三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:杉花

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第十四話 恋珀と森の封印

社の扉が、ゆっくりと開いていく。

 

軋む音が森の中に響く。

 

その隙間から漏れる白い光は、次第に強さを増していた。

 

湊は恋珀の背後に立ちながら、社の中を見つめていた。

 

やがて、光の向こうから小さな足音が聞こえてくる。

 

一歩。

 

また一歩。

 

そして、扉の前に姿を現したのは、一人の少女だった。

 

年の頃は十歳にも満たないように見える。

 

長い黒髪に、白い着物。裸足のまま地面に立ち、こちらをじっと見つめている。

 

しかし、その姿にはどこか違和感があった。

 

少女の足元には影がない。

 

風が吹いても髪は揺れず、周囲の草木だけが音を立てている。

 

「……お主は何者じゃ」

 

恋珀が低い声で尋ねた。

 

少女は少し首を傾げた。

 

「分からない」

 

「分からぬじゃと?」

 

「自分が何なのか、もうずっと覚えていないの」

 

少女は自分の手を見つめた。

 

「名前も、どこから来たのかも。ここにいることだけは覚えているけれど」

 

「この社に封じられておったのか?」

 

「うん」

 

少女は小さく頷いた。

 

「ずっと、ここにいたよ」

 

湊は少女の姿を見つめた。

 

見た目は幼いが、声には年齢を感じさせない不思議な響きがある。

 

「どうして封じられていたの?」

 

湊が尋ねると、少女は彼の方を向いた。

 

「あなたは、優しいね」

 

「え?」

 

「私のことを怖がらないんだ」

 

「怖くないわけじゃないよ。ただ、話を聞いてみたいと思ったんだ」

 

少女は少しだけ笑った。

 

その笑顔は、どこか寂しそうだった。

 

「そっか……」

 

しかし、恋珀は警戒を解かなかった。

 

「マスター、あまり気を許すでない。こやつからは、妙な気配がする」

 

「分かってる」

 

湊は恋珀の隣に並んだ。

 

少女は二人を交互に見つめた。

 

「あなたたち、契約しているんだよね」

 

「そうじゃ」

 

「命を分け合っているの?」

 

「そうじゃ。じゃが、それがどうしたというのじゃ」

 

少女は少し考え込むように俯いた。

 

「珍しいね」

 

「何がじゃ?」

 

「妖と人間が、そこまで深く繋がること」

 

少女は湊の胸元を見つめた。

 

「あなたの中に、恋珀の力が流れている。恋珀の中にも、あなたの命がある」

 

「……それが見えるのか?」

 

「うん。私には分かるよ」

 

少女はゆっくりと手を伸ばした。

 

「少しだけ触れてもいい?」

 

湊は恋珀を見た。

 

恋珀はすぐに首を横に振る。

 

「許すわけにはいかぬ」

 

「どうして?」

 

「お主が何者か分からぬ以上、触れさせる理由がない」

 

少女は手を下ろした。

 

「そっか。恋珀は慎重なんだね」

 

その呼び方に、恋珀の表情が変わった。

 

「……なぜ、ワシの名を知っておる」

 

「さっきから呼んでいたよ」

 

「そうではない。ワシの名を知っている理由を聞いておる」

 

少女は不思議そうに目を瞬かせた。

 

「だって、知っているもの」

 

「いつ、どこで知った?」

 

「覚えていない」

 

恋珀は少女をじっと見つめた。

 

彼女の記憶に、このような存在はない。

 

少なくとも、五千年という長い年月の中で、社に封じられた少女と出会った覚えはなかった。

 

「……マスター」

 

恋珀は湊にだけ聞こえるような声で呟いた。

 

「この者、ただの妖ではないぞ」

 

「うん。僕もそう思う」

 

「じゃが、敵意があるようにも感じぬ」

 

少女は二人の会話を聞いていたのか、少しだけ微笑んだ。

 

「私、あなたたちにお願いがあるの」

 

「お願い?」

 

湊が尋ねる。

 

少女は頷いた。

 

「ここから出してほしい」

 

「どうしてじゃ」

 

恋珀が問い返す。

 

「ここにいるのは、もう嫌なの」

 

少女は社の中を振り返った。

 

その瞳には、長い年月を過ごしてきた者のような寂しさが浮かんでいた。

 

「ずっと一人だった。誰も来ないし、誰も話しかけてくれない。外の景色も、ほとんど見えない」

 

「封印を解けば、お主は自由になるのか?」

 

「分からない」

 

「分からぬことばかりじゃな」

 

「ごめんなさい」

 

少女は俯いた。

 

「でも、ここから出たいの」

 

その声を聞き、湊は社の周囲を見回した。

 

古びた石柱には、文字のようなものが刻まれている。

 

苔に覆われていて読み取れない部分も多いが、何かを封じるためのものだということは分かった。

 

「恋珀、この文字は読める?」

 

「少し待つのじゃ」

 

恋珀は石柱へ近づいた。

 

指先で苔を払うと、古い文字が姿を現す。

 

恋珀の表情が徐々に険しくなった。

 

「……これは」

 

「何か分かった?」

 

「古い封印の術式じゃ。じゃが、普通のものとは違う」

 

「どう違うの?」

 

