獣神官ゼロスに転生した元とうらぶプレイヤーですが、なぜか三日月宗近が落ちてきました【第一章】 作:半熟ハラミ丼
扉の向こうは、上も下もない場所だった。
足元に道がある。淡く光る、細い一本の道だ。その両側には、何もなかった。闇とも霧ともつかない灰色が、どこまでも果てしなく広がっている。見上げても、見下ろしても、同じ灰色があるだけだった。
「……何よ、ここ」
リナさんが、思わず足を止めた。
「亜空間だ」
先を行くミルガズィアさんが、振り返らずに答えた。
「異界黙示録は、通常の空間には存在しない。この道は、そこへ至るために我らが維持しているものだ」
「へえ……」
「一つ、言っておく」
ミルガズィアさんの声が、低くなった。
「決して、私から離れるな。ここで逸れれば、二度と合流はできん」
リナさんの顔が、わずかに強張った。
「二度とって……大げさじゃない?」
「大げさではない。私とて、知っているのは行きと帰りの道だけだ。それ以外の場所がどうなっているのか、どこへ通じているのか、誰も知らん。一歩踏み外せば、それきりだ」
ミルガズィアさんは、ちらりと僕を見た。
「……もっとも、そこの獣神官なら、そんなこともないのかもしれんがな」
含みのある言い方だった。
リナさんが、じとっとした目で僕を見る。
「そうなの?」
僕は、答えなかった。
聞こえていなかったのだ。
*
三日月さんは、今どうしているだろう。
扉の向こうに残してきた、あの洞窟。アメリアさんがいて、ガウリイさんがいて、ゼルガディスさんがいる。そして、道案内の子供がいる。
冥王様は、何かしていないだろうか。
表立っては動かないはずだ。それは分かっている。けれど、あのお方の「表立って」の範囲が、どこまでなのか。
退屈しのぎに、少し話しかけるくらいなら。少しからかうくらいなら。少し、試してみるくらいなら。
あの人は、気づいている。気づいていて、それでも穏やかに笑っている。冥王様の目の前で、子供の手から太刀を遠ざけてみせた人だ。
もし、あのお方がそれを面白がって、もう一歩踏み込んだら。
もし、あの人がそれに、あの冴えた月の目で応えてしまったら。
――そうなったら、僕はどうするつもりなのだろう。
「ゼロス」
止められるわけがない。それは分かっている。分かっているのに、さっきから同じところをぐるぐると回っている。
「ゼロスってば」
「……はい?」
顔を上げると、リナさんが腰に手を当てて僕を睨んでいた。
「はい、じゃないわよ。さっきから何回呼んだと思ってんの」
「おや、呼ばれてましたか」
「呼んでたわよ! ミルガズィアさんの話も聞いてなかったでしょ、あんた」
「いやあ、聞いていましたよ。逸れたら二度と会えない、でしたっけ」
「その後よ!」
リナさんは、大きく溜め息をついた。
「護衛だなんだって偉そうに言ってたくせに、さっきからずーっとぼーっとして。あんたらしくないわよ。何考えてんの?」
「ひどいなあ。僕だって、こう見えて色々と考えることがあって忙しいんですよ」
「その色々が胡散臭いって言ってんの」
「それは秘密です」
「出たわね、それ」
リナさんは、呆れたように肩をすくめた。それ以上は追及せず、またミルガズィアさんの背中を追って歩き出す。
ミルガズィアさんは、黙って前を見ていた。けれど、その背中が、どこか怪訝そうに見えた。
*
僕は、二人から半歩遅れて歩いた。
らしくない。
リナさんの言葉が、耳に残っていた。
その通りだった。仕事の最中に、上の空になる。これまで、一度もなかったことだ。命令を受ければ、それだけを考えた。余計なことは考えなかった。考える必要がなかった。
それが今は、ここにいない人のことばかり考えている。
――どうして、こんなに気になるのだろう。
前の私が、知っている人だから。画面の向こうで毎日眺めていた刀だから。その感傷に、引きずられているだけだ。冥界での報告のあと、そう結論づけたはずだった。
けれど、感傷にしては、少し度が過ぎている。
このままでは、まずい。
仕事に支障が出る。冥王様のご命令は、リナさんを導くこと。今まさに、その要のところにいる。ここでしくじれば、筋書きそのものが狂う。それは、あの人にとっても良くないはずだ。
魔族として、獣神官として、もっと割り切らなければ。あの人は、たまたまこの世界に迷い込んできた異物にすぎない。監視対象の一人にすぎない。
そう、言い聞かせた。
言い聞かせて、背筋を伸ばして、笑顔を作り直した。
それなのに。
胸の奥の、ざわざわとした落ち着かなさは、少しも消えてくれなかった。
この先、リナさんたちが、冥王様にどこまで追い詰められるのかも、僕は知っている。
それについては、何も感じなかった。書かれていることだからだ。
なのに。
今この瞬間も、扉の向こうで、あの人が何をしているのか。あの子供の目が、どこを見ているのか。それを思うだけで、足取りが重くなる。
考えるのをやめよう、と思った。いつもそうしてきたように。
けれど今度ばかりは、うまくいかなかった。
*
「着いたぞ」
ミルガズィアさんの声で、我に返った。
光の道が、途切れていた。
その先に、空間が開けていた。
灰色の果てしない虚無の中に、そこだけぽっかりと、静かな光が満ちている。澄んだ水の底を覗き込んだときのような、冷たく、深く、どこまでも透き通った光だった。
空気が違った。重いのに、澄んでいる。古いのに、今も息づいている。何かとてつもなく大きなものが、ここで長い長い眠りについている。そんな気配がした。
リナさんが、息を呑む音が聞こえた。
「……ここが」
「そうだ」
ミルガズィアさんが、静かに頷いた。
「ここに、異界黙示録が在る」
筋書き通りの場所だった。
僕が何度も頁の上で読んだ、物語の要。リナさんが真実に触れ、この先のすべてが動き出す場所。
僕は、ここで仕事をしなければならない。
分かっている。
分かっているのに、僕の意識の片隅は、まだ扉の向こうに置き去りにされたままだった。