獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
城の中は、しんと静まり返っていた。
外の街の賑わいが嘘みたいだった。磨き上げられた白い床に、あたしたちの足音だけが響く。誰も出てこない。罠もない。まるで、どうぞ奥までお入りくださいって言われてるみたいだった。
実際、そうなんだろう。
いくつもの回廊を抜けて、最後の大扉を押し開けた。
広い広間だった。
天井が、見上げるほど高い。その一番奥、何段もの階の上に、玉座があった。
子供が、座っていた。
足をぶらぶらさせて、頬杖をついて。カタートで道案内をしてくれた、あの子供が。
「やあ。いらっしゃい、リナ=インバース」
冥王フィブリゾが、にっこりと笑った。
「待ってたよ」
その頭上を見て、あたしは息を呑んだ。
玉座の真上。天井から吊り下がるようにして、巨大な水晶が浮かんでいた。透き通った結晶の中に、誰かが閉じ込められている。
金色の長い髪。見慣れた鎧。目を閉じて、眠っているみたいに動かない。
「ガウリイ!!」
叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
返事は、なかった。
「大丈夫、生きてるよ。今のところはね」
フィブリゾは、楽しそうに水晶を見上げた。
「それより、どうだった? サイラーグの街。きれいに直したでしょ。住んでた人たちも、みーんな元通りにしてあげたんだ」
あたしの中で、何かがぷつんと切れた。
「……ふざけるんじゃないわよ」
「ん?」
「死んだ人を無理やり起こして、笑わせて、泣かせて! あれのどこが元通りよ!」
「人の命を、魂を、何だと思っているんですか!」
アメリアが、拳を握りしめて叫んだ。
「貴様……」
ゼルが、剣を抜いた。
三日月は、何も言わなかった。ただ、静かに太刀の柄に手をかけていた。
フィブリゾは、あたしたちの顔を一人ずつ眺めた。
それから、うっとりと目を細めた。
「ああ……いいね。すごくいい」
「は?」
「怒ってる。悔しがってる。悲しんでる。ねえ、知ってる? そういうの、ぼくたち魔族にとっては、すっごく美味しいんだよ」
背筋が、ぞっとした。
魔族は、人間の負の感情を糧にする。知識としては知ってた。でも、こうして目の前で、子供の顔をしたものにうっとりと言われると、吐き気がした。
悪趣味にも、ほどがある。
腹心の中でも一番性格が悪いって噂は、どうやら本当だったらしい。
「さて」
フィブリゾが、ぱんと手を叩いた。
「本題に入ろうか。リナ=インバース。重破斬(ギガ・スレイブ)を撃つ気には、なってくれた?」
「お断りよ!!」
答えと同時に、あたしは呪文を解き放っていた。
*
「覇王氷河烈(ダイナスト・ブレス)!」
「「崩霊裂(ラ・ティルト)!!」」
アメリアとゼルの声が、重なった。
あたしの氷の嵐が、アメリアとゼルの炎が、一斉にフィブリゾへ襲いかかった。
フィブリゾは、玉座から立ち上がりもしなかった。
氷の嵐は、届く前に、霧みたいに消えた。
二人の炎は、子供の指先で、ふっと吹き消された。蠟燭の火みたいに。
「うーん。やっぱり、こんなものか」
フィブリゾが、退屈そうに呟いた。
指先が、わずかに動いた。
ゼルの体が、吹き飛んだ。広間の壁に叩きつけられて、そのまま床に落ちて動かなくなった。
「ゼルガディスさん!」
駆け寄ろうとしたアメリアの前に、子供の姿がふっと現れた。
「君も、ちょっとうるさいね」
軽く、額を小突いた。それだけだった。
アメリアの体が、糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。
「アメリア!!」
一撃だった。
二人とも、たった一撃で。
*
三日月が、前に出た。
太刀が、鞘走った。
冴えた月の目が、まっすぐにフィブリゾを捉える。踏み込み。一閃。
フィブリゾは、それを躱した。ふわりと宙に浮いて、太刀の届かない高さから三日月を見下ろした。
その顔に、満面の笑みが浮かんでいた。
「待ってたよ、お兄さん」
心底嬉しそうな声だった。
「君のこと、ずっと気になってたんだ。カタートの山道で、ぼくの正体に気づいてたよね? ちゃんと隠してたのに。すごいなあって思ってたんだ」
「……そうか」
「ねえ。異界の剣士が、どこまでできるのか。ぼくに見せてよ」
フィブリゾが、指を鳴らした。
