朝の光が、崩れかけた壁の隙間から差し込んでいた。
廃墟の中に差し込む光は、いつも少しずつ違う。
雨の日は薄暗く、晴れた日は床に細長い光の筋ができる。季節によってその角度も変わり、同じ場所で目を覚ましても、まったく違う朝に感じられることがあった。
僕はゆっくりと目を開けた。
身体を起こそうとして、手元に柔らかな感触があることに気づく。
視線を落とすと、昨夜と同じように恋珀の尻尾が僕のそばにあった。
その向こうには、赤い着物の裾が見える。
「……起きたか、湊」
声がした。
顔を上げると、恋珀がすぐ近くに座っていた。長い白髪を片手でまとめながら、こちらを見ている。
「おはよう、恋珀」
「うむ。おはようじゃ」
彼女はいつもどおりの表情で答えた。
けれど、昨夜までとは少し違う。
名前を呼ばれることに慣れていないせいか、朝から彼女に名前を呼ばれるだけで、妙に意識してしまう。
「どうしたのじゃ?」
「いや、なんでもないよ」
「またその顔か。湊は本当に分かりやすいのう」
「そんなに分かりやすいかな」
「少なくとも、ワシにはな」
恋珀は楽しそうに笑った。
僕は少しだけ視線を逸らし、寝起きの頭を軽く掻いた。
「そういえば、恋珀はずっと起きてたの?」
「いや、少し眠ったぞ」
「珍しいね」
「お主が隣におると、どうにも落ち着いて眠れるようでな」
「僕が?」
「そうじゃ。妙な話じゃろう?」
彼女は自分でも不思議そうに、尻尾の一本を眺めた。
「以前は、誰かが近くにおるだけで気になって仕方がなかった。眠っている間に何か起きるのではないか、いつ目を覚ますべきか。そんなことばかり考えておった」
「今は違う?」
「今は……そうじゃな。目を閉じても、お主がそこにおると思える」
その言葉は、静かに胸の中へ落ちてきた。
僕も、ここで眠ることに不安を感じなくなっていた。
最初はいつ崩れるか分からない壁や、夜中に聞こえる風の音が気になっていた。それでも、恋珀がそばにいると不思議と安心できた。
きっと彼女も、同じような気持ちを感じているのかもしれない。
「じゃあ、これからも隣で寝ようよ」
「ふむ。お主がそう望むなら、考えておこう」
「考えるだけ?」
「すぐに答えを出す必要もあるまい」
「恋珀らしいね」
「何か言ったか?」
「なんでもない」
恋珀は少し目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。
僕は立ち上がり、窓の外を眺めた。
空はよく晴れている。風も穏やかで、木々の葉がゆっくりと揺れていた。
「今日はいい天気だね」
「そうじゃな」
「外に出てみようかな」
「外へ?」
「うん。ずっとここにいるのもいいけど、少し歩きたい気分なんだ」
恋珀はすぐには答えなかった。
彼女が外へ出ることを好まない理由は知っている。
三本の大きな尻尾を隠すのは難しく、人目につけば普通の人間ではないと気づかれてしまう。だからこそ、彼女はこの廃墟で暮らしている。
「ワシはここにおるぞ」
「分かってる。僕一人で少し歩いてくるよ」
「……そうか」
恋珀は小さく頷いた。
けれど、その尻尾は少しだけ僕の方へ寄ってきた。
「すぐ戻るよ」
「別に、急がずともよい。お主の好きにすればよいのじゃ」
「うん。でも、恋珀を待たせたくないから」
そう言うと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、照れを隠すように顔を横へ向けた。
「……好きにせい」
僕は笑いながら、出かける準備を始めた。
廃墟の外へ出ると、朝の空気が頬を撫でた。
少し湿った土の匂いと、草木の匂いが混ざっている。遠くでは鳥の声が聞こえ、風に揺れる枝が小さな音を立てていた。
この場所に来るまでは、外を歩くことに特別な意味など感じていなかった。
会社へ向かうために歩き、帰るために歩く。そんな毎日の繰り返しだった。
けれど、今は違う。
目的地もなく、時間に追われることもなく、ただ歩いている。
それだけなのに、少しだけ心が軽かった。
近くの木の根元に、小さな花が咲いているのを見つけた。
名前は分からない。
背の低い草に埋もれるようにして、淡い色の花びらを広げている。
誰かに見つけてもらうために咲いているわけではないのだろう。
それでも、そこに確かに咲いていた。
「……綺麗だな」
思わず呟いた。
しばらく眺めたあと、僕は廃墟へ戻ることにした。
帰る場所がある。
そう思うと、自然と足取りが軽くなる。
廃墟の入り口に戻ると、恋珀がこちらを向いていた。
「おかえり、湊」
「ただいま」
何気ない挨拶だった。
けれど、その言葉を交わすだけで、胸の奥が温かくなる。
「早かったのう」
「少し歩いただけだからね」
「外はどうじゃった?」
「いい天気だったよ。近くに小さな花が咲いてた」
「花か」
