かくして、数週間。雛の元へ預けられ、リフレッシュされた祥子のレクサスのロールアウトの日を迎えた。
「引き続き大切にしてあげてね」
そう言われ、鍵を受け取った事を思い出す。
バンドメンバーにも知られてはいけない、秘密の一人だけのマスカレード。練習を切り上げ、僅かな時間、眠りに着くまでの僅かな時間だけのマスカレード。
「さきちゃん、今日も遅くなるの?」
「ええ、ちょっとした寄り道をしてから帰りますわ。初華。安心なさいな」
「えっ……さきちゃん?」
先ほどのやり取りを思い浮かべながら、祥子は都心環状線へとクルマを走らせる。
自身は一体、どれだけの秘密を抱えるべきなのだろうか。そして、剥がすに剥がせなくなった自身の仮面とはいつまで付き合えばいいのだろうか。
都心環状線、別名C1へ合流し速度を上げていく中で、厄除けと称された工学と経験に裏付けられた魔法を祥子は確かに感じていた。耳を鳴らす、気持ちの良いエンジンサウンド。軽やかに立ち上がる、モーターとエンジンがもたらす豊富なチカラ。重さを物ともしない、ステアリングの感覚と足回りがもたらすハーモニー。
まるで鍵盤楽器のような感覚に一人、豊川祥子は埋もれてゆく。アクセルペダルが、オルガン式ペダルなのも相まってか、より、以前より没入を愉しめたような気がする。
「チューニングは闇雲に部品を変えてくだけじゃないの。一度、純正の姿をちゃんと味わって、それからでも遅くないわ」
祥子の脳裏に、受け取る前のやり取りが想起される。
鍵山雛が施したのは、少しの遊び心と徹底的なリフレッシュだけであった。チューニング用語で言えば、ライトチューン。それ以外は普段金銭的には遠慮されがちな部分を交換したり、調整したりするセオリー通りの整備。だが、それは確かにメーカーの意図する設計思想を汲み上げ、蘇らせるものだった。
より、良く効くブレーキに、より良く食いつくタイヤが彼女の走りを支え、そうして、第三者からすると無意味なこの行為に意味を与えていく。
もっとも、彼女の戯れも露呈してしまうのだが。
「ん……あの車、豊川さんの」
はあ、とため息を漏らす。
八幡海鈴(やはたうみり)の密かなシュミ、がバレてしまう。またあの口うるさいお嬢様に。
「へえ……豊川さん。見かけによらずまあまあ生き急いだドライビングするんですね」
海鈴自身、パンクファッションを好んだ事から、アメリカンスポーツカーを愛し、乗るようになった。品がない、と言われようとも、もともとパンクに品などあまりないのだからと。
それがどう言うことか、苦言を呈した祥子自身が操るナンバーを付けたセダンが、海鈴の脇を法定速度オーバーで駆け抜けていくではないか。間違いない、あれは、確かに、豊川祥子の駆るGSだ。
「この子の本気、久々に試しますか」
手慣れた手つきでダウンシフトをし、V8エンジンが唸りを上げる。獰猛な動物を彷彿とさせるような、咆哮が、マフラーから吐き出される。
品がないとは言われたものの、流線型を多用し、真っ黄色に塗られたボディはまごう事なき、アメリカが生み出したスーパースポーツ、シボレー・コルベット。C6型。祥子の駆るGSとは異なり、速く走る事に特化したアメリカンスポーツの雄。
「そろそろ、切り上げなくてはいけませんわ」
ちらりと、車載の時計に目をやると、時刻は深夜帯へ差し掛かっていた。明日からも多忙な日々があるのに、自身は一体、何をしているのだろう。
帰る前に、湾岸線を踏みちぎってからでも。
彼女は意を決し、湾岸線方面へと分岐を流れる。
後ろに知られてはいけないバンドメンバーが操る猛獣に気づかずに。
俗に、レースゲームでよく言われる新環状エリアを抜け、下りのジャンクションのランプから湾岸線へと合流する。
幅の広い道路、起伏のあるトンネル、そのいずれもが、緩やかなコーナーとほぼ直線にて構成され、まるで最高速度でもテストしてくださいと行ったような路線である。
先行するセダンが速度を上げ、猛然と加速していくのを捉えた海鈴は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ピタリと背後に付け、追走を始める。
海鈴のクルマからすれば、お遊びでしかないのだが、あの令嬢がなぜこんな行為に興じているのか問いただしたくもあったのも合いまってか、有り余るパワーを持って追走、そして、サイドバイサイドの体制から、一気に抜き去る。
スピードリミッターの作動寸前の速度域。
回りの車が、止まったように迫ってくるような風景の中で取り憑かれたように暴走する祥子の視界に、丸目4灯のテールライトが矢のように駆け抜けて行くのが見えた。
「一体、なんなんですの……ッ」
いくらスピードリミッターが効いているとは言え、180km/hで走るクルマを当然のように追い抜いていくクルマがある事を、またもや、祥子は知った。やっと、見つけた陽の当たらない自分だけのストレス発散の舞台を何か汚されてしまったような、そんな気がする。
「興醒めですわ。今日は切り上げましょう」
祥子はそう呟くと、途端にブレーキペダルを踏み込み、法定速度域まで車両をコントロールする。
「おや、豊川さんのクルマ、追ってきませんね」
