翌朝。
廃墟の窓から差し込む光が、部屋の中を明るく照らしていた。
「マスター、準備はできたかのう?」
恋珀は赤い着物の裾を整えながら、湊の方を振り返った。
「うん。お弁当も持ったよ」
「よし。では、出発じゃな」
昨日約束した森の広場へ向かうため、二人は荷物をまとめていた。
小さな包みには、湊が作った食べ物が入っている。恋珀はそれを受け取ると、嬉しそうに中身を確かめた。
「ふむ。なかなかよい出来ではないか」
「まだ食べてないでしょ」
「見た目も大切なのじゃ」
「それはそうだけど」
恋珀は満足げに頷くと、包みを大事そうに抱えた。
二人は廃墟を出て、いつもの森へと続く道を歩き始めた。
木々の間を抜ける風は穏やかで、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
恋珀の三本の尾が、歩くたびにゆったりと揺れていた。
「今日は人の気配もないのう」
「そうだね。ここならゆっくりできそうだ」
「うむ。せっかくの二人きりの時間じゃ。邪魔はされたくないものじゃな」
「恋珀、楽しみにしてたんだね」
「当然じゃろう。お主と出かけるのは楽しいからのう」
何気ない会話を交わしながら、二人は森の奥へ進んでいった。
やがて、木々の隙間から広場が見えてくる。
以前と変わらない景色。
大きな木が中央に立ち、その周囲には草花が咲いている。
湊は広場に足を踏み入れ、辺りを見回した。
「やっぱり、いい場所だね」
「じゃろう?」
恋珀は得意げに笑った。
「ここは昔から変わらぬ。人の住む場所は移り変わっても、このような場所は残ることがあるのじゃ」
二人は大きな木の根元に腰を下ろした。
湊が包みを開くと、恋珀はさっそく中身に目を向ける。
「おお。これは楽しみじゃ」
「そんなに期待されると、ちょっと緊張するな」
「安心せい。多少失敗しておっても、ワシが食べてやるのじゃ」
「それはありがたいけど、できれば美味しく食べてほしいな」
恋珀は小さく笑い、湊の作った食事を口に運んだ。
「うむ。美味いのじゃ」
「よかった」
「以前よりも上達したのではないか?」
「そうかな?」
「うむ。ワシが保証する」
その言葉に、湊も笑顔を浮かべた。
しばらくは、穏やかな時間が流れていた。
食事を終え、二人で木々の間を眺めていると、恋珀がふと顔を上げた。
「……む?」
「どうしたの?」
恋珀は返事をせず、森の奥を見つめている。
三本の尾が、ぴたりと動きを止めていた。
「何か聞こえたか?」
「いや……音ではない」
恋珀はゆっくりと立ち上がった。
「妙な気配がするのじゃ」
「妖怪?」
「分からぬ。妖気に似ておるが、少し違う。かなり古いもののようじゃな」
湊も立ち上がり、恋珀の視線の先を見た。
そこには、木々が密集した薄暗い場所がある。
以前この広場を訪れたときには、気にも留めなかった場所だった。
「行ってみる?」
「……そうじゃな。じゃが、ワシのそばを離れるでないぞ」
恋珀の声が少しだけ厳しくなる。
「分かった」
二人は手を繋ぎ、森の奥へと進んでいった。
草をかき分け、木々の間を抜ける。
しばらく歩くと、地面に石畳が見え始めた。
「こんな道があったんだ」
「ワシも知らなんだ……」
恋珀は不思議そうに辺りを見回した。
石畳は長い年月を経て苔に覆われている。ところどころ崩れてはいるが、かつては人が通っていた道なのだろう。
その先に、小さな建物が見えた。
古びた鳥居。
その奥には、崩れかけた社がひっそりと佇んでいた。
「神社……?」
「いや、これは……」
恋珀は鳥居の前で足を止めた。
彼女の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
「恋珀?」
「この場所には、結界が張られておる」
「結界?」
「うむ。外から何かを入れぬためのものではない。中にある何かを、外へ出さぬための結界じゃ」
湊は社を見つめた。
扉は閉じられている。
窓もなく、中の様子は分からない。
それなのに、なぜか視線を向けられているような感覚があった。
「中に何かいるのかな」
「分からぬ。じゃが、長い間ここに封じられておったようじゃ」
恋珀は鳥居に手を触れた。
その瞬間。
二人の手元が、淡く光った。
「っ……!」
恋珀が驚いて手を離す。
湊も自分の手を見た。
契約を結んだときに感じた、あの温かな光。
それが今、二人の手の間にかすかに浮かんでいた。
「恋珀、これって……」
「契約が反応しておる?」
恋珀は湊の手を握り直した。
すると、光はさらに強くなった。
鳥居の奥。
社の扉が、ゆっくりと軋んだ音を立てた。
開いたわけではない。
ただ、内側から誰かが触れたように、ほんの少し揺れたのだ。
そして。
「……やっと、見つけた」
声が聞こえた。
幼い子供のような声だった。
湊は息を呑んだ。
恋珀はすぐに湊を自分の後ろへかばう。
「何者じゃ!」
返事はない。
代わりに、社の隙間から白い光が漏れ始めた。
その光の中に、小さな人影が浮かび上がる。
人間の子供のような姿。
けれど、その輪郭はぼんやりとしていて、顔までは分からない。
「……恋珀?」
湊が小さく呼ぶ。
恋珀は答えなかった。
彼女はただ、その人影を見つめていた。
やがて、子供の声が再び響く。
「その人と、契約したんだね」
「……お主、なぜそれを知っておる」
「ずっと待っていたから」
「何を待っておった?」
人影は、少しだけ首を傾けた。
「あなたたちが来るのを」
恋珀の尾が大きく広がる。
「ふざけるでない。お主は何者じゃ。なぜこの場所におる?」
すると、人影はゆっくりと社の奥へ下がった。
「ここから出して」
その声は、先ほどよりもずっと小さかった。
「お願い……もう、ひとりは嫌なの」
湊は恋珀の肩越しに社を見つめた。
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど恋珀は動かなかった。
「マスター。近づいてはならぬ」
「でも……」
「まだ何も分かっておらぬ。相手が何者かも、何を望んでおるのかもな」
恋珀は湊の手を強く握った。
そのとき、社の奥から再び声が聞こえた。
「……あれ?」
人影が湊の方を向いた。
「その人……あなたの命と繋がっているんだね」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
「どうして、それが分かるの?」
問いかけても、人影は答えなかった。
ただ、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
「ねえ」
その声が、森の中に響いた。
「あなたたちの契約、少しだけ見せて」
直後。
鳥居の周囲に張られていた結界が、音もなく消えた。
恋珀は湊を抱き寄せるように引き寄せた。
「マスター、下がるのじゃ!」
社の扉が、ゆっくりと開き始める。
中から溢れ出した光が、二人を包み込んだ。
そして、その光の向こうから。
誰かが、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
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