獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
結局、僕は戻ってきてしまった。
戻ってきた、と言っていいのかは分からない。物質世界には姿を現していないのだから。精神世界の側に身を潜め、気配を限界まで薄くして、その向こうから覗いているだけだ。
峰の上で膝を抱えているうちに、日が暮れた。月が昇った。それを見ないように俯いているうちに、どうにもならなくなった。
確かめたかった。それだけだった。
カタート山脈の中腹に、古い山小屋があった。猟師か薬草採りが使っていたものだろう。板壁は風雨に晒されて黒ずみ、屋根の一部は崩れかけている。リナさんたちは、そこで夜を明かすことにしたようだった。
囲炉裏に、小さな火が燃えていた。
ぱち、と薪がはぜた。誰も、そちらを見なかった。
リナさんは、その前に座り込んでいた。膝を抱え、炎を見つめたまま、ぴくりとも動かない。いつも誰より騒がしいリナさんが、一言も喋らなかった。
「リナさん。スープ、温まりましたよ。少しでも食べないと」
アメリアさんが、木の椀を差し出していた。
「……ありがと。でも、いいわ」
「よくありません! ガウリイさんを助けに行くんでしょう? だったら、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、元気にならないと! 正義は、お腹が空いてたら勝てないんです!」
目の縁を赤くしたまま、アメリアさんは懸命に笑っていた。
リナさんは、口元を緩めた。それから、黙って椀を受け取った。
戸口の外では、ゼルガディスさんが見張りに立っていた。腕を組み、夜の闇を睨んでいる。その横顔は、ひどくやるせなかった。何もできなかった自分を、責めているような顔だった。
ミルガズィアさんの姿は、なかった。一族のもとへ戻ったのだろうか。
そして、奥の部屋。
板戸一枚隔てた、狭い寝間。
三日月さんは、そこに横たえられていた。
藍色の狩衣は、赤く染まったままだった。乾いた血が、黒ずんだ染みになって胸元から肩口へ広がっている。その下に、白い包帯が幾重にも巻かれていた。アメリアさんが手当てしたのだろう。治癒の術が効かなかったから、人の手で、できる限りのことを。
血は、止まっているようだった。
けれど、傷は少しも癒えていない。包帯の白さが、かえってそれを際立たせていた。
枕元には、太刀が置かれていた。鞘に納められたまま。あの刃こぼれは、今もその中にあるのだろう。
三日月さんは、目を閉じていた。
眠っているのだろうか。顔色が、ひどく悪かった。いつも陶器のように白い肌が、今は血の気を失って、青白く透けて見える。浅い呼吸のたびに、胸の包帯がかすかに上下していた。
――ああ。
胸が、軋んだ。
軋んで、軋んで、張り裂けそうだった。
*
今までの僕なら、こうはならなかった。
千年。数えきれないものが傷つくのを見てきた。傷つけてきた。竜も、人も、街も、村も。何を見ても、何をしても、心は凪いだままだった。
それが、今は。
胸の奥で、誰かが叫んでいた。
嫌だ、と。
彼らが傷つくのを見るのは、嫌だ。彼らが苦しむのは、嫌だ。
――私だった。
千年前に置き去りにしたはずの、前の私が。朝の電車に揺られ、昼にコンビニのおにぎりを食べ、夜に画面の中の刀たちに「おやすみ」を言っていた、あの私が。
必死に、叫んでいた。
刀剣男士が、傷ついている。目の前で、血を流して、顔色をなくして、横たわっている。
画面の中なら、手入れ部屋に入れればよかった。資材を使って、時間が経てば、元通りになった。重傷の表示を見るたびに胸が痛んで、急いで手入れをして、それで済んだ。
ここは、画面の中ではない。
今になって、どうして。
どうして今さら、こんなにも。
僕は、どうすればいいのか分からなくなっていた。
*
三日月さんの目が、開いた。
ゆっくりと。重たげに。
三日月の浮かぶ瞳が、天井を見上げ、それから、すっと横へ動いた。
僕の方へ。
目が、合った。
あり得なかった。
僕は今、物質世界にはいない。精神世界の側にいる。人間の目には、決して映らないはずだった。
それなのに、あの瞳は、まっすぐに僕を見ていた。見えているのだ。間違いなく。
