獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
詠唱が、終わった。
リナさんの掲げた両手の間に、それは生まれた。
闇ではなかった。光でもなかった。色という概念そのものが、そこだけ抜け落ちていた。見ているはずなのに、目がそれを捉えることを拒む。在るはずなのに、在るということがどういうことなのか分からなくなる。
混沌だった。
全ての始まりであり、全ての終わりであるもの。その、ほんの一欠片。
「……っ、く……!」
リナさんが、歯を食いしばっていた。
両手が、震えていた。腕が、肩が、全身が、軋むように震えていた。掌の上で渦巻く混沌を、必死に押さえ込もうとしている。
制御しようとしているのだ。
世界を呑み込ませないように。ガウリイさんを救うためだけに、その力を絞り込もうとしている。
無茶だ、と思った。
あれは、人の手に収まるものではない。それでも、リナさんは諦めていなかった。唇から血を滲ませながら、混沌の手綱を握ろうとしていた。
ほんの一瞬、それが成功しかけたように見えた。
「――駄目だよ」
冥王様の声がした。
楽しそうな、子供の声だった。
「そんなふうに、きれいに収めちゃ」
指先が、動いた。
小さな闇の礫が、リナさんの肩を撃ち抜いた。
「あ――」
リナさんの体が、揺らいだ。
その一瞬で、全てが崩れた。
手綱が、切れた。
混沌が、溢れ出した。
*
それは、膨れ上がった。
リナさんの掌から溢れ、腕を呑み、肩を呑み、その小さな体を丸ごと呑み込んで、さらに膨れ上がっていく。広間の空気が歪む。床が、壁が、天井が、輪郭を失い始める。
「あはははは!」
冥王様が、笑っていた。
両手を広げ、膨れ上がる混沌を見上げて、心底嬉しそうに。
「やった! やっとだ! 千年待ったんだよ!」
子供の顔が、恍惚に歪んでいた。
「これで、世界は滅ぶ! 全部、混沌に還るんだ!」
筋書き通りだった。
ここまでは。
僕は、三日月さんの本体を握りしめたまま、その光景を見ていた。
知っている。この先に何が来るのかを。
それでも、恐ろしかった。
*
膨れ上がった混沌が、形を取り始めた。
渦が収束していく。無限に広がろうとしていたものが、一点へと集まっていく。輪郭が生まれる。肩が。腕が。長い髪が。
人の、姿だった。
リナさんの姿だった。
けれど、それはリナさんではなかった。
髪が、金色に輝いていた。陽の光とも、黄金竜の鱗とも違う。この世のどんな金とも違う、全てを照らし、全てを呑み込む色。
目が、開かれた。
その瞬間、僕は膝から崩れ落ちていた。
立っていられなかった。
圧、などという言葉では足りなかった。存在そのものが、押し潰される。魔族として生まれた僕の、その根源が、ひれ伏せと叫んでいた。
金色の魔王(ロード・オブ・ナイトメア)。
全ての母。神も魔も、この世界も、他の全ての世界も、ここから生まれ、ここへ還る。
頁の上で、何度も読んだ。読んで、知っていたつもりだった。
何も、知らなかった。
三日月さんの本体を、握りしめた。それだけが、僕に許された動きだった。
「……な」
冥王様の声が、震えていた。
「なんで……なんで、あなたが……」
恍惚の笑みは、もうどこにもなかった。
「違う! こんなの、計画と違う! ぼくは、混沌を呼ぶ術を暴走させただけだ! なんで、あなた自身がここにいるんだ!!」
金色の魔王は、冥王様を見た。
ただ、見ただけだった。
「――力とは、我が意志そのもの」
声が、響いた。
リナさんの唇から発せられた、リナさんのものではない声。どこから聞こえているのか分からなかった。耳からではなく、存在の芯に直接響いてくる。
「我が力が呼ばれた。ゆえに、我はここに在る」
冥王様が、後ずさった。
「滅びを望む者よ」
金色の瞳が、静かに冥王様を捉えた。
「望み通り、滅びを与えよう」
*
それは、戦いではなかった。
冥王様は、叫んでいた。叫びながら、ありったけの力を放っていた。闇の刃を、死の波動を、冥界そのものの力を。世界を恐怖させてきたものの全てを。
半狂乱だった。
子供の顔が、恐怖に歪んでいた。
金色の魔王は、動かなかった。
冥王様の放った全てが、その手前で、ただ消えた。音もなく。抵抗もなく。最初から存在しなかったかのように。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!!」
