筆が乗るまでは少し短いかも?
僕が八歳のとき、両親は事故で亡くなった。
あまりにも突然の出来事だった。
昨日まで当たり前のように隣にあった温もりも、聞き慣れた声も、何気ない日常も、何の前触れもなく消えてしまった。
葬儀の日、周囲の大人たちは僕に何かを話しかけていた。けれど、その言葉はほとんど耳に入ってこなかった。
泣いたのかどうかも、よく覚えていない。
その後、僕は孤児院に引き取られた。
そこでは、いろいろな事情を抱えた子供たちが暮らしていた。僕と同じように家族を失った子もいれば、家に居場所がなくなった子もいた。
決して幸せな場所ではなかった。
それでも、当時の僕にはそこ以外に行く場所がなかった。
孤児院での生活が始まってしばらくした頃、僕は一人の不思議な女性と出会った。
彼女は孤児院の関係者ではなかった。時折、施設の近くに姿を現しては、子供たちに奇妙な話を聞かせていた。
妖怪。
人間の目には見えないもの。長い年月を生き、人とは異なる理で存在するもの。
彼女はそんな話を、まるで本当に見てきたかのように語った。
「この世には、人間だけが生きているわけではないのよ」
その言葉が、なぜか僕の心に残った。
当時の僕は、その話を信じていたわけではない。ただ、彼女の話を聞いている時間だけは、嫌なことを忘れられた。
やがて年月が過ぎ、僕は十九歳になった。
孤児院を出て、社会に出て、会社に勤めた。
けれど、そこに自分の居場所を見つけることはできなかった。
仕事を辞めたのは、自分の意思だった。
それからの僕は、特に目的もなく過ごしていた。
古びた建物を見つけては中を歩き回り、誰もいない場所で時間を潰す。そんな日々を繰り返していた。
そして、ある日。
僕は一つの廃墟にたどり着いた。
建物はひどく傷んでいた。壁には亀裂が走り、窓ガラスのいくつかは割れている。長い間、人の手が入っていないことは明らかだった。
それでも、完全に朽ち果てているわけではなかった。
水道はまだ使える。雨風をしのげる場所もある。
何より、誰もいない。
僕はその場所が気に入った。
その日から、そこは僕の居場所になった。
誰かに気を遣う必要もない。誰かに期待されることもない。
ただ静かに、自分の時間を過ごせる。
そんな場所だった。
しかし、そこには先客がいた。
最初に気づいたのは、建物の奥から聞こえた小さな物音だった。
風で何かが倒れたのかと思った。
けれど、違った。
物音のした方へ歩いていくと、薄暗い部屋の中に、見慣れない少女が座っていた。
赤い着物に、淡い橙色の帯。
腰まで伸びた白い髪は、ところどころ跳ねていて、頭には白い狐の耳が生えている。
そして、その背後には――三本の大きな尾。
少女は僕に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
鋭い目が、まっすぐ僕を捉える。
頬はほんのり赤く、表情にはどこか威厳があった。
「……何者じゃ」
幼い声だった。
しかし、その声には長い年月を生きてきた者だけが持つような、不思議な重みがあった。
僕はしばらく返事ができなかった。
目の前の存在が、人間ではないことはすぐに分かった。
頭の中に、昔聞いた話がよみがえる。
妖怪。
人間とは異なる存在。
少女は僕の沈黙を見て、少しだけ目を細めた。
「答えぬか。ここはワシの住処じゃ。人間が勝手に入り込んでよい場所ではないぞ」
どうやら、ここは彼女の住処だったらしい。
僕は彼女を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……僕は、ただ雨風をしのげる場所を探していただけなんだ」
「ほう。ならば、他を探すがよい」
「ここが気に入ったんだけど」
「ならぬ」
即答だった。
少女は三本の尾をゆっくり揺らしながら、僕を警戒するように見つめている。
その姿は不思議なほど堂々としていた。
僕は少し困ったように息を吐いた。
まさか、廃墟に住み着いている先客がいるとは思わなかった。
しかも、それが狐の妖怪だなんて。
少女は僕の様子を見て、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「まったく……人間というものは、どうしてこうも勝手なのじゃ」
その日、僕は初めて彼女と出会った。
彼女の名は、
五千年もの時を生きる、三尾の妖狐だった。
そして、この出会いが僕の人生を大きく変えることになるとは、このときの僕はまだ知らなかった。
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