「――ゼロスか」
問いかけではなかった。
断定の口調だった。
逃げようか、と一瞬思った。このまま気配を消して、何もなかったことにして。
けれど、あの目に見つめられたまま、背を向けて立ち去ることは、どうしてもできなかった。
その前に、僕は寝間の四方へ、薄く結界を張った。
音と気配を、外へ漏らさないためのものだ。この小屋の板壁は薄い。隙間だらけだ。僕がこのまま姿を現せば、その気配は板戸一枚向こうの皆に、すぐに気取られてしまうだろう。
今は、それだけは避けたかった。
囲炉裏の前で膝を抱えるリナさんを。目を赤くして笑うアメリアさんを。戸口で夜を睨むゼルガディスさんを。これ以上、刺激したくなかった。
それに、あの人たちをあんな顔にさせた原因の一端は、僕にある。冥王様の手先として、ここまで皆を連れてきたのは僕だ。
今、鉢合わせしたら。
どの面を下げて、あの人たちの前に立てばいいのか。僕には、分からなかった。
結界が閉じたのを確かめてから、僕は物質世界へ姿を現した。
狭い寝間の、板壁の際に。三日月さんの枕元から、少し離れた場所に。
居心地が悪かった。ひどく悪かった。
「……よく、分かりましたね」
「うむ。そんな気がしたからな」
三日月さんは、横たわったまま、小さく笑った。いつもの笑みだった。顔色の悪さだけが、いつもと違った。
僕は、まともにその顔を見られなかった。
あの場から逃げ出したことを。何も言わずに消えたことを。そもそも、ここまで皆を連れてきたのが自分だということを。何もかもが、喉の奥につかえていた。
「……傷の方は、その」
言葉を探した。
「大丈夫、なんですか。回復の術、効いていなかったようですけど」
後ろめたかった。
この傷には、僕にも責任がある。僕がリナさんをここへ導かなければ。冥王様の命令に、ただ従っていなければ。この人は、ガーヴと剣を交えることもなかった。
「なに。見た目はひどく見えるが、大丈夫だ」
三日月さんは、あっさりと言った。
「回復の術とやらは、どうも俺には効かんようだな。アメリアには、心配をかけてしまった」
大丈夫なはずがなかった。
僕は、必死に頭を巡らせた。
何か、できることはないか。術が効かないなら、自然に治るのを待つしかないのか。それなら、薬草か何か、あった方がいいのだろうか。この山なら、何か生えているかもしれない。いや、でも、刀剣男士に薬草なんて効くのだろうか。人の身を得ているとはいえ、本体は刀だ。刀に薬草を塗って、どうなるというのだ。
分からない。分からないことばかりだ。
「ゼロス」
三日月さんが、静かに僕を呼んだ。
「一つ、頼みがある」
改まった口調だった。
僕は、顔を上げた。
三日月さんは、横たわったまま、まっすぐに僕を見ていた。
「俺に、手入れをしてほしい」
*
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
手入れ。
その言葉の意味は、分かる。分かりすぎるほどに。刀剣男士の傷を癒やすための、本体の刀の手入れ。画面の中では、ボタン一つ押せば、手入れ妖精が本体を直してくれた。何を以て直しているのかは、一度も語られなかった。主の霊力を注いでいるのだろう、と、囁かれてはいたけれど。
画面の中で、何百回、何千回と繰り返してきたこと。
それを、この人は、僕に頼んでいる。
魔族の、僕に。
「…………え?」
間の抜けた声が出た。
耳を疑った。聞き間違いだと思った。
僕が固まったまま何も言わずにいると、三日月さんの眉が、わずかに下がった。
「……駄目、か」
目に見えて、しょんぼりしていた。
「そうか。おぬしにしか頼めんと思ったのだが……いや、無理にとは言わん。おぬしにも都合があるだろうしな。すまん、忘れてくれ」
三日月さんが、ふっと視線を落とした。長い睫毛が、青白い頬に影を落とす。
「ち、違います!」
思わず、声が出ていた。
「駄目とか、そういうわけではなくてですね!」
「では、引き受けてくれるか!」
三日月さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「いえ、ですから、そうでもなくて!」
