森を包み込むように、黒い霧が広がっていた。
木々の葉が揺れる音が止み、鳥の声も聞こえなくなる。
まるで、この場所だけが世界から切り離されたかのようだった。
恋珀は湊の前に立ち、三本の尾を大きく広げていた。
「マスター、決してワシから離れるでないぞ」
「分かってる。でも、恋珀も無理はしないで」
「心配せずともよい。今度は力を使いすぎぬようにするのじゃ」
そう言いながらも、恋珀の視線は社の奥から離れない。
黒い霧の中に浮かぶ二つの赤い光。
それは、こちらの様子を窺うように静かに揺れていた。
『……人間と妖狐』
低い声が響く。
『奇妙な組み合わせだ』
「お主こそ、何者じゃ。なぜこの社に封じられておる?」
『封じられている?』
声が笑った。
『違う。私は待っているのだ』
「何をじゃ?」
『契約が再び結ばれる、その時を』
湊は恋珀の横から社を見つめた。
「契約……?」
『そうだ。命を繋ぎ、互いの存在を分かち合う契約。お前たちが結んだものと同じだ』
恋珀の耳がぴくりと動いた。
「なぜ、そのことを知っておる」
『知らぬはずがない』
黒い霧が大きくうねった。
『その契約の始まりを、私は知っている』
その言葉に、恋珀は一瞬だけ目を細めた。
「……契約の始まりじゃと?」
『そうだ。妖と人間が命を分かち合う仕組み。その力がどこから生まれたのか、お前は知らないだろう』
恋珀は答えなかった。
彼女自身、契約の仕組みについては知っていた。
互いの信頼と愛情が必要であること。
契約者の命が繋がること。
人間が力を使えば、その代償として寿命を失うこと。
しかし、その力がどこから生まれたのかまでは知らなかった。
「お主は、それを知っておるというのか」
『知っているとも』
「ならば話せ。なぜ、少女をここに閉じ込めておる?」
恋珀の言葉に、少女がびくりと肩を震わせた。
『閉じ込めたのではない』
「では何じゃ」
『守っているのだ』
その瞬間、少女が声を上げた。
「違う!」
小さな身体を震わせながら、少女は社の前へ歩み出た。
「守ってなんかいない! 私はずっと、ここに閉じ込められていた!」
『お前は何も知らない』
「知ってるよ!」
少女の声が森に響く。
「私はずっと一人だった! 誰も来なかった! あなたが私をここに置いていったんだ!」
黒い霧が少女へと伸びる。
恋珀はすぐに手をかざした。
赤い炎が地面を走り、少女と霧の間に壁を作る。
「その者に触れるでない!」
『……妖狐が』
霧の動きが止まった。
『余計なことをするな』
「余計かどうかは、ワシが決めるのじゃ」
恋珀は鋭い目で睨みつけた。
「この少女が何者であろうと、今は怯えておる。話を聞く前から傷つけるつもりはない」
『ならば、見せてやろう』
霧が一気に膨れ上がった。
次の瞬間、地面から無数の黒い腕が伸びてくる。
「マスター!」
恋珀が湊を引き寄せ、尾で包み込む。
黒い腕が二人のいた場所を掴もうとしたが、間一髪で届かなかった。
恋珀は湊を背後へ下がらせ、両手を前に構える。
「炎よ!」
赤い火が弧を描いて広がった。
黒い腕は炎に触れると、苦しむように揺らめき、地面へと沈んでいく。
だが、消えたわけではない。
霧の中から次々と新しい腕が現れた。
「きりがないのう……!」
「恋珀、僕にも何かできないかな?」
「無理をするでない。まだお主が契約の力を扱えるかも分からぬのじゃ」
「でも、二人で契約したんだ。僕にもできることがあるかもしれない」
恋珀は一瞬だけ湊を見た。
その瞳には迷いがあった。
「……ならば、ワシの手を離すでないぞ」
「うん」
湊は恋珀の手を握った。
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
契約を結んだときと同じ感覚。
けれど、今回はそれだけではなかった。
恋珀の中にある力が、自分の中にも流れてくるような感覚があった。
「これは……」
『ほう』
黒い霧の奥から声が響く。
『もう、力を感じ取れるのか』
「何を言っておる!」
恋珀が叫ぶ。
『その人間は、お前の力を受け入れ始めている。契約とはそういうものだ』
湊は自分の手を見つめた。
指先に、淡い光が灯っている。
「恋珀、これ……」
「マスター、焦るでない。ゆっくりと力を感じるのじゃ」
湊は目を閉じた。
胸の奥にある温もりを探る。
そこには恋珀の存在があった。
彼女の力。
彼女の命。
そして、自分を信じてくれているという確かな感覚。
湊はゆっくりと手を前へ伸ばした。
すると、指先から淡い光が広がった。
黒い腕の動きが止まる。
「……止まった?」
恋珀も驚いたように湊を見た。
湊が作り出した光は、黒い霧を押し返すほど強いものではなかった。
けれど、霧が湊に触れることを拒んでいるようだった。
『なるほど』
声が低く響く。
『その契約は、まだ不完全なのかもしれないな』
「不完全じゃと?」
『互いに命を分け合っただけでは、契約のすべてを知ったことにはならない』
黒い霧が少しずつ社へ戻っていく。
『いずれ分かる。お前たちが何を結んだのか』
