獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
裂け目が閉じた後の広間は、ひどく広く感じられた。
玉座は、空だった。頭上の水晶は砕け、床にはその欠片が、光を失って散らばっている。窓の外では、まだ白い光の粒が、ゆっくりと空へ昇っていた。
リナも、ガウリイも、いない。
俺は、ゼロスの胸にもたれたまま、何もない虚空を見つめていた。
「――三日月さん」
頭の上で、声がした。
「手入れを、始めます」
見上げると、俺の膝の上に、本体が横たえられていた。肩越しに伸びたゼロスの手が、その上にかざされている。鞘から抜かれた刀身が、薄暗い広間の中で鈍く光っている。
刃こぼれどころではなかった。
刀身の中ほどに、細いひびが走っていた。両腕を失ったのと同じだけの傷が、本体にも刻まれている。あと少し、何かが加われば、折れていただろう。
「このままでは、本当に折れてしまいますから」
ゼロスは、いつものように笑っていた。
顔色が、ひどく悪かった。ガーヴに削られた傷も、冥王の一撃を受け止めた傷も、何一つ癒えていないのだろう。神官服はあちこちが裂け、輪郭が時折、ぼやけるように揺らいでいた。
それでも、手のひらに温もりを集め始めていた。
山小屋の夜より、ずっと早かった。もう、やり方を覚えたのだ。
温かな光が、刀身のひびへと流れ込んでいく。
*
俺は、また虚空を見ていた。
リナは、どうしているだろう。
己の全てを差し出してでも、と願ったのだと、あの金色のものは言った。その願いに応えて、リナは混沌の中へ連れていかれた。
ガウリイは、それを追って飛び込んでいった。
人の身で、あの果てのない場所へ。
戻ってこられるのだろうか。
あの金色のものは、それを決めるのは己ではないと言った。では、誰が決めるのか。ガウリイか。リナか。それとも。
「大丈夫ですよ」
ゼロスの声がした。
刀身から目を離さないまま、ゼロスは言った。
「お二人は、無事に帰ってきますよ」
「……そうか」
「ええ。ガウリイさんは、ああ見えて、リナさんのこととなると誰より諦めの悪い方ですから。リナさんの方も、混沌の中で大人しくしているような方じゃありません。きっと、今頃あちらで盛大に喧嘩でもしているんじゃないですかね」
軽い口調だった。いつもの、少し人を食ったような。
「アメリアさんとゼルガディスさんも、さっき見てきました。今すぐ命に関わるような深い傷はありません。ただ、手入れが終わるまでは、少し眠っていてもらうことにしました。手入れのことは、お二人にも知られない方がいいですから」
「……そうか」
「ですから、三日月さんは何も心配せず、手入れを受けていてください」
ゼロスは、笑った。
俺は、その顔を見上げていた。
*
分かってしまった。
この男は、強がっている。
声は、軽かった。口調も、いつも通りだった。笑顔も、崩れていなかった。
だが、その目が時折、虚空の一点へ流れるのだ。リナとガウリイが消えた、あの場所へ。ほんの一瞬だけ。それから、慌てたように、俺の本体へ戻ってくる。
霊力を流す手が、かすかに震えていた。疲れのせいだけではないだろう。
この男も、不安なのだ。
いや、不安などという生易しいものではないのかもしれない。冥王の前に飛び出したときの顔を、俺は見ていた。あの金色のものに見つめられたとき、この男の体が凍りついたのを、腕の中で感じていた。
それでも、こうして笑っている。
俺が、不安にならないように。
大丈夫です、と。無事に帰ってきます、と。何度も、何度も、言い聞かせるように。
それは、俺に向けた言葉であると同時に、己に向けた言葉でもあるのだろう。
刀身のひびが、少しずつ、温かな光の中で閉じていく。
手入れをしながら、俺を元気づけて。己の不安を押し殺して。疲れ切った体で、それでも手を止めずに。
