三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:杉花

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今までにないペースでuaが伸びてるので初投稿です!


第十六話 恋珀と小さな鈴

森を抜けるころには、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

 

木々の間から差し込む夕陽が、帰り道を細く照らしている。

 

僕たちの前を歩く少女は、時折、手の中にある小さな鈴へ視線を落としていた。

 

赤い紐の先に結ばれた、古びた鈴。

表面には見たことのない文字が刻まれている。

 

少女はそれを両手で包み込むように持っていた。

 

「その鈴、ずっと大切にしていたんだね」

 

僕が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。

 

「……うん。どうしてなのかは、わからないけど」

 

「思い出せないのか?」

 

「うん。でも、なくしちゃいけないものだと思うの」

 

少女は鈴を見つめたまま、小さく続けた。

 

「これを持っていると、少しだけ安心するの」

 

その言葉に、僕は頷いた。

 

無理に思い出させようとする必要はない。

彼女自身が覚えていないことを、僕たちが問い詰めても仕方がないのだから。

 

「なら、大事に持っていればいいよ。いつか思い出すかもしれないし」

 

「……うん」

 

少女はほんの少しだけ笑った。

 

その様子を見ていた恋珀が、僕の隣へ歩み寄る。

 

「湊。そろそろじゃな」

 

「ああ。もうすぐ着くよ」

 

「そうか。……しかし」

 

恋珀は少女へ視線を向けた。

 

「お主、歩くのは平気か?」

 

「大丈夫」

 

「本当か? 先ほどから随分と足取りが遅くなっておるぞ」

 

「……少しだけ、疲れたかも」

 

少女は申し訳なさそうに俯いた。

 

恋珀は小さく息を吐くと、少女の前で足を止めた。

 

「まったく。無理をするでない。歩けぬなら、そう言えばよいのじゃ」

 

「でも……」

 

「でも、ではない。ワシらは急いでおらぬ」

 

そう言って、恋珀は少女の手を取った。

 

「ほれ、少し休むぞ」

 

少女は驚いたように目を丸くしたが、やがて素直に頷いた。

 

僕たちは道端にあった大きな石へ腰を下ろした。

 

少女は鈴を握ったまま、ぼんやりと夕空を眺めている。

 

「ねえ」

 

しばらくして、少女が口を開いた。

 

「あなたたちは、ずっと一緒にいるの?」

 

「もちろんじゃ」

 

恋珀が即答した。

 

「ワシとマスターは契約を交わした。命を分かち合い、互いの存在を支え合う関係なのじゃ」

 

「命を……?」

 

少女は僕の胸元を見つめた。

 

契約の光が宿る場所。

普段は何も見えないけれど、意識すれば恋珀の存在を確かに感じられる。

 

「そうだよ。僕と恋珀は、もう離れて生きることはできない」

 

「それは……怖くないの?」

 

少女の声には、どこか不安が混じっていた。

 

僕は少し考えてから答えた。

 

「怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に一緒にいたいと思ったんだ」

 

「一緒に……」

 

「うむ。マスターはそう言ってくれたのじゃ」

 

恋珀は誇らしげに胸を張った。

 

「じゃから、ワシは今ここにおる。何があろうとも、マスターを守ると決めたのじゃ」

 

その言葉を聞いた少女は、手の中の鈴をぎゅっと握った。

 

「……私も」

 

「ん?」

 

「私も、誰かと一緒にいたかったのかな」

 

少女は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと呟いた。

 

「ずっと一人だった気がする。でも、本当は……誰かが来てくれるのを待っていたような気がするの」

 

僕は少女の隣に座り直した。

 

「その約束をした人のこと、少しでも思い出せそう?」

 

「わからない。顔も、声も、名前も……何も」

 

少女は首を横に振る。

 

「でも、待っていてって言われたことだけは覚えているの」

 

「そっか」

 

「だから、ずっと待っていたのかもしれない」

 

夕風が吹き抜け、少女の長い黒髪が揺れた。

 

そのときだった。

 

チリン。

 

少女の手の中で、鈴が小さく鳴った。

 

風に揺れたわけではない。

少女が動かしたわけでもなかった。

 

鈴そのものが、ひとりでに音を立てたのだ。

 

恋珀の耳がぴくりと動く。

 

「……今の音」

 

「恋珀も聞こえた?」

 

「うむ。間違いなく鳴ったのじゃ」

 

少女は驚いた様子で鈴を見つめていた。

 

「どうして……?」

 

彼女が鈴を持ち上げる。

 

すると、表面に刻まれた文字の一部が、淡く光を帯びた。

 

僕の胸元にも、微かな熱が生まれる。

 

