朝、目を覚ますと、部屋の中にいつもとは違う香りが漂っていた。
甘く、どこか懐かしいような香り。
まだ眠気の残る頭で周囲を見渡すと、部屋の隅に座っている恋珀の姿が見えた。
彼女は何かを手に持ち、じっと眺めている。
「……恋珀?」
「おお、起きたか。おはよう、湊」
「おはよう。何してるの?」
「これか?」
恋珀は手に持っていたものをこちらへ見せた。
それは、小さな木の実だった。
茶色い殻に包まれた、見慣れない形の実がいくつか、彼女の膝の上に並んでいる。
「昨日、外へ出たときに見つけたものじゃ」
「昨日の空き地で?」
「いや、廃墟へ戻る途中じゃ。道の脇に落ちておった」
「食べられるの?」
「おそらくな。昔、一度口にしたことがある」
「おそらくって……大丈夫なの?」
「心配せずともよい。毒のあるものではない」
恋珀は木の実をひとつ指先で転がした。
「ただ、少しばかり固いのじゃ」
「じゃあ、どうやって食べるの?」
「殻を割ればよい」
「簡単に割れる?」
「ワシならな」
彼女は小さく笑った。
その表情を見ていると、ふと疑問が浮かんだ。
「恋珀って、食べ物に詳しいの?」
「詳しいというほどではないぞ。長く生きておれば、自然と覚えることもある」
「料理も?」
「簡単なものなら作れる」
「意外だな」
「どういう意味じゃ?」
「いや、恋珀は何でも不思議な力で解決しそうなイメージがあったから」
「失礼なやつじゃな。ワシとて、食事くらい自分で用意する」
「そっか。じゃあ、今度何か作ってよ」
「今度と言わず、今日でもよいぞ」
「本当?」
「ただし、材料があればの話じゃ」
恋珀はそう言って、膝の上の木の実をまとめた。
僕は身体を起こし、窓の外を眺めた。
今日は雲が少なく、穏やかな天気だった。
昨日の外出で、恋珀が人目を気にしていることは改めて分かった。それでも、また一緒に出かけたいと言ってくれたことが嬉しかった。
「今日はどうする?」
「そうじゃな……」
恋珀は少し考え込んだ。
「昨日の木の実を、もう少し探してみるのもよいかもしれぬ」
「外へ行く?」
「うむ。ただし、昨日より短い時間で戻るぞ」
「分かった」
朝食を済ませると、僕たちは出かける準備を始めた。
恋珀は着物の襟元を整え、長い髪を片側へ寄せる。三本の尻尾はいつもどおり大きく広がっていた。
「その尻尾、やっぱり大きいね」
「今さら何を言っておる」
「いや、改めて見るとすごいなって」
「三本とも、ワシの大切なものじゃ。そう簡単に小さくすることもできぬ」
「隠すのは難しい?」
「完全にはな。人間の目をごまかすことはできても、近くで見られれば違和感を持たれるじゃろう」
「そっか」
「じゃから、あまり人のいる場所へは行けぬ」
恋珀は少しだけ視線を落とした。
僕は彼女の横顔を見つめた。
「でも、昨日みたいな場所なら一緒に行けるよ」
「……そうじゃな」
「少しずつ、行ける場所を増やしていこう」
「ふむ。お主となら、そういうのも悪くない」
彼女の尻尾が、ゆっくりと揺れた。
廃墟を出て、昨日通った道を進む。
木々の間には朝露が残り、葉の先から小さな雫が落ちていた。足元の草を踏むたび、湿った土の感触が靴越しに伝わってくる。
「湊」
「なに?」
「少し、あそこを見てみよ」
恋珀が指さした先には、低い木が何本か並んでいた。
その枝には、茶色い木の実がいくつもついている。
「これかな?」
「そうじゃ。昨日見つけたものと同じじゃな」
「結構あるね」
「落ちているものを拾えばよい。枝を傷つける必要はない」
僕は木の根元へ近づき、落ちている木の実を拾い始めた。
恋珀も隣で、器用に尻尾を使いながら木の実を集めている。
「尻尾って便利だね」
「当然じゃ。手が塞がっておっても、こうして物を運べる」
「僕も尻尾が欲しくなってきたよ」
「人間に尻尾が生えたところで、使いこなせるか分からぬぞ」
「確かに」
恋珀は小さく笑った。
木の実をいくつか集めたところで、僕は近くに落ちていた大きな葉を見つけた。
「これに包んで持って帰ろうか」
「よい考えじゃな」
葉を広げ、拾った木の実をその上に並べる。
恋珀はそれを見て、満足そうに頷いた。
「これだけあれば、しばらく楽しめそうじゃ」
「どうやって食べるの?」
「まずは殻を割る。それから、中身を取り出して火で軽く炙るのじゃ」
「美味しそうだね」
「昔はよく食べておった。懐かしい味じゃ」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ嬉しくなった。
彼女にも、懐かしいと思えるものがある。
長い年月を生きているからといって、すべてを忘れてしまったわけではないのだ。
むしろ、忘れずに残っているものがあるからこそ、今もこうして暮らしているのかもしれない。
帰り道、恋珀は木々の間を歩きながら、時折足を止めて周囲を眺めていた。
「どうしたの?」
「いや、昔と変わらぬ場所もあるのだと思ってな」
「変わってない?」
「木の形や、風の通り方じゃ。人の暮らしは変わっても、こういうものは残ることがある」
「そういうのを見ると、安心する?」
