翌朝、目を覚ますと、窓の外から柔らかな風の音が聞こえていた。
昨日と同じように、崩れかけた壁の隙間から朝日が差し込んでいる。
僕は身体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡した。
恋珀はまだ眠っているようだった。
長い白髪が肩から流れ、赤い着物の袖が少しだけ乱れている。三本の尻尾はそれぞれ違う方向へ広がり、そのうち一本が僕の足元に触れていた。
普段の彼女は、どこか威厳があって、簡単には近づきがたい雰囲気を持っている。
けれど、眠っているときだけは少し違う。
年相応という言葉が当てはまるのかは分からないけれど、少なくとも今は、五千年を生きた妖狐というより、ただ静かに眠る一人の女の子に見えた。
「……恋珀」
小さく名前を呼んでみる。
返事はない。
もう一度呼ぼうとしたとき、彼女の耳がぴくりと動いた。
「……なんじゃ」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いや……ちょうど目が覚めたところじゃ」
恋珀はゆっくりと目を開けた。
まだ少し眠そうな表情で、僕の方を見つめている。
「おはよう」
「うむ。おはよう、湊」
彼女は身体を起こし、長い髪を手で整えた。
「今日は早いのう」
「なんとなく目が覚めちゃって」
「そうか。よく眠れたか?」
「うん。恋珀は?」
「ワシも問題ない」
そう答えたあと、恋珀は自分の尻尾を見下ろした。
「……ところで、湊」
「なに?」
「昨夜からずっと、尻尾に触れておったじゃろう」
「えっ?」
言われて自分の手を見る。
確かに、眠る前に触れていた尻尾に、まだ手を添えていた。
「ご、ごめん。無意識だった」
「ふむ。まあ、よい」
恋珀は尻尾を引っ込めることなく、そのまま身体の横へ寄せた。
「嫌じゃないの?」
「嫌なら、とっくに退けておる」
「そっか」
「それに、湊が安心して眠れたのなら、それでよい」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
僕はなんだか照れくさくなり、視線を逸らした。
朝の支度を済ませ、二人で簡単な食事を取る。
食事の間、僕は昨日の会話を思い出していた。
人目につかない場所なら、いつか一緒に外を歩いてもよい。
恋珀は確かにそう言っていた。
あれは社交辞令だったのだろうか。それとも、本当に一緒に出かけるつもりがあるのだろうか。
考えていると、恋珀がこちらを見た。
「湊。何か考え事か?」
「昨日の約束のこと」
「約束?」
「一緒に外を歩くって話」
「ああ、そのことか」
恋珀は器を置いた。
「忘れておったわけではないぞ」
「本当?」
「疑っておるのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ならばよい」
彼女は少し考えるように窓の外を眺めた。
「この辺りなら、人が立ち寄らぬ場所もある。昔からある小道を抜ければ、木々に囲まれた場所へ出られるはずじゃ」
「そんなところがあるんだ」
「ずいぶん前に見つけた場所じゃ。今も残っておるかは分からぬがの」
「行ってみたいな」
「……そうか」
恋珀は僕の顔を見た。
その瞳には、ほんの少し迷いが見える。
「ただし、いくつか条件がある」
「条件?」
「まず、人の気配があればすぐに戻ること。次に、ワシの姿を見られぬよう気を配ること。そして、何よりも無理をしないことじゃ」
「分かった」
「本当に分かっておるのか?」
「大丈夫だよ」
「お主の大丈夫ほど、当てにならぬものもない」
「そんなに信用ない?」
「信用しておるからこそ、心配なのじゃ」
恋珀は少しだけ声を落とした。
僕はその言葉に、何も返せなかった。
彼女は僕のことを気にかけてくれている。
それは分かっている。
だからこそ、僕も彼女が安心できるようにしたいと思った。
「無理はしないよ。恋珀と一緒に歩きたいだけだから」
「……うむ」
彼女は小さく頷いた。
出かける準備を整え、廃墟の外へ出る。
恋珀は三本の尻尾を身体の後ろへ寄せ、着物の裾を整えた。人間の姿に近い彼女だが、狐の耳と尻尾だけは隠すことが難しい。
「やはり、目立つかのう」
「うーん……普通の人なら驚くと思う」
「正直じゃな」
「でも、僕は好きだよ」
「……何がじゃ?」
「恋珀の耳も尻尾も。綺麗だと思う」
恋珀の耳がぴくりと動いた。
「お主は、時々そういうことを何のためらいもなく言うのう」
「思ったことを言っただけだよ」
「まったく……」
彼女は頬を少し赤くしながら、僕の前を歩き始めた。
廃墟から少し離れた場所に、細い道があった。
草が伸び、ところどころ土が崩れている。人が頻繁に通る道ではないようで、道の両側には木々が生い茂っていた。
「ここを通るの?」
「そうじゃ。昔はもう少し整っておったのじゃがな」
「恋珀がここを見つけたのって、いつ頃?」
「さあのう。何百年も前のことじゃ。正確には覚えておらぬ」
「何百年……」
「そんなに驚くことか?」
「僕には想像できないよ」
「お主も長く生きれば分かるかもしれぬな」
「その頃には恋珀はもっと長生きしてるんじゃない?」
「ふふ。確かにそうじゃな」
恋珀は楽しそうに笑った。
道を進むにつれて、周囲の音が少しずつ変わっていく。
車の音や人の声は聞こえなくなり、代わりに鳥のさえずりや葉の擦れる音が耳に届くようになった。