契約の光だ。

 

「マスター!」

 

恋珀が僕の手を握る。

 

その瞬間、光はすぐに消えた。

 

少女の鈴も、何事もなかったかのように静まり返っている。

 

「今のは……」

 

「偶然ではなかろうな」

 

恋珀は少女の手元を警戒するように見つめた。

 

「その鈴と、ワシらの契約。何か関係があるのかもしれぬ」

 

「私、何かしたの……?」

 

少女の表情が曇る。

 

「いや、お主が悪いわけではない。じゃが、その鈴については、もう少し調べる必要がありそうじゃ」

 

恋珀はそう言いながらも、少女を責めるような様子はなかった。

 

僕も少女へ向き直る。

 

「大丈夫。わからないことは、これから一緒に調べていけばいいよ」

 

「……一緒に?」

 

「うん。君も僕たちと一緒に帰るんだから」

 

少女は少しの間、僕の顔を見つめていた。

 

やがて、控えめに頷く。

 

「ありがとう」

 

その声は、先ほどよりも少しだけ明るかった。

 

それからしばらく歩き、僕たちはようやく住み慣れた廃屋へと戻ってきた。

 

森の奥にひっそりと建つ、古びた建物。

 

ここで暮らし始めてから、それなりの時間が経った。

 

最初はただ雨風をしのげればいいと思っていた場所も、今では僕と恋珀にとって大切な帰る場所になっている。

 

「ここが、あなたたちの家?」

 

少女が建物を見上げる。

 

「そうじゃ。立派とは言えぬが、雨露をしのぐには十分な場所なのじゃ」

 

恋珀はそう答えながら、尻尾を揺らした。

 

「少し古いけどね。中に入れば落ち着くと思うよ」

 

僕が扉を開けると、軋んだ音が響いた。

 

少女は入り口の前で立ち止まる。

 

「どうしたの?」

 

「……入ってもいいの?」

 

その問いに、僕は少し驚いた。

 

彼女にとって、誰かの家へ入るということは、当たり前ではないのかもしれない。

 

「もちろん。今日からここが君の居場所になるんだから」

 

「居場所……」

 

少女はその言葉を小さく繰り返した。

 

恋珀が少女の背中へ手を添える。

 

「遠慮するでない。入るのじゃ」

 

少女はゆっくりと一歩を踏み出した。

 

建物の中を見回し、壁や床、置かれた家具を順番に眺めていく。

 

「ここで、二人で暮らしているの?」

 

「そうじゃ。ワシとマスターの二人暮らしじゃな」

 

「……そうなんだ」

 

少女は少しだけ俯いた。

 

その表情を見て、僕は気になっていたことを尋ねた。

 

「そういえば、君は食事をするの?」

 

「食事……?」

 

「お腹が空いたりしない?」

 

少女は自分のお腹に手を当てる。

 

「わからない。ずっと、そういうことを考えたことがなかったから」

 

「眠ったりは?」

 

「眠ることはあるよ。でも、夢を見ることはないの」

 

「夢を?」

 

「うん。目を閉じて、次に開けたら時間が過ぎているの」

 

僕と恋珀は顔を見合わせた。

 

やはり、普通の人間とは違うのだろう。

 

そもそも、彼女には影がない。

 

それでも、こうして僕たちと会話をし、歩き、鈴を手にしている。

 

「まずは、ゆっくり確かめていくしかないな」

 

「そうじゃな。無理に何かをさせる必要もあるまい」

 

恋珀は部屋の隅を指差した。

 

「ひとまず、あそこを使うとよい。布団は後で用意してやろう」

 

「ありがとう……」

 

少女は小さく頭を下げた。

 

その姿を見て、僕はふと思い出す。

 

そういえば、彼女にはまだ名前がない。

 

「ねえ、君」

 

「なに?」

 

「名前は、やっぱり思い出せない?」

 

少女は少し困ったように笑った。

 

「うん。何も思い出せないの」

 

「そっか。じゃあ、無理に決める必要はないけど……呼び方がないと不便かな」

 

「ワシもそう思っておった。じゃが、本人が覚えておらぬ名を勝手につけるのも、少々違う気がするのじゃ」

 

恋珀は腕を組んで考え込む。

 

「今はそのままでよいじゃろう。名前を思い出したときに、改めて呼べばよい」

 

「……うん。それがいい」

 

少女は安心したように頷いた。

 

僕は荷物を置き、夕食の準備を始めることにした。

 

今日はいろいろなことがありすぎた。

 

あの神社で出会った少女。

封印されていた存在。

契約の起源を知っているらしい、あの声。

 

そして、鈴が僕たちの契約に反応したこと。

 