闇の刃が、四方から三日月に襲いかかった。
三日月は、それを受けた。太刀で弾き、身を捻って躱し、返す刃で一つを断ち割る。
「わあ、これも躱すんだ! すごいね!」
フィブリゾが、子供みたいに手を叩いた。
「じゃあ、これは?」
今度は、刃の形が変わった。細く、鋭く、針みたいに。数が増えた。速さが増した。
三日月は、それも捌いた。けれど、さっきより余裕がない。袖が裂け、頬に赤い線が走った。
「これは? これはどう?」
形を変えて。速さを変えて。数を変えて。
フィブリゾは、完全に遊んでいた。新しい玩具の、壊れない限界を確かめるみたいに。
あたしは、黙って見てなんかいられなかった。
「獣王牙操弾(ゼラス・ブリット)!」
隙を見て、横から叩き込んだ。
フィブリゾは、こっちを見もしなかった。指一本動かさなかった。あたしの呪文は、フィブリゾの体に触れる前に、ただ消えた。
「邪魔しないでよ、リナ=インバース。今、いいところなんだから」
頭の中で、数えた。ダイナスト・ブレス。ゼラス・ブリット。残った魔力で撃てるのは、せいぜい、あと三発。そのどれも、あの子供には、毛ほども届かない。
届くとしたら、一つだけ。
――それだけは、撃たない。
悔しかった。悔しくて、涙が出そうだった。
三日月の傷が、増えていった。
肩。脇腹。太腿。狩衣が、あちこち赤く染まっていく。息が上がっている。太刀を振る速さが、少しずつ鈍くなっていく。
「……あれ」
フィブリゾが、首を傾げた。
「もう、終わり?」
心底、がっかりしたような声だった。
「意外と、つまらなかったねえ」
闇が、閃いた。
三日月の右腕が、宙を舞った。
太刀を握ったまま。肘から先が。
赤いものが、噴き出した。
「三日月!!!」
あたしは、叫んでいた。
三日月は、倒れなかった。
残った左手で、落ちた太刀を拾い上げた。歯を食いしばって、顔を真っ白にして、それでも、立っていた。
「へえ」
フィブリゾが、目を丸くした。
「まだ立ってるんだ。すごいねえ」
次の瞬間。
左腕も、飛んだ。
太刀が、床に落ちて、甲高い音を立てた。
三日月の体が、ゆっくりと傾いた。
そのまま、倒れ伏した。
「あーあ。倒れちゃった」
フィブリゾが、ふわりと床に降り立った。三日月の傍らに、とことこと歩いていく。
「もう、駄目そうだね」
子供の手のひらに、闇が集まっていく。
「じゃあね、お兄さん。楽しかったよ」
――やめて。
声が、出なかった。
「バイバイ」
闇が、振り下ろされた。
*
気がついたときには、僕は、そこにいた。
三日月さんの前に。冥王様の、真正面に。
杖を構えて、振り下ろされた闇を受け止めていた。
重かった。ガーヴの剣よりも、ずっと。腕が、いや存在そのものが、軋みを上げる。それでも、退かなかった。退けなかった。
闇が、霧散した。
広間が、静まり返った。
「……ゼロス?」
冥王様の声が、すぐ目の前で聞こえた。
大きな目が、僕を見上げていた。笑っていなかった。
「何してるの?」
――何を、しているんだ。僕は。
頭の中が、真っ白だった。
精神世界から、ずっと見ていた。城に入ってからずっと。見ていることしかできないと分かっていて、それでも目を離せなかった。
三日月さんの腕が飛んだとき、存在の芯が凍りついた。
二本目が飛んだとき、何も考えられなくなった。
そして、あの闇が振り下ろされたとき。
体が、勝手に動いていた。
折らせたくなかった。この人を。この刀を。ただ、それだけだった。
予定にない行動だった。筋書きのどこにも書いていない。冥王様の命令にも、真っ向から背いている。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「ねえ、ゼロス」
冥王様の声が、一段低くなった。
「ぼくの邪魔をしたの? どうして?」
考えろ。
千年、上司の顔色を窺って生きてきたのだ。言い訳なら、得意なはずだ。
考えろ。
「――お待ちください、冥王様」
声は、震えなかった。千年の習慣のおかげだった。
「その剣士、ここで滅ぼすのは得策ではありません」
「どういうこと?」
「その方は、異界の神の端くれなんですよ」
僕は、恭しく頭を下げたまま、言葉を継いだ。
「付喪神、という存在だそうです。末席とはいえ、神の名を持つもの。冥王様のご命令で、この旅の間ずっと調べてまいりました。この世界の理とは、まるで質の違う力を宿しています」
