森を抜けるころには、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。
木々の間から差し込む夕陽が、帰り道を細く照らしている。
僕たちの前を歩く少女は、時折、手の中にある小さな鈴へ視線を落としていた。
赤い紐の先に結ばれた、古びた鈴。
表面には見たことのない文字が刻まれている。
少女はそれを両手で包み込むように持っていた。
「その鈴、ずっと大切にしていたんだね」
僕が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
「……うん。どうしてなのかは、わからないけど」
「思い出せないのか?」
「うん。でも、なくしちゃいけないものだと思うの」
少女は鈴を見つめたまま、小さく続けた。
「これを持っていると、少しだけ安心するの」
その言葉に、僕は頷いた。
無理に思い出させようとする必要はない。
彼女自身が覚えていないことを、僕たちが問い詰めても仕方がないのだから。
「なら、大事に持っていればいいよ。いつか思い出すかもしれないし」
「……うん」
少女はほんの少しだけ笑った。
その様子を見ていた恋珀が、僕の隣へ歩み寄る。
「湊。そろそろじゃな」
「ああ。もうすぐ着くよ」
「そうか。……しかし」
恋珀は少女へ視線を向けた。
「お主、歩くのは平気か?」
「大丈夫」
「本当か? 先ほどから随分と足取りが遅くなっておるぞ」
「……少しだけ、疲れたかも」
少女は申し訳なさそうに俯いた。
恋珀は小さく息を吐くと、少女の前で足を止めた。
「まったく。無理をするでない。歩けぬなら、そう言えばよいのじゃ」
「でも……」
「でも、ではない。ワシらは急いでおらぬ」
そう言って、恋珀は少女の手を取った。
「ほれ、少し休むぞ」
少女は驚いたように目を丸くしたが、やがて素直に頷いた。
僕たちは道端にあった大きな石へ腰を下ろした。
少女は鈴を握ったまま、ぼんやりと夕空を眺めている。
「ねえ」
しばらくして、少女が口を開いた。
「あなたたちは、ずっと一緒にいるの?」
「もちろんじゃ」
恋珀が即答した。
「ワシとマスターは契約を交わした。命を分かち合い、互いの存在を支え合う関係なのじゃ」
「命を……?」
少女は僕の胸元を見つめた。
契約の光が宿る場所。
普段は何も見えないけれど、意識すれば恋珀の存在を確かに感じられる。
「そうだよ。僕と恋珀は、もう離れて生きることはできない」
「それは……怖くないの?」
少女の声には、どこか不安が混じっていた。
僕は少し考えてから答えた。
「怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に一緒にいたいと思ったんだ」
「一緒に……」
「うむ。マスターはそう言ってくれたのじゃ」
恋珀は誇らしげに胸を張った。
「じゃから、ワシは今ここにおる。何があろうとも、マスターを守ると決めたのじゃ」
その言葉を聞いた少女は、手の中の鈴をぎゅっと握った。
「……私も」
「ん?」
「私も、誰かと一緒にいたかったのかな」
少女は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと呟いた。
「ずっと一人だった気がする。でも、本当は……誰かが来てくれるのを待っていたような気がするの」
僕は少女の隣に座り直した。
「その約束をした人のこと、少しでも思い出せそう?」
「わからない。顔も、声も、名前も……何も」
少女は首を横に振る。
「でも、待っていてって言われたことだけは覚えているの」
「そっか」
「だから、ずっと待っていたのかもしれない」
夕風が吹き抜け、少女の長い黒髪が揺れた。
そのときだった。
チリン。
少女の手の中で、鈴が小さく鳴った。
風に揺れたわけではない。
少女が動かしたわけでもなかった。
鈴そのものが、ひとりでに音を立てたのだ。
恋珀の耳がぴくりと動く。
「……今の音」
「恋珀も聞こえた?」
「うむ。間違いなく鳴ったのじゃ」
少女は驚いた様子で鈴を見つめていた。
「どうして……?」
彼女が鈴を持ち上げる。
すると、表面に刻まれた文字の一部が、淡く光を帯びた。
僕の胸元にも、微かな熱が生まれる。
