結局、祥子はあの日見た景色が忘れられず、雛から渡された名刺の元へと向かっていた。色々と現実感のない出来事だった。行けば、何かが分かるような、そんな気がしてーー。
「あの子、くるかなあ。どうかな〜」
雛は呟きながら、誰もいない事務所で一人呟く。10年前の成れの果てをいまだに営み続けているだけなのだが、それにしても、この狂った世界に一定数魅せられてしまうのは今だに居るんだなあ、と感慨深く思い出す。
何をどう間違えたら、自動車のチューナーになるのか雛自身も未だにわからなかったが、それでもまあ弾幕ごっこに似た空気を持つこの世界から抜け出せずにいた。
何よりも人間が、技術の果てに生き物のような乗り物を作り出すことが彼女にとっては不思議でとても魅力的なもののように見えた。されど、今時、彼女の水準でクルマを仕上げるモノなどごく少数なのだ。少なくとも、雛の相棒は公道を走って良いようなシロモノではない。
「まあ、今の時代。わざわざダークサイドに堕ちなくても、色々な遊びできるもんね〜。はあ」
なかば、自由研究のように、続けてきたチューンと整備のお店。雛一人でこっそり続けてきたお店。とはいえ、仕事に困らないくらいの台数は確保できている。昔の湾岸ランナーだった時の噂は未だに生きているから。
休憩を切り上げ、作業に戻る。明日納車予定の車検整備の続きをする為だ。タイヤホイールをハブに取り付け、ホイールナットをインパクトレンチで締め、リフトを下ろし、タイヤを地面に接地させ、トルクレンチで規定の力で締め付ける。もう、幾度となく、繰り返してきた行為。
「……よし、っと」
明日の検査は大丈夫そう、仕上げた車両を目視確認すると、雛はリフトを完全に下ろし、車体を支えるアームを避け、ガレージから車両を移動させる。
「……ごめんください。誰かおりませんの?」
来訪者を確認すると、雛は車両から降り、少し急ぎ気味の足取りで向かう。
「あ、来てくれたんだ。ようこそ」
祥子の目の前に、あの夜に出会った緑髪の少女が現れる。
「立ち話も難だし、お暇ならどうぞ」
そう言って、彼女は来訪者を招くのだった。
ーー事務所。
「驚きましたわ。まさかちゃんとしたお店だったとは」
出された紅茶を一口、口を付けてから祥子はそう呟く。
「なんの気まぐれか、もう10年以上になるからね〜。わざわざ来てくれてありがとう。それで、来てみた理由って」
ニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべながら、少女は問う。
「実は、わたくしの車を面倒見てくださる方が欲しいのです。わたくし自身の知名度もありますし、あの車を作った貴方なら、と思いまして。……それに、後ろめたい行為の姿も見られてしまいましたし……」
「ふふっ。なるほどね。お客さんってことかな?でも、祥子ちゃんの乗ってるクルマだと、リミッターカットまでは面倒みきれないよ?あれは、どのお店も耐久性や安全性の面で投げてるシステムだから」
「い、いきなりそこまでとは申しませんわ。ただ、貴方を信頼して、もう少し、楽しめるものに仕立てて欲しいのです」
途端に、水色の髪の少女の雰囲気が柔らかなものから、どこか緊張感を漂うものへと変貌する。それは、何かを渇望しているような表情にも見える。
「わかった。じゃあ、代車を貸すから、預かっても良いかな?まずは診断してみないとね」
「ええ。お願いします。見積もりは後日で構いません」
その言葉を合図に、なんの意図もなく、今度は雛が問う。
「アナタは、なぜ走ってるの?こんなネット全盛の壁に耳あり障子に目ありみたいな世情で」
「わたくしにも、忘れたいことなど沢山ありますの。何となしに、アクセルを踏みちぎる瞬間だけは何も考えなくて良い。バンドのことも、面倒な業界のことも」
