三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:杉花

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たまには何もない日常回でも書こうかなと思ったので初投稿です!


第十七話 恋珀と鈴の音

翌朝。

 

窓の隙間から差し込む光に目を覚ますと、いつもより静かな朝が訪れていた。

 

隣では恋珀が丸くなって眠っている。

三本の大きな尻尾が布団の上に広がり、そのうち一本が僕の足に巻き付いていた。

 

「……恋珀、朝だよ」

 

「んぅ……まだじゃ……」

 

「昨日、朝は大事だって言ってたのは誰だったかな」

 

「ワシは……もう少し寝てもよいのじゃ……」

 

いつもは堂々としている恋珀も、寝起きだけは少し違う。

僕は苦笑しながら、尻尾をそっと足から外した。

 

そのとき、部屋の隅から小さな声がした。

 

「おはよう」

 

振り向くと、少女が座っていた。

 

白い着物に長い黒髪。

その手には、昨日と同じ古びた鈴が握られている。

 

「おはよう。よく眠れた?」

 

「うん。……不思議だった」

 

「不思議?」

 

少女は自分の手を見つめた。

 

「昨日は、眠るのが少し怖かったの。でも、目を閉じたら、いつの間にか朝になっていた」

 

「怖かった?」

 

「ずっと一人だったから。目を閉じている間に、またどこかへ閉じ込められてしまうんじゃないかって」

 

その言葉に、僕は返事をするまで少し時間がかかった。

 

彼女にとって、眠ることさえ安心できないものだったのだ。

 

「ここでは大丈夫だよ。僕たちがいるから」

 

「……うん」

 

少女は小さく頷いた。

 

ようやく起き上がった恋珀が、目をこすりながら少女を見る。

 

「おお、起きておったか。眠れたようで何よりじゃ」

 

「うん。ありがとう」

 

「礼などいらぬ。さて、マスター。朝餉の支度をするのじゃ」

 

「はいはい」

 

「返事は一度でよいのじゃ」

 

そんなやり取りを聞いて、少女は小さく笑った。

 

昨日よりも、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっている。

 

それを見て、僕も自然と笑顔になった。

 

朝食を終えると、僕たちは少女の持つ鈴を調べることにした。

 

鈴は手のひらに収まるほど小さい。

表面には細かな傷があり、赤い紐もところどころ擦り切れている。

 

ただ、刻まれた文字だけは不思議なほど鮮明だった。

 

「やはり、見たことのない文字じゃな」

 

恋珀は鈴を受け取り、角度を変えながら眺めている。

 

「古い妖術の文字にも似ておるが、完全には一致せぬ」

 

「恋珀でも読めないの?」

 

「ワシが生きてきた五千年の間にも、知らぬ文字は存在する。すべてを知っておるわけではないのじゃ」

 

恋珀は少し悔しそうに眉を寄せた。

 

「じゃが、ただの装飾ではない。文字の並びに意味があるはずじゃ」

 

「何かを封じるためのもの?」

 

「あるいは、何かを呼び出すためのものかもしれぬ」

 

少女は不安そうに鈴を見つめた。

 

「これが、私を閉じ込めていたの?」

 

「まだわからぬ。鈴そのものが封印の道具だったのか、封印されたときに一緒に残されたものなのか……」

 

恋珀は鈴を少女へ返した。

 

「今は断定せぬ方がよいじゃろう」

 

少女は両手で鈴を包み込む。

 

「でも、これを持っていると、何かを思い出せそうな気がするの」

 

「無理に思い出そうとするでない。記憶が戻ることが、お主にとって良いことばかりとは限らぬからな」

 

恋珀の言葉は厳しかった。

 

けれど、それは少女を遠ざけるためではない。

思い出した記憶によって、彼女が傷つくことを心配しているのだろう。

 

「……わかった」

 

少女は静かに頷いた。

 

その直後だった。

 

チリン。

 

鈴がひとりでに鳴った。

 

少女の指が動いたわけではない。

風も吹いていない。

 

それなのに、鈴は確かに音を立てた。

 

僕の胸元が、じんわりと熱くなる。

 

「まただ……」

 

昨日と同じ感覚。

 

契約の光が、僕の内側で反応している。

 

「マスター、手を出すのじゃ」

 

恋珀に促され、僕は右手を差し出した。

 