契約の光だ。
「マスター!」
恋珀が僕の手を握る。
その瞬間、光はすぐに消えた。
少女の鈴も、何事もなかったかのように静まり返っている。
「今のは……」
「偶然ではなかろうな」
恋珀は少女の手元を警戒するように見つめた。
「その鈴と、ワシらの契約。何か関係があるのかもしれぬ」
「私、何かしたの……?」
少女の表情が曇る。
「いや、お主が悪いわけではない。じゃが、その鈴については、もう少し調べる必要がありそうじゃ」
恋珀はそう言いながらも、少女を責めるような様子はなかった。
僕も少女へ向き直る。
「大丈夫。わからないことは、これから一緒に調べていけばいいよ」
「……一緒に?」
「うん。君も僕たちと一緒に帰るんだから」
少女は少しの間、僕の顔を見つめていた。
やがて、控えめに頷く。
「ありがとう」
その声は、先ほどよりも少しだけ明るかった。
それからしばらく歩き、僕たちはようやく住み慣れた廃屋へと戻ってきた。
森の奥にひっそりと建つ、古びた建物。
ここで暮らし始めてから、それなりの時間が経った。
最初はただ雨風をしのげればいいと思っていた場所も、今では僕と恋珀にとって大切な帰る場所になっている。
「ここが、あなたたちの家?」
少女が建物を見上げる。
「そうじゃ。立派とは言えぬが、雨露をしのぐには十分な場所なのじゃ」
恋珀はそう答えながら、尻尾を揺らした。
「少し古いけどね。中に入れば落ち着くと思うよ」
僕が扉を開けると、軋んだ音が響いた。
少女は入り口の前で立ち止まる。
「どうしたの?」
「……入ってもいいの?」
その問いに、僕は少し驚いた。
彼女にとって、誰かの家へ入るということは、当たり前ではないのかもしれない。
「もちろん。今日からここが君の居場所になるんだから」
「居場所……」
少女はその言葉を小さく繰り返した。
恋珀が少女の背中へ手を添える。
「遠慮するでない。入るのじゃ」
少女はゆっくりと一歩を踏み出した。
建物の中を見回し、壁や床、置かれた家具を順番に眺めていく。
「ここで、二人で暮らしているの?」
「そうじゃ。ワシとマスターの二人暮らしじゃな」
「……そうなんだ」
少女は少しだけ俯いた。
その表情を見て、僕は気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、君は食事をするの?」
「食事……?」
「お腹が空いたりしない?」
少女は自分のお腹に手を当てる。
「わからない。ずっと、そういうことを考えたことがなかったから」
「眠ったりは?」
「眠ることはあるよ。でも、夢を見ることはないの」
「夢を?」
「うん。目を閉じて、次に開けたら時間が過ぎているの」
僕と恋珀は顔を見合わせた。
やはり、普通の人間とは違うのだろう。
そもそも、彼女には影がない。
それでも、こうして僕たちと会話をし、歩き、鈴を手にしている。
「まずは、ゆっくり確かめていくしかないな」
「そうじゃな。無理に何かをさせる必要もあるまい」
恋珀は部屋の隅を指差した。
「ひとまず、あそこを使うとよい。布団は後で用意してやろう」
「ありがとう……」
少女は小さく頭を下げた。
その姿を見て、僕はふと思い出す。
そういえば、彼女にはまだ名前がない。
「ねえ、君」
「なに?」
「名前は、やっぱり思い出せない?」
少女は少し困ったように笑った。
「うん。何も思い出せないの」
「そっか。じゃあ、無理に決める必要はないけど……呼び方がないと不便かな」
「ワシもそう思っておった。じゃが、本人が覚えておらぬ名を勝手につけるのも、少々違う気がするのじゃ」
恋珀は腕を組んで考え込む。
「今はそのままでよいじゃろう。名前を思い出したときに、改めて呼べばよい」
「……うん。それがいい」
少女は安心したように頷いた。
僕は荷物を置き、夕食の準備を始めることにした。
今日はいろいろなことがありすぎた。
あの神社で出会った少女。
封印されていた存在。
契約の起源を知っているらしい、あの声。
そして、鈴が僕たちの契約に反応したこと。
考えなければならないことは山ほどある。
けれど、今すぐ答えが出るわけではない。
「湊、何をぼんやりしておる。火を起こすぞ」
「ごめん。考え事をしてた」
