祥子と海鈴が自粛や走るペースを落としたのと入れ替えのように初華はMR2にはまり込んでいく。
空き時間を見つけては、乗るようにして、とにかくクルマとの会話を初華なりに重ねられるように過ごす。2週間ほどそんな生活をし、ようやく街乗りくらいなら違和感なくこなせるようになってきた。
「そういえば、最近あまりエンストしなくなったような……」
重たい強化クラッチにも慣れ、チューンドカー特有の難しい半クラッチ動作も感覚が掴めてきた。
何よりも、初華は安心感を感じられる運転席に収まる事が好きになっていた。
祥子からすれば、初華が以前より家を空けるようになり、祥子に留守を任せる事も増えていたが、初華の雰囲気の変化を感じ取り詮索はしないでおく事にしていた。
きっと、初華にも何か新しい趣味が見つかったのかもしれない。以前よりも柔らかな雰囲気でいる時間が増えたように感じる。それに、祥子からすれば、以前よりも回数の限られたアタックの完成度を高める事のほうが優先順位が高かったから。
祥子はまだ、知らない。初華までもが、走る事を求め出した事をーー。
「お疲れ様でした」
礼儀正しく、初華は仕事を終えた後の挨拶をすると、家路を急ぐことにした。タクシーを捕まえ、自宅へクルマの鍵を取り、変装をしてから、駐車場へ向かう。納車されてから新しいルーティンが生まれ、それに適応してきた自分にどこかおかしさを感じてしまう。
「そう言えば、海鈴ちゃんと渡ったレインボーブリッジ、もう一回渡ってみたいな」
もう怖気付くことがなくなったエキゾーストノートを響かせる車内の中で目的地を定める。仕事が遅くなってくれた事がありがたくもあった。流石に東京都内と言えど夜間は交通量はグッと減る。
自分の意思で、行きたい場所へ行ける事がこれほど楽しいことだとは思わなかった。
最近、運転をしながらそんな事を感じ始めている。競技用車両である事は分かっているけれど、その力を見ることがまだ怖かった初華は、控えめに。優しい運転を続けていた。
ーー三角初華にも、二面性があるように。初華の可愛がっているMR2も二面性がある事を思い知る出来事までは。
記憶とスマホのナビに従い、初華のMR2が初めて首都高入りしていく。都心環状から台場線へ向けて。
「止まらなくても入れるって便利だなあ」
初めて自身のクルマでETCゲートを潜り抜けた初華は思わず感想を漏らしてしまう。普段、タクシーなど後部座席に座り、他者の運動による移動が多い彼女からすれば新鮮な経験。
不慣れな初華が今のところ使っている常用回転数は2000〜3000回転で、この領域では自身が買った車両の特異さの片鱗すら感じられない。それでも、元の力があるので、普通に走る分なら特に苦労は感じられなかった。
ナビに従い、分岐をそろりと選んでは進み、都心環状から箱崎線JCT、9号深川線、辰巳JCTへと順調に駒を進める。
「へえ、これが首都高、か……」
自分がクルマを持っていなかった時はただの高速道路にしか見えなかった。自分のクルマで走って見ると住みなれたはずの東京の新しい顔に触れた気がして、ほんの少しだけ心がおどるような気持ちになれる。
「さきちゃんも、海鈴ちゃんも、ここを走ってるんだよね……」
そう呟きながらも、幅員の広い湾岸線に出ると、照明でライトアップされた道路や脇を流れる工業地帯の景色も運転席から眺めると綺麗なもののように見えてくる。
しばしの見晴らしの良い道路の湾岸線の雰囲気を楽しみ、有明JCTの標識を視認した初華は11号台場線方面へと合流していく。
登りのコーナーを立ち上がっていくと、レインボーブリッジが見える。海鈴の助手席で眺めた時とは違って、近くで見るレインボーブリッジの入り口はどこか威圧感があった。それでも、普段の仕事の行動範囲内の中で自分の知らない場所がある事を確認できる時間がとても新しいもののように感じられる。
ーー知っているけれど、知らない。
そんな感覚。
マイペースに走行車線を走り続ける初華の耳に、瞳から見えるミラーに、何か感じた事のない「重圧」を感じる。
甲高い音と共に、あっという間にソレは近づくと矢のような白い残像を残し、レインボーブリッジのはるか彼方へと消えてゆくーー。
「私、100km/h出してるはずなんだけどな……」
……踏み込め。
頭の中に、何処からか声が響くような気がして、誰から教わるわけでもなく、3速へシフトダウンののち、初華は何かに導かれるようにアクセルを踏み込んでみる。
デチューンの出力ダウンがいくら施されたとは言えども。初華の背後に眠るエンジンは、早く走る為だけに作られたエンジンでーー。
シフトダウン後のクラッチミートでエンジン回転数を表すタコメーターが跳ねたかと思うと、初華が今まで聞いてきた自分のクルマとかけ離れた音へと変わっていく。4500回転を超えたあたりから、シートに身体が縫い付けられる感覚を覚えて、一瞬、時が止まるような感覚に苛まれる。思わず、ステアリングホイールを握る手に力が入り、無意識に歯を食いしばった。
速度計が今まで見たことない早さで速度を刻み、タービンの立ち上がった後のタコメーターはエンジンの音が完全に変わるほどの音の変化を知らせる。
約7000回転、速度計が150km/hを過ぎた頃、初華は正気を取り戻し、アクセルペダルから足を離す。アクセルペダルを離された車体はやや強めの抵抗を初華の身体に伝えるが、スムーズに減速していき、それもまた速度計へと伝えられた。
「……今のは……一体……?」
白い残像を見てから、導かれるようにアクセルを踏んだ自身にまるで夢遊病のような感覚に陥る。足が震えている事に気付く。
そして、無機物だとばかり思っていたクルマの叫びは、初華が人形として上がるステージでのヴォーカルの叫びにどこか似ているように、感じてしまった。
「……ドロリス。我、悲しみを恐れること、なかれ」
「ボクは、本当にとんでもないものを掴んでしまったかもしれない……」
気付けば、初華は笑っていた。
「ああ……君も悲しみを抱えているのかもしれないね」
速度を落とし、先程の怪物のような何かが収まった車内の中で、脳天を殴られたような先程の衝撃でよく演じているステージ人格のドロリスを無意識のうちに演じ始めてしまう。
怖いけれど、この血肉が湧き立つような感覚は、なんだろう、と。
「先ほど、抜いたあの赤いクルマ……」
C1内回り方面へ、走り去る祥子は、確かにそれらしいクルマがじわりと増えている事実を目の当たりにした気がして、眼前の出来事を想起する。
走り込みを重ね、フェアレディとの意思疎通の具合がだいぶ良くなった祥子は、C1以外にも少しずつフィールドを広げ始めた。
辰巳から有明、レインボーブリッジという踏める場所で、この新たな衣装の速さと安定性を感じ取ることができたが、何か、引っかかるものも感じるような光景だったのも事実なのだ。
ーー鋼鉄のメリーゴーランド。狂気の遊園地。
舞踏会は続く……。