考えなければならないことは山ほどある。

 

けれど、今すぐ答えが出るわけではない。

 

「湊、何をぼんやりしておる。火を起こすぞ」

 

「ごめん。考え事をしてた」

 

「考え事もよいが、まずは食事じゃ。腹が減っては何も始まらぬ」

 

「恋珀はお腹が空いてるの?」

 

「ワシはいつでも食べられるのじゃ」

 

「それ、答えになってないよ」

 

僕が笑うと、恋珀も得意げに笑った。

 

少女はそんな僕たちを、少し離れた場所から眺めていた。

 

やがて、彼女も小さく笑う。

 

その表情を見て、僕は少しだけ安心した。

 

◇

 

夕食を終えた後、少女は部屋の隅に敷いた布団のそばに座っていた。

 

手には、あの鈴。

 

赤い紐を指先でなぞりながら、何かを考えているようだった。

 

「眠くなった?」

 

僕が声をかけると、少女は首を横に振る。

 

「ううん。まだ大丈夫」

 

「そっか。何か気になることでもある?」

 

少女はしばらく黙っていた。

 

それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「さっき、鈴が鳴ったとき……少しだけ、声が聞こえた気がするの」

 

「声?」

 

「うん。とても遠くから。でも、誰かが私を呼んでいたような気がする」

 

恋珀がこちらへ振り返った。

 

「何と言っておった?」

 

「わからない。言葉までは聞き取れなかったの。ただ……」

 

少女は鈴を胸元へ寄せる。

 

「帰ろう、って聞こえた気がする」

 

その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。

 

僕の胸元に、また小さな熱が灯る。

 

今度は先ほどよりもはっきりとした感覚だった。

 

恋珀も気づいたらしく、僕の隣へ近づいてくる。

 

「マスター。胸の光を感じるか?」

 

「うん。さっきと同じだ」

 

「やはり、この鈴は契約に反応しておる」

 

恋珀は少女の手元を見つめた。

 

「そして、今の言葉……帰ろう、か」

 

「何か心当たりがあるの?」

 

僕が尋ねると、恋珀はすぐには答えなかった。

 

三本の尻尾が、ゆっくりと揺れる。

 

「まだ何とも言えぬ。じゃが、あの神社にあった封印と、この鈴。そしてマスターとの契約。これらは別々のものではないのかもしれぬ」

 

「契約の起源と関係しているのかな」

 

「おそらくな」

 

恋珀は少し考えた後、少女へ向き直った。

 

「お主。明日、もう一度その鈴を見せてくれぬか。刻まれた文字を詳しく調べたい」

 

「うん。いいよ」

 

少女は素直に頷いた。

 

それから、少しだけ迷うようにして僕たちを見た。

 

「……ねえ」

 

「どうしたの?」

 

「私、ここにいてもいいの?」

 

その問いに、僕はすぐに答えた。

 

「もちろんだよ」

 

恋珀も頷く。

 

「一度迎え入れた者を、理由もなく追い出すような真似はせぬ。じゃから安心するのじゃ」

 

少女は鈴を胸に抱いた。

 

「ありがとう……」

 

その声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。

 

けれど、確かに聞こえた。

 

僕は部屋の明かりを少し落とし、少女が休めるようにした。

 

恋珀と並んで座り、今日一日の出来事を振り返る。

 

神社の奥に残された謎。

契約の起源を知る声。

そして、名前も過去も失った少女。

 

彼女が待ち続けていた相手は、いったい誰なのだろう。

 

あの鈴が鳴ったときに聞こえたという「帰ろう」という言葉。

 

それは、誰が誰に向けた言葉なのか。

 

考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。

 

「湊」

 

恋珀が静かに僕を呼ぶ。

 

「明日から、少し忙しくなりそうじゃな」

 

「そうだね。でも、まずは彼女のことを知るところから始めよう」

 

「うむ。焦る必要はないのじゃ」

 

恋珀は僕の手を握った。

 

その温もりが、契約を通じて胸の奥まで伝わってくる。

 

僕たちの命は繋がっている。

 

そして今、新たに一人の少女が、この場所へやってきた。

 

彼女が何者なのかは、まだわからない。

 

ただ一つ確かなのは、彼女が長い孤独の中から、ようやく一歩を踏み出したということだった。

 

その夜。

 

誰も触れていないはずの小さな鈴が、布団のそばで一度だけ鳴った。

 

チリン。

 

まるで、遠い昔の約束を思い出したかのように。

 

そして少女は、眠りについたまま、かすかに呟いた。

 

「……もうすぐ、会えるの?」

 

その声を聞いた者は、誰もいなかった。




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