獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
リナ=インバース一行と行動を共にするようになって、ひと月ほどが経った。
仕事としては順調だった。旅の神官を装い、時々意味深なことを言い、肝心なところで姿を消す。原作のゼロスがやっていたことを、なぞるだけでいい。
本で読んだ通りの光景だった。
「ちょっとガウリイ! それ、あたしの肉でしょ!」
「早い者勝ちだろー」
「そういうこと言う!? じゃあこれはあたしのよ!!」
「あっ、それ俺が取っといたやつ!」
宿の食堂は、今夜も騒がしかった。リナさんとガウリイさんのフォークが大皿の上で火花を散らし、アメリアさんが「正義の食卓に争いは不要です!」と立ち上がり、ゼルガディスさんが黙って席を一つずらす。
栗色の髪を振り乱して皿を奪い合う、小柄な魔導士。まだ十代の少女だ。その向かいで、長い金髪の剣士が、人の好さそうな顔のまま、黙々と肉を頰張っている。拳を握って立ち上がったのは、黒髪を短く切り揃えた、年若いセイルーンの王女。少し離れた席では、フードを目深に被った魔剣士が、岩の肌に覆われた手で、黙って杯を傾けていた。
僕は、手つかずの自分の皿を前に、それを眺めていた。魔族に、食事は必要ない。
卓に置いた杯の水面に、見慣れた顔が映っていた。肩のあたりで切り揃えた、紫がかった黒髪。糸のように細めた目と、貼りつけたような笑み。黒い神官服に、赤い宝玉の嵌まった杖。挿絵で何度も見た、獣神官ゼロスの姿だ。
正直に言えば、少しだけ面白かった。紙の上の文字が動いて、喋って、怒鳴っている。前の私が見たら、たぶん喜んだだろう。
今の僕は、それを眺めているだけだ。舞台の袖から、芝居を見るように。
リナさんは、頁の上で憧れた、あのままの人だった。食べたいものを食べ、怒りたい時に怒り、欲しいものは力ずくで取りに行く。
千年、命令のままに判を押してきた僕とは、あまりにも遠い。その遠さに、何かを感じることも、もうなかったけれど。
*
事が起きたのは、その夜更けだった。
宿の屋根の上で、僕は月を見ていた。魔族に眠りは必要ない。夜は、監視の時間でもある。
今夜の月は細い。冥王様の命令を受けたあの夜と同じ、三日月だった。
そのときだ。
空が、軋んだ。
音ではない。もっと深いところで、何かがひび割れる感覚。薄い氷を、向こう側から誰かが叩いたような。
僕は思わず立ち上がった。
魔族の気配ではない。神族でもない。この世界のどの理にも当てはまらない、ひどく異質な力。それが、宿の裏手の林へ落ちていく。
「……何です、今の」
ふと、口からこぼれていた。誰に聞かせるつもりもない、素の声だった。
知らない。こんな場面は、どの巻にも書いていなかった。
*
林に降り立つと、先客がいた。
「ちょっとゼロス、あんたも気づいたの?」
リナさんだった。寝間着の上に外套を引っかけ、片手に明かりの魔法を灯している。その後ろで、ガウリイさんが、腹のあたりをさすりながら大きなあくびをしていた。
「ええ、まあ。リナさんこそ、よく起きましたね」
「あれだけ空気がビリビリしたら、誰だって起きるわよ。……って、ガウリイは何で起きたの?」
「ん? なんか、腹が減って」
「あんたに聞いたあたしが馬鹿だったわ」
「リナさーん! 何事ですかー!」
寝癖のついた頭のまま、アメリアさんが駆けてきた。その後ろから、ゼルガディスさんが無言でついてくる。寝起きだというのに、フードだけはしっかりと被っていた。
「……妙な気配がした。お前らもか」
「みんな、そうみたいね」
いつものやり取りだ。いつものやり取りのはずなのに、僕の意識は林の奥に向いたまま動かなかった。