「待て!」
恋珀が叫んだ。
しかし、霧は社の奥へと吸い込まれていった。
二つの赤い光も、ゆっくりと暗闇に消えていく。
最後に、低い声だけが残った。
『その少女を連れていくな』
そして、静寂が戻った。
恋珀はしばらく社を見つめていたが、やがて湊の方へ振り返った。
「マスター、怪我はないか?」
「うん。大丈夫だよ」
「そうか……よかったのじゃ」
恋珀は安堵したように息を吐いた。
それから、少女へと視線を向ける。
少女は社の前に立ち尽くしていた。
「……あれは、何なの?」
湊が尋ねる。
少女は首を横に振った。
「分からない。でも、あの声はずっと聞いていた」
「ずっと?」
「うん。眠っている間も、目を覚ましている間も。いつも私のそばにいた」
少女は自分の手を見つめた。
「でも、あれが誰なのかは知らない」
恋珀は少女の前にしゃがみ込んだ。
「お主、名前はあるか?」
少女は少し考えた。
「……ない」
「そうか」
「でも、昔、誰かに呼ばれていた気がする」
「どのように?」
「分からない。声は覚えているのに、名前だけ思い出せない」
少女は悲しそうに俯いた。
湊は恋珀の隣にしゃがんだ。
「無理に思い出さなくてもいいよ。少しずつ思い出せばいい」
少女は湊を見上げた。
「あなたは、優しいね」
「そうかな」
「うん。あの人も、あなたみたいに優しかった気がする」
その言葉に、湊は少しだけ胸が痛んだ。
少女は長い間、ここで一人だった。
それがどれほど寂しかったのか、想像することしかできない。
「ここから出たいんだよね?」
少女は頷いた。
「うん」
「なら、僕たちと一緒に来る?」
恋珀が湊を見た。
「マスター……」
「もちろん、何も分からないまま連れて帰るのは危ないと思う。でも、ここに一人で残すのも違う気がするんだ」
恋珀は少し考えた。
それから少女へ視線を戻す。
「お主が何者なのか、まだ分からぬ。じゃが、ここに留まることが安全とも限らぬ」
少女は二人を見つめた。
「一緒に行ってもいいの?」
「ただし、いくつか約束してもらうぞ」
恋珀は指を一本立てた。
「ワシらに隠し事をせぬこと。分からぬことは分からぬと言うこと。そして、勝手にどこかへ行かぬことじゃ」
少女は小さく頷いた。
「分かった」
「よいな。では、ひとまず一緒に来るがよい」
少女の顔に、ほんの少し笑みが戻った。
「ありがとう」
そのとき、社の奥で小さな音がした。
三人が振り返る。
扉の隙間に、何かが落ちている。
湊が近づいて拾い上げると、それは古びた小さな鈴だった。
赤い紐がついており、表面には見慣れない文字が刻まれている。
「これは……?」
恋珀が鈴を覗き込んだ。
「古いものじゃな。だが、ただの鈴ではない」
「分かるの?」
「うむ。微かに妖気が残っておる」
少女は鈴を見つめた。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……それ」
「知っているの?」
少女は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「分からない。でも、懐かしい」
湊は鈴を少女へ差し出した。
少女は両手でそれを受け取る。
すると、鈴が小さく鳴った。
ちりん。
その音を聞いた瞬間、少女の瞳から涙がこぼれた。
「……どうして」
「大丈夫か?」
「分からない……でも、なんだか悲しい」
少女は鈴を胸元に抱きしめた。
恋珀はその様子を静かに見つめていた。
やがて、湊の方へ顔を向ける。
「マスター。今日はもう戻ろう」
「うん」
「この場所については、改めて調べる必要がある。あの声の正体も、封印のこともな」
「そうだね」
恋珀は少女へ手を差し伸べた。
「さあ、行くぞ」
少女はその手を見つめ、少し迷った後、そっと握った。
三人は社を後にした。
森の出口へ向かう道中、少女は何度も振り返っていた。
長い間閉じ込められていた場所。
そこに何があったのか、彼女自身にも分からない。
けれど、もう一人ではなかった。
湊は少女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いた。
恋珀もまた、彼の隣を歩いている。
その手は、いつもより少しだけ強く握られていた。
森を抜ける直前、少女がぽつりと呟いた。
「ねえ」
「どうしたの?」
湊が振り返る。
少女は鈴を握ったまま、二人を見上げた。
「私、あなたたちのことを知っている気がする」
「僕たちを?」
「うん。初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っていたみたい」
恋珀は少女を見つめた。
「……いずれ分かるじゃろう」
そう言って、彼女は再び歩き始めた。
夕暮れの森に、三人の足音が重なっていく。
新しい出会い。
そして、まだ明かされていない契約の秘密。
二人の暮らしは、少しずつ変わり始めていた。
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