朝の光が、壊れかけた窓から差し込んでいた。
廃墟の中にある部屋は、まだ少し肌寒い。
けれど、湊の身体には温かな感触があった。
目を開けると、目の前に白い髪が見えた。
恋珀が、湊の胸元に寄り添うように眠っている。
三本の大きな尾は、まるで布団のように二人を包んでいた。
「……恋珀」
小さく呼んでみる。
返事はない。
どうやら、まだ眠っているようだった。
昨日までなら、朝になると先に起きていることが多かった恋珀だが、今朝は違うらしい。
湊は彼女を起こさないように、そっと手を伸ばした。
白い髪に触れる。
柔らかい。
そのまま頭を撫でていると、恋珀の耳がぴくりと動いた。
「……んぅ」
小さな声が漏れる。
「起こしちゃった?」
「……まだ、起きておらぬ……」
寝ぼけた声だった。
「そう?」
「うむ……だから、もう少し……」
恋珀はそう言って、湊の胸元へ顔を埋めた。
湊は思わず笑った。
「分かった。もう少し寝てていいよ」
「……うむ」
再び静かな寝息が聞こえ始める。
湊は彼女の頭を撫でながら、昨日のことを思い返していた。
廃施設での出来事。
自分を襲った黒い影。
そして、恋珀が命を懸けて助けてくれたこと。
あのとき、彼女を失うかもしれないと思った。
その恐怖は、まだ完全には消えていない。
けれど今、こうして腕の中にいる。
その事実が、何よりも嬉しかった。
しばらくすると、恋珀がゆっくりと目を開けた。
「……おはよう、マスター」
「おはよう、恋珀」
「もう朝か……」
「うん。結構前から明るいよ」
恋珀は窓の方へ視線を向けた。
それから、湊の顔を見上げる。
「よく眠れたか?」
「眠れたよ。恋珀は?」
「ワシもじゃ。久しぶりに、よく眠れた気がするのう」
「いつもは眠れてないの?」
「そういうわけではない。ただ、誰かと一緒に眠ることに慣れておらぬだけじゃ」
恋珀は少し照れたように笑った。
「じゃが、今朝は目覚めてもお主がおる。なかなかよいものじゃな」
「僕もそう思うよ」
二人はしばらく、そのまま寝床にいた。
やがて恋珀が身体を起こす。
「さて、そろそろ起きるとするかのう」
「そうだね」
湊も起き上がろうとしたが、恋珀の尾がまだ身体に巻きついていた。
「恋珀、尾が……」
「む?」
恋珀は自分の尾を見下ろした。
どうやら、無意識のうちに湊を包んでいたらしい。
「おお、すまぬ。つい、そのままにしておった」
尾がゆっくりと離れていく。
「温かかったから、もう少し包まれていたかったな」
「ほう? ならば、また包んでやろうか?」
「いいの?」
「もちろんじゃ。ワシの尾は、お主を温めるためにもあるのじゃからな」
恋珀は得意げに胸を張った。
「ただし、動きにくくなるかもしれぬぞ」
「それは困るね」
二人は顔を見合わせて笑った。
朝の支度を終えると、恋珀は火の様子を確かめた。
湊は水を汲み、簡単な食事の準備を始める。
いつもと変わらない朝の光景。
けれど、湊はふと手を止めた。
「どうしたのじゃ?」
「いや……なんだか不思議だなと思って」
「何がじゃ?」
「昨日までと同じことをしているのに、少し違って感じるんだ」
恋珀は火を見つめたまま答えた。
「契約を結んだからかもしれぬな」
「やっぱりそうなのかな」
「うむ。お主の存在を、以前より近くに感じる。離れておっても、どこかで繋がっておるような……そんな感覚じゃ」
「僕も似たような感じがするよ」
湊は自分の胸元に手を当てた。
「恋珀が近くにいると、ここが温かくなる気がする」
「ほう……それはよいことじゃな」
恋珀は嬉しそうに微笑んだ。
