翌朝。
窓の隙間から差し込む光に目を覚ますと、いつもより静かな朝が訪れていた。
隣では恋珀が丸くなって眠っている。
三本の大きな尻尾が布団の上に広がり、そのうち一本が僕の足に巻き付いていた。
「……恋珀、朝だよ」
「んぅ……まだじゃ……」
「昨日、朝は大事だって言ってたのは誰だったかな」
「ワシは……もう少し寝てもよいのじゃ……」
いつもは堂々としている恋珀も、寝起きだけは少し違う。
僕は苦笑しながら、尻尾をそっと足から外した。
そのとき、部屋の隅から小さな声がした。
「おはよう」
振り向くと、少女が座っていた。
白い着物に長い黒髪。
その手には、昨日と同じ古びた鈴が握られている。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。……不思議だった」
「不思議?」
少女は自分の手を見つめた。
「昨日は、眠るのが少し怖かったの。でも、目を閉じたら、いつの間にか朝になっていた」
「怖かった?」
「ずっと一人だったから。目を閉じている間に、またどこかへ閉じ込められてしまうんじゃないかって」
その言葉に、僕は返事をするまで少し時間がかかった。
彼女にとって、眠ることさえ安心できないものだったのだ。
「ここでは大丈夫だよ。僕たちがいるから」
「……うん」
少女は小さく頷いた。
ようやく起き上がった恋珀が、目をこすりながら少女を見る。
「おお、起きておったか。眠れたようで何よりじゃ」
「うん。ありがとう」
「礼などいらぬ。さて、マスター。朝餉の支度をするのじゃ」
「はいはい」
「返事は一度でよいのじゃ」
そんなやり取りを聞いて、少女は小さく笑った。
昨日よりも、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっている。
それを見て、僕も自然と笑顔になった。
朝食を終えると、僕たちは少女の持つ鈴を調べることにした。
鈴は手のひらに収まるほど小さい。
表面には細かな傷があり、赤い紐もところどころ擦り切れている。
ただ、刻まれた文字だけは不思議なほど鮮明だった。
「やはり、見たことのない文字じゃな」
恋珀は鈴を受け取り、角度を変えながら眺めている。
「古い妖術の文字にも似ておるが、完全には一致せぬ」
「恋珀でも読めないの?」
「ワシが生きてきた五千年の間にも、知らぬ文字は存在する。すべてを知っておるわけではないのじゃ」
恋珀は少し悔しそうに眉を寄せた。
「じゃが、ただの装飾ではない。文字の並びに意味があるはずじゃ」
「何かを封じるためのもの?」
「あるいは、何かを呼び出すためのものかもしれぬ」
少女は不安そうに鈴を見つめた。
「これが、私を閉じ込めていたの?」
「まだわからぬ。鈴そのものが封印の道具だったのか、封印されたときに一緒に残されたものなのか……」
恋珀は鈴を少女へ返した。
「今は断定せぬ方がよいじゃろう」
少女は両手で鈴を包み込む。
「でも、これを持っていると、何かを思い出せそうな気がするの」
「無理に思い出そうとするでない。記憶が戻ることが、お主にとって良いことばかりとは限らぬからな」
恋珀の言葉は厳しかった。
けれど、それは少女を遠ざけるためではない。
思い出した記憶によって、彼女が傷つくことを心配しているのだろう。
「……わかった」
少女は静かに頷いた。
その直後だった。
チリン。
鈴がひとりでに鳴った。
少女の指が動いたわけではない。
風も吹いていない。
それなのに、鈴は確かに音を立てた。
僕の胸元が、じんわりと熱くなる。
「まただ……」
昨日と同じ感覚。
契約の光が、僕の内側で反応している。
「マスター、手を出すのじゃ」
恋珀に促され、僕は右手を差し出した。
恋珀がその手を包み込む。
すると、手のひらに淡い光が浮かび上がった。
「……これは」
僕自身にもわかる。
恋珀の力だ。
以前、神社で闇に襲われたとき、僕は無意識にこの力を感じ取っていた。
けれど、今は違う。
僕の意思に応じて、光が少しずつ強くなっている。
「マスター。無理に力を込めるでないぞ」
「うん。わかってる」
僕は少女の持つ鈴を見た。
光が鈴へ近づくにつれて、鈴の表面に刻まれた文字が淡く輝き始める。
そして――。
チリン。
鈴の音が響いた瞬間、視界が揺れた。
目の前に、見知らぬ景色が広がっていた。
石畳の道。
木々に囲まれた小さな社。
その周囲には、見たことのない模様が刻まれた柱が立っている。
神社に似ている。
けれど、昨日訪れた場所とは違う。
もっと古く、もっと静かな場所だった。
「……ここは?」
声を出したつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。
景色の向こうに、一人の人物が立っている。
長い衣をまとった誰か。
顔は見えない。
その人物の前には、小さな少女がいた。
白い着物。
長い黒髪。
今、僕たちと一緒にいる少女によく似ている。
その少女は、誰かを見上げていた。
『本当に、帰ってくる?』
幼い声が聞こえた。
『ああ。必ず戻る』
『いつ?』
『お前が鈴を鳴らせるようになった頃だ』
その人物は、少女の手に小さな鈴を握らせた。
赤い紐が結ばれている。
今、少女が持っているものと同じ鈴だった。
『これを持っていれば、きっと私を見つけられる』
『本当?』
『約束だ』
人物は少女の頭に手を置いた。
少女は嬉しそうに笑った。
『じゃあ、待ってるね』
その瞬間、景色が大きく揺れた。
石畳が黒く染まっていく。
柱に刻まれた文字が赤く光り、社の奥から何かが這い出してくる。
