三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:ゆくじろ

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タイトルの一部をそのまま使って心情の変化を表現するやつ、やってみたかったので初投稿です!


第六話 恋珀と心の距離

 朝の光が、崩れかけた壁の隙間から差し込んでいた。

 

 廃墟の中に差し込む光は、いつも少しずつ違う。

 

 雨の日は薄暗く、晴れた日は床に細長い光の筋ができる。季節によってその角度も変わり、同じ場所で目を覚ましても、まったく違う朝に感じられることがあった。

 

 僕はゆっくりと目を開けた。

 

 身体を起こそうとして、手元に柔らかな感触があることに気づく。

 

 視線を落とすと、昨夜と同じように恋珀の尻尾が僕のそばにあった。

 

 その向こうには、赤い着物の裾が見える。

 

「……起きたか、湊」

 

 声がした。

 

 顔を上げると、恋珀がすぐ近くに座っていた。長い白髪を片手でまとめながら、こちらを見ている。

 

「おはよう、恋珀」

 

「うむ。おはようじゃ」

 

 彼女はいつもどおりの表情で答えた。

 

 けれど、昨夜までとは少し違う。

 

 名前を呼ばれることに慣れていないせいか、朝から彼女に名前を呼ばれるだけで、妙に意識してしまう。

 

「どうしたのじゃ?」

 

「いや、なんでもないよ」

 

「またその顔か。湊は本当に分かりやすいのう」

 

「そんなに分かりやすいかな」

 

「少なくとも、ワシにはな」

 

 恋珀は楽しそうに笑った。

 

 僕は少しだけ視線を逸らし、寝起きの頭を軽く掻いた。

 

「そういえば、恋珀はずっと起きてたの?」

 

「いや、少し眠ったぞ」

 

「珍しいね」

 

「お主が隣におると、どうにも落ち着いて眠れるようでな」

 

「僕が?」

 

「そうじゃ。妙な話じゃろう?」

 

 彼女は自分でも不思議そうに、尻尾の一本を眺めた。

 

「以前は、誰かが近くにおるだけで気になって仕方がなかった。眠っている間に何か起きるのではないか、いつ目を覚ますべきか。そんなことばかり考えておった」

 

「今は違う?」

 

「今は……そうじゃな。目を閉じても、お主がそこにおると思える」

 

 その言葉は、静かに胸の中へ落ちてきた。

 

 僕も、ここで眠ることに不安を感じなくなっていた。

 

 最初はいつ崩れるか分からない壁や、夜中に聞こえる風の音が気になっていた。それでも、恋珀がそばにいると不思議と安心できた。

 

 きっと彼女も、同じような気持ちを感じているのかもしれない。

 

「じゃあ、これからも隣で寝ようよ」

 

「ふむ。お主がそう望むなら、考えておこう」

 

「考えるだけ?」

 

「すぐに答えを出す必要もあるまい」

 

「恋珀らしいね」

 

「何か言ったか?」

 

「なんでもない」

 

 恋珀は少し目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。

 

 僕は立ち上がり、窓の外を眺めた。

 

 空はよく晴れている。風も穏やかで、木々の葉がゆっくりと揺れていた。

 

「今日はいい天気だね」

 

「そうじゃな」

 

「外に出てみようかな」

 

「外へ?」

 

「うん。ずっとここにいるのもいいけど、少し歩きたい気分なんだ」

 

 恋珀はすぐには答えなかった。

 

 彼女が外へ出ることを好まない理由は知っている。

 

 三本の大きな尻尾を隠すのは難しく、人目につけば普通の人間ではないと気づかれてしまう。だからこそ、彼女はこの廃墟で暮らしている。

 

「ワシはここにおるぞ」

 

「分かってる。僕一人で少し歩いてくるよ」

 

「……そうか」

 

 恋珀は小さく頷いた。

 

 けれど、その尻尾は少しだけ僕の方へ寄ってきた。

 

「すぐ戻るよ」

 

「別に、急がずともよい。お主の好きにすればよいのじゃ」

 

「うん。でも、恋珀を待たせたくないから」

 

 そう言うと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。

 

 それから、照れを隠すように顔を横へ向けた。

 

「……好きにせい」

 

 僕は笑いながら、出かける準備を始めた。

 

 廃墟の外へ出ると、朝の空気が頬を撫でた。

 

 少し湿った土の匂いと、草木の匂いが混ざっている。遠くでは鳥の声が聞こえ、風に揺れる枝が小さな音を立てていた。

 

 この場所に来るまでは、外を歩くことに特別な意味など感じていなかった。

 

 会社へ向かうために歩き、帰るために歩く。そんな毎日の繰り返しだった。

 

 けれど、今は違う。

 

 目的地もなく、時間に追われることもなく、ただ歩いている。

 

 それだけなのに、少しだけ心が軽かった。

 

 近くの木の根元に、小さな花が咲いているのを見つけた。

 

 名前は分からない。

 

 背の低い草に埋もれるようにして、淡い色の花びらを広げている。

 

 誰かに見つけてもらうために咲いているわけではないのだろう。

 

 それでも、そこに確かに咲いていた。

 

「……綺麗だな」

 

 思わず呟いた。

 

 しばらく眺めたあと、僕は廃墟へ戻ることにした。

 

 帰る場所がある。

 

 そう思うと、自然と足取りが軽くなる。

 

 廃墟の入り口に戻ると、恋珀がこちらを向いていた。

 

「おかえり、湊」

 

「ただいま」

 

 何気ない挨拶だった。

 

 けれど、その言葉を交わすだけで、胸の奥が温かくなる。

 

「早かったのう」

 

「少し歩いただけだからね」

 