やがて、木々の隙間から小さな開けた場所が見えてきた。
「ここじゃ」
恋珀が足を止める。
そこは、緩やかな斜面に囲まれた小さな空き地だった。
地面には柔らかな草が広がり、ところどころに小さな花が咲いている。近くには古い木が一本立っていて、その枝が空に向かって大きく伸びていた。
風が吹くと、葉がさらさらと音を立てた。
「綺麗だね」
「そうじゃろう」
恋珀は少し得意げに笑った。
「ここは昔、よく来ておった場所じゃ」
「一人で?」
「そうじゃ。人の集まる場所は苦手じゃったからな。ここなら誰にも邪魔されずに過ごせる」
「今もそう?」
「今も嫌いではない。静かな場所は落ち着くからのう」
恋珀は木の根元へ歩いていき、そっと腰を下ろした。
僕も隣に座る。
彼女の尻尾が草の上に広がった。白い毛並みが緑の草によく映えている。
「ここに来るのは久しぶりじゃ」
「どれくらい?」
「さあ……百年くらいかのう」
「そんなに?」
「時間が経つのは早いものじゃ」
恋珀は空を見上げた。
「ここに来ていた頃は、まだ今ほど人間の暮らしも変わっておらなんだ。近くの村には小さな家が並び、夕方になると子どもたちの声が聞こえておった」
「恋珀は、その頃からこの辺りに住んでいたの?」
「いや、住んでおったわけではない。ただ、時折この辺りを通っていただけじゃ」
「その村は今もあるのかな」
「どうじゃろうな。人の暮らしは変わる。家がなくなり、道ができ、また別の場所へ人が移っていく。ワシが知っておる景色も、いつの間にかなくなってしまう」
恋珀の声は穏やかだった。
けれど、その言葉の奥には、長い時間を生きてきた彼女だけが知る寂しさがあるように感じた。
「それでも、ここは残ってるね」
「そうじゃな」
「恋珀が覚えている場所が、今も残ってる」
「……うむ」
彼女は木の幹に手を添えた。
「この木も、ずいぶん大きくなったものじゃ」
「昔からあったんだ?」
「そうじゃ。以前は今よりずっと細かった。ワシが手を伸ばせば、簡単に幹を囲めるほどにな」
「今は無理そうだね」
「無理じゃな」
恋珀は木を見上げた。
その横顔を見ていると、彼女がどれだけ長い時間をこの世界で過ごしてきたのか、少しだけ想像できる気がした。
僕が生まれるずっと前から、彼女はここにいた。
僕が知ることのない人々と出会い、僕が見ることのない景色を眺めてきた。
そして今、こうして僕の隣に座っている。
「ねえ、恋珀」
「なんじゃ?」
「またここに来てもいい?」
「もちろんじゃ。ここは誰の所有地でもないからのう」
「じゃあ、今度は何か持ってこようよ。食べ物とか」
「ここで食べるのか?」
「うん。ちょっとしたお出かけみたいで楽しそうだし」
「ふむ。それも悪くない」
恋珀は少しだけ笑った。
そのとき、彼女の耳がぴんと立った。
僕も気づいて、周囲を見回す。
遠くから、かすかに何かが聞こえた。
人の声だ。
「……人か?」
恋珀の表情が変わった。
先ほどまでの穏やかな雰囲気が消え、鋭い眼差しで木々の向こうを見つめている。
「近くに誰かいるの?」
「まだ遠い。じゃが、こちらへ向かっているようじゃ」
「戻ろう」
「うむ」
僕たちは立ち上がった。
恋珀は三本の尻尾を身体の後ろへ寄せ、周囲の気配を探るように耳を動かしている。
僕は彼女の少し前を歩こうとした。
けれど、恋珀がそっと僕の袖を掴んだ。
「湊」
「なに?」
「先に行くでない。ワシのそばにおれ」
「分かった」
彼女は僕の隣へ並んだ。
その手が袖から離れ、今度は僕の手に触れる。
指先が少しだけ迷ったあと、そっと握られた。
「……手を繋いでおけば、はぐれぬじゃろう」
「うん」
僕は握り返した。
来た道を戻りながら、恋珀は何度も後ろを確認していた。
人の気配は少しずつ遠ざかっていく。
やがて、廃墟の姿が木々の向こうに見えてきた。
入り口まで戻ったところで、恋珀はようやく息を吐いた。
「どうやら、こちらには来ぬようじゃな」
「よかった」
「まったく。少し肝が冷えたぞ」
「ごめんね」
「湊が謝ることではない」
恋珀は僕の手を見た。
まだ、繋いだままだった。
「あ……」
僕が手を離そうとすると、彼女は少しだけ指に力を込めた。
「……もう少し、このままでよいか?」
「うん。もちろん」
恋珀は視線を逸らした。
「外を歩くのも、悪くないものじゃな」
「また行こうよ」
「そうじゃな。次はもう少しゆっくり過ごしたいものじゃ」
「今度は食べ物も持っていこう」
「それは楽しみじゃな」
二人で廃墟の中へ戻る。
いつもの場所。
いつもの壁。
いつもの火。
けれど、今日の僕には、そこへ帰ってきたという実感がいつもより強くあった。
恋珀も同じだったのだろうか。
彼女は僕の手を離すと、少しだけこちらを振り返った。
「湊」
「なに?」
「今日は、連れ出してくれてありがとう」
「僕の方こそ。一緒に来てくれてありがとう」
「ふふ。そうじゃな」
彼女の三本の尻尾が、ゆっくりと揺れた。
その姿を見て、僕は思った。
いつか、もっと遠くへ行ける日が来るといい。
人の目を気にせず、彼女が好きなように歩ける日が。
そのときは、今日よりもたくさんの景色を二人で見たい。
今はまだ、この小さな廃墟と、その周囲の森が僕たちの世界だ。
けれど、その世界は少しずつ広がっている。
恋珀と一緒なら、きっとこれからも。
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