恋珀がその手を包み込む。

 

すると、手のひらに淡い光が浮かび上がった。

 

「……これは」

 

僕自身にもわかる。

 

恋珀の力だ。

 

以前、神社で闇に襲われたとき、僕は無意識にこの力を感じ取っていた。

 

けれど、今は違う。

 

僕の意思に応じて、光が少しずつ強くなっている。

 

「マスター。無理に力を込めるでないぞ」

 

「うん。わかってる」

 

僕は少女の持つ鈴を見た。

 

光が鈴へ近づくにつれて、鈴の表面に刻まれた文字が淡く輝き始める。

 

そして――。

 

チリン。

 

鈴の音が響いた瞬間、視界が揺れた。

 

目の前に、見知らぬ景色が広がっていた。

 

石畳の道。

木々に囲まれた小さな社。

その周囲には、見たことのない模様が刻まれた柱が立っている。

 

神社に似ている。

 

けれど、昨日訪れた場所とは違う。

 

もっと古く、もっと静かな場所だった。

 

「……ここは?」

 

声を出したつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。

 

景色の向こうに、一人の人物が立っている。

 

長い衣をまとった誰か。

顔は見えない。

 

その人物の前には、小さな少女がいた。

 

白い着物。

長い黒髪。

 

今、僕たちと一緒にいる少女によく似ている。

 

その少女は、誰かを見上げていた。

 

『本当に、帰ってくる?』

 

幼い声が聞こえた。

 

『ああ。必ず戻る』

 

『いつ?』

 

『お前が鈴を鳴らせるようになった頃だ』

 

その人物は、少女の手に小さな鈴を握らせた。

 

赤い紐が結ばれている。

 

今、少女が持っているものと同じ鈴だった。

 

『これを持っていれば、きっと私を見つけられる』

 

『本当?』

 

『約束だ』

 

人物は少女の頭に手を置いた。

 

少女は嬉しそうに笑った。

 

『じゃあ、待ってるね』

 

その瞬間、景色が大きく揺れた。

 

石畳が黒く染まっていく。

 

柱に刻まれた文字が赤く光り、社の奥から何かが這い出してくる。

 

人物が振り返った。

 

『……もう時間がない』

 

『どうしたの?』

 

『ここから離れろ』

 

『でも、約束は?』

 

『必ず戻る。だから、今は眠っていろ』

 

人物が手をかざす。

 

少女の身体が淡い光に包まれた。

 

『待って……!』

 

少女が手を伸ばす。

 

しかし、その指先が届く前に、景色は白く塗り潰された。

 

「マスター!」

 

恋珀の声で、僕は現実へ引き戻された。

 

目の前には、心配そうな恋珀と少女がいる。

 

僕の右手はまだ淡く光っていた。

 

「大丈夫か?」

 

「ああ……大丈夫」

 

「急に動かなくなったのじゃ。何が見えた?」

 

僕は息を整え、今見た光景を二人に話した。

 

石畳の道。

古い社。

そして、少女と約束を交わした人物。

 

少女は話を聞きながら、鈴を握る手を震わせていた。

 

「……本当に?」

 

「うん。君によく似た女の子がいた。たぶん、君だと思う」

 

「その人は……誰だったの?」

 

「顔は見えなかった。でも、君に鈴を渡していた」

 

少女は俯いた。

 

「帰ってくるって……言っていたの?」

 

「ああ。必ず戻るって」

 

その言葉を聞いた途端、少女の頬を涙が伝った。

 

「……よかった」

 

「え?」

 

「私、ずっと待っていたんだね」

 

少女は鈴を胸に押し当てた。

 

「誰かが来てくれるって、ずっと信じていたんだ」

 

恋珀は静かに少女を見つめていた。

 

やがて、少女の隣へ近づき、そっと肩に手を置く。

 

「お主は、よく待ったのじゃな」

 

少女は小さく頷いた。

 

「でも……その人は、まだ来ていない」

 

「そうじゃな」

 

「どうして来ないの?」

 

少女の問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 

僕が見た景色の最後。

 

あの人物は、何かに追われているようだった。

 

そして、少女を眠らせるように封じた。

 

約束を破ったのではなく、戻れなくなったのかもしれない。

 

あるいは、戻るために何かをしているのかもしれない。

 