不器用な男だ、と思った。
魔族だという。冥王の手先だったという。千年、命じられるままに多くを奪ってきたのだと、この男は己を責めていた。
己の意に添わないことでも、命じられれば、黙ってやる。やりたくないと、顔に書いてあるのに。そして、魔族だからと、俺たちの前で、いつも一歩、線を引いて立っている。
だが、今ここにいるのは、震える手で刀を直しながら、懸命に笑ってみせる一人の者だった。
彼なりに、必死なのだ。
*
肩のあたりに、かすかな感覚が戻ってきた。
まだ、腕はない。けれど、失ったはずの場所に、何かが通い始めている。本体のひびが閉じるにつれて、人の身もまた、少しずつ形を取り戻そうとしているのだろう。
本丸の主のことを、ふと思った。
汝の主は、汝を忘れてはおらぬ、と。あの金色のものは言った。
いつか、還る日が来るのだろう。あの庭へ。主のもとへ。
そのとき、この男は。
考えかけて、やめた。今は、その時ではない。
「ゼロス」
「はい?」
言いたいことは、いくつもあった。
無理をするな、と。おぬしこそ休め、と。強がらずともよい、と。
だが、それを言えば、この男が懸命に張っている何かを崩してしまう気がした。
だから、別のことを言った。
「そうだな。信じて、待とう」
ゼロスの手が、一瞬だけ止まった。
「……ええ」
小さな声だった。
「待ちましょう。一緒に」
俺は、ゼロスの胸に、少しだけ深くもたれかかった。
腕がないから、それくらいしかできなかった。それでも、伝わればよいと思った。おぬしは、一人で待っているのではない、と。
ゼロスの体が、かすかに強張って、それから、ゆっくりとほどけていった。
刀身の上を、温かな光が流れていく。
広間の向こうで、アメリアが小さく呻く声がした。窓の外では、最後の光の粒が、空の青に溶けていくところだった。
俺たちは、何もない虚空を見つめながら、静かに待っていた。
*
最後のひびが、光の中で閉じた。
刀身から、温もりがすっと引いていく。後に残ったのは、一点の曇りもない刃だった。
同時に、肩の先に、確かな重みが戻ってきた。
腕だった。
右も、左も。指の先まで。握って、開いてみる。思う通りに動いた。痛みもない。狩衣の袖も、染みついていた血も、何事もなかったかのように元に戻っていた。
「……うむ。すっかり、元通りだ」
調子がよかった。山小屋の朝と同じだ。いや、それ以上かもしれない。
「よかった……」
頭の上で、ほっとしたような声がした。
それから、ずるりと何かが傾いた。
「ゼロス?」
振り返ると、ゼロスの体が、床に崩れ落ちるところだった。
慌てて、戻ったばかりの腕で受け止めた。
軽かった。
顔は真っ白で、目の焦点が合っていなかった。輪郭が、さっきよりもずっと危うく揺らいでいる。俺の膝の上の本体から、手を離さずにいたのが、不思議なくらいだった。
「……あはは。すみません、ちょっと……力が、入らなくて」
「無理をしおって」
俺は、ゼロスの上半身を抱き起こして、自分の胸にもたれかからせた。
さっきとは、逆だった。
「……三日月さん、腕が戻ったばかりなのに」
「戻ったばかりの腕だからこそ、使うのだ。おぬしが直してくれた腕だぞ」
ゼロスは、何か言い返そうとして、結局何も言わずに目を閉じた。
*
ほとんど、その直後だった。
「……ん……」
広間の向こうで、アメリアが身じろいだ。少し離れた場所で、ゼルガディスも呻いて、肘をついて身を起こそうとしていた。
手入れが終わるのを、待っていたかのような目覚めだった。
俺は、腕の中のゼロスを見下ろした。目を閉じたまま、何食わぬ顔をしている。
手入れの間は眠っていてもらうと、この男は言っていた。術が解ける頃合いを、手入れの終わりに合わせていたのだろう。抜かりのないことだ。
「三日月さん……?」
