三尾の妖狐と僕の帰る場所   作:ゆくじろ

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主人公こと湊くんと恋珀が仲良くなってきたので初投稿です!


第七話 恋珀と見る景色

 翌朝、目を覚ますと、窓の外から柔らかな風の音が聞こえていた。

 

 昨日と同じように、崩れかけた壁の隙間から朝日が差し込んでいる。

 

 僕は身体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡した。

 

 恋珀はまだ眠っているようだった。

 

 長い白髪が肩から流れ、赤い着物の袖が少しだけ乱れている。三本の尻尾はそれぞれ違う方向へ広がり、そのうち一本が僕の足元に触れていた。

 

 普段の彼女は、どこか威厳があって、簡単には近づきがたい雰囲気を持っている。

 

 けれど、眠っているときだけは少し違う。

 

 年相応という言葉が当てはまるのかは分からないけれど、少なくとも今は、五千年を生きた妖狐というより、ただ静かに眠る一人の女の子に見えた。

 

「……恋珀」

 

 小さく名前を呼んでみる。

 

 返事はない。

 

 もう一度呼ぼうとしたとき、彼女の耳がぴくりと動いた。

 

「……なんじゃ」

 

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

 

「いや……ちょうど目が覚めたところじゃ」

 

 恋珀はゆっくりと目を開けた。

 

 まだ少し眠そうな表情で、僕の方を見つめている。

 

「おはよう」

 

「うむ。おはよう、湊」

 

 彼女は身体を起こし、長い髪を手で整えた。

 

「今日は早いのう」

 

「なんとなく目が覚めちゃって」

 

「そうか。よく眠れたか?」

 

「うん。恋珀は?」

 

「ワシも問題ない」

 

 そう答えたあと、恋珀は自分の尻尾を見下ろした。

 

「……ところで、湊」

 

「なに?」

 

「昨夜からずっと、尻尾に触れておったじゃろう」

 

「えっ?」

 

 言われて自分の手を見る。

 

 確かに、眠る前に触れていた尻尾に、まだ手を添えていた。

 

「ご、ごめん。無意識だった」

 

「ふむ。まあ、よい」

 

 恋珀は尻尾を引っ込めることなく、そのまま身体の横へ寄せた。

 

「嫌じゃないの?」

 

「嫌なら、とっくに退けておる」

 

「そっか」

 

「それに、湊が安心して眠れたのなら、それでよい」

 

 彼女はそう言って、少しだけ笑った。

 

 僕はなんだか照れくさくなり、視線を逸らした。

 

 朝の支度を済ませ、二人で簡単な食事を取る。

 

 食事の間、僕は昨日の会話を思い出していた。

 

 人目につかない場所なら、いつか一緒に外を歩いてもよい。

 

 恋珀は確かにそう言っていた。

 

 あれは社交辞令だったのだろうか。それとも、本当に一緒に出かけるつもりがあるのだろうか。

 

 考えていると、恋珀がこちらを見た。

 

「湊。何か考え事か?」

 

「昨日の約束のこと」

 

「約束?」

 

「一緒に外を歩くって話」

 

「ああ、そのことか」

 

 恋珀は器を置いた。

 

「忘れておったわけではないぞ」

 

「本当?」

 

「疑っておるのか?」

 

「いや、そういうわけじゃないけど」

 

「ならばよい」

 

 彼女は少し考えるように窓の外を眺めた。

 

「この辺りなら、人が立ち寄らぬ場所もある。昔からある小道を抜ければ、木々に囲まれた場所へ出られるはずじゃ」

 

「そんなところがあるんだ」

 

「ずいぶん前に見つけた場所じゃ。今も残っておるかは分からぬがの」

 

「行ってみたいな」

 

「……そうか」

 

 恋珀は僕の顔を見た。

 

 その瞳には、ほんの少し迷いが見える。

 

「ただし、いくつか条件がある」

 

「条件?」

 

「まず、人の気配があればすぐに戻ること。次に、ワシの姿を見られぬよう気を配ること。そして、何よりも無理をしないことじゃ」

 

「分かった」

 

「本当に分かっておるのか?」

 

「大丈夫だよ」

 

「お主の大丈夫ほど、当てにならぬものもない」

 

「そんなに信用ない?」

 

「信用しておるからこそ、心配なのじゃ」

 

 恋珀は少しだけ声を落とした。

 

 僕はその言葉に、何も返せなかった。

 

