翌朝。
廃屋の中には、古い紙をめくる音だけが響いていた。
昨夜から恋珀は、木箱の中にあった書物を読み続けている。
机の上には何冊もの本が広げられ、紙に書かれた古い文字を照らし合わせていた。
僕は少し離れた場所で、その様子を眺めていた。
「恋珀、まだ調べていたの?」
「うむ。気になることが多すぎてな」
恋珀は本から目を離さずに答えた。
「この記述じゃが、ワシらの契約に関するものと、あの少女の鈴に刻まれた印には共通点がある」
「やっぱり関係しているんだね」
「おそらくな。じゃが、同じ契約という言葉が使われておっても、仕組みは違うようじゃ」
恋珀は一枚の紙を僕の方へ向けた。
そこには、二つの円が重なるような図が描かれていた。
その中心には、少女の鈴に刻まれていたものと同じ印がある。
「これは何?」
「命を繋ぐ契約の図じゃ。二つの円は、それぞれ契約を交わす者を示しておる。そして中央の印は……」
「契約を見届ける者?」
「そう考えるのが自然じゃろう」
恋珀は中央の印を指でなぞった。
「つまり、契約とは二人だけで完結するものではない場合がある、ということじゃ」
僕は自分の胸元に手を当てた。
僕と恋珀の命を繋いだ契約。
あのときは、互いを信じ、共に生きたいと願った。
その契約に、第三者が関わる余地があるのだろうか。
「僕たちの契約にも、何か足りないものがあるのかな」
「それはわからぬ。じゃが、神社の奥におった声は、契約について何か知っておるようじゃった」
恋珀の表情が険しくなる。
「そして、あの声はこう言っておったな。『その契約、長くは続かぬ』と」
「うん」
「ワシらの契約が不完全なのか、それとも別の理由があるのか……。いずれにせよ、確かめる必要がある」
そのとき、部屋の隅から少女の声がした。
「その印……」
僕たちが振り向くと、少女が紙を見つめていた。
「何か知っているの?」
少女はゆっくりと近づいてくる。
「わからない。でも、その形を見ると、胸の奥が苦しくなるの」
「無理に思い出さなくてよいぞ」
恋珀がそう告げると、少女は小さく首を振った。
「ううん。少しだけ、思い出したい」
少女は鈴を取り出した。
「この鈴を渡してくれた人が、同じ印を持っていた気がするの」
「その人が?」
「うん。手の甲に、同じ模様があったような……」
僕は恋珀と顔を見合わせた。
「それは重要な手がかりかもしれないね」
「じゃが、まだ断片的じゃ。焦らずに確かめていこう」
恋珀は書物を閉じた。
「今日は、神社へ戻ってみるのもよいかもしれぬ」
「また、あの場所へ?」
「うむ。昨日の鈴の反応が、あの神社と関係しておる可能性がある。封印の柱に刻まれた文字も、もう一度調べたい」
少女は少しだけ不安そうな顔をした。
「私も行くの?」
「無理にとは言わぬ。じゃが、お主自身に関わることじゃ。見ておきたいなら、一緒に来るとよい」
少女は鈴を握りしめた。
「……行く。今度は、逃げない」
「よし。では準備をするのじゃ」
恋珀は立ち上がり、尻尾を大きく揺らした。
森へ向かう道は、昨日と変わらない。
木々の間から差し込む光。
足元に広がる落ち葉。
遠くから聞こえる鳥の声。
けれど、僕たちの気持ちは昨日とは違っていた。
僕と恋珀の間には、契約による繋がりがある。
そして少女の持つ鈴は、その繋がりに反応している。
それが何を意味するのか。
僕たちはまだ知らない。
「湊」
恋珀が隣から声をかけた。
「どうしたの?」
「先ほどから、何か感じておらぬか?」
「何かって?」
「ワシの力じゃ。お主の中で、少し揺れておる」
僕は意識を集中させた。
確かに、胸の奥に小さな熱がある。
恋珀の存在を感じるような、いつもの感覚とは少し違う。
「昨日、鈴が鳴ったときと似ている気がする」
「やはりか」
恋珀は前方を見つめた。
「神社が近づくにつれ、契約の力が反応しておるのかもしれぬ」
そのとき、少し後ろを歩いていた少女が足を止めた。
「……あ」
「どうした?」
少女は森の奥を見つめていた。
「誰かがいる」
恋珀の耳が立つ。
「どこじゃ?」
「向こう。木の間……」
僕も目を凝らした。
だが、そこには木々が並んでいるだけで、人影は見当たらない。
「気配は感じぬが……」
恋珀が周囲を探る。
その直後、少女の手の中で鈴が鳴った。
チリン。
音は森の中へ吸い込まれていく。
そして、遠くから返事をするように、もう一度音が響いた。
チリン。
今度は、僕たちの背後からだった。
「後ろじゃ!」
恋珀が振り返る。
しかし、そこにも誰もいない。
風が木々を揺らしているだけだった。
「今の音、聞こえたよね?」
「ああ。確かに聞こえた」
少女は鈴を胸に抱いた。
「近くにいる……」
「誰が?」
「わからない。でも、私を知っている人」
少女の声が震えていた。
恋珀は少女の前へ立ち、周囲を警戒する。
「何者であろうと、姿を見せぬまま近づくのなら歓迎はせぬぞ」
その言葉に応えるものはなかった。
ただ、森の奥で一瞬だけ、白い光が揺れた。
神社へ到着したのは、それからしばらくしてのことだった。
石畳の道を進み、古い鳥居をくぐる。
境内には、昨日と同じ静けさが広がっていた。
けれど、社の扉は閉じたままなのに、奥から何かがこちらを見ているような気配がある。
