしょう? だったら、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、元気にならないと! 正義は、お腹が空いてたら勝てないんです!」

 目の縁を赤くしたまま、アメリアさんは懸命に笑っていた。

 リナさんは、口元を緩めた。それから、黙って椀を受け取った。

 戸口の外では、ゼルガディスさんが見張りに立っていた。腕を組み、夜の闇を睨んでいる。その横顔は、ひどくやるせなかった。何もできなかった自分を、責めているような顔だった。

 ミルガズィアさんの姿は、なかった。一族のもとへ戻ったのだろうか。

 そして、奥の部屋。

 板戸一枚隔てた、狭い寝間。

 三日月さんは、そこに横たえられていた。

 藍色の狩衣は、赤く染まったままだった。乾いた血が、黒ずんだ染みになって胸元から肩口へ広がっている。その下に、白い包帯が幾重にも巻かれていた。アメリアさんが手当てしたのだろう。治癒の術が効かなかったから、人の手で、できる限りのことを。

 血は、止まっているようだった。

 けれど、傷は少しも癒えていない。包帯の白さが、かえってそれを際立たせていた。

 枕元には、太刀が置かれていた。鞘に納められたまま。あの刃こぼれは、今もその中にあるのだろう。

 三日月さんは、目を閉じていた。

 眠っているのだろうか。顔色が、ひどく悪かった。いつも陶器のように白い肌が、今は血の気を失って、青白く透けて見える。浅い呼吸のたびに、胸の包帯がかすかに上下していた。

 ――ああ。

 胸が、軋んだ。

 軋んで、軋んで、張り裂けそうだった。

 

     *

 

 今までの僕なら、こうはならなかった。

 千年。数えきれないものが傷つくのを見てきた。傷つけてきた。竜も、人も、街も、村も。何を見ても、何をしても、心は凪いだままだった。

 それが、今は。

 胸の奥で、誰かが叫んでいた。

 嫌だ、と。

 彼らが傷つくのを見るのは、嫌だ。彼らが苦しむのは、嫌だ。

 ――私だった。

 千年前に置き去りにしたはずの、前の私が。朝の電車に揺られ、昼にコンビニのおにぎりを食べ、夜に画面の中の刀たちに「おやすみ」を言っていた、あの私が。

 必死に、叫んでいた。

 刀剣男士が、傷ついている。目の前で、血を流して、顔色をなくして、横たわっている。

 画面の中なら、手入れ部屋に入れればよかった。資材を使って、時間が経てば、元通りになった。重傷の表示を見るたびに胸が痛んで、急いで手入れをして、それで済んだ。

 ここは、画面の中ではない。

 今になって、どうして。

 どうして今さら、こんなにも。

 僕は、どうすればいいのか分からなくなっていた。

 

     *

 

 三日月さんの目が、開いた。

 ゆっくりと。重たげに。

 三日月の浮かぶ瞳が、天井を見上げ、それから、すっと横へ動いた。

 僕の方へ。

 目が、合った。

 あり得なかった。

 僕は今、物質世界にはいない。精神世界の側にいる。人間の目には、決して映らないはずだった。

 それなのに、あの瞳は、まっすぐに僕を見ていた。見えているのだ。間違いなく。

「――ゼロスか」

 問いかけではなかった。

 断定の口調だった。

 逃げようか、と一瞬思った。このまま気配を消して、何もなかったことにして。

 けれど、あの目に見つめられたまま、背を向けて立ち去ることは、どうしてもできなかった。

 その前に、僕は寝間の四方へ、薄く結界を張った。

 音と気配を、外へ漏らさないためのものだ。この小屋の板壁は薄い。隙間だらけだ。僕がこのまま姿を現せば、その気配は板戸一枚向こうの皆に、すぐに気取られてしまうだろう。

