獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】   作:半熟ハラミ丼

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第二十一話 その先

 詠唱が、終わった。

 リナさんの掲げた両手の間に、それは生まれた。

 闇ではなかった。光でもなかった。色という概念そのものが、そこだけ抜け落ちていた。見ているはずなのに、目がそれを捉えることを拒む。在るはずなのに、在るということがどういうことなのか分からなくなる。

 混沌だった。

 全ての始まりであり、全ての終わりであるもの。その、ほんの一欠片。

「……っ、く……!」

 リナさんが、歯を食いしばっていた。

 両手が、震えていた。腕が、肩が、全身が、軋むように震えていた。掌の上で渦巻く混沌を、必死に押さえ込もうとしている。

 制御しようとしているのだ。

 世界を呑み込ませないように。ガウリイさんを救うためだけに、その力を絞り込もうとしている。

 無茶だ、と思った。

 あれは、人の手に収まるものではない。それでも、リナさんは諦めていなかった。唇から血を滲ませながら、混沌の手綱を握ろうとしていた。

 ほんの一瞬、それが成功しかけたように見えた。

「――駄目だよ」

 冥王様の声がした。

 楽しそうな、子供の声だった。

「そんなふうに、きれいに収めちゃ」

 指先が、動いた。

 小さな闇の礫が、リナさんの肩を撃ち抜いた。

「あ――」

 リナさんの体が、揺らいだ。

 その一瞬で、全てが崩れた。

 手綱が、切れた。

 混沌が、溢れ出した。

 

     *

 

 それは、膨れ上がった。

 リナさんの掌から溢れ、腕を呑み、肩を呑み、その小さな体を丸ごと呑み込んで、さらに膨れ上がっていく。広間の空気が歪む。床が、壁が、天井が、輪郭を失い始める。

「あはははは!」

 冥王様が、笑っていた。

 両手を広げ、膨れ上がる混沌を見上げて、心底嬉しそうに。

「やった! やっとだ! 千年待ったんだよ!」

 子供の顔が、恍惚に歪んでいた。

「これで、世界は滅ぶ! 全部、混沌に還るんだ!」

 筋書き通りだった。

 ここまでは。

 僕は、三日月さんの本体を握りしめたまま、その光景を見ていた。

 知っている。この先に何が来るのかを。

 それでも、恐ろしかった。

 

     *

 

 膨れ上がった混沌が、形を取り始めた。

 渦が収束していく。無限に広がろうとしていたものが、一点へと集まっていく。輪郭が生まれる。肩が。腕が。長い髪が。

 人の、姿だった。

 リナさんの姿だった。

 けれど、それはリナさんではなかった。

 髪が、金色に輝いていた。陽の光とも、黄金竜の鱗とも違う。この世のどんな金とも違う、全てを照らし、全てを呑み込む色。

 目が、開かれた。

 その瞬間、僕は膝から崩れ落ちていた。

 立っていられなかった。

 圧、などという言葉では足りなかった。存在そのものが、押し潰される。魔族として生まれた僕の、その根源が、ひれ伏せと叫んでいた。

 金色の魔王(ロード・オブ・ナイトメア)。

 全ての母。神も魔も、この世界も、他の全ての世界も、ここから生まれ、ここへ還る。

 頁の上で、何度も読んだ。読んで、知っていたつもりだった。

 何も、知らなかった。

 三日月さんの本体を、握りしめた。それだけが、僕に許された動きだった。

「……な」

 冥王様の声が、震えていた。

「なんで……なんで、あなたが……」

 恍惚の笑みは、もうどこにもなかった。

「違う! こんなの、計画と違う! ぼくは、混沌を呼ぶ術を暴走させただけだ! なんで、あなた自身がここにいるんだ!!」

 金色の魔王は、冥王様を見た。

 ただ、見ただけだった。

「――力とは、我が意志そのもの」

 声が、響いた。

 リナさんの唇から発せられた、リナさんのものではない声。どこから聞こえているのか分からなかった。耳からではなく、存在の芯に直接響いてくる。

「我が力が呼ばれた。ゆえに、我はここに在る」

 冥王様が、後ずさった。

「滅びを望む者よ」

 金色の瞳が、静かに冥王様を捉えた。

「望み通り、滅びを与えよう」

 

     *

 

 それは、戦いではなかった。

 冥王様は、叫んでいた。叫びながら、ありったけの力を放っていた。闇の刃を、死の波動を、冥界そのものの力を。世界を恐怖させてきたものの全てを。

 半狂乱だった。

 子供の顔が、恐怖に歪んでいた。

 金色の魔王は、動かなかった。

 冥王様の放った全てが、その手前で、ただ消えた。音もなく。抵抗もなく。最初から存在しなかったかのように。

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 金色の魔王が、指先をわずかに動かした。

 冥王様の体が、端から崩れ始めた。

「ぼくは、ぼくは冥王だぞ! 北の魔王様の腹心だぞ! こんな、こんな――」

 声が、途切れた。

 子供の形をしたものは、悲鳴の欠片を残して、塵一つ残さずに消えた。

 あっという間だった。

 千年、魔族の頂点の一角に君臨したお方が。たった一瞬で。

 