「……まだおるな」
恋珀が低く呟いた。
「昨日の声?」
「おそらくな」
少女は僕の後ろに隠れるように立った。
「怖い?」
僕が尋ねると、少女は少し迷ってから頷いた。
「うん。でも、確かめたいことがあるの」
「なら、僕たちも一緒にいるよ」
「ありがとう」
恋珀は社の前へ進み、柱に刻まれた文字を調べ始めた。
「この文字……昨日よりも読み取れる部分が増えておる」
「どうして?」
「鈴が反応したからかもしれぬ。封印の術式が、何かを示そうとしておる」
恋珀は指先を柱に触れさせた。
その瞬間、柱の文字が淡く光った。
同時に、少女の鈴が大きく震え始める。
「わっ……!」
少女が鈴を取り落としそうになる。
僕は慌てて手を伸ばした。
その手が鈴に触れた瞬間、胸の奥に強い熱が走った。
「湊!」
恋珀が叫ぶ。
視界が白く染まる。
今度は、昨日よりもはっきりと景色が見えた。
そこは、昨日見た古い社だった。
しかし、今度は夜ではない。
空は薄暗く、社の周囲には何人もの人影が立っていた。
その中心に、鈴を持った少女がいる。
そして、少女の前には一人の人物が膝をついていた。
顔はやはり見えない。
けれど、その人物の手の甲には、鈴と同じ印が刻まれていた。
『もうすぐ、ここを離れなければならない』
人物が少女に告げる。
『どうして?』
『ここにいては、お前まで巻き込まれてしまう』
『一緒に行っちゃだめなの?』
人物は答えなかった。
代わりに、少女の手を優しく握る。
『お前には、ここで待っていてほしい』
『また、戻ってくる?』
『必ず』
『約束だよ』
『ああ。約束だ』
そのとき、遠くから地鳴りのような音が響いた。
人影たちが一斉に振り返る。
社の奥から、黒い霧が溢れ出していた。
『始まったか……』
人物は立ち上がり、少女を背後へかばう。
『これより先は、決して外へ出てはならない』
『でも……!』
『お前を守るためだ』
人物の手が光る。
少女の周囲に、見覚えのある封印の文字が浮かび上がった。
『待って! まだ話したいことがあるの!』
『すまない』
人物は少女の額に触れた。
『いつか、必ず迎えに来る』
光が強くなる。
少女の姿が少しずつ薄れていく。
最後に聞こえたのは、少女の小さな声だった。
『……待ってるからね』
「マスター!」
恋珀の声が響き、僕は再び現実へ戻った。
膝をつき、荒い息をしていた。
「湊、大丈夫か!」
「ああ……。今度も、見えた」
少女は鈴を握りしめたまま、目を見開いていた。
「私も……少しだけ見えた」
「何を?」
「誰かが、私を守ろうとしていた。怖いものから遠ざけるために、眠らせたんだと思う」
少女の目から涙がこぼれる。
「私を閉じ込めたのは、私を嫌いだったからじゃないんだ……」
「そうかもしれないね」
僕は少女の肩に手を置いた。
恋珀は社の柱を見つめていた。
「じゃが、まだ安心はできぬ」
「恋珀?」
「この封印は、少女を守るためだけのものではない。社の奥にいる何かを閉じ込める役目も持っておる」
「つまり、少女を封印から出したことで……」
「封印の均衡が崩れておる可能性がある」
恋珀は社の扉へ目を向けた。
そのときだった。
ギ……。
閉じていた扉の向こうから、何かが動く音がした。
僕たちは一斉に身構える。
そして、社の奥から低い声が響いた。
『見つけたぞ』
聞き覚えのある声だった。
神社の奥に潜んでいた、あの存在の声。
『その鈴を持つ者……まだ生きていたか』
少女が息を呑む。
恋珀はすぐさま少女を背後へかばった。
「お主は、あの少女を知っておるのか!」
『知っているとも』
声は、どこか愉快そうに響いた。
『あれを待たせたのは、私ではない』
「では、誰が待たせた!」
『お前たちが探している者だ』
僕は息を止めた。
『だが、もう戻っては来ぬ』
「どうして、そんなことがわかる!」
『なぜなら――』
社の奥で、赤黒い光が一瞬だけ灯った。
『そいつは今も、私の中にいるのだから』
少女の鈴が激しく鳴り始めた。
チリン、チリン、チリン。
僕の胸元にも、これまでにない強い痛みが走る。
恋珀が僕の手を掴んだ。
「マスター! 鈴から離れるのじゃ!」
しかし、僕の手は鈴から離れなかった。
鈴の表面に刻まれた印が、まばゆい光を放っている。
そして、その光の中に、誰かの手が見えた。
僕の手ではない。
恋珀の手でもない。
少女の手でもない。
見知らぬ誰かの手が、鈴の向こう側からこちらへ伸びていた。
その指先が、僕の手に触れた。
『……ようやく、繋がった』
聞こえた声は、社の奥から響くものとは違っていた。
懐かしさと悲しみが混じった、優しい声。
少女が顔を上げる。
「……その声」
その目から、再び涙がこぼれた。
「知ってる……」
少女は震える唇で、言葉を続けた。
「私、この声を……ずっと待っていた」
光が強くなり、境内全体を包み込む。
そして、社の扉の奥から、もう一つの声が響いた。
『ならば、思い出すがいい』
『お前が待ち続けた約束の、本当の意味を』
その瞬間、社の扉が内側から大きく揺れた。
まるで、閉じ込められていた何かが、こちらへ出ようとしているかのように。
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