三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:ゆくじろ

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遂に初めてのお気に入りがつきました!
本当にありがとうございます!
ということで初投稿です!


第五話 妖狐と心の距離

 火の揺らめきだけが、部屋の中を静かに照らしていた。

 

 先ほどまで恋珀が見せてくれていた幻は、もうどこにもない。花の香りも、頬を撫でていた風も、すべてが夢のように消えてしまった。

 

 けれど、不思議と寂しさはなかった。

 

 目の前には、いつもと変わらない廃墟の壁があり、少し離れた場所には恋珀が座っている。大きな三本の尻尾は、彼女の身体を包むように広がっていた。

 

「……どうしたのじゃ?」

 

 視線に気づいたのか、恋珀がこちらを向く。

 

「いや、なんでもないよ」

 

「なんでもないという顔ではないぞ」

 

「そんなに顔に出てる?」

 

「お主は分かりやすいからのう」

 

 恋珀は小さく笑った。

 

 その笑顔を見ると、こちらまで自然と頬が緩んでしまう。

 

「さっきの幻、すごかったな」

 

「ふむ。気に入ったか?」

 

「うん。あんな景色を作れるなんて思わなかった」

 

「長く生きておれば、できることも増えるものじゃ」

 

「五千年だもんね」

 

「そうじゃ。人間の一生など、ワシにとってはほんの一瞬にすぎぬ」

 

 そう言いながらも、恋珀の表情に誇らしさはあまりなかった。

 

 長い年月を生きてきた彼女にとって、それは特別なことではないのかもしれない。

 

「……ずっと一人だったの?」

 

 何気なく尋ねたつもりだった。

 

 けれど、恋珀の耳がわずかに動き、尻尾の先がぴたりと止まった。

 

「どうしてそう思う?」

 

「なんとなく。ここに来てから、他の誰かと一緒にいるところを見たことがないから」

 

「そうじゃな。長い間、誰かと暮らすことはなかった」

 

「寂しくなかった?」

 

「……寂しい、か」

 

 恋珀は火を見つめた。

 

 その瞳に映る炎が、ゆっくりと揺れている。

 

「昔は、そう思うこともあったのじゃろう。じゃが、長く生きておると、そういった感情にも蓋をするようになる」

 

「蓋を?」

 

「誰かと親しくなっても、いずれ別れが来る。人間は特に短命じゃからな。ならば最初から近づかぬ方がよい。そう考えるようになったのじゃ」

 

 その言葉には、長い時間を過ごしてきた彼女だからこその重みがあった。

 

 僕は返す言葉を探した。

 

 寂しくないはずがないと思った。けれど、僕が彼女の過去を知っているわけではない。簡単に慰めることも、分かったようなことを言うこともできなかった。

 

「……でも、今は僕がいるよ」

 

 口にしてから、少し恥ずかしくなった。

 

 恋珀は一瞬だけ目を丸くした。

 

「お主は、ずいぶんと簡単にそういうことを言うのう」

 

「変なこと言った?」

 

「いや。そういうところが、お主らしいと思っただけじゃ」

 

 彼女は視線を逸らし、頬をほんのり赤く染めた。

 

 それから、少しだけこちらに身体を寄せる。

 

「ならば、しばらくはここにおるがよい」

 

「しばらく?」

 

「……ずっと、と言うと重いじゃろう?」

 

「別に、そんなことないけど」

 

「ふふ。そうか」

 

 恋珀の尻尾が、僕の足元にそっと触れた。

 

 以前なら、彼女は自分の尻尾に触れられることを嫌がっていた。けれど今では、こうして何気なく近くに寄せてくれる。

 

 それが少し嬉しかった。

 

 しばらく火を眺めていると、ふと思いついたことがあった。

 

「ねえ、恋珀」

 

「なんじゃ?」

 

「名前を呼んでもいい?」

 

「……今も呼んでおるじゃろう」

 

「そうじゃなくて。恋珀って名前、ちゃんと呼びたいなって」

 

 彼女は不思議そうに首を傾げた。

 

「好きに呼べばよい。ワシの名は稲荷恋珀じゃ。隠すようなものでもない」

 

「そっか。じゃあ、恋珀」

 

「うむ」

 

「恋珀」

 

「……なんじゃ、二度も」

 

「いや、呼んでみただけ」

 

「まったく。妙な人間じゃのう」

 

 呆れたように言いながら、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。

 

 名前を呼ぶ。

 

 たったそれだけのことなのに、今までより少し近くなれたような気がした。

 

「では、ワシもお主を呼んでみようかの」

 

「僕を?」

 

「お主には名前があるじゃろう?」

 

「うん。でも、まだ教えてなかったね」

 

「そういえばそうじゃな」

 

 僕は少しだけ姿勢を正した。

 

「朝比奈湊。湊って呼んでくれたらいいよ」

 

「朝比奈、湊……」

 

 恋珀は、確かめるようにゆっくりと名前を口にした。

 

「湊、か」

 

「うん」

 

「よい名じゃな」

 

 彼女は僕の顔を見つめた。

 

 そして、少し照れたように目を細める。

 

「……湊」

 

 胸の奥が、わずかに跳ねた。

 

 今まで彼女は、僕のことをお主と呼んでいた。それが当たり前になっていたからこそ、名前で呼ばれたことが妙に新鮮だった。

 

「どうじゃ?」

 

「なんだか、くすぐったい」

 

「ふむ。ならば、これから何度も呼んで慣れさせてやろう」

 

「それはそれで恥ずかしいんだけど」

 

「自分から呼んでほしいと言ったのは湊じゃろう?」

 

「そうだけどさ」

 

 恋珀は楽しそうに笑った。

 

 その笑い声が、静かな廃墟の中に柔らかく響く。

 

 僕もつられて笑った。

 

 ここに来たばかりの頃は、こんなふうに彼女と笑い合う日が来るなんて想像もしていなかった。

 

 ただ雨風をしのげる場所が欲しかっただけだった。

 

 それなのに今では、この場所に帰ることが楽しみになっている。

 

 そして、その理由はきっと目の前にいる彼女なのだろう。

 

「湊」

 

「ん?」

 

「そろそろ休むがよい。今日は少し話しすぎた」

 

「恋珀も休むの?」

 

「ワシは眠らずとも平気じゃが、お主は人間じゃ。休息が必要じゃろう」

 

「それなら、恋珀も一緒に休もうよ」

 

「ワシまで寝る必要はないと言っておるのに」

 

「一緒にいたいんだ」

 

 言葉にすると、少しだけ照れくさかった。

 

 恋珀は目を瞬かせたあと、ふっと表情を和らげた。

 

「……仕方のないやつじゃな」

 

 彼女は三本の尻尾をゆっくりと動かし、そのうち一本を僕のそばに寄せた。

 

「これでよいか?」

 

「うん。ありがとう」

 

「礼などいらぬ」

 

 僕は尻尾にそっと触れながら、横になった。

 

 柔らかな毛並みは、火のそばで温まっていて心地よい。

 

 恋珀は隣に座ったまま、こちらを見下ろしていた。

 

「おやすみ、恋珀」

 

「うむ。おやすみ、湊」

 

 名前を呼ばれたことが嬉しくて、僕は目を閉じる直前にもう一度だけ彼女を見た。

 

 恋珀は優しく微笑んでいた。

 

 廃墟の夜は静かだった。

 

 けれど、もう寂しくはない。

 

 この場所には、自分の名前を呼んでくれる誰かがいる。

 

 それだけで、明日が少し楽しみになる気がした。




遂に主人公の名前が明かされました!
よければコメント、評価、よろしくお願いします!
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