獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
どれくらい、そうしていただろう。
月の光が、少し傾いていた。囲炉裏の火の爆ぜる音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。結界の向こうで、リナさんたちも眠りについたのかもしれない。
僕は、床に座り直した。
三日月さんは、変わらずそこにいた。横たわったまま、急かすことも、促すこともせずに。ただ、待っていた。
考えていた。
彼らは、今も、ここにいる。
千年経っても、魔族に成り果てても。加護という形で、私のそばに居続けてくれている。
なら、私は。
彼らに、顔向けできる自分でいたかった。
今さらかもしれない。千年分の罪は、何をしたって消えない。それでも、これから先のことだけは、彼らに恥じないものを選びたかった。
目の前に、傷ついた刀がいる。
三日月宗近。私の本丸にもいた、あの天下五剣。画面の中で、何度も手入れ部屋へ送った刀。
その刀が今、血の気の引いた顔で、横たわっている。
――嫌だ。
理屈ではなかった。
三日月宗近が傷ついたままでいるのは、嫌だった。
手入れ部屋が空くのを待ちながら、何度も画面を確かめた、あの頃と同じように。
「……三日月さん」
声を出すのに、少し勇気が要った。
「手入れの件、ですけど」
三日月さんの目が、わずかに動いた。
「お引き受け、します」
言ってしまった。
言ってから、胸がざわついた。後戻りできないところへ、一歩踏み出したような気がした。
――何か一つでも、自分で決めたら、もう戻れない気がして。
ガーヴの前で、そう口走った。その通りだった。今、僕は、自分で決めたのだ。誰の命令でもなく。
「ただし」
僕は、慌てて付け加えた。
「先に、言っておかなければならないことがあります」
「うむ。聞こう」
「僕は……私は、本丸を画面越しにしか知らないんです。手入れも、ボタン一つで済ませていました。霊力の操り方も、刀に触れてどう直すのかも、具体的なことは何一つ知りません」
三日月さんは、黙って聞いていた。
「それに、いくら霊力があると言っても、今の僕は魔族です。魔族の手で神の側の刀に触れたら、何が起きるか分かりません。あなたに、何か悪い影響が出るかもしれない」
言いながら、喉の奥が冷たくなった。
直すつもりで、壊してしまったら。この人を、もっと傷つけてしまったら。
「ですから、もし少しでも様子がおかしくなったら、その時点で手入れはやめます。それが条件です。それでも、いいですか」
三日月さんは、しばらく僕を見つめていた。
それから、ふっと目を細めた。
「うむ。それでよい」
あっさりとした返事だった。
「手入れのやり方なら、俺が分かる限り教えよう。おぬしは、やってみてくれればよい」
「……本当に、いいんですか」
「よいと言っているだろう」
三日月さんは、小さく笑った。
「おぬしが、俺のために条件をつけてくれた。それで十分だ」
胸の奥が、またざわついた。今度は、少しだけ温かかった。
*
「では、さっそく」
僕は、枕元の太刀に目を向けた。
鞘に納められた、一振りの太刀。三日月宗近の、本体。
「ああ、待て待て」
手を伸ばしかけた僕を、三日月さんがのんびりと制した。
「その前に、一つやることがある」
「はい?」
「仮の主従を結ばねばならん」
「…………はい?」
「手入れというのは、主が己の刀にするものだからな。主従の繋がりがなければ、霊力を刀に通すこともできん。仮初めでよいから、おぬしが俺の主にならねばならんのだ」
「はあ!?」
思わず、大きな声が出た。結界を張っておいてよかった、と頭の片隅で思った。
「ちょ、ちょっと待ってください! そんな話、さっきは一言も!」
「うむ。言っていなかったな」