冥王様は、黙って聞いていた。
「ここで滅ぼせば、その神気がどう弾けるか分かりません。そして間もなく、リナさんが重破斬を唱えるでしょう。異界の神気と、金色の魔王様の混沌。この二つがぶつかれば、何が起きるか、僕には予想がつきません」
一拍、置いた。
「最悪、術そのものが不発に終わるかもしれませんよ」
冥王様の目が、わずかに細くなった。
「千年お待ちになった機会を、異界の刀一振りのために棒に振るおつもりですか」
沈黙が、落ちた。
長い、長い沈黙だった。
冥王様の大きな目が、僕を見つめていた。探るように。値踏みするように。
気づかれただろうか。
カタートの山道で、顔色を窺わないようにした。扉の前で、振り返らなかった。いつもの笑顔の下に、全部しまい込んだつもりだった。
それを今、自分で、冥王様の目の前に放り出したのだ。
あの人を庇った、という、ただ一つの動きで。
「それに」
僕は、間を空けずに続けた。
「リナさんを動かすおつもりでしたら、この剣士より、ガウリイさんをお使いになる方が、ずっと効きますよ」
言いながら、胸の奥が軋んだ。
「リナさんにとって、ガウリイさんは特別な方ですから。異界の剣士が一人倒れるより、相棒の命が懸かっている方が、ずっと早く決断なさるでしょう」
言ってしまった。
視界の端で、リナさんが、息を呑んだのが分かった。
振り向かなくても、分かった。こちらを、見ている。信じられないものを見るような目で。――いや、違う。やっぱり、という目で。
魔族は、所詮、魔族なのだと。
ガウリイさんを、差し出したのだ。僕が。リナさんの、目の前で。
――ごめんなさい。
喉元までせり上がってきた言葉を、飲み込んだ。今、それを口にすれば、全部が無駄になる。リナさんの方を、一度も見ないようにして、僕は、冥王様だけを見つめていた。
冥王様は、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「……ふうん。確かにね」
いつもの、無邪気な笑みだった。
「異界の神気、か。そういうの、ぼくもよく知らないや。何が起きるか分からないのは、ちょっと困るね」
冥王様は、くるりと背を向けた。
「いいよ。その人は、放っておいてあげる。どうせ、もう動けないみたいだし」
それから、肩越しに振り返った。
「ゼロスがそんなに仕事熱心だったなんて、知らなかったなあ」
にっこりと笑って。
その目が、僕から、床に倒れた三日月さんへ、ゆっくりと移った。それから、また僕へ戻ってきた。
その目だけが、笑っていなかった。
「はい。恐れ入ります」
僕は、深く頭を下げた。
冥王様の足音が、リナさんの方へ遠ざかっていく。
頭を上げられなかった。上げたら、顔に何か出てしまいそうだった。
切り抜けた。
切り抜けた、のだろうか。
胸の奥で、まだ心臓のない場所が、早鐘を打っているような気がした。
*
リナさんには、悪いことをした。
あの時の、息を呑む音が、耳の奥に、こびりついて離れなかった。
千年、何度も、誰かを裏切ってきた。そのたびに向けられた目など、一つも覚えていない。覚えておく理由が、なかったから。
なのに、今は。あの人の、たった一つの息の音が、こんなにも、重い。
ガウリイさんを、差し出した。冥王様に、より効く脅し方を教えた。リナさんを、もっと追い詰める道を。
迷わなかった。三日月さんを助けられるなら、と、ほんの一瞬も。
長い年月で身についた、魔族のやり方だった。
迷わなかったことが、今になって、怖かった。
胸の底に、重いものが沈んでいった。
罪悪感、というのだろう。千年、湧く場所すらなかったはずのものだった。
――もし、生き残れたら。
この先の筋書きを、僕は知っている。ガウリイさんは、きっと戻ってくる。
それでも、今、リナさんが味わっている恐怖は本物だ。
もし、生き残れたら。リナさんたちに、何かしらの償いをしよう。何ができるかは分からないけれど。
そう思いながら、僕は足元を見た。
三日月さんが、倒れていた。
両腕を失い、血の海の中で。それでも、まだ意識はあるようだった。
三日月さんは、動こうとしていた。
肩を揺すり、膝を引き寄せ、腕のない体で必死に起き上がろうとしていた。顔は真っ白で、唇からは血が滲んでいる。それでも、その目はまっすぐに、リナさんの方を見ていた。
リナさんを、守ろうとしていたのだ。
この体で。両腕を失ってなお。