アメリアが、ふらふらと起き上がった。額に大きな痣ができていた。ゼルガディスも、壁に手をついてどうにか立ち上がる。二人とも、ひどい有様だった。
それでも、ゼロスの言った通り、命に別状はないようだった。
「……待て」
ゼルガディスが、低く言った。
その目が、俺の腕の中のゼロスを射抜いていた。
「そいつは、冥王の手先だったんだろう。カタートで、冥王がはっきりそう言った。リナをここまで連れてきたのも、そいつだ」
ゼルガディスの手が、剣の柄にかかった。
「なぜ、そんな奴がここにいる。なぜ、三日月がそいつを抱えている」
殺気、とまではいかない。それでも、明らかな敵意だった。
無理もない、と思った。この男の立場からすれば、当然の疑いだ。
だが。
「下がれ、ゼルガディス」
俺は、静かに言った。
ゼルガディスの目が、俺に向いた。
「この男は、命を懸けて俺を助けてくれた。冥王の前に飛び出して、止めの一撃を受け止めた。それだけは、確かだ」
「……何だと」
「信じられんなら、それでもよい。だが、この場は収めてくれ。頼む」
ゼルガディスは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、舌打ちを一つして、剣の柄から手を離した。
「……お前がそう言うなら、今は引いてやる」
「すまんな」
「ゼロスさんが……三日月さんを、助けた……?」
アメリアが、目を丸くして呟いた。
信じられない、という顔だった。いや、顔だけではない。全身で、信じられないと言っていた。ゼルガディスも、引きはしたものの、胡散臭いものを見る目を少しも緩めていなかった。
これが、日頃の行いというやつか。
胸の内で、小さく嘆息した。
「いやあ」
腕の中から、間延びした声がした。
「たまたま、そうなっただけですよ。成り行きです、成り行き」
目を閉じたまま、ゼロスはへらへらと笑っていた。
「……おぬしな」
全く、困ったものだ。
命懸けで飛び出しておいて。己の立場を危うくしておいて。一晩かけて、震える手で刀を直しておいて。それを、たまたまの一言で片付けようとする。
この男は褒められることにも、感謝されることにも、まるで慣れていないのだ。
「ほら、やっぱり成り行きじゃないですか」
「ふん。そんなところだろうと思った」
アメリアとゼルガディスが、妙に納得したように頷いていた。
俺は、もう一度、深々と嘆息した。
それから、アメリアが、はっと我に返ったように顔を上げた。
「冥王は……リナさんは、ガウリイさんは……!」
「どうなった。何があった」
俺は、ゼロスと交互に答えた。ゼロスはまだ起き上がれなかったが、口だけは達者だった。
リナが重破斬を唱えたこと。冥王がそれを暴走させたこと。金色の魔王が現れ、冥王を滅ぼしたこと。サイラーグの人々が解放されたこと。ガウリイが目覚め、リナを追って混沌へ飛び込んでいったこと。
ただ、手入れのことだけは、口にしなかった。俺の腕のことも。山小屋で、ゼロスと交わした約束だ。二人は俺の腕が飛んだところを見ていない。冥王にひどく痛めつけられた、とだけ伝えた。
二人は、言葉もなく聞いていた。
*
それから、アメリアとゼルガディスの手当てをした。
アメリアが、ふらつきながらも己とゼルガディスに治癒(リカバリィ)をかけた。俺の体には効かなかった術も、人の身にはよく効くらしい。俺は、裂いた布で二人の傷を縛るのを手伝った。戻ったばかりの手で。
手当てが終わると、俺たちは、広間の中央に集まった。
リナとガウリイが消えた、あの虚空の前に。
誰も、何も言わなかった。言わなくても、皆、同じことを考えていた。
俺は、太刀を膝に置いた。直してもらったばかりの、己の本体を。
隣で、ゼロスが、天井を見上げていた。
俺は、黙って、その隣に座り続けた。
待とう。
皆で。