人物が振り返った。
『……もう時間がない』
『どうしたの?』
『ここから離れろ』
『でも、約束は?』
『必ず戻る。だから、今は眠っていろ』
人物が手をかざす。
少女の身体が淡い光に包まれた。
『待って……!』
少女が手を伸ばす。
しかし、その指先が届く前に、景色は白く塗り潰された。
「マスター!」
恋珀の声で、僕は現実へ引き戻された。
目の前には、心配そうな恋珀と少女がいる。
僕の右手はまだ淡く光っていた。
「大丈夫か?」
「ああ……大丈夫」
「急に動かなくなったのじゃ。何が見えた?」
僕は息を整え、今見た光景を二人に話した。
石畳の道。
古い社。
そして、少女と約束を交わした人物。
少女は話を聞きながら、鈴を握る手を震わせていた。
「……本当に?」
「うん。君によく似た女の子がいた。たぶん、君だと思う」
「その人は……誰だったの?」
「顔は見えなかった。でも、君に鈴を渡していた」
少女は俯いた。
「帰ってくるって……言っていたの?」
「ああ。必ず戻るって」
その言葉を聞いた途端、少女の頬を涙が伝った。
「……よかった」
「え?」
「私、ずっと待っていたんだね」
少女は鈴を胸に押し当てた。
「誰かが来てくれるって、ずっと信じていたんだ」
恋珀は静かに少女を見つめていた。
やがて、少女の隣へ近づき、そっと肩に手を置く。
「お主は、よく待ったのじゃな」
少女は小さく頷いた。
「でも……その人は、まだ来ていない」
「そうじゃな」
「どうして来ないの?」
少女の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
僕が見た景色の最後。
あの人物は、何かに追われているようだった。
そして、少女を眠らせるように封じた。
約束を破ったのではなく、戻れなくなったのかもしれない。
あるいは、戻るために何かをしているのかもしれない。
「まだわからない。でも、調べれば何か見つかると思う」
僕は少女の目を見て言った。
「その人が誰なのか。どうして君が封印されていたのか。僕たちで確かめよう」
「……うん」
少女は涙を拭い、ゆっくりと頷いた。
その日の午後。
恋珀は古い書物を探すため、廃屋の奥に置いてある荷物を調べていた。
僕は少女と一緒に、鈴に刻まれた文字を紙へ写し取っていた。
「この文字、ここだけ少し違うね」
「本当だ」
「他の文字より、深く刻まれている気がする」
少女が指で示した場所には、小さな円のような模様があった。
その中心に、一本の線が通っている。
「何かの印かな」
「わからない。でも、見ていると胸が苦しくなるの」
「無理しなくていいよ」
「ううん。もう少しだけ見ていたい」
少女は鈴を見つめ続けた。
そのとき、廃屋の奥から恋珀の声が響いた。
「マスター! 少し来るのじゃ!」
僕は少女と顔を見合わせ、奥の部屋へ向かった。
恋珀の前には、古びた木箱が置かれていた。
「これを見つけたのじゃ」
「何が入ってるの?」
「昔、ここへ来た者が置いていったものかもしれぬ。ずっと奥にしまわれておった」
恋珀が木箱の蓋を開ける。
中には、何冊かの古い書物と、一枚の紙が入っていた。
紙には、見覚えのある模様が描かれている。
小さな円と、その中心を通る一本の線。
少女の鈴に刻まれた印と、まったく同じだった。
「これ……!」
少女が思わず声を上げた。
恋珀は紙を持ち上げ、慎重に目を通す。
「やはり、鈴と無関係ではなさそうじゃな」
「何て書いてあるの?」
「文字が古すぎる。すべては読めぬが……」
恋珀の表情が険しくなる。
「これは、命を繋ぐ契約に関する記述のようじゃ」
「契約……?」
「うむ。じゃが、ワシらが交わしたものとは少し違う」
恋珀は紙の一部を指でなぞった。
「こちらには、契約を結ぶ者同士の命だけでなく、第三者の存在についても記されておる」
「第三者?」
「まだ詳しいことはわからぬ。じゃが、この印は契約を結ぶ者を示すものではないようじゃ」
恋珀は少女の鈴へ視線を向けた。
「むしろ、契約によって守られる者……あるいは、契約の成立を見届ける者を示しておるのかもしれぬ」
僕は紙を見つめた。
少女が封印される前に交わした約束。
あの人物が戻ると言った理由。
そして、僕と恋珀の契約に反応する鈴。
それらが、少しずつ繋がり始めている。
けれど、まだ決定的な答えはない。
「恋珀。この書物、もう少し調べられる?」
「もちろんじゃ。今夜はこれを読み解くとしよう」
恋珀は紙を丁寧に木箱へ戻した。
そのとき、少女の手の中で鈴が鳴った。
チリン。
今度は、誰も驚かなかった。
ただ、少女だけが何かを感じ取ったように顔を上げる。
「……あの人」
「何か思い出したの?」
少女はゆっくりと頷いた。
「声が聞こえた気がする」
「何て?」
少女は鈴を握りしめる。
そして、少し震える声で言った。
「今度こそ、迎えに行く……って」
部屋の中が静まり返った。
恋珀の耳が、ぴくりと動く。
「……誰の声じゃ?」
少女は首を横に振った。
「わからない。でも、さっき見た人の声に似ていた気がする」
僕は少女の手元を見つめた。
鈴の赤い紐が、ほんのわずかに揺れている。
誰も触れていないのに。
まるで、どこか遠くにいる誰かが、こちらへ近づいてきているかのように。
僕たちの知らない過去が、少しずつ動き始めていた。
そして、その過去はきっと、僕と恋珀が交わした契約にも繋がっている。
まだ見ぬ誰かが、約束を果たすために戻ってこようとしているのだ。
良ければコメント、評価、よろしくお願いします!