廃墟に戻った夜は、いつもより静かだった。
小さな火が部屋の中央で揺れている。
湊は壁にもたれながら、向かいに座る恋珀を見つめていた。
施設から戻ってきてから、彼女はほとんど何も話していない。
いつもなら、火の具合を見たり、何か思いついたように話しかけてきたりするのだが、今夜はただ静かに湊のそばにいた。
「恋珀」
「ん? どうしたのじゃ、マスター」
「身体はもう大丈夫?」
「うむ。お主のおかげで、ずいぶん楽になったのじゃ」
そう答える恋珀の顔色は、施設にいたときよりもずっとよくなっていた。
けれど、湊にはまだ気がかりなことがあった。
「本当に無理してない?」
「心配性じゃな。もう大丈夫じゃと言うておるじゃろう」
恋珀は少し頬を膨らませた。
その仕草がいつもと変わらなくて、湊はようやく少し安心した。
「そっか。それならよかった」
「それより、マスターこそどうなのじゃ。まだ身体に違和感はないか?」
「特にはないよ。少し疲れているくらいかな」
「そうか……」
恋珀は湊の顔をじっと見つめた。
契約を結んだことで、二人の命は一つになった。
それが具体的にどういう感覚なのか、恋珀にもまだ分からない部分があった。
ただ、今までとは違う何かが、確かにそこにある。
湊が息をするたび、胸の奥に微かな温もりを感じる。
まるで、遠くにいるはずの誰かが、すぐ隣にいると分かるような感覚だった。
「……マスター」
「ん?」
「少し、手を貸してくれぬか」
湊は手を差し出した。
恋珀はその手を両手で包み込む。
しばらく目を閉じていたが、やがて小さく息を吐いた。
「やはり、繋がっておるのじゃな」
「何か分かった?」
「お主の温もりが分かる。以前から手を握れば分かったことじゃが……今は、それとは少し違う」
恋珀は自分の胸元に手を当てた。
「ここに、お主がおるような気がするのじゃ」
「僕も、少しだけ分かる気がする」
「ほう?」
「恋珀が近くにいると、なんとなく安心するんだ。離れていても、ちゃんと繋がっているような感じがする」
「それは契約の影響かもしれぬな」
恋珀は嬉しそうに目を細めた。
「ふふ……不思議なものじゃ」
「恋珀もそう思う?」
「もちろんじゃ。五千年も生きておるが、こんな経験は初めてじゃからな」
その言葉を聞いて、湊は彼女の手を握り返した。
「じゃあ、これから一緒に知っていけばいいよ」
「うむ。そうじゃな」
恋珀は小さく頷いた。
それから少しの間、二人は火を眺めていた。
やがて恋珀が、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、マスター」
「なに?」
「契約の代償についてじゃが……」
湊の表情が少し引き締まった。
「寿命のこと?」
「うむ」
恋珀は湊の手を握ったまま、言葉を選ぶように続けた。
「ワシが施設で使った力。その使用した時間に応じた分の寿命を、お主が代わりに支払ったのじゃ」
「うん。覚えているよ」
「どれほどの時間を失ったのか、正確にはワシにも分からぬ。じゃが、決して小さな代償ではなかったはずじゃ」
「そうなんだ……」
湊は火へ視線を移した。
自分の寿命がどれほど残っているのか。
それは分からない。
けれど、あのとき恋珀を失うことに比べれば、迷う理由にはならなかった。
「後悔しておるか?」
恋珀の声は、いつもより小さかった。
湊は彼女を見た。
「してないよ」
「本当にか?」
「うん。僕は恋珀と一緒にいたかった。それは今も変わらない」
「……そうか」
恋珀は目を伏せた。
「ワシは、お主に何と言えばよいのか分からぬ。礼を言えばよいのか、謝ればよいのか……」
「どっちもいらないよ」
「そういうわけにはいかぬじゃろう」
「じゃあ、これからも一緒にいてくれたらいい」
恋珀は顔を上げた。
「それだけでよいのか?」
「それが一番嬉しいよ」
彼女はしばらく湊を見つめていた。
そして、ゆっくりと彼の肩に寄りかかった。
「……分かったのじゃ」
白い髪が湊の肩に触れる。
「ワシはこれからも、お主のそばにおる。何があってもじゃ」
「ありがとう、恋珀」
「礼を言うのはワシの方じゃ」
恋珀は小さく笑った。
そのまま、彼女の三本の尾がゆっくりと湊の周りに広がる。
ふわりとした毛並みが、彼の身体を優しく包み込んだ。
「温かいね」
「そうじゃろう。ワシの自慢の尾じゃからな」
「前から思っていたけど、やっぱり大きいね」
「今さら何を言うておるのじゃ」
恋珀は少し得意げに胸を張った。
湊は一本の尾に手を伸ばし、そっと撫でる。
「これからも触っていい?」
「……好きにするがよい」
「ありがとう」
「ただし、乱暴に扱うでないぞ」
「分かってるよ」
恋珀は目を細めた。
その表情を見て、湊はふと気づいた。
施設で彼女が倒れたとき、自分はもう二度とこの顔を見られないかもしれないと思った。
あの恐怖は、今でも胸の奥に残っている。
だからこそ、今こうして隣にいることが嬉しかった。
「恋珀」
「なんじゃ?」
「今日、一緒に寝てもいい?」
恋珀は一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「もちろんじゃ。むしろ、ワシから誘おうと思っておったところじゃ」
「そうなの?」
「契約を結んだばかりじゃからな。今夜くらい、そばにおってもよかろう」
「今夜くらい?」
「……毎晩でも構わぬが」
恋珀は頬を赤くして、視線を逸らした。
湊は思わず笑ってしまう。
「じゃあ、毎晩お願いしようかな」
「ふふ。よい心がけじゃ」
二人は火を小さくして、寝床へ移動した。
湊が横になると、恋珀はその隣に腰を下ろす。
そして、彼の顔を覗き込んだ。
「マスター」
「なに?」
「今夜は、もう少し近くにおってもよいか?」
「もちろん」
湊が腕を広げると、恋珀は少しだけ迷ってから、その中へ身を寄せた。
彼女の頭が胸元に触れる。
三本の尾が二人を包み、部屋の冷たい空気を遮った。
「……こうしておると、安心するのじゃ」
「僕もだよ」
「これからは、もう一人ではないのじゃな」
「うん」
「ならば、寂しい夜も減るかもしれぬ」
「寂しくなったら、いつでも言ってね」
「お主もじゃぞ。何かあれば、ワシに言うのじゃ」
「分かった」
恋珀は目を閉じた。
湊もまた、彼女の髪をそっと撫でる。
やがて、彼女の呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
「おやすみ、恋珀」
「……おやすみなさい、マスター」
その声を最後に、部屋は静けさに包まれた。
火は小さく揺れ続けている。
二人の命を結んだ契約。
失った寿命も、共有する命も、これから知っていかなければならないことは多い。
それでも今夜だけは、難しいことを考えずにいよう。
互いの温もりを確かめながら、二人は穏やかな眠りへと落ちていった。
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