「ただし、契約に頼りすぎるでないぞ。互いの気持ちを確かめることも大切じゃ」
「分かってるよ」
「ならばよい」
食事の準備ができると、二人は並んで座った。
湊が用意した簡単な料理を、恋珀はゆっくりと口に運ぶ。
「うむ。今日も悪くない味じゃ」
「それはよかった」
「しかし、少し味が薄いのう」
「そう?」
「うむ。次はもう少し塩を加えるとよい」
「分かった。次はそうしてみるよ」
恋珀は満足そうに頷いた。
こうして食事の味について話すことさえ、今では当たり前になっている。
湊はそれが嬉しかった。
食事を終えた後、恋珀は窓辺へ移動した。
外では風が木々を揺らしている。
「今日は、どうするつもりじゃ?」
「特に決めてないよ。恋珀は何かしたいことある?」
「そうじゃな……」
恋珀は少し考えた。
「また、あの場所へ行ってみたいのう」
「あの場所?」
「昨日の施設ではないぞ。以前、お主と行った森の奥の広場じゃ」
「ああ、あそこか」
七章で二人が訪れた、木々に囲まれた静かな場所。
大きな木があり、草花が咲いていた場所だ。
「また行きたいと思っておったのじゃ。今度は、もう少しゆっくり過ごしてみたい」
「いいね。何か持っていこうか」
「食べ物がよいのう」
「じゃあ、簡単なお弁当でも作ろうか」
「お弁当か。よい響きじゃな」
恋珀の尾が、嬉しそうに揺れた。
「では、今日は準備をして、明日にでも行くとするかのう」
「うん。そうしよう」
二人は明日の予定を話しながら、必要なものを考え始めた。
そのとき、湊はふと思い出したように恋珀へ尋ねた。
「ねえ、恋珀」
「なんじゃ?」
「契約を結んでから、何か変わったことって他にもある?」
恋珀は少し考えた後、自分の尾を見つめた。
「そうじゃな……」
三本の尾が、ゆっくりと動く。
「お主の感情が、以前より分かりやすくなった気がするのじゃ」
「僕の感情?」
「うむ。例えば、今のお主は楽しそうじゃ」
「それは顔を見れば分かるんじゃない?」
「それだけではない。言葉にしておらぬ気持ちまで、ほんの少し伝わってくるような気がする」
「へえ……」
「じゃが、完全に分かるわけではないぞ。お主が何を考えておるか、すべて見通せるわけではない」
「それならよかった」
「む? なぜじゃ?」
「何でもかんでも分かられたら、少し恥ずかしいからね」
恋珀は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。
「ふふふ。安心せい。お主の心を勝手に覗くつもりはないのじゃ」
「ありがとう」
「じゃが、嬉しい気持ちくらいは伝わってもよかろう?」
「それはもちろん」
恋珀は湊の手を取った。
「ならば、今の気持ちは伝わっておるか?」
「どんな気持ち?」
「お主と一緒におれることが嬉しい、という気持ちじゃ」
湊は彼女の手を握り返した。
「うん。ちゃんと伝わってるよ」
「そうか」
恋珀は柔らかく笑った。
窓から差し込む光が、二人の間を照らしている。
契約を結んだからといって、すべてが突然変わるわけではない。
朝になれば目を覚まし、食事を作り、話をして、また夜を迎える。
そんな何気ない日々が続いていく。
けれど、二人はもう知っている。
その日々を、互いの命を分け合いながら過ごしていくということを。
「マスター」
「なに?」
「明日が楽しみじゃな」
「僕もだよ」
恋珀は湊の手を握ったまま、窓の外を眺めた。
その横顔は、いつもより少しだけ穏やかに見えた。
新しい朝。
二人で迎える、何度目かの朝。
それは、これからも続いていく日常の始まりだった。