「クルマが仕上がったわ。いつ取りに来れそう?」
待ち侘びた連絡ーー。
遂に、走る為だけのクルマが来るのだ。
日程を決め、返答をする。
祥子の表情に隠しきれない愉しみが浮かぶ。
クルマを発注して以来、祥子は首都高へ通うのを一時中断していた。熱に浮かされ、深く考えず500万円もの大金を躊躇なくクルマに突っ込んで、一時は反省したものの、まだ知らぬ走る為のクルマを手にした後のことを考えて祥子は可能な限り、タスクの先取りを進めた。
「祥……楽しそう……だね」
バンドメンバーの若葉睦がどこか嬉しそうな表情の祥子を見て、微笑みながら祥子に問いかける。
「ええ、ちょっとした楽しみをわたくしも作ったのです」
ちょっとした楽しみ、とは言うものの500万円を掛ける楽しみをちょっと、とは言えない。そんな自覚がありながらも、祥子は冷静に返答する。
「楽しみは、大事だと思うから」
「ありがとう……睦」
余計な詮索がないのが祥子にとってとてもありがたいもののように感じた。
しばらく、首都高へ行っていない。海鈴は、自分が行っていない間も、きっと通い詰めているような気がする。
遅れを、取り戻したいーー。
ただ、果たして、睦が言うような楽しみ、なのだろうか。どこかに、後ろめたさと苦しみがあって、積み上げたものを崩しかねないような行為。それでも、ステージの外でも、いつもステージで舞うような感覚を、あのアスファルトのメリーゴーランドは想起させてくれる。
シートに座りながら、己の身で、己を纏う鋼鉄の分身へ意思を伝える。やっている事は同じ場所をぐるぐる回り続けるだけ。
もっと速くーー軽やかに。優雅に。そして荒々しく。
ようやく、引き取りの日。
雛は自身のガレージで、たまった作業をAve mujicaを作業BGMにし進めていた。
祥子のクルマを手がけていたおかげで、通常業務の流れが少し悪くなっていた。仕上がりと同時に、レミリアも帰っていった。
それでも、かつての旧知の仲と仕事をしたり他愛のない話をしたりするきっかけを、祥子のクルマを通じ持ってきてくれたのだから、雛はこの作られた忙しさに少しも嫌な気持ちはしていなかった。
引き取り初日は、雛が同乗した上で引き渡す事にしてある。今まで、祥子が乗っていたクルマからすると、全く質の違うものを渡すのだ。同乗し、じっくりまずは慣れてもらう。
それは、祥子も了承の上だ。
「しかし、まあ祥子ちゃんたち、見た目と違ってハードな楽曲作るよなあ」
作業を進め、BGMにしている楽曲の感想を漏らす。ゴシックの世界観に、メタルを彷彿とさせる激しいサウンドと、確かな存在感、演技力のあるヴォーカルがAve mujicaの作風なのだ。その世界観を作り上げた彼女が、なんの因果か、ひょんな出会いから、激しさを秘めるチューンドカーを手にするとは。
キーボードを巧みに操り、くるりと舞いながら、弾き続ける。豊川祥子自身のライブパフォーマンスを雛は観客として見たことがある。
アレができるのなら、ずば抜けたセンスはあるだろう。
祥子自身が、ロールアウトさせる瞬間が雛の楽しみであった。
ーー作業はそこそこに、事務所でたまった書類仕事をしてるうちに、時刻は0時を過ぎた。もうすぐで、依頼主が姿を現すだろうと、雛は紅茶を淹れる準備をする。
それから、数分もしないうちに、事務所の扉がノックのあと開かれる。
「こんばんは、鍵山さん。引き取りに伺いましたわ」
表情は柔らかく笑っていた。
よほど、楽しみだったのだろう。雛は紅茶を淹れ、祥子へ席に掛けるよう進め、祥子はそれに応じる。
まるで、医師が説明するかのように、今回どんな事をしたか、それによる結果はどうかを雛が説明し、祥子はそれを聞く。ETC再セットアップや車検証の名義変更、車庫証明も滞りなく済んだので、そのあたりの書類についても説明、引き渡しをする。
「行きましょうか」
「ええ。よろしくお願いします」
夜の電灯の明かりに、無垢な白。
ブリリアントホワイトパールの光沢ある車体に、控えめなエアロキットが大柄ながらも引き締まった印象を与える。車高は程よく下げられ、地を這うようなスタイリングにも、どこか気品を漂わせる。後部には、後付のウイングが取り付けられ、それがレーシングカーのような雰囲気をもたらす。
「これは、何というクルマですの?」
「ニッサンのフェアレディZってクルマ。年代的には祥子ちゃんのレクサスと近い年代のクルマかな〜」
ニッサン、フェアレディZ。現行モデルが出る前は、最終型とされたニッサンが誇るスポーツモデル。スカイラインやGT-Rと言ったニッサンの代名詞に連ねる純然たるスポーツカーである。Z33から大排気量NAスポーツとしての歩みを進み、熟成をさらに進めたのがこのZ34である。
初めて自身が所有するスポーツカーに、祥子は鼓動が早まるのを感じる。
受け取ったキーレスで解錠し、優しくドアハンドルを引き、ドアを開く。そうして、レクサスよりもさらに低いシートへと身を委ねる。
まるで籠のようなシート。スライド機能でドライビングポジションを合わせ、ブレーキペダルを右足で押し込む。
スタートボタンを押し込むと、やや忙しないモーター音が約1秒か満たないくらいの後、エンジンが立ち上がる。
ああ、コレがスポーツカーなのか……。
祥子は何か自身の中で震えるものを感じていたーー。