獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
板戸の向こうで、何かが身じろぎする音がした。
結界越しに、かすかに伝わってくる。床板の軋み。誰かが寝返りを打つ気配。小さな欠伸。
リナさんたちが、目を覚まし始めたのだ。
胸の奥の温かさが、すっと引いていった。
現実に、引き戻された気がした。
僕は、ここにいていい存在ではない。冥王様の手先として皆をここへ導き、あの顔をさせた魔族だ。一晩、この狭い寝間で過ごしたからといって、それが変わるわけではなかった。
見つかる前に、退散した方がいい。
僕は、ふらつく体をなんとか支えて立ち上がった。
「行くのか」
三日月さんが言った。
引き留める響きではなかった。ただ、確かめるような声だった。
「ええ」
僕は、いつもの笑顔を作ろうとした。うまくいったかどうかは、分からなかった。
「冥王様のご命令は、まだ終わっていませんから」
*
言ってから、しばらく黙った。
それから、聞いた。聞かずにはいられなかった。
「三日月さんも、リナさんたちと一緒に、サイラーグへ行くんですね」
「そうだな」
あっさりとした返事だった。
分かっていた。聞くまでもなかった。この人が、行かないはずがない。
それでも。
「……貴方には」
声が、かすかに揺れた。
「貴方には、行ってほしくない。……と言ったら」
三日月さんが、僕を見上げた。
「貴方は、行かないでいてくれますか」
狭い寝間に、沈黙が落ちた。
板戸の向こうから、アメリアさんの寝ぼけた声が聞こえた気がした。結界が、それを遠くくぐもらせていた。
三日月さんは、すぐには答えなかった。
「……理由を、聞いてもよいか」
穏やかな声だった。
僕は、目を伏せた。
「冥王様は、貴方に興味を持っています」
言葉を、選んだ。選びながら、喉の奥が冷たくなった。
「異界から来た剣士だと知って。カタートに登る途中から、ずっと貴方を見ていました。あの方にとって、貴方は……新しい玩具なんです」
玩具。
口にすると、その言葉はひどく生々しかった。
「冥王様は、北の魔王様の腹心の中でも、一番残虐なお方なんですよ。気に入ったものは、壊れるまで遊ぶ。壊れたら、飽きて捨てる。千年、ずっとそうでした。僕は、それをよく知っています」
三日月さんは、黙って聞いていた。
「いくら三日月さんでも……あの方にかかったら、壊されるかもしれない」
膝の上で、拳を握った。
「それは、嫌なんですよ」
言ってしまった。
これまで、何かを嫌だと思ったことなどなかった。嫌だと口にしたことなど、一度もなかった。
それが今、こんなにもはっきりと。
*
三日月さんは、しばらく僕を見つめていた。
三日月の浮かぶ瞳が、朝の光の中で、柔らかく揺れた。
「……そうか」
小さく、息をつくように言った。
「心配してくれているのだな」
責める響きも、からかう響きもなかった。ただ、僕の言葉をそのまま受け取って、大事に胸にしまうような声だった。
「ありがたいことだ」
三日月さんは、目を細めて微笑んだ。
それから、首を横に振った。
「だが、行かねばならん」
迷いのない声だった。
「ガウリイが攫われた。リナが泣いている。仲間が、助けを待っているのだ。俺が行かん道理はない」
ガーヴの前で言ったのと、同じ声だった。
仲間を守るのは、当たり前のことだろう。
この人は、そういう人だ。
知っていた。最初から、分かっていた。
「……貴方なら、そう言うだろうと思いました」
僕は、小さく笑った。
笑うしかなかった。
止められない。止めてはいけない、と思った。
この人が仲間を見捨てて、安全な場所で縮こまっている姿など、想像もできなかった。そんなことを望むのは、この人を、この人でなくしてしまうことだ。
それに、正しいのは、きっとこの人の方なのだ。
ガーヴが言っていた。自分の意志で選んで、そこへ向かって進む。それが生きるということだと。
三日月さんは、今、それをしようとしている。
僕に、それを止める資格はなかった。
*
「……僕が言うことじゃ、ないかもしれませんけど」
板戸の向こうで、リナさんの声がした。何を言っているのかまでは聞き取れない。けれど、もう時間がないことだけは分かった。
「気をつけてください」
扉の前で、この人が僕に言ってくれた言葉だった。
今度は、僕が言う番だった。
三日月さんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ふわりと笑った。
「あいわかった」
穏やかな、いつもの声だった。
「大丈夫だ」
大丈夫だ。
昨夜、何度聞いても同じ答えを返してくれた言葉だった。少しも迷わずに、少しも疑わずに。
今は、その言葉を信じたかった。
「……それと、三日月さん。一つ、お願いがあります」
僕は、声を落とした。
「僕が手入れをしたことは、リナさんたちには、黙っていていただけませんか」
三日月さんが、首を傾げた。
「なぜだ」
「魔族の僕が、神の側の刀を直した。それが知れたら、きっと詮索されます。なぜそんなことができるのか。どうやったのか。……そこを突き詰められると、僕の、その、昔のことまで辿られかねないんです」
前世のこと。異界の人間だったこと。ずっと隠してきたものが、そこから綻びかねない。リナさんは、勘の鋭い方だ。
「それに、手入れの仕組みそのものも、なるべく知られない方がいいと思います。刀剣男士の傷は、本体を霊力で直さなければ癒えない。主従を結べば、本体に力を通せる。そういうことが良くない輩の耳に入ったら、悪用しようとする者が出てこないとも限りません」
魔族の中には、そういうことを思いつく方々が、いくらでもいる。僕は、それをよく知っていた。
三日月さんは、しばらく僕を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「相わかった。おぬしが、そう言うなら」
「すみません。助かります」
「なに。おぬしが俺を案じて言ってくれているのは、分かっている」
「……では」
僕は、一礼した。
「うむ。またな、ゼロス」
またな、と。
この人は、当たり前のようにそう言った。
僕は、何も答えなかった。答えられなかった。
結界を解くのと同時に、空間を渡った。
*
最後に見えたのは、朝の光の中に座る、藍色の背中だった。
傷一つない狩衣。枕元で静かに輝く、美しい太刀。
そして、こちらを見送る、三日月の浮かぶ瞳。
板戸の開く音が、背後で小さく聞こえた。
「三日月さん!? き、傷が……治ってます!?」
アメリアさんの、驚いた声だった。
僕は、振り返らなかった。
行かないでほしいと願った。それでも行くと言われた。それを、止めなかった。
お互いに、譲れないものがあった。
あの人には、仲間がいる。守るべきものがある。
僕には――。
僕には、何があるのだろう。
冥王様のご命令。筋書き。千年、流されてきた道。
それだけ、だろうか。
分からないまま、僕は精神世界の暗がりを、ひとりで進んでいった。
またな、という声が、いつまでも耳の奥に残っていた。