 今は、それだけは避けたかった。

 囲炉裏の前で膝を抱えるリナさんを。目を赤くして笑うアメリアさんを。戸口で夜を睨むゼルガディスさんを。これ以上、刺激したくなかった。

 それに、あの人たちをあんな顔にさせた原因の一端は、僕にある。冥王様の手先として、ここまで皆を連れてきたのは僕だ。

 今、鉢合わせしたら。

 どの面を下げて、あの人たちの前に立てばいいのか。僕には、分からなかった。

 結界が閉じたのを確かめてから、僕は物質世界へ姿を現した。

 狭い寝間の、板壁の際に。三日月さんの枕元から、少し離れた場所に。

 居心地が悪かった。ひどく悪かった。

「……よく、分かりましたね」

「うむ。そんな気がしたからな」

 三日月さんは、横たわったまま、小さく笑った。いつもの笑みだった。顔色の悪さだけが、いつもと違った。

 僕は、まともにその顔を見られなかった。

 あの場から逃げ出したことを。何も言わずに消えたことを。そもそも、ここまで皆を連れてきたのが自分だということを。何もかもが、喉の奥につかえていた。

「……傷の方は、その」

 言葉を探した。

「大丈夫、なんですか。回復の術、効いていなかったようですけど」

 後ろめたかった。

 この傷には、僕にも責任がある。僕がリナさんをここへ導かなければ。冥王様の命令に、ただ従っていなければ。この人は、ガーヴと剣を交えることもなかった。

「なに。見た目はひどく見えるが、大丈夫だ」

 三日月さんは、あっさりと言った。

「回復の術とやらは、どうも俺には効かんようだな。アメリアには、心配をかけてしまった」

 大丈夫なはずがなかった。

 僕は、必死に頭を巡らせた。

 何か、できることはないか。術が効かないなら、自然に治るのを待つしかないのか。それなら、薬草か何か、あった方がいいのだろうか。この山なら、何か生えているかもしれない。いや、でも、刀剣男士に薬草なんて効くのだろうか。人の身を得ているとはいえ、本体は刀だ。刀に薬草を塗って、どうなるというのだ。

 分からない。分からないことばかりだ。

「ゼロス」

 三日月さんが、静かに僕を呼んだ。

「一つ、頼みがある」

 改まった口調だった。

 僕は、顔を上げた。

 三日月さんは、横たわったまま、まっすぐに僕を見ていた。

「俺に、手入れをしてほしい」

 

     *

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 手入れ。

 その言葉の意味は、分かる。分かりすぎるほどに。刀剣男士の傷を癒やすための、本体の刀の手入れ。画面の中では、ボタン一つ押せば、手入れ妖精が本体を直してくれた。何を以て直しているのかは、一度も語られなかった。主の霊力を注いでいるのだろう、と、囁かれてはいたけれど。

 画面の中で、何百回、何千回と繰り返してきたこと。

 それを、この人は、僕に頼んでいる。

 魔族の、僕に。

「…………え?」

 間の抜けた声が出た。

 耳を疑った。聞き間違いだと思った。

 僕が固まったまま何も言わずにいると、三日月さんの眉が、わずかに下がった。

「……駄目、か」

 目に見えて、しょんぼりしていた。

「そうか。おぬしにしか頼めんと思ったのだが……いや、無理にとは言わん。おぬしにも都合があるだろうしな。すまん、忘れてくれ」

 三日月さんが、ふっと視線を落とした。長い睫毛が、青白い頬に影を落とす。

「ち、違います!」

 思わず、声が出ていた。

「駄目とか、そういうわけではなくてですね!」

「では、引き受けてくれるか!」

 三日月さんの顔が、ぱっと明るくなった。

「いえ、ですから、そうでもなくて!」

 何を言っているのだ、僕は。

 頭が、うまく回らなかった。三日月さんの顔が明るくなったり曇ったりするたびに、こちらの思考がかき乱される。完全に、向こうの調子に乗せられている。そのことに、気づく余裕さえなかった。

「そもそも、僕に頼むのがおかしいんですって!」

 僕は、必死に言い募った。

「僕は魔族なんですよ!? ご存じでしょう!? 魔族が、神の側の刀に触れて、手入れなんて……。リナさんとか、アメリアさんとかに頼んだ方が、よっぽど適任ですよ! 手入れって、たしか、主の霊力を刀に注いで直すんでしょう? だったら、人間の方が――」