「言ってくださいよ! そういう大事なことは先に!」
「はっはっは。すまんすまん。うっかりしていた」
うっかり、という顔ではなかった。
細められた目の奥で、月が、明らかに楽しそうに揺れていた。
――この人。
分かっていて、黙っていたのだ。先に言えば、僕が尻込みすると見越して。引き受けると言わせてから、後出しで。
「……三日月さん」
「うん?」
「わざとですよね」
「はて。何のことかな」
「とぼけないでください」
「年寄りは物忘れが多くてな」
記憶にございません、と同じ顔だった。ついさっき、僕が魔竜王相手にやってみせた、あれと同じ。
言い返す言葉が、見つからなかった。
*
「……本当に、大丈夫なんですか」
結局、僕はそう聞くしかなかった。
「僕は魔族ですよ。魔族が、神の側の刀と主従を結ぶなんて。そんなこと、聞いたこともありません」
「大丈夫だ」
「あなたの本丸には、本当の主がいるんでしょう。その方との繋がりに、何か障りが出たりは」
「大丈夫だ。仮初めのものだからな。主との縁は、そう容易く切れはせん」
「僕の魔力が、主従の繋がりを通してあなたに流れ込んだりしたら」
「大丈夫だ」
「本当の本当に、ですか」
「本当の本当に、大丈夫だ」
何度聞いても、三日月さんは同じ答えを返した。
少しも迷わずに。少しも疑わずに。
僕は、黙り込んだ。
魔族だと知っている。冥王様の手先だったと知っている。この傷の原因の一端が僕にあることも、きっと分かっている。
それでもこの人は、僕に主になれと言う。自分の本体を、僕の手に預けると言う。
刀にとって、主従を結ぶということが、どれほど重いことなのか。画面越しにしか知らない私にも、それくらいは分かった。
――どうして、そこまで。
信じてくれるのだろう。
魔族の、僕を。
「……分かりました」
根負けしたように、僕は言った。
根負けしたのか、それとも別の何かに押されたのか、自分でもよく分からなかった。
*
主従の結び方は、思っていたよりずっと簡素だった。
三日月さんの指示で、僕は太刀の鞘に片手を添えた。三日月さんが、その上に自分の手を重ねた。
冷たい手だった。血の気が引いているせいだろう。
「仮初めなれど、この身、しばしおぬしを主と仰ごう」
三日月さんが言った。
「おぬしは、ただ、受けると言えばよい」
僕は、息を吸った。
「……受けます」
その瞬間、何かが繋がった。
胸の奥の、どこか深いところで。細い、細い糸のようなものが、一本、すっと通った気がした。
痛みはなかった。熱さも、冷たさもなかった。ただ、何かが通った、という感覚だけがあった。
「……今の、ですか」
「うむ。通ったな」
三日月さんが、満足そうに頷いた。
「主従の繋がりだ。これで、おぬしの霊力が俺の本体へ届くようになる」
僕は、自分の胸に手を当ててみた。
よく分からなかった。何かが変わったような気もするし、何も変わっていないような気もする。魔族としての僕は、相変わらずここにある。
けれど、その奥に、確かに一本、新しい何かが通っていた。
*
手入れは、困難を極めた。
「まずは、己の霊力を感じるところからだな」
三日月さんは、そう言った。
言うのは簡単だった。
魔力なら分かる。ずっと使ってきたものだ。息をするより容易く操れる。けれど、霊力となると、まるで勝手が違った。
そもそも、どこにあるのかが分からない。持っていると言われても、実感すらない。
「目を閉じて、己の内を探ってみよ」
目を閉じる。内を探る。
魔力がある。いつもの、冷たく、暗く、底のない力が。それ以外には、何も。
「……分かりません」
「ふむ」
三日月さんは、横たわったまま、少し考えるように目を細めた。
「では、糸の方を辿ってみよ」
「糸、ですか」
「今しがた結んだものだ。俺の側から、少しだけ引く。おぬしの側の端が、どこに結ばれているか、感じてみよ」