 彼女は僕のことを気にかけてくれている。

 

 それは分かっている。

 

 だからこそ、僕も彼女が安心できるようにしたいと思った。

 

「無理はしないよ。恋珀と一緒に歩きたいだけだから」

 

「……うむ」

 

 彼女は小さく頷いた。

 

 出かける準備を整え、廃墟の外へ出る。

 

 恋珀は三本の尻尾を身体の後ろへ寄せ、着物の裾を整えた。人間の姿に近い彼女だが、狐の耳と尻尾だけは隠すことが難しい。

 

「やはり、目立つかのう」

 

「うーん……普通の人なら驚くと思う」

 

「正直じゃな」

 

「でも、僕は好きだよ」

 

「……何がじゃ?」

 

「恋珀の耳も尻尾も。綺麗だと思う」

 

 恋珀の耳がぴくりと動いた。

 

「お主は、時々そういうことを何のためらいもなく言うのう」

 

「思ったことを言っただけだよ」

 

「まったく……」

 

 彼女は頬を少し赤くしながら、僕の前を歩き始めた。

 

 廃墟から少し離れた場所に、細い道があった。

 

 草が伸び、ところどころ土が崩れている。人が頻繁に通る道ではないようで、道の両側には木々が生い茂っていた。

 

「ここを通るの?」

 

「そうじゃ。昔はもう少し整っておったのじゃがな」

 

「恋珀がここを見つけたのって、いつ頃?」

 

「さあのう。何百年も前のことじゃ。正確には覚えておらぬ」

 

「何百年……」

 

「そんなに驚くことか?」

 

「僕には想像できないよ」

 

「お主も長く生きれば分かるかもしれぬな」

 

「その頃には恋珀はもっと長生きしてるんじゃない?」

 

「ふふ。確かにそうじゃな」

 

 恋珀は楽しそうに笑った。

 

 道を進むにつれて、周囲の音が少しずつ変わっていく。

 

 車の音や人の声は聞こえなくなり、代わりに鳥のさえずりや葉の擦れる音が耳に届くようになった。

 

 やがて、木々の隙間から小さな開けた場所が見えてきた。

 

「ここじゃ」

 

 恋珀が足を止める。

 

 そこは、緩やかな斜面に囲まれた小さな空き地だった。

 

 地面には柔らかな草が広がり、ところどころに小さな花が咲いている。近くには古い木が一本立っていて、その枝が空に向かって大きく伸びていた。

 

 風が吹くと、葉がさらさらと音を立てた。

 

「綺麗だね」

 

「そうじゃろう」

 

 恋珀は少し得意げに笑った。

 

「ここは昔、よく来ておった場所じゃ」

 

「一人で?」

 

「そうじゃ。人の集まる場所は苦手じゃったからな。ここなら誰にも邪魔されずに過ごせる」

 

「今もそう?」

 

「今も嫌いではない。静かな場所は落ち着くからのう」

 

 恋珀は木の根元へ歩いていき、そっと腰を下ろした。

 

 僕も隣に座る。

 

 彼女の尻尾が草の上に広がった。白い毛並みが緑の草によく映えている。

 

「ここに来るのは久しぶりじゃ」

 

「どれくらい?」

 

「さあ……百年くらいかのう」

 

「そんなに?」

 

「時間が経つのは早いものじゃ」

 

 恋珀は空を見上げた。

 

「ここに来ていた頃は、まだ今ほど人間の暮らしも変わっておらなんだ。近くの村には小さな家が並び、夕方になると子どもたちの声が聞こえておった」

 

「恋珀は、その頃からこの辺りに住んでいたの?」

 

「いや、住んでおったわけではない。ただ、時折この辺りを通っていただけじゃ」

 

「その村は今もあるのかな」

 

「どうじゃろうな。人の暮らしは変わる。家がなくなり、道ができ、また別の場所へ人が移っていく。ワシが知っておる景色も、いつの間にかなくなってしまう」

 

 恋珀の声は穏やかだった。

 

 けれど、その言葉の奥には、長い時間を生きてきた彼女だけが知る寂しさがあるように感じた。

 

「それでも、ここは残ってるね」

 

「そうじゃな」

 

「恋珀が覚えている場所が、今も残ってる」

 

「……うむ」

 

 彼女は木の幹に手を添えた。

 

「この木も、ずいぶん大きくなったものじゃ」

 

