木の実を食べた翌日、僕はいつもより早く目を覚ました。
窓の隙間から差し込む朝の光は、まだ薄い。
外では鳥の声が聞こえ、昨日までと変わらない静かな時間が流れていた。
隣を見ると、恋珀はまだ眠っていた。
長い白髪が頬にかかり、三本の大きな尾が身体を包むように広がっている。
普段は気配に敏感な彼女も、こうして眠っているときだけは、少し幼く見えた。
起こさないように、そっと身体を起こす。
そのまま入口の近くまで歩き、外の空気を吸った。
冷たい風が頬を撫でる。
昨日、恋珀と一緒に木の実を拾った場所。
その先に続く木々の間の小道。
少しずつ、この周辺の景色にも馴染んできた気がする。
ここへ来たばかりの頃は、ただ雨風をしのげる場所があればよかった。
誰かと話すことも、明日のことを考えることも、あまり必要だとは思っていなかった。
けれど今は違う。
朝になれば恋珀がいて、食事をすれば向かいに座り、何気ない話を交わす。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。
「……湊?」
背後から声がした。
振り返ると、恋珀が入口に立っていた。
寝起きの白髪を片手で整えながら、こちらを見ている。
「おはよう、恋珀」
「おはようなのじゃ。こんな早くから何をしておる?」
「少し外の空気を吸ってた」
「そうか。まだ冷えるからの、あまり長く外におるでないぞ」
「うん」
恋珀は僕の隣まで歩いてくると、同じように外を眺めた。
「今日は何をするつもりじゃ?」
「特に決めてないよ」
「ならば、昨日の続きをしてもよいな。木の実もまだ残っておるし、別のものを探してみるのも面白そうじゃ」
「そうだね」
そう答えたものの、僕の意識は別の場所へ向かっていた。
ふと、思い出したのだ。
この近くに、かつて僕が暮らしていた施設がある。
もう長いこと訪れていない。
今では建物も使われなくなり、周囲の景色も変わっているだろう。
あの場所で過ごした日々を、忘れたわけではない。
楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、僕の中には残っている。
けれど、もう一度行こうとは思わなかった。
思い出したくないというより、わざわざ振り返る必要がないと思っていたからだ。
「湊?」
恋珀の声に、僕は我に返った。
「どうしたのじゃ。何か考え込んでおるようじゃが」
「少し、昔のことを思い出してた」
「昔のこと?」
「僕が子供の頃に暮らしていた場所が、この近くにあるんだ」
恋珀の耳が、こちらへ向いた。
「以前話してくれた、施設のことか」
「うん。今はもう使われていないみたいだけど」
「そこへ行ってみたいのか?」
すぐには答えられなかった。
行きたいのかと聞かれると、少し違う気もする。
ただ、ふと思い出した。
それだけのことだった。
「……分からない。でも、もう一度見ておきたい気はする」
恋珀は僕の顔を見つめていた。
無理に理由を尋ねることも、行くべきだと勧めることもしない。
ただ、僕の答えを待っている。
「嫌な思い出もあるんだろう?」
「あるよ。でも、全部が嫌だったわけじゃない。そこで出会った人もいたし、覚えている場所もある」
「そうか」
「少しだけ、気になってるんだ。今どうなっているのか」
恋珀は静かに頷いた。
「ならば、行ってみるとよい」
「いいの?」
「お主が自分で見てみたいと思ったのじゃろう。ワシが止める理由はない」
「でも、恋珀は外に出るのが苦手だろ?」
彼女の三本の尾は、身体に対して大きすぎるほど立派だ。
人目につく場所へ行くのは難しい。だからこそ、普段は人の気配がない場所を選んで散歩していた。
「人の多い場所ならば行かぬ。じゃが、その施設は人がいないのじゃろう?」
「たぶん。少なくとも、今は誰も住んでいないはずだよ」
「ならば、ワシも行こう」
「一緒に?」
「当然じゃ。お主が昔暮らしていた場所を見に行くのじゃろう。ならば、隣にいるのが自然というものじゃ」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことではないのじゃ」
恋珀はそっぽを向いた。
けれど、耳の先がほんの少し赤くなっている。