何を言っているのだ、僕は。
頭が、うまく回らなかった。三日月さんの顔が明るくなったり曇ったりするたびに、こちらの思考がかき乱される。完全に、向こうの調子に乗せられている。そのことに、気づく余裕さえなかった。
「そもそも、僕に頼むのがおかしいんですって!」
僕は、必死に言い募った。
「僕は魔族なんですよ!? ご存じでしょう!? 魔族が、神の側の刀に触れて、手入れなんて……。リナさんとか、アメリアさんとかに頼んだ方が、よっぽど適任ですよ! 手入れって、たしか、主の霊力を刀に注いで直すんでしょう? だったら、人間の方が――」
そこまで言って、言葉が途切れた。
三日月さんが、じっと僕を見ていた。
細められた目の奥で、月が、どこか楽しそうに揺れた気がした。
――あれ。
何か、まずいことを言っただろうか。
頭の片隅で何かが引っかかったけれど、それが何なのか、混乱した頭では掴めなかった。
「リナたちには、霊力がない」
三日月さんは、何事もなかったかのように続けた。
「この世界の者たちの使う術は、俺の知る霊力とは、どうも質が違うようだ。この世界に来てから、手入れができるほどの霊力を持つ人間には、一人も会っていない」
「……だったら、なおさら」
「つまり」
三日月さんは、ゆっくりと言った。
「今、俺の手入れができるのは、おぬししかいないのだ」
「僕に、霊力なんてあるわけないでしょう」
声が、上ずった。
「僕は魔族ですよ。生まれたときから。霊力なんて、そんなもの……何かの、気のせいじゃないですか」
「いいや」
三日月さんは、きっぱりと首を振った。
「確かに感じる。おぬしの中に、霊力がある。初めて会った夜から、ずっとな」
三日月の浮かぶ瞳が、僕を見据えた。
「おそらく、おぬしは前の生で、審神者か、それに類する人間だったのだろう」
息が、止まった。
「刀剣男士の加護まで、山ほどついているからな。間違いない。……それに、これほどの加護を受けている者が、悪しき者であるはずがない」
*
思考が、凍りついた。
前の生。
審神者。
加護。
言葉の一つ一つが、意味を結ばないまま、頭の中をぐるぐると回っていた。
前世を、言い当てられた。千年、誰にも気づかれなかったことを。獣王様も、冥王様も、見抜けなかったことを。
そして、加護。
刀剣男士の、加護。
「……そんな、はず」
かすれた声が出た。
「そんなはず、ないでしょう。だって、あれは」
あれは、ゲームだった。
画面の向こうの、作り物だった。私がスマホを操作して、資材を使って、出陣させて、手入れして。それだけの関係だった。本物の刀剣男士がいたわけじゃない。本物の本丸があったわけじゃない。
加護なんて、つくはずがない。
勘違いだ。何かの間違いだ。そう言おうとして、三日月さんの顔を見た。
言葉が、出なかった。
三日月さんは、笑っていなかった。
いつものとぼけた顔でも、何かを企むような顔でもなかった。ひどく真摯な顔で、まっすぐに僕を見ていた。三日月の浮かぶ瞳に、一片の曇りもなかった。
嘘ではない。
この人は、嘘を言っていない。
それだけは、分かってしまった。
「一番強く感じるのは、歌仙兼定の加護だな」
三日月さんが、静かに言った。
心臓のない胸が、どくりと鳴った気がした。
「次いで、へし切長谷部。薬研藤四郎も、強いな」
歌仙。
長谷部。
薬研。
「燭台切光忠。鶴丸国永。一期一振に、粟田口の短刀たち。石切丸に、小狐丸」
三日月さんは、一振り一振りを確かめるように、名を口にしていった。
「ああ、俺のものもあるな。おぬしの本丸の、俺のものだろう。……それから、まだまだあるぞ。数えきれんほどだ」
名前が、次々と降ってきた。
そのたびに、記憶が溢れ出した。
*
歌仙兼定。
初期刀だった。
五振りの中から、一振りを選ぶあの画面。私は、長いこと迷った。迷って、迷って、雅を語る彼を選んだ。それが、私の本丸の始まりだった。最初に出陣した日も、最初に重傷を負った日も、最初に修行へ送り出した日も、隣にはずっと彼がいた。
へし切長谷部。
お気に入りだった。近侍には、いつも彼を置いていた。主のためならと、どんな命にも応える彼が、少しだけ切なくて、少しだけ愛おしくて。仕事で疲れた夜、ログインして彼の声を聞くのが、ささやかな楽しみだった。
