獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
最後の刃こぼれに、霊力を流し込んだ。
温かな光が刀身を包み、消えていく。
その後に残ったのは、一点の曇りもない刃だった。
僕は、息を詰めたまま、それを見つめた。
朝の光が、窓の隙間から斜めに差し込んでいた。その光が、刀身の上を滑っていく。反りの深い、優美な姿。地鉄に浮かぶ、細やかな模様。そして、刃文に沿って散らばる、いくつもの三日月の形をした打除け。
天下五剣の一。三日月宗近。
画面の中で、何度も見た刀だった。美しい刀だと、知っていたはずだった。
けれど、こうして目の前で、朝の光を受けて冴え冴えと輝くその姿は、知っていたどんな美しさよりも、ずっと美しかった。
「……終わりました」
かすれた声が出た。
「全部、直りました」
*
顔を上げると、三日月さんが身を起こしていた。
寝床の上に、ゆっくりと座る。その動きに、昨夜のようなぎこちなさはなかった。
三日月さんは、自分の胸元に手を当てた。包帯を、するりと解いていく。
その下の肌には、傷一つなかった。
肩から胸へと走っていた、あの深い裂け目。どこにも、跡すら残っていなかった。
それだけではなかった。
狩衣を染めていた、あの赤黒い染みが、消えていた。乾いて黒ずんだ血の跡が、まるで最初からなかったかのように、藍色の生地は元の深い色を取り戻していた。
本体が直れば、人の身も、衣も、元に戻る。
画面の中では、当たり前のことだった。手入れが終われば、立ち絵は元に戻る。それだけのことだった。
けれど今、目の前で起きたそれは、奇跡のようにしか見えなかった。
「うむ」
三日月さんが、軽く肩を回した。
「すっかり元通りだ」
その顔に、血の色が戻っていた。昨夜の、陶器が透けるような青白さはどこにもない。いつもの、穏やかで、少しとぼけた、三日月さんの顔だった。
三日月の浮かぶ瞳が、朝の光を受けて、柔らかく輝いていた。
――よかった。
胸の奥から、その言葉が湧き上がってきた。
本当に、よかった。
*
安堵した途端、体から力が抜けた。
座っていたはずなのに、ぐらりと視界が傾く。慌てて床に手をついた。
「ゼロス?」
「……いえ、大丈夫です。ちょっと、目が回っただけで」
大丈夫ではなかった。
ガーヴに削られた存在は、まだ少しも癒えていなかった。その状態で、一晩中、慣れない力を使い続けたのだ。
霊力というものは、魔力とはまるで違った。使えば使うほど、体の芯から何かが抜けていく。冷たい疲れではなかった。温かいものを、少しずつ手放していくような疲れだった。
指先が、かすかに震えていた。輪郭が、ところどころ曖昧になっているのが分かる。気を抜けば、物質世界に留まっていることさえ難しくなりそうだった。
三日月さんとは、まるで逆だった。
元気になった三日月さんと、ぼろぼろの僕。
それでも、不思議と、嫌な気分ではなかった。
満足していた。
命令をこなしても、こんな気持ちになったことはなかった。
*
「それより、三日月さん」
僕は、床に手をついたまま顔を上げた。
「どこか、おかしなところはありませんか」
「ないぞ」
「本当ですか? 魔族の僕が手入れしたんですよ。何か、変な感じがするとか。体が重いとか。どこか、ちくちくするとか」
「せんな」
「霊力に、僕の魔力が混じってたかもしれないんです。途中で何度も失敗しましたし。もし、どこかに悪い影響が出ていたら」
「出ていないぞ」
「刀の方も、もう一度よく見てもいいですか。見落としがあるかもしれませんし」
「ゼロス」
三日月さんが、苦笑していた。
「おぬし、存外に心配性なのだな」
「……だって」
言葉に詰まった。
だって、何だというのだろう。
直したかった。早く元気になってほしかった。それが叶ったのに、今度は、自分が何か壊してしまっていないかが気になって仕方ない。
画面の中なら、手入れが終われば、それで終わりだった。
ここは、画面の中ではない。だから、怖いのだ。
「案ずるな」
三日月さんが、穏やかに言った。
「調子がよいぞ。むしろ、ここへ来てから一番よいくらいだ」
そう言って、三日月さんは手を伸ばした。
その手が、僕の頭の上に、ぽんと置かれた。
「……え」
そのまま、撫でられた。
ゆっくりと。髪をかき混ぜるように。子供を褒めるときのように。
僕は、固まった。
「よう頑張ったな、ゼロス」
三日月さんの手は、温かかった。昨夜握られたときの、あの冷たさが嘘のように。
「あ、あの……三日月さん……?」
「うん?」
「これは、その……」
戸惑っていた。
頭を撫でられるなど。一度も、なかった。獣王様が部下の頭を撫でるはずもない。冥王様に至っては、想像するだけで恐ろしい。
子供にするようなことを、されている。魔族の、それも獣神官の僕が。
抗議するべきだと思った。いつものように、へらへらと笑ってかわすべきだと思った。
けれど、できなかった。
なんだか、くすぐったかった。
前の私は、最後に誰かに頭を撫でられたのは、いつだっただろう。もう思い出せないほど昔のことだった。大人になれば、誰もそんなことはしてくれなくなる。褒められることも、少なくなる。
それを今、千年越しに。
「……子供扱い、しないでくださいよ」
ようやく出た言葉は、それだけだった。声に、少しも力が入っていなかった。
「はっはっは。俺から見れば、まだまだ子供よ」
三日月さんは、楽しそうに笑って、もう一度だけ僕の頭を撫でた。
それから、手を離した。
僕は、俯いたまま、しばらく顔を上げられなかった。
*
窓の外で、鳥が鳴き始めていた。
朝の光が、狭い寝間を満たしていた。枕元の太刀が、その光を受けて静かに輝いている。傷一つない、美しい姿で。
僕は、その輝きを見つめた。
体は、くたくただった。指先の震えは、まだ止まっていなかった。今すぐ横になりたいくらいだった。魔族に、眠りなど必要ないのに。
それでも。
胸の奥が、温かかった。
自分の手で、直した。
誰に命じられたのでもなく。筋書きに書かれていたのでもなく。自分で決めて、自分の手で。
千年在って、初めて、何かを成し遂げた気がした。
壊すのではなく。奪うのではなく。直すことを。
「……よかった」
小さく、呟いた。
三日月さんは、何も言わなかった。ただ、隣で穏やかに笑っていた。
朝日の中で、その笑顔は、満ちた月のように見えた。