「うん。誰にも見られないような場所だったけど、綺麗だった」
「ふむ。そういうものを見つけられるのは、お主のよいところかもしれぬな」
「そうかな?」
「ワシなら、気にも留めず通り過ぎてしまうかもしれぬ」
「恋珀は花とか興味ないの?」
「嫌いではないぞ。ただ、長く生きておると、見慣れたものも多くなるからのう」
「それでも、たまには見てみたらいいと思うよ」
「……そうじゃな」
恋珀は窓の外へ目を向けた。
その横顔を見て、僕はふと思いついた。
「今度、一緒に見に行こうよ」
「ワシもか?」
「うん。人目につかない場所なら大丈夫かもしれないし」
「そう簡単にはいかぬぞ。ワシの姿を見られれば、騒ぎになるかもしれぬ」
「それなら、人が来ない時間や場所を探そう」
「お主は本当に諦めが悪いのう」
「嫌だった?」
「……嫌とは言っておらぬ」
恋珀は尻尾を一本、ゆっくりと揺らした。
「いつか、な」
「うん。いつか」
その約束は、すぐに叶うものではないかもしれない。
それでも、いつか二人で外を歩けたらいいと思った。
恋珀が見慣れた景色を、もう一度新鮮な気持ちで眺められるように。
そして、僕も彼女と一緒に、今まで知らなかった景色を見てみたい。
「ところで、湊」
「なに?」
「腹は空いておらぬか?」
「そういえば、少し空いてるかも」
「ならば、何か用意するとしよう」
恋珀は立ち上がり、部屋の隅に置いてある道具へ向かった。
この廃墟で使えるものは限られている。水道はまだ使えるが、食事に必要なものは自分たちで用意しなければならない。
彼女は火を扱うのが得意だった。
指先に小さな炎を灯し、薪の上へそっと移す。炎はすぐに広がり、周囲を温め始めた。
「今日は何にするの?」
「残っておるもので考えるしかあるまい。お主は何か食べたいものがあるか?」
「うーん……温かいものがいいかな」
「ならば、簡単な汁物でも作るかの」
「手伝うよ」
「お主に任せると、余計に時間がかかりそうじゃが」
「ひどいな」
「冗談じゃ。ほれ、そこの器を取ってくれ」
僕は言われたとおりに器を手に取った。
二人で準備をしていると、恋珀がふとこちらを見た。
「湊」
「ん?」
「その器は、もう少し奥に置いておくれ」
「これ?」
「そうじゃ」
言われた場所へ器を置く。
恋珀は満足そうに頷いた。
「うむ。助かったぞ」
「どういたしまして」
以前なら、彼女が一人で済ませていたようなことだろう。
けれど今は、こうして一緒に準備をすることが自然になりつつある。
大したことではない。
器を運んだり、薪を足したり、食事の準備を手伝ったり。
それでも、誰かと一緒に暮らすというのは、こういう小さなことの積み重ねなのかもしれない。
やがて、温かな汁物ができあがった。
湯気が立ち上り、部屋の中に優しい香りが広がる。
「できたぞ」
「おいしそう」
「熱いから気をつけるのじゃ」
「うん」
器を受け取り、ゆっくりと口をつける。
温かさが身体の中へ広がっていった。
「おいしい」
「そうか。それならよかった」
恋珀は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
その表情を見ていると、もっと何かを伝えたくなる。
「恋珀」
「なんじゃ?」
「ありがとう」
「……何に対してじゃ?」
「朝から色々と。ご飯もそうだし、ここにいさせてくれてることも」
「また急にどうしたのじゃ」
「なんとなく、言いたくなっただけ」
「そうか」
恋珀は器を持ったまま、しばらく僕を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「礼を言うのはワシの方かもしれぬな」
「どうして?」
「この場所に、誰かの声がするようになった。朝になれば目を覚まし、食事をし、他愛のない話をする。そんな日々が、ワシにも訪れるとは思っておらなんだ」
「僕も、こんな生活になるとは思ってなかったよ」
「お互い様じゃな」
二人で小さく笑った。
食事を終える頃には、窓から差し込む光が少し高い位置へ移動していた。
今日も、特別なことは何もない。
けれど、そんな一日が続いていくことを願っている自分がいた。
恋珀も、同じ気持ちでいてくれたらいい。
「湊」
「なに?」
「明日は、もう少し外を歩いてみるのもよいかもしれぬな」
「恋珀も一緒に?」
「……人目につかぬ場所なら、考えてやらぬこともない」
「本当?」
「ただし、無理はせぬ。約束じゃ」
「うん。約束」
恋珀は小さく頷いた。
その尻尾が、嬉しそうに揺れている。
明日が楽しみだ。
昨日までと同じ廃墟で、昨日までと同じように過ごすだけなのに。
少しずつ変わっていくものがある。
それは、僕と恋珀の距離なのかもしれない。
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