三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:杉花

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第十一話 恋珀とぬくもり

廃墟に戻った夜は、いつもより静かだった。

 

小さな火が部屋の中央で揺れている。

 

湊は壁にもたれながら、向かいに座る恋珀を見つめていた。

 

施設から戻ってきてから、彼女はほとんど何も話していない。

 

いつもなら、火の具合を見たり、何か思いついたように話しかけてきたりするのだが、今夜はただ静かに湊のそばにいた。

 

「恋珀」

 

「ん? どうしたのじゃ、マスター」

 

「身体はもう大丈夫?」

 

「うむ。お主のおかげで、ずいぶん楽になったのじゃ」

 

そう答える恋珀の顔色は、施設にいたときよりもずっとよくなっていた。

 

けれど、湊にはまだ気がかりなことがあった。

 

「本当に無理してない?」

 

「心配性じゃな。もう大丈夫じゃと言うておるじゃろう」

 

恋珀は少し頬を膨らませた。

 

その仕草がいつもと変わらなくて、湊はようやく少し安心した。

 

「そっか。それならよかった」

 

「それより、マスターこそどうなのじゃ。まだ身体に違和感はないか?」

 

「特にはないよ。少し疲れているくらいかな」

 

「そうか……」

 

恋珀は湊の顔をじっと見つめた。

 

契約を結んだことで、二人の命は一つになった。

 

それが具体的にどういう感覚なのか、恋珀にもまだ分からない部分があった。

 

ただ、今までとは違う何かが、確かにそこにある。

 

湊が息をするたび、胸の奥に微かな温もりを感じる。

 

まるで、遠くにいるはずの誰かが、すぐ隣にいると分かるような感覚だった。

 

「……マスター」

 

「ん?」

 

「少し、手を貸してくれぬか」

 

湊は手を差し出した。

 

恋珀はその手を両手で包み込む。

 

しばらく目を閉じていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「やはり、繋がっておるのじゃな」

 

「何か分かった?」

 

「お主の温もりが分かる。以前から手を握れば分かったことじゃが……今は、それとは少し違う」

 

恋珀は自分の胸元に手を当てた。

 

「ここに、お主がおるような気がするのじゃ」

 

「僕も、少しだけ分かる気がする」

 

「ほう?」

 

「恋珀が近くにいると、なんとなく安心するんだ。離れていても、ちゃんと繋がっているような感じがする」

 

「それは契約の影響かもしれぬな」

 

恋珀は嬉しそうに目を細めた。

 

「ふふ……不思議なものじゃ」

 

「恋珀もそう思う?」

 

「もちろんじゃ。五千年も生きておるが、こんな経験は初めてじゃからな」

 

その言葉を聞いて、湊は彼女の手を握り返した。

 

「じゃあ、これから一緒に知っていけばいいよ」

 

「うむ。そうじゃな」

 

恋珀は小さく頷いた。

 

それから少しの間、二人は火を眺めていた。

 

やがて恋珀が、ふと思い出したように口を開く。

 

「そういえば、マスター」

 

「なに?」

 

「契約の代償についてじゃが……」

 

湊の表情が少し引き締まった。

 

「寿命のこと?」

 

「うむ」

 

恋珀は湊の手を握ったまま、言葉を選ぶように続けた。

 

「ワシが施設で使った力。その使用した時間に応じた分の寿命を、お主が代わりに支払ったのじゃ」

 

「うん。覚えているよ」

 

「どれほどの時間を失ったのか、正確にはワシにも分からぬ。じゃが、決して小さな代償ではなかったはずじゃ」

 

「そうなんだ……」

 

湊は火へ視線を移した。

 

自分の寿命がどれほど残っているのか。

 

それは分からない。

 

けれど、あのとき恋珀を失うことに比べれば、迷う理由にはならなかった。

 

「後悔しておるか?」

 

恋珀の声は、いつもより小さかった。

 

湊は彼女を見た。

 

「してないよ」

 

「本当にか?」

 