 そこまで言って、言葉が途切れた。

 三日月さんが、じっと僕を見ていた。

 細められた目の奥で、月が、どこか楽しそうに揺れた気がした。

 ――あれ。

 何か、まずいことを言っただろうか。

 頭の片隅で何かが引っかかったけれど、それが何なのか、混乱した頭では掴めなかった。

「リナたちには、霊力がない」

 三日月さんは、何事もなかったかのように続けた。

「この世界の者たちの使う術は、俺の知る霊力とは、どうも質が違うようだ。この世界に来てから、手入れができるほどの霊力を持つ人間には、一人も会っていない」

「……だったら、なおさら」

「つまり」

 三日月さんは、ゆっくりと言った。

「今、俺の手入れができるのは、おぬししかいないのだ」

「僕に、霊力なんてあるわけないでしょう」

 声が、上ずった。

「僕は魔族ですよ。生まれたときから。霊力なんて、そんなもの……何かの、気のせいじゃないですか」

「いいや」

 三日月さんは、きっぱりと首を振った。

「確かに感じる。おぬしの中に、霊力がある。初めて会った夜から、ずっとな」

 三日月の浮かぶ瞳が、僕を見据えた。

「おそらく、おぬしは前の生で、審神者か、それに類する人間だったのだろう」

 息が、止まった。

「刀剣男士の加護まで、山ほどついているからな。間違いない。……それに、これほどの加護を受けている者が、悪しき者であるはずがない」

 

     *

 

 思考が、凍りついた。

 前の生。

 審神者。

 加護。

 言葉の一つ一つが、意味を結ばないまま、頭の中をぐるぐると回っていた。

 前世を、言い当てられた。千年、誰にも気づかれなかったことを。獣王様も、冥王様も、見抜けなかったことを。

 そして、加護。

 刀剣男士の、加護。

「……そんな、はず」

 かすれた声が出た。

「そんなはず、ないでしょう。だって、あれは」

 あれは、ゲームだった。

 画面の向こうの、作り物だった。私がスマホを操作して、資材を使って、出陣させて、手入れして。それだけの関係だった。本物の刀剣男士がいたわけじゃない。本物の本丸があったわけじゃない。

 加護なんて、つくはずがない。

 勘違いだ。何かの間違いだ。そう言おうとして、三日月さんの顔を見た。

 言葉が、出なかった。

 三日月さんは、笑っていなかった。

 いつものとぼけた顔でも、何かを企むような顔でもなかった。ひどく真摯な顔で、まっすぐに僕を見ていた。三日月の浮かぶ瞳に、一片の曇りもなかった。

 嘘ではない。

 この人は、嘘を言っていない。

 それだけは、分かってしまった。

「一番強く感じるのは、歌仙兼定の加護だな」

 三日月さんが、静かに言った。

 心臓のない胸が、どくりと鳴った気がした。

「次いで、へし切長谷部。薬研藤四郎も、強いな」

 歌仙。

 長谷部。

 薬研。

「燭台切光忠。鶴丸国永。一期一振に、粟田口の短刀たち。石切丸に、小狐丸」

 三日月さんは、一振り一振りを確かめるように、名を口にしていった。

「ああ、俺のものもあるな。おぬしの本丸の、俺のものだろう。……それから、まだまだあるぞ。数えきれんほどだ」

 名前が、次々と降ってきた。

 そのたびに、記憶が溢れ出した。

 

     *

 

 歌仙兼定。

 初期刀だった。

 五振りの中から、一振りを選ぶあの画面。私は、長いこと迷った。迷って、迷って、雅を語る彼を選んだ。それが、私の本丸の始まりだった。最初に出陣した日も、最初に重傷を負った日も、最初に修行へ送り出した日も、隣にはずっと彼がいた。

 へし切長谷部。

 お気に入りだった。近侍には、いつも彼を置いていた。主のためならと、どんな命にも応える彼が、少しだけ切なくて、少しだけ愛おしくて。仕事で疲れた夜、ログインして彼の声を聞くのが、ささやかな楽しみだった。