「なるほど……ま、お悩みいっぱいなのは、みんなそっか。しかし、まあ、見た目や雰囲気と違って意外とハメを外すタイプなんだね、祥子ちゃん」
実のところ、祥子も自分自身ではよくわかっていなかった。あの車を手に入れて、何となしに空き時間走り回るうちに、自動車という匿名性に気付いたのもあるが。
「貴方こそ、その見た目と腕なら、こんなにこそこそと商いをする必要ないのでは?今ならば、インターネットやSNSだってありますのよ」
売り言葉に買い言葉と言った様子で、祥子は疑問をぶつけてみる。
「う〜ん、あまり有名になってめんどくさくなったら、せっかくのダークサイドがつまらなくなっちゃうのもあるしなあ。もちろん、ダークサイドが良いわけじゃないけど、少なくとも、まあ、今の世のダークサイドよりかはマシな気もするし。むかーしは、ランナーさん、たくさん居たんだけどね〜。今は色々厳しくなっちゃったしな〜……ホントはクローズドのサーキットでも行ってやるのが正しいんだけど……まあ、わかんない。でも、神さまなんてそんなものよ」
「昔……」
「そう。ま、こんなに世の中が便利になる前のお話。漫画みたいなお伽話を真剣に遊んでいたの。私もそのうちの一人。ハマってるうちに、なんだかとんでもないもの作っちゃったけどね。R32スカイラインを極限までチューニングで煮詰めて、煮詰めて、一夜限りの舞台に繰り出しては、堕としただの、勝っただのやってたな〜。速いやつがえらい、みたいな至極シンプルなゲーム」
そう言われ、祥子はあの夜の体感を思い出す。自身の知らない世界が、あの時確かに手招きしていた。極限のスピード、吹き飛ぶように流れていく風景、全身を焼くようなスリル。ステージの上と質が少し違う緊張感……。
自身を忘却の神、オブリビオニスと名乗っても消えぬものがあることが増える一方の我が身の自己矛盾に祥子は自嘲してしまう。
「ま、誰にでも忘れたいことくらいはあるわよ。厄除けになるようなものくらいは作ってあげるから」
何かを察した雛はそう目の前に座る少女に穏やかに告げると、席を先んじて立つのだったーー。
来訪者に代車を与え、去ったことを確認すると、雛は預かったクルマの状態確認を始める。
「まー、このクルマでよく遊ぶなあ……」
下回りをリフトで上げ、視認し、呟く。アンダーカバーには激しい走りの後が刻まれ、タイヤの摩耗状況、ブレーキパッドのすり減り具合からも、それを感じる。
車内は良く手入れされ、純正の気品を崩している事もなく、言ってしまえば飾り気がほとんどない状態にも関わらず、レクサスとは本当はこういった層のためのブランドだと雛は思い出す。
ホイールは激しい走りの飛び石傷はあるものの、きちんと手入れされている様子が感じ取れる。
「まー、それでもこのクルマじゃあ、リフレッシュが席の山かなあ」
祥子の搭乗する、レクサスGS450hはガソリンエンジンとモーター駆動の二つを利用する、ハイブリッド方式で、特徴的な変速制御により、180km/hのリミッターカットが難しいとされているクルマなのだ。それに、クルマ自体のキャラクターが、極限まで攻め込むようなキャラクターではなく、豊富な力を生かし、快適に走る、いわば自身でステアリングを取るよりかは、誰かに運転させ、搭乗するようなスタイルのクルマなのだ。
それは、それとしても、中古車としての宿命か、足回りのヨレや劣化は見受けられる。さらに、前オーナーからか、駆動系の油脂などの入れ替えは履歴もなく、一度、ベーシックに純正で組み直すのが良さそうだと判断し、タブレット端末などを用いて、見積もりを作成し、先程交換した祥子の連絡先へとそれを送る。
見積もりの承認はすぐに済み、雛は部品の発注を進めるのだった。