     *

 

 静寂が、広間を包んだ。

 誰も、動かなかった。動けなかった。

 ――いや。

 僕は、動かなければならなかった。

 冥王様は、もういない。あの目は、もうどこにもない。誰に見咎められることもなく、この人に手を伸ばせる。

 金色の魔王の圧で、体は少しも言うことを聞かなかった。それでも、床を這うようにして、三日月さんの傍らへ寄った。

 両腕の傷口から、まだ血が溢れていた。

 神官服の裾を裂いて、肩の付け根をきつく縛った。もう片方も。それから、主従の繋がりを通して、ほんのわずかな霊力を流し込んだ。傷を直すほどの量ではない。今の僕には、それが精一杯だった。それでも、溢れ出していた血は、ゆっくりと勢いを失っていった。

 三日月さんの上半身を抱き起こして、僕の胸にもたれかからせた。

 片腕でその体を支え、もう片方の手で、傍らに置いていた本体を引き寄せた。

 軽かった。腕がないからだ。その軽さが、ひどく胸に痛かった。

「……ゼロス」

 かすれた声がした。

 三日月さんの目が、薄く開いていた。

「冥王は」

「滅びました」

「そうか」

 三日月さんは、小さく息をついた。それから、わずかに口の端を上げた。

「……これが、おぬしの言う『大丈夫』か」

「……ええ。まあ、だいたいは」

「そうか」

 それきり、三日月さんは黙った。

 僕の胸にもたれたまま、その目が、広間の中央へ向いた。

 金色に輝く、リナさんの姿をしたものへ。

 

     *

 

 三日月さんは、それをまっすぐに見ていた。

 僕は、見ていられなかった。目を合わせただけで、存在が砕けそうだった。それなのに、腕の中の人は、少しも臆していなかった。

 金色の瞳が、こちらを向いた。

 存在の芯が、凍りついた。

「――異界の刃か」

 声が、響いた。

「この世界の者ではないな」

「うむ」

 三日月さんが、答えた。

 僕は、息を呑んだ。全ての母に向かって、この人は、いつもと同じ調子で。

「迷い込んでしまってな。帰り道が、分からんのだ」

「還る道は、汝を呼ぶ者が知っていよう」

 金色の魔王は、静かに言った。

「汝の主は、汝を忘れてはおらぬ」

 腕の中で、三日月さんの体が、かすかに揺れた。

「……そうか」

 その声が、かすかに震えていた。

「それは、ありがたいことだ」

 三日月さんは、しばらく目を閉じていた。

 それから、もう一度、金色の瞳を見上げた。

「一つ、頼んでもよいか」

「申してみよ」

「その身は、我らの仲間のものだ。リナという。どうか、返してはもらえぬだろうか」

 金色の魔王は、すぐには答えなかった。

 その目が、水晶の方へ、一瞬だけ流れた。

「それを決めるのは、我ではない」

 短い答えだった。

 三日月さんは、それ以上は何も言わなかった。ただ、頷いた。

 金色の瞳が、最後に、僕の上で止まった。

 動けなかった。見られている。全ての母に。僕の奥にあるものまで、何もかも。

 金色の瞳が、わずかに見開かれた。

「……ほう」

 声に、かすかな驚きが混じっていた。

「異界の、人の魂か。それが、魔の器に」

 存在の芯が、凍りついた。

「いつの間に、紛れ込んだ」

 ――見抜かれた。

 千年、誰にも気づかれなかったものを。獣王様も、冥王様も見抜けなかったものを。ただ一瞥で。

 消される。

 そう思った。この方にとって、僕は紛れ込んだ異物だ。この世界の理に収まらない、混じり物だ。冥王様をあっさり塵に還したその指先が、ほんの少し動くだけで、僕など跡形もなく消える。