200km/hを超える車内の中で、海鈴はつまらなそうな顔を浮かべて、速度を落とす動作へ入る。
「どうやら、リミッターカットまではしてないようですが……」
海鈴のクルマはまだまだ余裕のある速度域にも、祥子のクルマは着いては来なかった。着いてこられたとしても、海鈴からすれば困るのだが。
「我、恐怖を恐れるなかれ。ですか。今の私はそうかもしれませんね……とはいえ、まさかバンドメンバーのリーダーがスピード狂だなんて、面白いこともありますね」
次、仕事で二人きりになった時、神の本音を問いただしてやろうかと、八幡海鈴は妖しく笑った。このバンド自体がもはや狂人の集まりなのだ、今さら狂人になる事に違和感などない、と結論付けて。
ーー海鈴がいつ、アレを本人に問いただすか、好機を狙って数日過ごしているうちに、その時は来た。
スケジュール調整や予算のやりくりなどを祥子と二人で進め、ひと息つこうか、上がろうか、としたその時。
先制を海鈴は仕掛けることにした。
「ところで、豊川さん。貴方にもそう言う趣味があることを、私見ちゃいまして」
「な、なんのお話ですの。藪から棒に……」
「いえ、人間らしいところ、あるんですねって。深夜の湾岸線で抜いていったの、気づきませんでした?」
そう問われた祥子の表情が戸惑いを隠せなくなり、俯く。
「あの時の、あれは海鈴だったのですか」
絞り出すような、音色の返答。
「ええ。まさか豊川さんがそんなシュミをお持ちだったとは思わなかったので。どうします?人気バンドのメンバーがこんな露呈したらまずい気晴らしをしているなんて、知られたら」
「それは貴方も共犯じゃありませんの。いえ、わたくしよりも更に質が悪いですわ」
図星を端的に刺され、またもや祥子の売り言葉に買い言葉の口調が始まる。
「怒らないでくださいよ、豊川さん。私だってこんなことバレたら音楽家としてのキャリア終わりですから」
宥めるような、口調でさらりと口にする海鈴。
「それをわかっていて、何故?」
「貴方と似たような理由です。この仕事、確かにアメ車を買って維持できるくらいの金銭には困りません。でも、何か気晴らしは必要じゃあないですか、続ける為には。貴方が授けてくださったステージネームにはぴったりの気晴らしを見つけてしまって、それで、ですね」
表情に罪悪感はない。むしろ、心の底からアレを愉しんでいるような片鱗が見え隠れしている。
「ティモリス……恐怖を恐れるなかれ、でしょうか。皮肉ですわね。わたくしもオブリビオニスと名乗っておきながら、何かを忘れる為に走っていますもの」
はあ、とため息をひとつ。
「ま、こんな近くに同志がいるのは予想外でしたけどね」
「海鈴、貴方は初めからそれを目的にあのクルマを購入したんですの?」
「ま、初めは、もっとファッションな理由です。カッコいいから、自分が乗ったらそれだけで絵になりそうだから。でも、何故かわからないんですが、あの子の持つ本当のチカラを知りたくなりまして。お行儀良く乗るクルマじゃないんですよ、あの子は」
海鈴はさらに言葉を続ける。
「お金にはこの時代、私たちみたいな人は困ることはそうないでしょう。それは、豊川さんだって本質はきっと同じ。祐天寺さんみたいにやれば、三角さんみたいにやれば、まあ困ることはないでしょう。無論、このバンドだってそうです。だけど……そのお金で買い物をしても気晴らしにはならない。だから、細々としたものを買うより、良いものを買ってしまいましょう。そんな軽いノリでアメ車を買ったんです」
「なんというか、あの瞬間だけは生きている気持ちになれるんですよ。ワンミスで全てが壊れてしまうような、ゲームには無い、あの世界。私はそれに魅入られてしまっただけかもしれませんね。ガソリンも、オイルも、タイヤも、走れば走るほど、お金が紙切れのように飛んでいく。それをわかっていても……我ながらジャンキーですよ」
海鈴はそう自嘲ぎみに呟くと、ふうと一息つく。
「しかし、豊川さん。私を今回は口うるさく咎めないのですね」
「わたくしだって、バレてしまったものはもうどうしようもありませんわ。同じ罪を重ねながら辞めなさい、などとどうして言えましょう」
「ああ、豊川さんにしては素直ですね。ま、祐天寺さんにはバレたらマズいですから。この事は内密に。それはそうと、豊川さんのクルマでは、これ以上のラインに達する事もないと思うので、ステージの外でもマスカレードをするかしないか、は立ち止まって考えてみるのも良いかと」
「海鈴。いつから貴方も詳しくなりましたの?そんな事を申すなどと」
どこかで合った、厄神さまと似たようなことを口走る事に祥子は驚きを隠せず、尋ねる。
「ま、乙女の秘密って事にしておいて欲しいですが。物足りなくなるんですよ、色々と。もっとスピードを、パワーを、って。本物になりたくて。湾岸ミッドナイトじゃ、あるまいしって思うんですがね。あの世界で求められる数字はビジネスなんかではない、本質の数字ですから」
「じゃ、私はこれで上がりますね。豊川さん」
そう言うと、自身のタスクを片付けた海鈴は祥子を置いて、家路へと着くことにした。
事務所には呆然とした、祥子が一人佇むだけだった。