 薬研藤四郎。

 初めての鍛刀で、うちに来てくれた子だった。小さな見た目の割に、やけに男らしくて。「大将」と呼ぶ声が、画面越しでも、妙に頼もしく聞こえた。頼りになる短刀だった。

 燭台切光忠。鶴丸国永。一期一振。粟田口の短刀たち。石切丸。小狐丸。三日月宗近。

 みんな、好きだった。

 大好きだった。

 一振り一振り、大事に育てた。練度を上げて、極めて、刀装を整えて。誰かが重傷になれば、すぐに手入れ部屋へ入れた。手伝い札が足りなければ、時間が経つのを待ちながら、何度も画面を確かめた。

 それは、全部。

 全部、画面の中のことだった。

 私は、彼らに触れたことがない。彼らの声を聞いたのは、スピーカー越しだけだ。彼らと同じ空気を吸ったことも、同じ食卓を囲んだことも、一度もない。

 それなのに。

 彼らは、私に加護を与えてくれていた。

 画面越しにしか会ったことのない、ただの一人のプレイヤーに。

 そして、その加護は今も。

 魔族に成り果てた、この僕に。

 千年、命令のままに、数えきれない命を奪ってきた、この僕に。

 千年経った今もなお。

 

     *

 

 気がつくと、床に崩れ落ちていた。

 膝が、立たなかった。両手を板の床について、俯いたまま、動けなかった。

「……信じられない、ですよ」

 声が、震えていた。

「そんなの、信じられるわけ、ないじゃないですか」

 三日月さんは、何も言わなかった。ただ、静かに僕を見ていた。

「だって……だって、私は」

 言葉が、勝手にこぼれ出した。

 取り繕う余裕など、どこにもなかった。

「私は、彼らに、何もしてあげられてないんですよ。画面越しに、ただ遊んでただけで。本当の主なんかじゃなかった。彼らのことを、ちゃんと分かってたわけでもない。好きだっただけで、それだけで……」

 俯いたまま、顔を上げられなかった。人の形をした器の輪郭が、かすかに、揺らいでいた。

「そんな私に、加護なんか与えて、どうするんですか」

 板の床に、指が食い込む。

「今は、魔族なのに。こんな、こんなものになってしまったのに。彼らが知ったら、きっと……軽蔑するようなことばかり、してきたのに……」

 声が、途切れた。

 その先が、言えなかった。

 しばらくの間、狭い寝間には、何の音もなかった。囲炉裏の火の爆ぜる音が、板戸の向こうから、遠くかすかに聞こえるだけだった。

「――俺たち刀は」

 三日月さんの声がした。

 静かで、穏やかで、どこまでも深い声だった。

「主のことを、想うものだ」

 僕は、顔を上げられなかった。

「それが、良い主であればあるほどな」

 胸の奥に、その言葉が落ちてきた。

 まっすぐに。深く。千年かけて固めてきた何かを、静かに貫いて。

 良い主。

 私が。

 画面越しに、ただ好きだっただけの私が。

 

     *

 

 長い間、僕は動けなかった。

 床に手をついたまま、考えていた。

 千年前のことを思い出していた。前世を思い出したばかりの頃のことを。

 魔族とはそういうものなのだろう、と思った。人の心など、千年もあれば擦り切れて消えると。

 それなのに、僕は僕のままだった。

 朝の電車の揺れも、コンビニのおにぎりも、近侍の声も、ずっと覚えていた。

 何かが、僕の中の人間を繋ぎ止めている。そう思いながら、それが何なのか、千年経っても分からなかった。分からないことは考えないことにしていた。

 ――もしかしたら。

 彼らだったのだろうか。

 千年、ずっと。魔族の破壊衝動の中で、私という一人の人間が溶けて消えてしまわないように。画面の向こうの刀たちが、ずっと、繋ぎ止めていてくれたのだとしたら。

 私は、何も知らなかった。

 知らないまま、彼らに守られたまま、命令に流されて、千年を過ごしてきた。

 僕は、ゆっくりと顔を上げた。

 三日月さんが、横たわったまま、僕を見ていた。

 責める目ではなかった。急かす目でもなかった。ただ、待っている目だった。僕が自分で答えを見つけるのを、急がず、静かに。

 窓の隙間から、月の光が細く差し込んでいた。

 その光が、枕元の太刀の鞘を、淡く照らしていた。

 僕は、まだ何も答えられなかった。

 答えられないまま、その光を、じっと見つめていた。

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