倒木の上に、誰かが座り込んでいた。
濃い藍色の狩衣。肩口から覗く、金の飾り。月明かりに照らされた横顔は、整いすぎていて人間味が薄い。膝の上には、一振りの太刀が横たえられていた。
その人は、ゆっくりと顔を上げた。
瞳の中に、月が浮かんでいた。
「……はて」
柔らかな、低い声だった。
「ここは、どこだったかな」
――三日月宗近。
名前が、喉の奥まで出かかった。
本物だ。
前の私なら、きっと、悲鳴を上げていた。スマホを握りしめて、布団の上で転げ回って。
天下五剣の一振り。刀剣乱舞のプレイヤーなら、誰でも知っている。画面の中で何度も見た、あの姿だった。
いや。違う。画面の中ではない。今、目の前にいる。土の匂いがして、夜風に袖が揺れていて、呼吸をしている。
「どこって……こっちが聞きたいわよ!」
リナさんが、明かりを突きつけた。
「あんた何者? 空から落ちてきたでしょ、今」
「ほう。俺は落ちてきたのか」
「見てなかったの!?」
「うむ。気づいたら、ここに座っていた」
「迷子か?」
ガウリイさんが、首を傾げた。
その人は、少し考えるように視線を泳がせて、それから小さく笑った。
「はは。まあ、そんなところだ」
「そんなところって何よ! ちゃんと説明しなさいよ!」
「そう怒るな。俺にも分からんことは、説明のしようがない」
のんびりとした口調に、リナさんのこめかみがぴくりと動いた。
「空から落ちてくる迷子なんて、聞いたことありません!」
アメリアさんが、目を丸くしていた。
ゼルガディスさんだけが、剣の柄から手を離さなかった。
「……気を抜くな」
僕はといえば、笑顔を貼りつけたまま、一歩も動けずにいた。
おかしい。
この世界に刀剣男士はいない。いるはずがない。スレイヤーズの筋書きのどこにも、こんな頁は存在しない。
なのに、彼はここにいる。
とうに擦り切れたはずの何かが、胸の奥でざわめいていた。名前の分からない感情だった。魔族になってから、一度も感じたことのない種類のものだ。
「ところで」
三日月宗近が、ふいにこちらを向いた。
三日月の浮かぶ瞳が、僕を見ていた。リナさんでも、ガウリイさんでも、剣を構えたゼルガディスさんでもなく、僕だけを。
「そちらの御仁は、ずいぶんと妙な気配をしているな」
背筋に、冷たいものが走った。
三日月の浮かぶ瞳は、凪いだ水面のように、ただ静かだった。
それなのに、目を逸らしたくなった。
当たり前だ。画面越しに何度も眺めた、あの三日月宗近に、まっすぐ見られているのだ。前の私なら、それだけで息が止まっていた。
――それだけ、のはずだった。
逃げ惑う人々。命令のままに通り過ぎてきた、数えきれない夜。そんなものが、ふと頭をよぎった。
馬鹿馬鹿しい。初対面の相手が、僕の何を知っているというのか。
「おや、そうですか? ただの旅の神官ですよ」
「ほう」
彼は、それ以上何も言わなかった。
視線だけが、まだこちらに向けられているのが分かった。僕は、その目を見返せなかった。
「……さてな。俺の気のせいかもしれん」
そう言って、三日月宗近は穏やかに笑った。
視線が外れた瞬間、僕は自分が息を詰めていたことに気づいた。魔族に、呼吸など必要ないのに。
理由は、分からなかった。
空の上で、細い月が雲に隠れる。
林の奥で、ガウリイさんの腹が鳴った。リナさんが「あんたねえ!」と叫ぶ声が、夜の静けさに響いた。
筋書き通りの夜だった。
ただ一つ、そこに月が落ちてきたことを除けば。
僕は笑顔の仮面の下で、聞いたことのない音を聞いていた。
千年、狂いなく回り続けてきた筋書きの歯車が、ひとつ、外れる音だった。