「昔からあったんだ?」

 

「そうじゃ。以前は今よりずっと細かった。ワシが手を伸ばせば、簡単に幹を囲めるほどにな」

 

「今は無理そうだね」

 

「無理じゃな」

 

 恋珀は木を見上げた。

 

 その横顔を見ていると、彼女がどれだけ長い時間をこの世界で過ごしてきたのか、少しだけ想像できる気がした。

 

 僕が生まれるずっと前から、彼女はここにいた。

 

 僕が知ることのない人々と出会い、僕が見ることのない景色を眺めてきた。

 

 そして今、こうして僕の隣に座っている。

 

「ねえ、恋珀」

 

「なんじゃ?」

 

「またここに来てもいい?」

 

「もちろんじゃ。ここは誰の所有地でもないからのう」

 

「じゃあ、今度は何か持ってこようよ。食べ物とか」

 

「ここで食べるのか?」

 

「うん。ちょっとしたお出かけみたいで楽しそうだし」

 

「ふむ。それも悪くない」

 

 恋珀は少しだけ笑った。

 

 そのとき、彼女の耳がぴんと立った。

 

 僕も気づいて、周囲を見回す。

 

 遠くから、かすかに何かが聞こえた。

 

 人の声だ。

 

「……人か?」

 

 恋珀の表情が変わった。

 

 先ほどまでの穏やかな雰囲気が消え、鋭い眼差しで木々の向こうを見つめている。

 

「近くに誰かいるの?」

 

「まだ遠い。じゃが、こちらへ向かっているようじゃ」

 

「戻ろう」

 

「うむ」

 

 僕たちは立ち上がった。

 

 恋珀は三本の尻尾を身体の後ろへ寄せ、周囲の気配を探るように耳を動かしている。

 

 僕は彼女の少し前を歩こうとした。

 

 けれど、恋珀がそっと僕の袖を掴んだ。

 

「湊」

 

「なに?」

 

「先に行くでない。ワシのそばにおれ」

 

「分かった」

 

 彼女は僕の隣へ並んだ。

 

 その手が袖から離れ、今度は僕の手に触れる。

 

 指先が少しだけ迷ったあと、そっと握られた。

 

「……手を繋いでおけば、はぐれぬじゃろう」

 

「うん」

 

 僕は握り返した。

 

 来た道を戻りながら、恋珀は何度も後ろを確認していた。

 

 人の気配は少しずつ遠ざかっていく。

 

 やがて、廃墟の姿が木々の向こうに見えてきた。

 

 入り口まで戻ったところで、恋珀はようやく息を吐いた。

 

「どうやら、こちらには来ぬようじゃな」

 

「よかった」

 

「まったく。少し肝が冷えたぞ」

 

「ごめんね」

 

「湊が謝ることではない」

 

 恋珀は僕の手を見た。

 

 まだ、繋いだままだった。

 

「あ……」

 

 僕が手を離そうとすると、彼女は少しだけ指に力を込めた。

 

「……もう少し、このままでよいか?」

 

「うん。もちろん」

 

 恋珀は視線を逸らした。

 

「外を歩くのも、悪くないものじゃな」

 

「また行こうよ」

 

「そうじゃな。次はもう少しゆっくり過ごしたいものじゃ」

 

「今度は食べ物も持っていこう」

 

「それは楽しみじゃな」

 

 二人で廃墟の中へ戻る。

 

 いつもの場所。

 

 いつもの壁。

 

 いつもの火。

 

 けれど、今日の僕には、そこへ帰ってきたという実感がいつもより強くあった。

 

 恋珀も同じだったのだろうか。

 

 彼女は僕の手を離すと、少しだけこちらを振り返った。

 

「湊」

 

「なに?」

 

「今日は、連れ出してくれてありがとう」

 

「僕の方こそ。一緒に来てくれてありがとう」

 

「ふふ。そうじゃな」

 

 彼女の三本の尻尾が、ゆっくりと揺れた。

 

 その姿を見て、僕は思った。

 

 いつか、もっと遠くへ行ける日が来るといい。

 

 人の目を気にせず、彼女が好きなように歩ける日が。

 

 そのときは、今日よりもたくさんの景色を二人で見たい。

 

 今はまだ、この小さな廃墟と、その周囲の森が僕たちの世界だ。

 

 けれど、その世界は少しずつ広がっている。

 

 恋珀と一緒なら、きっとこれからも。




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