「湊――!」
恋珀の声が、静まり返った廃施設の中に響いた。
返事はない。
かつて子供たちの声で満ちていた廊下には、今や風が通り抜ける音すらなかった。割れた窓から差し込む薄い光が、床に長い影を落としている。
恋珀は足を止め、周囲を見回した。
何かがおかしい。
建物の中に入った瞬間から、肌にまとわりつくような不快な気配を感じていた。妖気とも違う。誰か一人の怨念とも違う。
もっと曖昧で、もっと深い。
長い時間をかけて積み重なった悲しみや恐怖が、建物そのものに染みついているようだった。
「……これは、ただの妖ではないのじゃな」
恋珀は小さく呟いた。
その気配は、建物の奥へ向かって濃くなっている。
そして、その先には体育館があった。
恋珀は迷わず走り出した。
廊下を駆け抜け、角を曲がる。遠くに見える体育館の扉は半分ほど開いていた。
そこから漏れ出しているのは、冷たい闇の気配。
「湊……!」
体育館へ足を踏み入れた瞬間、恋珀の三本の尾が大きく揺れた。
中央には、誰もいない。
けれど、床には黒い染みのようなものが広がっていた。まるで生き物のようにゆっくりと形を変え、体育館の隅へと伸びている。
恋珀はその先を見つめた。
倉庫の扉。
その向こうから、かすかに湊の気配が伝わってくる。
「そこにおるのか……!」
恋珀は倉庫へ向かった。
しかし、扉の前まで来たところで、黒い霧が一気に膨れ上がった。
「邪魔をするでない!」
恋珀が手をかざすと、赤い炎が指先に灯る。
炎は黒い霧を照らしたが、燃やすことはできなかった。霧は炎を避けるように揺らめき、再び扉を覆い隠す。
恋珀は眉を寄せた。
力ずくで押し通ることはできるかもしれない。だが、この気配の正体が分からないまま攻撃すれば、湊を巻き込む恐れがある。
「……中におる者たちよ。聞こえておるか」
恋珀は静かに呼びかけた。
「お主たちが何を思い、何を抱えておるのか、ワシにはすべて分からぬ。じゃが、そこにおる者を返してもらう」
黒い霧がざわめいた。
その奥から、いくつもの声が重なって聞こえてくる。
――返して。
――どうして、今さら。
――誰も来なかった。
――助けてって言ったのに。
恋珀は目を伏せた。
「そうか……お主たちは、ずっとここにおったのじゃな」
返事の代わりに、霧が大きく揺れた。
「忘れられたくなかったのじゃな」
その言葉に、霧の動きが一瞬だけ止まった。
しかし、次の瞬間には再び黒い影が広がり、倉庫の扉を覆い尽くした。
恋珀は奥歯を噛みしめる。
湊の気配が弱くなっている。
時間がない。
「すまぬ……今は、あの者を助けさせてもらうぞ」
恋珀は両手を胸の前で重ねた。
彼女の周囲に、淡い光が集まり始める。
それは炎ではない。
恋珀が持つ、もう一つの力。
幻を現実のように見せ、触れさせ、時には本物と同じ働きを持たせる力だった。
ただし、これほど大きな幻を作り出すには、相応の力が必要になる。
恋珀の白い髪が揺れ、三本の尾が大きく広がった。
「ここにあったものを、少しだけ見せてやろう……」
光が体育館全体へと広がっていく。
古びた床が、少しずつ色を取り戻した。
割れた窓は元の姿に戻り、壁の傷も消えていく。薄暗かった空間に、柔らかな陽光が差し込んだ。
そして、かつてここにいた子供たちの姿が浮かび上がる。
走り回る子供。
笑い声を上げる子供。
ボールを追いかける子供。
それは、かつてこの場所に確かに存在していた日常の幻だった。
恋珀は知っていた。
ここにいた子供たち全員が、幸せだったわけではないことを。
笑顔の裏側には、悲しみも苦しみもあったはずだ。
それでも、この場所で過ごした時間のすべてが苦しみだったわけではない。
楽しかった日も、笑った日も、誰かと一緒に過ごした時間もあった。
「お主たちがここにおったことを、ワシは否定せぬ」
恋珀の声が、体育館に響く。
「忘れられたくないという思いも、苦しかったという思いも、すべてここにあったものじゃ」
幻の中で、子供たちの姿が揺れる。