金色の魔王が、指先をわずかに動かした。
冥王様の体が、端から崩れ始めた。
「ぼくは、ぼくは冥王だぞ! 北の魔王様の腹心だぞ! こんな、こんな――」
声が、途切れた。
子供の形をしたものは、悲鳴の欠片を残して、塵一つ残さずに消えた。
あっという間だった。
千年、魔族の頂点の一角に君臨したお方が。たった一瞬で。
*
静寂が、広間を包んだ。
誰も、動かなかった。動けなかった。
――いや。
僕は、動かなければならなかった。
冥王様は、もういない。あの目は、もうどこにもない。誰に見咎められることもなく、この人に手を伸ばせる。
金色の魔王の圧で、体は少しも言うことを聞かなかった。それでも、床を這うようにして、三日月さんの傍らへ寄った。
両腕の傷口から、まだ血が溢れていた。
神官服の裾を裂いて、肩の付け根をきつく縛った。もう片方も。それから、主従の繋がりを通して、ほんのわずかな霊力を流し込んだ。傷を直すほどの量ではない。今の僕には、それが精一杯だった。それでも、溢れ出していた血は、ゆっくりと勢いを失っていった。
三日月さんの上半身を抱き起こして、僕の胸にもたれかからせた。
片腕でその体を支え、もう片方の手で、傍らに置いていた本体を引き寄せた。
軽かった。腕がないからだ。その軽さが、ひどく胸に痛かった。
「……ゼロス」
かすれた声がした。
三日月さんの目が、薄く開いていた。
「冥王は」
「滅びました」
「そうか」
三日月さんは、小さく息をついた。それから、わずかに口の端を上げた。
「……これが、おぬしの言う『大丈夫』か」
「……ええ。まあ、だいたいは」
「そうか」
それきり、三日月さんは黙った。
僕の胸にもたれたまま、その目が、広間の中央へ向いた。
金色に輝く、リナさんの姿をしたものへ。
*
三日月さんは、それをまっすぐに見ていた。
僕は、見ていられなかった。目を合わせただけで、存在が砕けそうだった。それなのに、腕の中の人は、少しも臆していなかった。
金色の瞳が、こちらを向いた。
存在の芯が、凍りついた。
「――異界の刃か」
声が、響いた。
「この世界の者ではないな」
「うむ」
三日月さんが、答えた。
僕は、息を呑んだ。全ての母に向かって、この人は、いつもと同じ調子で。
「迷い込んでしまってな。帰り道が、分からんのだ」
「還る道は、汝を呼ぶ者が知っていよう」
金色の魔王は、静かに言った。
「汝の主は、汝を忘れてはおらぬ」
腕の中で、三日月さんの体が、かすかに揺れた。
「……そうか」
その声が、かすかに震えていた。
「それは、ありがたいことだ」
三日月さんは、しばらく目を閉じていた。
それから、もう一度、金色の瞳を見上げた。
「一つ、頼んでもよいか」
「申してみよ」
「その身は、我らの仲間のものだ。リナという。どうか、返してはもらえぬだろうか」
金色の魔王は、すぐには答えなかった。
その目が、水晶の方へ、一瞬だけ流れた。
「それを決めるのは、我ではない」
短い答えだった。
三日月さんは、それ以上は何も言わなかった。ただ、頷いた。
金色の瞳が、最後に、僕の上で止まった。
動けなかった。見られている。全ての母に。僕の奥にあるものまで、何もかも。
金色の瞳が、わずかに見開かれた。
「……ほう」
声に、かすかな驚きが混じっていた。
「異界の、人の魂か。それが、魔の器に」
存在の芯が、凍りついた。
「いつの間に、紛れ込んだ」
――見抜かれた。
千年、誰にも気づかれなかったものを。獣王様も、冥王様も見抜けなかったものを。ただ一瞥で。
消される。
そう思った。この方にとって、僕は紛れ込んだ異物だ。この世界の理に収まらない、混じり物だ。冥王様をあっさり塵に還したその指先が、ほんの少し動くだけで、僕など跡形もなく消える。
逃げられない。逃げる場所など、どこにもない。
腕の中で、三日月さんの体が、かすかに強張ったのが分かった。
金色の瞳が、僕から、腕の中の三日月さんへと流れた。それから、また、僕に戻った。
長い、長い一瞬だった。
やがて、金色の魔王は、それきり何も言わずに、僕から視線を外した。
――え。
それだけ、だった。
咎める言葉も、裁く言葉もなかった。指一本、動かなかった。まるで、少し珍しいものを見かけて、それで興味を失ったかのように。
僕は、三日月さんの体を抱いたまま、しばらく息もできずにいた。