「外はどうじゃった?」

 

「いい天気だったよ。近くに小さな花が咲いてた」

 

「花か」

 

「うん。誰にも見られないような場所だったけど、綺麗だった」

 

「ふむ。そういうものを見つけられるのは、お主のよいところかもしれぬな」

 

「そうかな?」

 

「ワシなら、気にも留めず通り過ぎてしまうかもしれぬ」

 

「恋珀は花とか興味ないの?」

 

「嫌いではないぞ。ただ、長く生きておると、見慣れたものも多くなるからのう」

 

「それでも、たまには見てみたらいいと思うよ」

 

「……そうじゃな」

 

 恋珀は窓の外へ目を向けた。

 

 その横顔を見て、僕はふと思いついた。

 

「今度、一緒に見に行こうよ」

 

「ワシもか?」

 

「うん。人目につかない場所なら大丈夫かもしれないし」

 

「そう簡単にはいかぬぞ。ワシの姿を見られれば、騒ぎになるかもしれぬ」

 

「それなら、人が来ない時間や場所を探そう」

 

「お主は本当に諦めが悪いのう」

 

「嫌だった?」

 

「……嫌とは言っておらぬ」

 

 恋珀は尻尾を一本、ゆっくりと揺らした。

 

「いつか、な」

 

「うん。いつか」

 

 その約束は、すぐに叶うものではないかもしれない。

 

 それでも、いつか二人で外を歩けたらいいと思った。

 

 恋珀が見慣れた景色を、もう一度新鮮な気持ちで眺められるように。

 

 そして、僕も彼女と一緒に、今まで知らなかった景色を見てみたい。

 

「ところで、湊」

 

「なに?」

 

「腹は空いておらぬか?」

 

「そういえば、少し空いてるかも」

 

「ならば、何か用意するとしよう」

 

 恋珀は立ち上がり、部屋の隅に置いてある道具へ向かった。

 

 この廃墟で使えるものは限られている。水道はまだ使えるが、食事に必要なものは自分たちで用意しなければならない。

 

 彼女は火を扱うのが得意だった。

 

 指先に小さな炎を灯し、薪の上へそっと移す。炎はすぐに広がり、周囲を温め始めた。

 

「今日は何にするの?」

 

「残っておるもので考えるしかあるまい。お主は何か食べたいものがあるか?」

 

「うーん……温かいものがいいかな」

 

「ならば、簡単な汁物でも作るかの」

 

「手伝うよ」

 

「お主に任せると、余計に時間がかかりそうじゃが」

 

「ひどいな」

 

「冗談じゃ。ほれ、そこの器を取ってくれ」

 

 僕は言われたとおりに器を手に取った。

 

 二人で準備をしていると、恋珀がふとこちらを見た。

 

「湊」

 

「ん?」

 

「その器は、もう少し奥に置いておくれ」

 

「これ?」

 

「そうじゃ」

 

 言われた場所へ器を置く。

 

 恋珀は満足そうに頷いた。

 

「うむ。助かったぞ」

 

「どういたしまして」

 

 以前なら、彼女が一人で済ませていたようなことだろう。

 

 けれど今は、こうして一緒に準備をすることが自然になりつつある。

 

 大したことではない。

 

 器を運んだり、薪を足したり、食事の準備を手伝ったり。

 

 それでも、誰かと一緒に暮らすというのは、こういう小さなことの積み重ねなのかもしれない。

 

 やがて、温かな汁物ができあがった。

 

 湯気が立ち上り、部屋の中に優しい香りが広がる。

 

「できたぞ」

 

「おいしそう」

 

「熱いから気をつけるのじゃ」

 

「うん」

 

 器を受け取り、ゆっくりと口をつける。

 

 温かさが身体の中へ広がっていった。

 

「おいしい」

 

「そうか。それならよかった」

 

 恋珀は少しだけ嬉しそうに目を細めた。

 

 その表情を見ていると、もっと何かを伝えたくなる。

 

「恋珀」

 

「なんじゃ?」

 

「ありがとう」

 

「……何に対してじゃ?」

 

「朝から色々と。ご飯もそうだし、ここにいさせてくれてることも」

 

「また急にどうしたのじゃ」

 

「なんとなく、言いたくなっただけ」

 

「そうか」

 

 恋珀は器を持ったまま、しばらく僕を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと微笑んだ。

 

「礼を言うのはワシの方かもしれぬな」

 

「どうして?」

 

「この場所に、誰かの声がするようになった。朝になれば目を覚まし、食事をし、他愛のない話をする。そんな日々が、ワシにも訪れるとは思っておらなんだ」

 

「僕も、こんな生活になるとは思ってなかったよ」

 

「お互い様じゃな」

 

 二人で小さく笑った。

 

 食事を終える頃には、窓から差し込む光が少し高い位置へ移動していた。

 

 今日も、特別なことは何もない。

 

 けれど、そんな一日が続いていくことを願っている自分がいた。

 

 恋珀も、同じ気持ちでいてくれたらいい。

 

「湊」

 

「なに?」

 

「明日は、もう少し外を歩いてみるのもよいかもしれぬな」

 

「恋珀も一緒に?」

 

「……人目につかぬ場所なら、考えてやらぬこともない」

 

「本当?」

 

「ただし、無理はせぬ。約束じゃ」

 

「うん。約束」

 

 恋珀は小さく頷いた。

 

 その尻尾が、嬉しそうに揺れている。

 

 明日が楽しみだ。

 

 昨日までと同じ廃墟で、昨日までと同じように過ごすだけなのに。

 

 少しずつ変わっていくものがある。

 

 それは、僕と恋珀の距離なのかもしれない。




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