「ただし、無理はするでないぞ。気分が悪くなったらすぐに戻る。何か妙な気配を感じた場合も同じじゃ」
「分かった」
「本当に分かっておるのか?」
「分かってるよ」
「ならばよい」
その日の朝食を済ませたあと、僕たちは出かける準備をした。
恋珀はいつもの赤い着物を整え、淡い橙色の帯を結び直す。
三本の尾は隠せないため、外を歩くときは人目につかない道を選ぶ必要がある。
僕は廃墟の中に置いてあった古い鞄を手に取り、水筒と簡単な食べ物を入れた。
「それでよいのか?」
「うん。遠くまで行くわけじゃないから」
「念のためじゃ。何があるか分からぬからの」
恋珀はそう言うと、入口の外へ出た。
僕もその後に続く。
廃墟を離れ、木々の間を進んでいく。
昨日歩いた小道とは違う方向だった。
しばらく歩くと、舗装の剥がれた古い道路が見えてきた。
草が伸び、ひび割れた地面の隙間から小さな植物が顔を出している。
「この先にあるの?」
「ああ。もう少し進んだところだよ」
「お主が暮らしていた頃は、どのような場所だったのじゃ?」
「普通の施設だったよ。大きな建物で、子供も何人かいた。庭もあったし、遊ぶ場所もあった」
「楽しかったか?」
「楽しいこともあったよ。でも、そうじゃないことも」
「……そうか」
恋珀は、それ以上聞かなかった。
僕も、すぐに話す気にはなれなかった。
ただ、歩きながら少しずつ記憶が蘇ってくる。
玄関を入ったところにあった受付。
廊下の端に並んでいた靴箱。
食事の時間になると聞こえてきた食器の音。
外で遊ぶ子供たちの声。
そして、そこにいた人たちの顔。
懐かしいと思う気持ちと、できれば思い出したくないという気持ちが、胸の中で交差していた。
「湊」
「ん?」
「話したくなったら話せばよい。無理に思い出す必要はないのじゃ」
「うん。ありがとう」
恋珀は僕の隣を歩いている。
その小さな手が、そっと僕の手に触れた。
僕が握り返すと、彼女も指を絡めるように握り返してくる。
やがて、木々の向こうに建物が見えた。
大きな建物だった。
外壁はところどころ剥がれ、窓には板が打ちつけられている。
敷地を囲んでいたフェンスは傾き、入口には伸びた草が絡みついていた。
かつて、僕が暮らしていた場所。
今は誰もいない、古びた建物。
「……ここだよ」
僕が足を止めると、恋珀も立ち止まった。
彼女は建物を見上げ、周囲の様子を確かめるように視線を巡らせた。
「ずいぶん古くなっておるな」
「そうだね。僕がいた頃とは全然違う」
「中へ入るのか?」
「うん。少しだけ見てみたい」
「分かった。ワシも一緒じゃ」
敷地の入口には、錆びた看板が残っていた。
文字は色褪せ、ところどころ読めなくなっている。
僕はその前で立ち止まり、しばらく看板を眺めた。
ここで暮らしていた頃の僕は、今の自分を想像できただろうか。
十九歳になり、仕事を辞め、行く当てもなく彷徨い、妖狐と一緒に暮らしている。
そんな未来を想像できるはずもない。
「湊」
恋珀が僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「そうか。ならば行こう」
彼女の手を握ったまま、僕は敷地の中へ足を踏み入れた。
草を踏み分け、建物の入口へ向かう。
近づくにつれて、記憶の中にあった景色が少しずつ重なっていく。
玄関の扉は、片側が外れかけていた。
押すと、ぎい、と鈍い音を立てて開く。
中には、埃の匂いが満ちていた。
薄暗い玄関。
壁に残った古い掲示物。
床に散らばった紙片。
誰もいなくなってから、かなりの時間が経っているようだった。
僕は一歩、また一歩と中へ進む。
「ここが玄関か?」
「そう。ここで靴を履き替えてた」
「なるほどのう」
恋珀は僕の後ろを歩きながら、周囲を観察していた。
「昔の面影は残っておるか?」
「少しだけ。あの靴箱とか」
壁際に並んだ靴箱は、扉がいくつも外れていた。
その一つに、薄く名前の跡が残っている。
僕はそこに目を留めた。
懐かしい。
けれど、思い出の中の景色とは違う。
「……変わっちゃったな」
「建物は、時が経てば変わるものじゃ」
「そうだね」
「じゃが、お主がここで過ごした時間まで消えるわけではない」
恋珀の言葉に、僕は小さく頷いた。
廊下の奥へ進むと、いくつかの部屋が見えた。