なぜ、見逃されたのか。分からなかった。全ての母の考えることなど、僕に分かるはずもなかった。
腕の中で、三日月さんが、ほうっと息をついた。
やがて、遠くから、何かが聞こえてきた。
街の方からだった。
ざわめき、ではなかった。もっと静かな音。風が吹き抜けていくような。長い、長い溜め息のような。
窓の外で、光の粒が舞い上がっていくのが見えた。
一つ、また一つ。数えきれないほど。白く、淡く、空へと昇っていく。
サイラーグの人々だった。
冥王様の呪縛が解けたのだ。無理やり起こされ、笑うことを強いられていた死者たちの魂が、ようやく還るべき場所へ還っていく。
あのパン屋の女性も、きっとその中にいるのだろう。今度こそ、泣かずに。
頭上で、硬い音がした。
ガウリイさんを閉じ込めていた水晶に、ひびが走っていた。ひびは瞬く間に全体へ広がり、水晶は光の破片になって砕け散った。
ガウリイさんの体が、ゆっくりと降りてくる。床に足がついた瞬間、その目が開いた。
「……ん? あれ?」
ガウリイさんは、ぼんやりと周りを見回した。
「ここ、どこだ? 俺、何してたんだっけ……」
倒れているアメリアさんとゼルガディスさん。両腕を失い、僕の胸にもたれかかる三日月さん。
そして、金色に輝く、リナさんの姿をしたもの。
「ゼロス? おい、何がどうなってるんだ?」
「……冥王様に、攫われていたんですよ」
声を絞り出すのに、ひどく苦労した。金色の魔王の前で、口を開くことさえ恐ろしかった。
「リナさんが、ガウリイさんを助けるために、重破斬を唱えました。冥王様は、それを暴走させようとして……そして、あの方が現れて、冥王様を滅ぼしたんです」
「あの方?」
ガウリイさんの目が、金色の魔王に向いた。
しばらく、じっと見つめていた。
「……リナ、じゃないよな」
さすがだ、と思った。理屈ではなく、本能で分かるのだ。この人は。
「お前、誰だ」
金色の魔王が、ガウリイさんを見た。
「我は混沌。金色の魔王。全てのものの母」
静かな声だった。
「この身の娘が願った。己の全てを捧げてもよい、お前を救ってくれと。ゆえに、我はその願いに応えた」
ガウリイさんの顔色が、変わった。
「……なんだよ、それ」
拳が、震えていた。
「そんなの、俺は望んでない! リナはどこだ! リナを返せ!!」
「リナという名の娘ならば、既に我が混沌の内にある」
「そんなの知るか!!」
ガウリイさんが、叫んだ。
金色の魔王を前にして。全ての母を前にして。魔族の僕が膝をつき、冥王様が塵になって消えた、その存在を前にして。
一歩も、退かずに。
「返せよ! リナを、返せ!!」
金色の魔王は、答えなかった。
ただ、静かに背を向けた。
リナさんの体ごと、その輪郭が淡くなり始める。空間に、裂け目が開いた。その向こうに、色のない、果てのない何かが広がっていた。
混沌へ、還ろうとしているのだ。
リナさんを、連れたまま。
「待て!!」
ガウリイさんが、走り出した。
「ガウリイさん!」
思わず、叫んでいた。
あそこへ踏み込めば、人の身では二度と戻れない。誰でも分かることだった。
ガウリイさんは、振り返らなかった。
金色の背中を追って、裂け目へ飛び込んでいった。
二人の姿が、虚空へと溶けていく。
金色の光と、金色の髪が、重なって、遠ざかって。
やがて、裂け目が閉じた。
*
広間に、静けさが戻った。
僕は、膝をついたまま、何もなくなった空間を見つめていた。
全身が、まだ震えていた。金色の魔王の気配の残滓が、存在の芯にこびりついて離れない。
筋書き通りなら。
ガウリイさんは、リナさんを連れて戻ってくる。金色の魔王は、二人を還してくれる。僕は、それを知っている。
知っているはずなのに、今は、それを信じることさえ恐ろしかった。
筋書きは、もう何度も狂っている。三日月さんがこの世界に落ちてきた夜から、ずっと。
本当に、二人は戻ってくるのだろうか。
手の中で、三日月さんの本体が、かすかに温もりを帯びていた。
僕は、その鞘を、そっと握り直した。
冥王様は、もういない。
僕の奥にあるものを覗き込もうとした、あの目は、もうどこにもない。ガーヴと同じように。僕の秘密に指先をかけた方々は、二人とも、何も言い残せないまま消えてしまった。
安堵してよいのか、分からなかった。
ただ、腕の中の温もりだけが、確かだった。