「まだわからない。でも、調べれば何か見つかると思う」

 

僕は少女の目を見て言った。

 

「その人が誰なのか。どうして君が封印されていたのか。僕たちで確かめよう」

 

「……うん」

 

少女は涙を拭い、ゆっくりと頷いた。

 

その日の午後。

 

恋珀は古い書物を探すため、廃屋の奥に置いてある荷物を調べていた。

 

僕は少女と一緒に、鈴に刻まれた文字を紙へ写し取っていた。

 

「この文字、ここだけ少し違うね」

 

「本当だ」

 

「他の文字より、深く刻まれている気がする」

 

少女が指で示した場所には、小さな円のような模様があった。

 

その中心に、一本の線が通っている。

 

「何かの印かな」

 

「わからない。でも、見ていると胸が苦しくなるの」

 

「無理しなくていいよ」

 

「ううん。もう少しだけ見ていたい」

 

少女は鈴を見つめ続けた。

 

そのとき、廃屋の奥から恋珀の声が響いた。

 

「マスター! 少し来るのじゃ!」

 

僕は少女と顔を見合わせ、奥の部屋へ向かった。

 

恋珀の前には、古びた木箱が置かれていた。

 

「これを見つけたのじゃ」

 

「何が入ってるの?」

 

「昔、ここへ来た者が置いていったものかもしれぬ。ずっと奥にしまわれておった」

 

恋珀が木箱の蓋を開ける。

 

中には、何冊かの古い書物と、一枚の紙が入っていた。

 

紙には、見覚えのある模様が描かれている。

 

小さな円と、その中心を通る一本の線。

 

少女の鈴に刻まれた印と、まったく同じだった。

 

「これ……!」

 

少女が思わず声を上げた。

 

恋珀は紙を持ち上げ、慎重に目を通す。

 

「やはり、鈴と無関係ではなさそうじゃな」

 

「何て書いてあるの?」

 

「文字が古すぎる。すべては読めぬが……」

 

恋珀の表情が険しくなる。

 

「これは、命を繋ぐ契約に関する記述のようじゃ」

 

「契約……?」

 

「うむ。じゃが、ワシらが交わしたものとは少し違う」

 

恋珀は紙の一部を指でなぞった。

 

「こちらには、契約を結ぶ者同士の命だけでなく、第三者の存在についても記されておる」

 

「第三者?」

 

「まだ詳しいことはわからぬ。じゃが、この印は契約を結ぶ者を示すものではないようじゃ」

 

恋珀は少女の鈴へ視線を向けた。

 

「むしろ、契約によって守られる者……あるいは、契約の成立を見届ける者を示しておるのかもしれぬ」

 

僕は紙を見つめた。

 

少女が封印される前に交わした約束。

 

あの人物が戻ると言った理由。

 

そして、僕と恋珀の契約に反応する鈴。

 

それらが、少しずつ繋がり始めている。

 

けれど、まだ決定的な答えはない。

 

「恋珀。この書物、もう少し調べられる?」

 

「もちろんじゃ。今夜はこれを読み解くとしよう」

 

恋珀は紙を丁寧に木箱へ戻した。

 

そのとき、少女の手の中で鈴が鳴った。

 

チリン。

 

今度は、誰も驚かなかった。

 

ただ、少女だけが何かを感じ取ったように顔を上げる。

 

「……あの人」

 

「何か思い出したの?」

 

少女はゆっくりと頷いた。

 

「声が聞こえた気がする」

 

「何て?」

 

少女は鈴を握りしめる。

 

そして、少し震える声で言った。

 

「今度こそ、迎えに行く……って」

 

部屋の中が静まり返った。

 

恋珀の耳が、ぴくりと動く。

 

「……誰の声じゃ?」

 

少女は首を横に振った。

 

「わからない。でも、さっき見た人の声に似ていた気がする」

 

僕は少女の手元を見つめた。

 

鈴の赤い紐が、ほんのわずかに揺れている。

 

誰も触れていないのに。

 

まるで、どこか遠くにいる誰かが、こちらへ近づいてきているかのように。

 

僕たちの知らない過去が、少しずつ動き始めていた。

 

そして、その過去はきっと、僕と恋珀が交わした契約にも繋がっている。

 

まだ見ぬ誰かが、約束を果たすために戻ってこようとしているのだ。




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