体は、少しも言うことを聞いていなかった。持ち上げかけた肩が、すぐに床に落ちる。それでも、また持ち上げようとする。何度も。何度も。
僕は、それをただ見ていた。
――なんて、人なんだろう。
高潔だと思った。偉大だと思った。
利もなく、見返りもなく、ただ仲間のためだけに、壊れかけた体を動かそうとする。その姿は、どこまでも純粋だった。
僕には、とても真似できない。
千年、自分を守るためだけに流されてきた僕には。
床に落ちていた太刀を、僕は拾い上げた。
冥王様からは、ただ標本を回収したように見えるだろう。それでいい。少なくとも、これ以上、誰にも踏ませはしない。
手入れをしたかった。今すぐにでも。けれど、冥王様の目がある。霊力など使えば、今度こそ気づかれる。
歯がゆかった。
けれど、もう少しだ。
*
冥王様が、玉座の前に立っていた。
頭上の水晶を見上げ、それからリナさんを振り返る。
「さあ、リナ=インバース。もう一度聞くよ」
水晶の中で、ガウリイさんの体が、かすかに軋んだように見えた。
「重破斬を撃つか。それとも、ガウリイ=ガブリエフが砕けるのを見るか」
リナさんの顔が、蒼白になっていた。
拳を握りしめ、唇を噛みしめ、震えていた。
そろそろだ。
筋書きが、進む。
リナさんの唇が、動き始めた。
低く、重く、長い詠唱が、広間に響き始める。空気が軋み、光が歪み、この世ならざるものの気配が、少しずつ満ちていく。
僕は、三日月さんの傍らに膝をついた。
冥王様は、リナさんに夢中だった。こちらを見ていない。今なら。
「三日月さん」
小さな、小さな声で囁いた。冥王様には決して届かないほどの。
三日月さんの目が、わずかに動いて、僕を捉えた。
「今は、僕を信じてくれませんか」
三日月の浮かぶ瞳が、揺れた。
「これから起こることを、どうか。……大丈夫ですから」
*
大丈夫ですから、と。
ゼロスは、そう言った。
俺は、裂けた狩衣の袖を押さえたまま、その顔を見上げていた。いつもの笑みは、そこになかった。ひどく真剣な顔だった。
分からなかった。
この男が、何を考えているのか。
冥王の前に飛び出してきたとき、俺は確かに思った。助けられたのだと。この男は、己の立場を危うくしてまで、俺を庇ったのだと。
胸の奥が、熱くなった。同時に、ひやりとした。そんなことをすれば、この男の身が危ない。魔族の中で、主に背くということが何を意味するのか。俺にも、それくらいは分かった。
だが、その後に続いた言葉は。
リナを動かすなら、ガウリイを使う方が効く、と。
なぜ、あんなことを言ったのか。
俺を守るためなのは、分かる。冥王の目を、俺から逸らすためだ。だが、それでは、リナとガウリイが。
動こうとした。
リナを、守らねばならない。ガウリイを、助けねばならない。仲間が、目の前で追い詰められている。
体は、動かなかった。
腕がない。力が入らない。本体は、俺の手を離れている。肩を持ち上げようとするたびに、視界が白く霞んだ。
歯がゆかった。
これほど歯がゆい思いをしたのは、いつ以来だろう。
そこへ、ゼロスが言ったのだ。
今は、僕を信じてくれませんか、と。
これから起こることを、どうか、と。
何か、策があるのだ。
そう気づいた。この男は、この先に起こることを知っている。少なくとも、知っているかのように振る舞っている。
この男は、魔族だ。冥王の配下だ。今しがた、リナを追い詰める言葉を、冥王に囁いたばかりだ。
それでも。
昨夜、この男は、震える手で俺の手入れをした。千回でもやり直すような顔で。直った刃を見て、声を震わせて喜んでいた。
今、この男の手には、俺の本体がある。
それを握る手が、かすかに震えているのが見えた。
あの言葉を口にした時の、この男の顔を、俺は見ていた。笑みを貼りつけたまま、ほんの一瞬、痛むように歪んだ口元を。
好きで言ったのではない。
それだけは、分かった。
ならば。
――信じよう。
俺は、ゼロスを見上げたまま、小さく、頷いた。
声は、出さなかった。それで、十分だった。
ゼロスの目が、わずかに見開かれた。それから、ひどく頼りない顔で、ほんの少しだけ、笑った。
リナの詠唱が、広間を満たしていく。
空気が、歪む。光が、軋む。何か途方もないものが、この場所へ降りてこようとしている。
俺は、目を閉じなかった。
何が起ころうとも。この男が信じろと言った、その先を、見届けるつもりだった。