「……そうじゃな」
恋珀は空を見上げた。
「何もかもが変わってしまうわけではない。それを知るだけでも、悪くないものじゃ」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
廃墟へ戻ると、恋珀はさっそく木の実の準備を始めた。
集めた木の実を布の上に並べ、殻をひとつずつ割っていく。彼女の指先は器用で、力加減も正確だった。
僕も手伝おうとしたが、最初のひとつはうまく割れなかった。
「……難しいね」
「力を入れすぎじゃ。もっと丁寧に扱うのじゃ」
「こう?」
「そうじゃ。焦らず、少しずつ力を加える」
二つ目は、なんとか殻を割ることができた。
「できた!」
「うむ。よくできたのう」
恋珀は嬉しそうに頷いた。
その後も二人で木の実を割り、中身を取り出していった。
すべて終わる頃には、思っていたより時間が経っていた。
「結構かかったね」
「こういうものは、急いでやるものではない」
「恋珀は慣れてるね」
「昔は一人でやっておったからな」
「一人で?」
「そうじゃ。食べるものを集め、火を起こし、必要なものを作る。誰かに頼る必要もなかった」
「今は僕がいるけどね」
「そうじゃな」
恋珀は手を止めた。
そして、少しだけこちらを見た。
「今は、二人でできる」
「うん」
「それは、悪くないものじゃ」
その言葉に、僕は笑って頷いた。
火を起こし、取り出した木の実を軽く炙る。
香ばしい匂いが部屋の中に広がっていった。
「いい匂いだね」
「そうじゃろう。もう少し待つのじゃ」
恋珀は火加減を調整しながら、木の実を丁寧に転がした。
やがて、彼女は一つを手に取り、息を吹きかけて冷ました。
「ほれ、食べてみるがよい」
「ありがとう」
受け取って口に入れる。
ほんのりとした甘みと、香ばしさが広がった。
「美味しい!」
「そうか。それならよかった」
「恋珀も食べて」
「もちろんじゃ」
彼女もひとつ口に運んだ。
その瞬間、表情が少しだけ変わった。
「……懐かしい味じゃ」
「昔と同じ?」
「完全に同じとは言えぬ。木も土も、昔とは違っておるじゃろうからな。じゃが、こうして食べると、昔のことを思い出す」
「どんなこと?」
「特別なことではない。森の中で過ごしておった頃のことじゃ。誰かと話すこともなく、ただ季節が巡るのを眺めておった」
「寂しくなかった?」
「寂しいと思うこともあった。じゃが、それを誰かに話すことはなかったのう」
「どうして?」
「話す相手がおらなんだ。それに、話したところで何かが変わるとも思っておらなんだ」
恋珀は木の実をもうひとつ手に取った。
「長く生きるというのは、そういうことでもあるのじゃろうな。嬉しいことも悲しいことも、いつしか自分の中だけで片づけるようになる」
「今は違う?」
「……少し違うかもしれぬ」
彼女は僕を見た。
「湊には、話してもよいと思える」
その言葉を聞いて、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。
恋珀が何を思い、どんな時間を過ごしてきたのか。
僕にはまだ知らないことがたくさんある。
けれど、これから少しずつ聞いていけたらいいと思った。
「じゃあ、これからも色々聞かせてよ」
「よいぞ。ワシが覚えておる範囲でな」
「楽しみにしてる」
「ただし、昔の話ばかりでは退屈するかもしれぬぞ」
「そんなことないよ」
「そうか。ならば、また話してやろう」
恋珀は穏やかに微笑んだ。
その後も、二人で木の実を食べながら、他愛のない話を続けた。
昔見た景色のこと。
森で出会った生き物のこと。
人間の暮らしが変わっていく様子を、遠くから眺めていたこと。
どれも僕にとっては知らない世界の話だった。
話を聞くたびに、恋珀という存在が少しずつ身近になっていく。
五千年という長い時間を生きてきた彼女にも、好きなものがあり、懐かしいものがあり、誰かと共有したいと思う思い出がある。
それを知ることができるのは、僕にとって大切なことだった。
「湊」
「なに?」
「今日は楽しかったか?」
「うん。すごく楽しかったよ」
「そうか」
恋珀は自分の尻尾を抱えるようにして、少しだけ身体を丸めた。
「ワシもじゃ」
「また一緒にやろうね」
「そうじゃな。次は別のものも探してみよう」
「いいね」
窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変え始めていた。
今日も特別な出来事があったわけではない。
ただ二人で木の実を拾い、火で炙り、昔の話をした。
それだけの一日だった。
けれど、恋珀が昔の思い出を話してくれたことも、懐かしい味を一緒に楽しめたことも、僕にとっては忘れたくない時間だった。
これから先、彼女がどんな話を聞かせてくれるのか。
どんな景色を一緒に見られるのか。
まだ分からないことばかりだ。
それでも、明日もまた、彼女と同じ場所で朝を迎えられる。
今はそれだけで十分だった。
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