胸の奥の、細い糸。
それが、くい、と、かすかに引かれた。
引かれた先を、追った。
冷たい魔力の、さらに奥。千年、一度も覗いたことのない場所。
そこに、何かがあった。
小さな、温かいもの。
冬の朝、布団の中に残っている温もりのような。消えかけた熾火のような。
「……何か、温かいものが、あるような……?」
「それだ」
三日月さんの声が、弾んだ。
「それが、おぬしの霊力だ」
*
感じられたからといって、操れるわけではなかった。
「その温もりを、手のひらに集めてみよ」
集めようとする。
温もりは、言うことを聞かなかった。掴もうとすると逃げ、追いかけると散る。ようやく少し集まったかと思えば、次の瞬間、手のひらに冷たいものが満ちていた。
魔力だった。
「……あっ」
慌てて引っ込める。
染みついた癖だった。力を使おうとすると、体が勝手に魔力を引き出してしまう。気を抜くと、すぐにそちらへ流れていく。
「すみません、また……」
「よい。焦るな」
三日月さんは、少しも苛立った様子を見せなかった。
「もう一度だ。温もりの方だけを、ゆっくりとな」
もう一度。
また、魔力が混じる。
もう一度。
今度は、温もりが途中で霧散する。
もう一度。
もう一度。
何度失敗しても、三日月さんは同じ調子で「もう一度」と言った。
傷が痛むはずだった。顔色は青白いままで、時折、言葉の途中で小さく息を詰めることがあった。それでも、一度も声を荒げなかった。一度も、休もうとは言わなかった。
僕も、弱音は吐かなかった。
吐けなかった。
早く治ってほしかった。この人の顔に、早く血の気を戻したかった。そのためなら、千回でも、万回でも、やり直す気でいた。
何かを本気で頑張ったことなど、一度もなかったのに。
*
窓の隙間から差し込む光が、月の白から、夜明け前の青へと変わっていった。
そして、空が東の端から明るみ始めた頃。
「……あ」
手のひらに、温もりが集まっていた。
魔力は、混じっていなかった。小さく、頼りなく、けれど確かに、温かい光が、僕の手のひらの上で灯っていた。
「うむ。それだ」
三日月さんが言った。
「そのまま、刀へ」
僕は、鞘から少し抜かれた刀身に、そっと手をかざした。
あの刃こぼれがあった。月明かりの下で見たときよりも、ずっと痛々しく見えた。
温もりを、流し込む。
ゆっくりと。慎重に。壊さないように。
手のひらから、刀身へ。光が、細い糸のように伝っていく。主従の繋がりを通して、その先へと届いていくのが分かった。
刃こぼれの一つが、ふっと、光に包まれた。
光が消えたとき、そこには何の傷もない、滑らかな刃があった。
「……直った」
声が、震えた。
「直りました、三日月さん」
「うむ」
顔を上げると、三日月さんがこちらを見ていた。
その頬に、うっすらと、血の色が戻っていた。
「上手いぞ、ゼロス」
三日月さんが、目を細めて笑った。
「よくやった」
胸が、熱くなった。
褒められた。それだけのことなのに。命令をこなせば、ご苦労さま、と労われることはあった。獣王様から、お褒めの言葉をいただいたことだってある。けれど、そのどれも、胸に残ったことなどなかった。今、この一言だけが、こんなにも。
「……教え方が、良いからですよ」
僕は、目を逸らして言った。
照れくさかった。照れくさい、という感情も、随分と久しぶりだった。
「はっはっは。そうか、そうか」
三日月さんは、楽しそうに笑った。
傷は、まだ残っている。刃こぼれは、まだいくつもある。一つ直しただけだ。
けれど、今度はできる。もう、やり方は分かった。
僕は、もう一度、手のひらに温もりを集めた。さっきよりも、少しだけ速く。少しだけ、確かに。
夜明けの光が、窓の隙間から差し込んでいた。
その光の中で、僕は、次の傷へと霊力を注いでいった。