黒い霧は、その光景に引き寄せられるように倉庫の扉から離れていった。
「だから、今は少しだけ道を開けてくれぬか」
恋珀は倉庫の扉へ手を伸ばした。
霧が完全に消えたわけではない。
それでも、扉を塞いでいた黒い影は薄くなり、隙間が生まれていた。
恋珀はその隙間に手をかけ、力を込めて扉を開いた。
「湊!」
倉庫の中は暗かった。
棚や古い道具が乱雑に置かれた床に、湊が倒れている。
「湊! しっかりせい!」
恋珀はすぐに駆け寄り、彼の身体を抱き起こした。
頬に触れる。
冷たい。
呼吸はあるが、ひどく弱い。
「そんな……」
恋珀の表情が歪んだ。
湊の身体には、黒い霧がまだまとわりついていた。幻によって引き離したはずの影が、彼の内側にまで入り込んでいる。
恋珀は湊を抱きしめ、背中に手を当てた。
「もうよい。もう大丈夫じゃ。ワシがここにおる」
返事はない。
「湊……頼む。目を開けてくれ……」
恋珀は自分の力をさらに注ぎ込んだ。
光が湊の身体を包み込む。
黒い霧が少しずつ薄れていく。
しかし、それと引き換えに恋珀の顔から血の気が引いていった。
大きな幻を維持するだけでも相当な力を使っている。そこへさらに湊の身体に残る闇を引き剥がすため、彼女は限界を超えて力を注いでいた。
それでも、手を止めることはできなかった。
「あと少し……あと少しなのじゃ……!」
やがて、黒い霧が小さく震えた。
その中から、かすかな声が聞こえる。
――ここにいたことを。
――忘れないで。
恋珀はその声に目を向けた。
「忘れぬ」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「お主たちがここにいたことも、苦しかったことも、ワシは忘れぬ。じゃから、もうこの者を離してやってくれ」
霧はしばらく揺らめいていた。
そして、まるで長い間張り詰めていた糸が切れるように、ゆっくりとほどけていった。
黒い影が消える。
倉庫に静寂が戻った。
「……終わった、のか……?」
恋珀は息を吐いた。
けれど、その身体を支える力はもう残っていなかった。
湊を抱きしめたまま、彼女の身体が傾く。
「恋珀……?」
かすれた声が聞こえた。
恋珀は驚いて顔を上げる。
湊の瞳が、かすかに開いていた。
「湊……!」
「……よかった。恋珀が、いてくれて……」
湊は弱々しく笑った。
しかし、恋珀の顔を見た途端、その表情が変わった。
「恋珀……どうしたの?」
「何でもない……少し、力を使いすぎただけじゃ」
そう答えた恋珀の声は震えていた。
彼女の白い髪は乱れ、三本の尾も力なく床に広がっている。身体からは、目に見えて力が失われていた。
湊は彼女の手を握った。
「嘘だよ。何でもないわけない」
「……すまぬ」
恋珀は視線を落とした。
「お主を助けるために、ワシは力を使いすぎた。今のままでは……」
言葉が途切れる。
湊は彼女の手を強く握った。
「恋珀がいなくなるの?」
恋珀は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「嫌だよ……」
湊の声が震える。
「せっかく一緒に暮らせるようになったのに。これからも一緒にいたいのに……」
「湊……」
「僕は、恋珀と生きていきたい」
恋珀は目を見開いた。
彼女はずっと、湊に自分の力の代償を伝えずにいた。
幻を使うことそのものが、いつも彼女自身の命を削るわけではない。だが、人間が彼女と契約した後、その力を使えば、使用した時間に応じた寿命を代償として支払うことになる。
そして契約は、互いの心からの信頼と愛情がなければ成立しない。
一度契約すれば、二人の命は結ばれる。
どちらか一方が命を落とせば、もう一方もまた命を落とす。
それは、決して軽い約束ではなかった。
「湊……契約のことを覚えておるか?」
「うん」
「契約を結べば、ワシとお主の命は一つになる。どちらかが死ねば、もう一方も死ぬ。人間であるお主がワシの力を使えば、その使用した時間に応じて寿命を失うことになる」