食堂、職員室、子供たちが過ごしていた部屋。
僕は一つずつ、かつての記憶と照らし合わせるように眺めていく。
やがて、体育館へ続く通路が見えた。
「あっちが体育館だよ」
「行くのか?」
「うん。少し見てくる」
恋珀は僕の顔を見つめた。
「ワシはどうすればよい?」
「恋珀は外で待っていてくれる? グラウンドを見てきてもいいし」
「一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫。すぐ戻るよ」
恋珀は少し考えたあと、頷いた。
「分かった。では、ワシはグラウンドにおる。何かあればすぐに呼ぶのじゃぞ」
「うん」
「約束じゃ」
「約束する」
僕は恋珀と別れ、体育館へ向かった。
彼女は一度だけこちらを振り返り、それから外へ出ていった。
体育館の扉を押すと、重たい音を立てて開いた。
広い空間に、埃の匂いが漂っている。
天井の一部は傷み、床には枯れ葉や細かな破片が散らばっていた。
それでも、体育館の形は昔のままだった。
「……懐かしいな」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
壁際には、古いボールがいくつか転がっている。
そのうちの一つは泥で汚れ、空気も抜けていた。
僕はそれを拾い上げた。
昔、誰かと一緒に遊んだ記憶が浮かぶ。
名前はもう思い出せない。
けれど、笑い声だけは不思議とはっきり覚えていた。
ボールを元の場所に戻し、体育館の中をゆっくり歩く。
隅には、跳び箱やマットが積まれていた。
その奥に、用具倉庫の扉がある。
子供の頃、何度も出入りした場所だ。
僕は懐かしさに誘われるように、倉庫へ近づいた。
扉に手をかける。
少し重かったが、ゆっくりと押すと開いた。
中にはボールや縄跳び、古い遊具などが雑然と置かれている。
棚の上には、埃をかぶった箱が積まれていた。
「まだ残ってるんだな」
思わず笑みがこぼれる。
そのとき、倉庫の奥から小さな音がした。
かさり。
何かが動いたような音。
僕はそちらへ目を向けた。
「誰かいるの?」
返事はない。
気のせいだろうか。
そう思って、もう一歩中へ入った。
その瞬間だった。
バタンッ。
背後で大きな音が響いた。
振り返ると、倉庫の扉が閉まっていた。
「え……?」
すぐに扉へ駆け寄り、取っ手を引く。
開かない。
もう一度、力を込めて引いてみる。
けれど、扉はびくともしなかった。
「ちょっと、待ってよ……!」
外側から何かが引っかかっているのか。
古い扉が歪んでしまったのか。
理由は分からない。
僕は扉を叩いた。
「誰か! 外にいる?」
返事はなかった。
体育館の中にも、廊下にも、誰かがいる気配はない。
スマートフォンを取り出そうとしたが、圏外になっていた。
「参ったな……」
小さく息を吐く。
恋珀を呼べば、きっと気づいてくれるだろう。
けれど、彼女は今、グラウンドにいる。
ここから声が届くとは思えなかった。
僕は倉庫の中を見回した。
窓はない。
明かりもほとんど入らず、入口から差し込む光だけが床を照らしている。
その光が、少しずつ薄くなっているように見えた。
「……?」
不思議に思って振り返る。
扉の隙間から差し込んでいたはずの光が、黒い何かに覆われていた。
最初は影だと思った。
けれど、それは床を這うように広がり、壁を伝い、棚の下からも滲み出してくる。
黒い霧のようなもの。
それが、倉庫の中に満ち始めていた。
「何だ、これ……」
後ずさる。
黒い霧は、僕の動きに合わせるように揺れた。
その奥から、声が聞こえた。
『……どうして』
小さな声だった。
誰かが泣いているようにも聞こえる。
『どうして、誰も来なかったの』
「誰かいるの?」
『助けてって言ったのに』
声が増えた。
一つではない。
いくつもの声が重なり、倉庫の壁や床から響いてくる。
『ここにいるよ』
『忘れないで』
『どうして、見てくれなかったの』
耳を塞ぎたくなるほど、声が近い。
僕は扉を叩いた。
「誰か! 開けて!」
けれど、声は届かない。
黒い霧が足元に触れた。
冷たい。
まるで、氷のような手で足首を掴まれたようだった。
振り払おうとしても、霧は離れない。
むしろ、僕の足を伝って身体へと広がってくる。
『お前も、忘れるの?』
「違う……!」