「うん。僕は恋珀と一緒にいたかった。それは今も変わらない」

 

「……そうか」

 

恋珀は目を伏せた。

 

「ワシは、お主に何と言えばよいのか分からぬ。礼を言えばよいのか、謝ればよいのか……」

 

「どっちもいらないよ」

 

「そういうわけにはいかぬじゃろう」

 

「じゃあ、これからも一緒にいてくれたらいい」

 

恋珀は顔を上げた。

 

「それだけでよいのか?」

 

「それが一番嬉しいよ」

 

彼女はしばらく湊を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと彼の肩に寄りかかった。

 

「……分かったのじゃ」

 

白い髪が湊の肩に触れる。

 

「ワシはこれからも、お主のそばにおる。何があってもじゃ」

 

「ありがとう、恋珀」

 

「礼を言うのはワシの方じゃ」

 

恋珀は小さく笑った。

 

そのまま、彼女の三本の尾がゆっくりと湊の周りに広がる。

 

ふわりとした毛並みが、彼の身体を優しく包み込んだ。

 

「温かいね」

 

「そうじゃろう。ワシの自慢の尾じゃからな」

 

「前から思っていたけど、やっぱり大きいね」

 

「今さら何を言うておるのじゃ」

 

恋珀は少し得意げに胸を張った。

 

湊は一本の尾に手を伸ばし、そっと撫でる。

 

「これからも触っていい?」

 

「……好きにするがよい」

 

「ありがとう」

 

「ただし、乱暴に扱うでないぞ」

 

「分かってるよ」

 

恋珀は目を細めた。

 

その表情を見て、湊はふと気づいた。

 

施設で彼女が倒れたとき、自分はもう二度とこの顔を見られないかもしれないと思った。

 

あの恐怖は、今でも胸の奥に残っている。

 

だからこそ、今こうして隣にいることが嬉しかった。

 

「恋珀」

 

「なんじゃ?」

 

「今日、一緒に寝てもいい?」

 

恋珀は一瞬だけ目を丸くした。

 

それから、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。

 

「もちろんじゃ。むしろ、ワシから誘おうと思っておったところじゃ」

 

「そうなの?」

 

「契約を結んだばかりじゃからな。今夜くらい、そばにおってもよかろう」

 

「今夜くらい?」

 

「……毎晩でも構わぬが」

 

恋珀は頬を赤くして、視線を逸らした。

 

湊は思わず笑ってしまう。

 

「じゃあ、毎晩お願いしようかな」

 

「ふふ。よい心がけじゃ」

 

二人は火を小さくして、寝床へ移動した。

 

湊が横になると、恋珀はその隣に腰を下ろす。

 

そして、彼の顔を覗き込んだ。

 

「マスター」

 

「なに?」

 

「今夜は、もう少し近くにおってもよいか?」

 

「もちろん」

 

湊が腕を広げると、恋珀は少しだけ迷ってから、その中へ身を寄せた。

 

彼女の頭が胸元に触れる。

 

三本の尾が二人を包み、部屋の冷たい空気を遮った。

 

「……こうしておると、安心するのじゃ」

 

「僕もだよ」

 

「これからは、もう一人ではないのじゃな」

 

「うん」

 

「ならば、寂しい夜も減るかもしれぬ」

 

「寂しくなったら、いつでも言ってね」

 

「お主もじゃぞ。何かあれば、ワシに言うのじゃ」

 

「分かった」

 

恋珀は目を閉じた。

 

湊もまた、彼女の髪をそっと撫でる。

 

やがて、彼女の呼吸がゆっくりと落ち着いていった。

 

「おやすみ、恋珀」

 

「……おやすみなさい、マスター」

 

その声を最後に、部屋は静けさに包まれた。

 

火は小さく揺れ続けている。

 

二人の命を結んだ契約。

 

失った寿命も、共有する命も、これから知っていかなければならないことは多い。

 

それでも今夜だけは、難しいことを考えずにいよう。

 

互いの温もりを確かめながら、二人は穏やかな眠りへと落ちていった。




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