「封じる対象を閉じ込めるだけではない。外からの力を遮断し、同時に内側の存在を眠らせ続ける仕組みになっておる」

 

恋珀は別の石柱にも目を向けた。

 

「しかも、かなり強固じゃ。これほどの術式を組める者は、そう多くはおらぬ」

 

「誰が作ったんだろう」

 

「分からぬ。じゃが、少なくとも最近のものではない」

 

少女は二人の会話を聞きながら、静かに立っていた。

 

湊は彼女に向き直る。

 

「君は、ここに来る前のことを何も覚えていないの?」

 

「うん」

 

「誰かと一緒にいた記憶も?」

 

少女は少しだけ考えた。

 

「……誰かがいた気がする」

 

「誰?」

 

「分からない。でも、私に何かを約束した人」

 

その言葉に、恋珀が振り返った。

 

「約束?」

 

「うん。ずっと昔に」

 

少女は自分の胸元に手を当てた。

 

「ここから出られる日が来るまで、待っていてって」

 

「誰がそんなことを言ったのじゃ?」

 

「分からない」

 

少女は悲しそうに笑った。

 

「でも、その人が来ると思っていたの」

 

森の風が吹き抜ける。

 

木々の葉が揺れ、社の周囲に落ちていた枯れ葉が舞い上がった。

 

そのとき、湊の胸元がかすかに光った。

 

「っ……!」

 

湊は自分の胸に手を当てた。

 

契約を結んだときに感じた、あの温かな感覚。

 

それが、今は少し強くなっている。

 

恋珀も同時に気づいたらしい。

 

「マスター、どうしたのじゃ?」

 

「分からない。でも、また契約のときみたいな感覚がする」

 

少女はその光を見つめた。

 

そして、目を見開く。

 

「……あ」

 

「どうした?」

 

少女は湊に近づこうとした。

 

恋珀が一歩前に出て、それを遮る。

 

「待つのじゃ」

 

「違う……」

 

少女は恋珀の制止に構わず、湊を見つめ続けた。

 

「その光……私、知ってる」

 

「知っている?」

 

「うん。昔、見たことがある」

 

少女の声が震え始めた。

 

「誰かが、同じ光を持っていた」

 

「それは誰じゃ?」

 

「分からない……でも」

 

少女は胸元を押さえた。

 

「その人も、誰かと命を繋いでいた」

 

恋珀の表情が変わる。

 

「まさか……」

 

「恋珀?」

 

「いや、まだ何とも言えぬ」

 

恋珀は石柱を見つめた。

 

封印の術式。

 

長い年月。

 

そして、契約に反応する少女。

 

偶然とは思えなかった。

 

「お主、もう一度聞くぞ」

 

恋珀は少女に向き直った。

 

「この場所で何があった?」

 

少女は答えようとした。

 

だが、その瞬間。

 

社の奥から、低い音が響いた。

 

ゴゴゴ……。

 

地面が小さく揺れる。

 

石柱に刻まれた文字が、次々と淡く光り始めた。

 

「な、何じゃ……!」

 

恋珀は湊を引き寄せる。

 

少女は驚いたように社を振り返った。

 

「そんな……まだ、眠っていたはずなのに」

 

「何が眠っておったというのじゃ!」

 

少女は答えない。

 

社の奥。

 

暗闇の中で、何かが動いている。

 

そして、聞こえてきた。

 

低く、かすれた声。

 

『……契約者』

 

湊の身体が強張った。

 

『また、命を繋いだのか』

 

その声は、湊だけでなく恋珀にも聞こえているようだった。

 

恋珀は湊の前に立ち、尾を大きく広げた。

 

「何者じゃ! 姿を見せよ!」

 

『……稲荷の妖狐か』

 

その声が、恋珀の名を呼んだ。

 

恋珀の瞳が鋭くなる。

 

「ワシを知っておるのか」

 

『知っているとも』

 

暗闇の奥で、二つの赤い光が浮かび上がった。

 

『その契約……長くは続かぬぞ』

 

次の瞬間、社の扉が激しく震えた。

 

少女が悲鳴を上げる。

 

「だめ……! まだ出てきちゃだめ!」

 

恋珀は少女を見た。

 

「お主、何を知っておる!」

 

「私にも分からない! でも、あれが出てきたら……!」

 

少女の声が震える。

 

「また、みんながいなくなっちゃう……!」

 

社の奥から、黒い霧が溢れ始めた。

 

それは廃施設で見たものに似ていた。

 

しかし、あのときの影とは違う。

 

もっと濃く、もっと重い。

 

まるで周囲の光そのものを吸い込んでいるようだった。

 

恋珀は湊の手を握った。

 

「マスター、下がるのじゃ」

 

「恋珀、あれは……」

 

「分からぬ。じゃが、あのままにしておくわけにはいかぬ」

 

恋珀の指先に、小さな炎が灯る。

 

湊もまた、彼女の手を握り返した。

 

契約によって繋がった二人の命。

 

その温もりが、今はかすかに強く感じられる。

 

少女は二人を見つめていた。

 

そして、震える声で呟いた。

 

「お願い……私を信じて」

 

社の奥から、黒い霧がさらに広がっていく。

 

森を包み込むように、闇が迫っていた。




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