「それでもいい」
「よくないのじゃ!」
恋珀の声が倉庫に響いた。
「お主はまだ若い。これから先、いくらでも生きることができる。ワシのために、その命を削る必要などないのじゃ!」
「必要があるかどうかじゃない」
湊は恋珀の手を両手で包み込んだ。
「僕がそうしたいんだ」
「じゃが……」
「恋珀が僕を助けてくれた。僕がここにいられるのは、恋珀が来てくれたからだ」
湊は彼女の目を見つめた。
「今度は僕に、恋珀を助けさせてほしい」
恋珀の瞳が揺れた。
「ワシと共に生きるということは、楽しいことばかりではないぞ。人間の時間とは違う。お主が望む未来を、すべて与えられるとも限らぬ」
「それでもいい」
「後悔するかもしれぬ」
「そのときは、そのときに考えるよ」
湊は小さく笑った。
「でも、恋珀と一緒にいたいと思ったことは、後悔しない」
恋珀の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……本当に、変わった人間じゃな」
「よく言われるよ」
「ワシは……お主と生きたい」
恋珀は湊の頬に手を添えた。
「ずっと一人で生きてきた。誰かと命を分かち合うなど、考えたこともなかった。じゃが今は……お主のいない世界など、考えられぬ」
「なら、決まりだね」
「……うむ」
恋珀は静かに頷いた。
二人は互いの手を重ねた。
その瞬間、二人の身体を淡い光が包み込んだ。
温かく、優しい光だった。
湊の胸の奥で、何かがゆっくりと結ばれていく。
同時に、身体の内側から何かが抜け落ちていくような感覚があった。
それが寿命という代償なのだと、湊は理解した。
けれど、手を離すことはなかった。
光が強くなり、倉庫の壁や床を照らす。
やがて、その光は二人の胸元へと吸い込まれるように消えていった。
恋珀の身体に、少しずつ温もりが戻っていく。
弱々しかった呼吸が落ち着き、床に広がっていた三本の尾にも力が戻り始めた。
「……湊」
「大丈夫?」
「うむ……お主のおかげじゃ」
恋珀は湊の胸元に額を寄せた。
「これで、ワシとお主は本当に一つになったのじゃな」
「うん」
「もう、離れられぬぞ」
「離れるつもりなんてないよ」
恋珀は小さく笑った。
そして、湊を抱きしめる。
「ありがとう……マスター」
その呼び方に、湊は少しだけ目を丸くした。
今まで「お主」や「湊」と呼ばれていた。
けれど、今は違う。
二人の間に結ばれたものが、確かに変わったのだ。
「こちらこそ、恋珀」
「……ふふ。これからも、よろしく頼むぞ」
「うん。よろしく」
しばらくの間、二人はそのまま抱き合っていた。
倉庫の外では、古びた体育館に差し込む光が少しずつ傾いていた。
やがて恋珀はゆっくりと立ち上がり、湊に手を差し伸べた。
「帰ろう、マスター」
「そうだね」
湊はその手を取った。
体育館を抜け、廊下を歩く。
来たときには不気味に感じられた建物も、今は静かだった。
二人が玄関へ向かう途中、湊は一度だけ振り返った。
誰もいない廊下。
誰もいない体育館。
それでも、そこには確かに誰かが生きていた。
「……またね」
湊は小さく呟いた。
恋珀は何も言わず、彼の手を握り直した。
外へ出ると、風が二人の髪を揺らした。
空は夕暮れに染まり始めていた。
帰り道、湊は恋珀の手を離さなかった。
恋珀もまた、握り返していた。
二人の命は結ばれた。
それは、ただ一緒に暮らすという約束よりも、ずっと深いものだった。
もう、どちらか一方だけの命ではない。
これから先、どんなことがあっても、二人は同じ時間を生きていく。
やがて、いつもの廃墟が見えてきた。
「ただいま、恋珀」
「おかえりなさい、マスター」
その声は、いつもと同じようでいて、少しだけ違って聞こえた。
湊は恋珀の手を握ったまま、建物の中へ入っていった。
二人の新しい暮らしが、ここから始まる。
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