 逃げられない。逃げる場所など、どこにもない。

 腕の中で、三日月さんの体が、かすかに強張ったのが分かった。

 金色の瞳が、僕から、腕の中の三日月さんへと流れた。それから、また、僕に戻った。

 長い、長い一瞬だった。

 やがて、金色の魔王は、それきり何も言わずに、僕から視線を外した。

 ――え。

 それだけ、だった。

 咎める言葉も、裁く言葉もなかった。指一本、動かなかった。まるで、少し珍しいものを見かけて、それで興味を失ったかのように。

 僕は、三日月さんの体を抱いたまま、しばらく息もできずにいた。

 なぜ、見逃されたのか。分からなかった。全ての母の考えることなど、僕に分かるはずもなかった。

 腕の中で、三日月さんが、ほうっと息をついた。

 やがて、遠くから、何かが聞こえてきた。

 街の方からだった。

 ざわめき、ではなかった。もっと静かな音。風が吹き抜けていくような。長い、長い溜め息のような。

 窓の外で、光の粒が舞い上がっていくのが見えた。

 一つ、また一つ。数えきれないほど。白く、淡く、空へと昇っていく。

 サイラーグの人々だった。

 冥王様の呪縛が解けたのだ。無理やり起こされ、笑うことを強いられていた死者たちの魂が、ようやく還るべき場所へ還っていく。

 あのパン屋の女性も、きっとその中にいるのだろう。今度こそ、泣かずに。

 頭上で、硬い音がした。

 ガウリイさんを閉じ込めていた水晶に、ひびが走っていた。ひびは瞬く間に全体へ広がり、水晶は光の破片になって砕け散った。

 ガウリイさんの体が、ゆっくりと降りてくる。床に足がついた瞬間、その目が開いた。

「……ん? あれ?」

 ガウリイさんは、ぼんやりと周りを見回した。

「ここ、どこだ? 俺、何してたんだっけ……」

 倒れているアメリアさんとゼルガディスさん。両腕を失い、僕の胸にもたれかかる三日月さん。

 そして、金色に輝く、リナさんの姿をしたもの。

「ゼロス? おい、何がどうなってるんだ?」

「……冥王様に、攫われていたんですよ」

 声を絞り出すのに、ひどく苦労した。金色の魔王の前で、口を開くことさえ恐ろしかった。

「リナさんが、ガウリイさんを助けるために、重破斬を唱えました。冥王様は、それを暴走させようとして……そして、あの方が現れて、冥王様を滅ぼしたんです」

「あの方?」

 ガウリイさんの目が、金色の魔王に向いた。

 しばらく、じっと見つめていた。

「……リナ、じゃないよな」

 さすがだ、と思った。理屈ではなく、本能で分かるのだ。この人は。

「お前、誰だ」

 金色の魔王が、ガウリイさんを見た。

「我は混沌。金色の魔王。全てのものの母」

 静かな声だった。

「この身の娘が願った。己の全てを捧げてもよい、お前を救ってくれと。ゆえに、我はその願いに応えた」

 ガウリイさんの顔色が、変わった。

「……なんだよ、それ」

 拳が、震えていた。

「そんなの、俺は望んでない! リナはどこだ! リナを返せ!!」

「リナという名の娘ならば、既に我が混沌の内にある」

「そんなの知るか!!」

 ガウリイさんが、叫んだ。

 金色の魔王を前にして。全ての母を前にして。魔族の僕が膝をつき、冥王様が塵になって消えた、その存在を前にして。

 一歩も、退かずに。

「返せよ! リナを、返せ!!」

 金色の魔王は、答えなかった。

 ただ、静かに背を向けた。

 リナさんの体ごと、その輪郭が淡くなり始める。空間に、裂け目が開いた。その向こうに、色のない、果てのない何かが広がっていた。

 混沌へ、還ろうとしているのだ。

 リナさんを、連れたまま。

「待て!!」

 ガウリイさんが、走り出した。

「ガウリイさん!」

 思わず、叫んでいた。

 あそこへ踏み込めば、人の身では二度と戻れない。誰でも分かることだった。

 ガウリイさんは、振り返らなかった。

 金色の背中を追って、裂け目へ飛び込んでいった。

 二人の姿が、虚空へと溶けていく。

 金色の光と、金色の髪が、重なって、遠ざかって。

 やがて、裂け目が閉じた。

 

     *

 

 広間に、静けさが戻った。

 僕は、膝をついたまま、何もなくなった空間を見つめていた。

 全身が、まだ震えていた。金色の魔王の気配の残滓が、存在の芯にこびりついて離れない。

 筋書き通りなら。

 ガウリイさんは、リナさんを連れて戻ってくる。金色の魔王は、二人を還してくれる。僕は、それを知っている。

 知っているはずなのに、今は、それを信じることさえ恐ろしかった。

 筋書きは、もう何度も狂っている。三日月さんがこの世界に落ちてきた夜から、ずっと。

 本当に、二人は戻ってくるのだろうか。

 手の中で、三日月さんの本体が、かすかに温もりを帯びていた。

 僕は、その鞘を、そっと握り直した。

 冥王様は、もういない。

 僕の奥にあるものを覗き込もうとした、あの目は、もうどこにもない。ガーヴと同じように。僕の秘密に指先をかけた方々は、二人とも、何も言い残せないまま消えてしまった。

 安堵してよいのか、分からなかった。

 ただ、腕の中の温もりだけが、確かだった。

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