「考え事もよいが、まずは食事じゃ。腹が減っては何も始まらぬ」
「恋珀はお腹が空いてるの?」
「ワシはいつでも食べられるのじゃ」
「それ、答えになってないよ」
僕が笑うと、恋珀も得意げに笑った。
少女はそんな僕たちを、少し離れた場所から眺めていた。
やがて、彼女も小さく笑う。
その表情を見て、僕は少しだけ安心した。
◇
夕食を終えた後、少女は部屋の隅に敷いた布団のそばに座っていた。
手には、あの鈴。
赤い紐を指先でなぞりながら、何かを考えているようだった。
「眠くなった?」
僕が声をかけると、少女は首を横に振る。
「ううん。まだ大丈夫」
「そっか。何か気になることでもある?」
少女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「さっき、鈴が鳴ったとき……少しだけ、声が聞こえた気がするの」
「声?」
「うん。とても遠くから。でも、誰かが私を呼んでいたような気がする」
恋珀がこちらへ振り返った。
「何と言っておった?」
「わからない。言葉までは聞き取れなかったの。ただ……」
少女は鈴を胸元へ寄せる。
「帰ろう、って聞こえた気がする」
その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。
僕の胸元に、また小さな熱が灯る。
今度は先ほどよりもはっきりとした感覚だった。
恋珀も気づいたらしく、僕の隣へ近づいてくる。
「マスター。胸の光を感じるか?」
「うん。さっきと同じだ」
「やはり、この鈴は契約に反応しておる」
恋珀は少女の手元を見つめた。
「そして、今の言葉……帰ろう、か」
「何か心当たりがあるの?」
僕が尋ねると、恋珀はすぐには答えなかった。
三本の尻尾が、ゆっくりと揺れる。
「まだ何とも言えぬ。じゃが、あの神社にあった封印と、この鈴。そしてマスターとの契約。これらは別々のものではないのかもしれぬ」
「契約の起源と関係しているのかな」
「おそらくな」
恋珀は少し考えた後、少女へ向き直った。
「お主。明日、もう一度その鈴を見せてくれぬか。刻まれた文字を詳しく調べたい」
「うん。いいよ」
少女は素直に頷いた。
それから、少しだけ迷うようにして僕たちを見た。
「……ねえ」
「どうしたの?」
「私、ここにいてもいいの?」
その問いに、僕はすぐに答えた。
「もちろんだよ」
恋珀も頷く。
「一度迎え入れた者を、理由もなく追い出すような真似はせぬ。じゃから安心するのじゃ」
少女は鈴を胸に抱いた。
「ありがとう……」
その声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
けれど、確かに聞こえた。
僕は部屋の明かりを少し落とし、少女が休めるようにした。
恋珀と並んで座り、今日一日の出来事を振り返る。
神社の奥に残された謎。
契約の起源を知る声。
そして、名前も過去も失った少女。
彼女が待ち続けていた相手は、いったい誰なのだろう。
あの鈴が鳴ったときに聞こえたという「帰ろう」という言葉。
それは、誰が誰に向けた言葉なのか。
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
「湊」
恋珀が静かに僕を呼ぶ。
「明日から、少し忙しくなりそうじゃな」
「そうだね。でも、まずは彼女のことを知るところから始めよう」
「うむ。焦る必要はないのじゃ」
恋珀は僕の手を握った。
その温もりが、契約を通じて胸の奥まで伝わってくる。
僕たちの命は繋がっている。
そして今、新たに一人の少女が、この場所へやってきた。
彼女が何者なのかは、まだわからない。
ただ一つ確かなのは、彼女が長い孤独の中から、ようやく一歩を踏み出したということだった。
その夜。
誰も触れていないはずの小さな鈴が、布団のそばで一度だけ鳴った。
チリン。
まるで、遠い昔の約束を思い出したかのように。
そして少女は、眠りについたまま、かすかに呟いた。
「……もうすぐ、会えるの?」
その声を聞いた者は、誰もいなかった。
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