薬研藤四郎。
初めての鍛刀で、うちに来てくれた子だった。小さな見た目の割に、やけに男らしくて。「大将」と呼ぶ声が、画面越しでも、妙に頼もしく聞こえた。頼りになる短刀だった。
燭台切光忠。鶴丸国永。一期一振。粟田口の短刀たち。石切丸。小狐丸。三日月宗近。
みんな、好きだった。
大好きだった。
一振り一振り、大事に育てた。練度を上げて、極めて、刀装を整えて。誰かが重傷になれば、すぐに手入れ部屋へ入れた。手伝い札が足りなければ、時間が経つのを待ちながら、何度も画面を確かめた。
それは、全部。
全部、画面の中のことだった。
私は、彼らに触れたことがない。彼らの声を聞いたのは、スピーカー越しだけだ。彼らと同じ空気を吸ったことも、同じ食卓を囲んだことも、一度もない。
それなのに。
彼らは、私に加護を与えてくれていた。
画面越しにしか会ったことのない、ただの一人のプレイヤーに。
そして、その加護は今も。
魔族に成り果てた、この僕に。
千年、命令のままに、数えきれない命を奪ってきた、この僕に。
千年経った今もなお。
*
気がつくと、床に崩れ落ちていた。
膝が、立たなかった。両手を板の床について、俯いたまま、動けなかった。
「……信じられない、ですよ」
声が、震えていた。
「そんなの、信じられるわけ、ないじゃないですか」
三日月さんは、何も言わなかった。ただ、静かに僕を見ていた。
「だって……だって、私は」
言葉が、勝手にこぼれ出した。
取り繕う余裕など、どこにもなかった。
「私は、彼らに、何もしてあげられてないんですよ。画面越しに、ただ遊んでただけで。本当の主なんかじゃなかった。彼らのことを、ちゃんと分かってたわけでもない。好きだっただけで、それだけで……」
俯いたまま、顔を上げられなかった。人の形をした器の輪郭が、かすかに、揺らいでいた。
「そんな私に、加護なんか与えて、どうするんですか」
板の床に、指が食い込む。
「今は、魔族なのに。こんな、こんなものになってしまったのに。彼らが知ったら、きっと……軽蔑するようなことばかり、してきたのに……」
声が、途切れた。
その先が、言えなかった。
しばらくの間、狭い寝間には、何の音もなかった。囲炉裏の火の爆ぜる音が、板戸の向こうから、遠くかすかに聞こえるだけだった。
「――俺たち刀は」
三日月さんの声がした。
静かで、穏やかで、どこまでも深い声だった。
「主のことを、想うものだ」
僕は、顔を上げられなかった。
「それが、良い主であればあるほどな」
胸の奥に、その言葉が落ちてきた。
まっすぐに。深く。千年かけて固めてきた何かを、静かに貫いて。
良い主。
私が。
画面越しに、ただ好きだっただけの私が。
*
長い間、僕は動けなかった。
床に手をついたまま、考えていた。
千年前のことを思い出していた。前世を思い出したばかりの頃のことを。
魔族とはそういうものなのだろう、と思った。人の心など、千年もあれば擦り切れて消えると。
それなのに、僕は僕のままだった。
朝の電車の揺れも、コンビニのおにぎりも、近侍の声も、ずっと覚えていた。
何かが、僕の中の人間を繋ぎ止めている。そう思いながら、それが何なのか、千年経っても分からなかった。分からないことは考えないことにしていた。
――もしかしたら。
彼らだったのだろうか。
千年、ずっと。魔族の破壊衝動の中で、私という一人の人間が溶けて消えてしまわないように。画面の向こうの刀たちが、ずっと、繋ぎ止めていてくれたのだとしたら。
私は、何も知らなかった。
知らないまま、彼らに守られたまま、命令に流されて、千年を過ごしてきた。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
三日月さんが、横たわったまま、僕を見ていた。
責める目ではなかった。急かす目でもなかった。ただ、待っている目だった。僕が自分で答えを見つけるのを、急がず、静かに。
窓の隙間から、月の光が細く差し込んでいた。
その光が、枕元の太刀の鞘を、淡く照らしていた。
僕は、まだ何も答えられなかった。
答えられないまま、その光を、じっと見つめていた。