『ここにいたことを』
『私たちがいたことを』
『なかったことにするの?』
声の一つ一つが、胸の奥に直接響いてくる。
僕は膝をついた。
身体が重い。
息がうまく吸えない。
それでも、頭の片隅では考えていた。
この声は、誰のものなのだろう。
ここにいた子供たちなのか。
それとも、誰かの記憶が残したものなのか。
『忘れないで』
その声を最後に、視界が大きく揺れた。
僕は床に手をつき、どうにか身体を支えた。
恋珀。
名前を呼ぼうとした。
けれど、声が出ない。
その頃、グラウンドでは恋珀が草木を眺めていた。
施設の建物から少し離れた場所。
かつて子供たちが走り回っていたであろう広い地面には、背の高い草が伸びている。
恋珀はしゃがみ込み、足元に咲いた小さな花に目を向けていた。
「こんな場所にも、花は咲くものじゃな」
指先で花びらに触れる。
風が吹き、草が静かに揺れた。
「人がおらずとも、季節は巡る……か」
彼女は穏やかな表情を浮かべていた。
湊が昔暮らしていた場所。
その記憶を、彼はどんな気持ちで見つめているのだろう。
無理に聞くつもりはなかった。
彼が話したくなったときに、聞けばよい。
そう考えていたときだった。
「久しぶりね」
背後から声がした。
恋珀の耳がぴくりと動く。
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
落ち着いた佇まいの女性だった。
長い髪が風に揺れ、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいる。
しかし、恋珀の表情は一瞬で変わった。
「……お主」
女性は恋珀を見つめたまま、ゆっくりと近づいてくる。
「元気そうでよかったわ」
「何をしに来た」
「そんなに警戒しないで。少し話をしに来ただけよ」
「話すことなどない」
恋珀は立ち上がった。
三本の尾が、警戒するように揺れる。
女性はその様子を見ても、特に気にした様子はなかった。
「一緒にいるのね。あの子と」
「湊のことを知っておるのか」
「ええ。朝比奈湊くんでしょう?」
恋珀の目が細くなる。
「何者じゃ。なぜ湊の名を知っておる」
「今は、それを話しに来たわけではないの」
女性は建物の方へ視線を向けた。
その表情から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
「恋珀。あの子を一人にしてはいけない」
「……何?」
「今、この施設の中で何かが起きているわ」
恋珀の耳が、ぴんと立った。
「どういうことじゃ」
「この場所に残されたものが、あの子に触れようとしている」
「残されたもの?」
「あなたなら分かるはずよ。ここに積もっているものが、ただの妖気ではないことくらい」
恋珀は建物を見つめた。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
いつもなら感じ取れるはずの湊の気配が、ひどく弱くなっている。
「湊……?」
女性は静かに告げた。
「急いだ方がいい。もう、時間がないかもしれない」
恋珀は女性を見た。
「お主は何を知っておる」
「説明している時間はないわ」
「答えよ!」
恋珀の声がグラウンドに響いた。
しかし、女性は答えなかった。
ただ、建物の奥を見つめている。
その視線を追った恋珀は、すぐに駆け出した。
「湊!」
三本の尾を揺らし、施設の入口へ向かう。
背後から女性の声が聞こえた。
「恋珀。あの子を連れて帰ってあげて」
恋珀は振り返らなかった。
今はただ、湊のもとへ向かう。
倉庫の中では、黒い霧がさらに濃くなっていた。
床に倒れた僕の視界に、いくつもの影が揺れている。
その影は、子供のような形をしていた。
小さな手が、こちらへ伸びてくる。
『忘れないで』
その声を聞きながら、僕の意識は少しずつ遠のいていった。
そして、閉ざされた扉の向こうから、誰かが僕の名前を呼ぶ声がした。
「湊――!」
その声は、確かに恋珀のものだった。
けれど、僕の意識はもう、その声に応えることさえできなくなっていた。
一体この女性は誰なんでしょうかね?
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