狩人と捨てられた工房の人形の話。
多大な考察と自己解釈を含みます。
忘却の聖域と、終わりの残り香
ヤーナムの夜は、どれほど走っても終わることがない。
獣の血に塗れた外套に顔を顰めながら、私はふらつく足取りで街の外れへと向かっていた。
死んだ狩人の手記にあった、狂おしい噂。
「狩人の夢」の生地であり、初代狩人ゲールマンがかつて身を置いていたとされる古工房。そこへ辿り着くことができれば――悪夢を断ち切る鍵が見つかるかもしれない。
「……ここか」
地図から消されたその場所へ、最後の賭けのように足を踏み入れる。
石畳の隙間から這い出す名もなき雑草が、時の経過を物語っている。私は震える手で扉を叩く。コツ、コツ。
返事はない。ただ、埃の匂いと死んだような静寂だけが横たわっていた。隠されるように佇む建屋は、世界の理から切り離されたように静まり返っている。
慎重に扉を押し開くと、内部は荒れ果てていた。
壁を埋め尽くすはずの書棚は倒れ、朽ちかけの本や羊皮紙の資料が、死した獣の残骸のように散らばっている。
私は夢中で探索を開始した。
建物の左入口横に骸らしきもの。私はその古びた遺骨を拾い上げた。おそらく、ゲールマンが遺したとされる古い狩人の遺骨。かつて時を加速させたと噂されるそれは、冷たく指に馴染んだ。
祭壇には「へその緒」がひとつ。棚の隅には「小さな髪飾り」。
溜息を漏らし、その場に崩れ落ちるように腰を下ろした。手にしたのは静寂と、名もなき遺品たちだけだ。
散乱する書類を拾い集め、棚へと戻していく。誰に見せるでもない。それでも、本を整える手先だけが、この狂った世界でかすかに己の存在を繋ぎ止めていた。
部屋の隅に、人形があった。
長年の埃にまみれた髪は力なく灰色に沈み、肌はくすんでいる。微風に揺れることもなく、ただ永遠の衰退を閉じ込めたまま動かない。
「……誰もいない工房か。いい隠れ家だ」
乾いた喉から漏れた呟きに、返事はない。
私は髪飾りを手に取り、人形の灰色の髪にそっと飾った。
指先が触れた部分からパラパラと埃が落ち、月光を受けて一筋の銀糸のように光を宿す。
頬のホコリを拭う。冷徹なまでの沈黙が、叫び続けてきた心を少しだけ静めてくれた。
――それから、血の匂いに倦むたび、私はこの工房を訪れた。
獣狩りの夜の深淵は、終わることのない螺旋のようだ。変わらず、彼女はそこに座っている。ただ、月の光を浴びながら。
彼女の膝へ置いたのは、路傍で摘んだ名もなき花の一輪。それは墓標に捧げる死者の花ではない。もっと儚く、この狂った世界から溢れ出した淡い光の結晶のようなもの。名前も知らぬその花びらは、月の輝きを吸い込み、銀色に透き通っている。
これで、何輪目になるだろう。
足元に目を落とせば、以前ここに手向けた花たちが、重なり合い、枯れ、あるいは黒く変色して散らばっている。
その数は、私がいかにこの悪夢を繰り返し、そしていかに多くの夜を彼女のもとで過ごしたかを雄弁に物語る墓標のようだ。
この新しい一輪もその列に加わるのだろう。
「……またひとつ」
工房の床に散らばる花々、私の来訪の数だけ夜を重ねていく。
「……また、ひとつ」
彼女の足元に小さく膝を折り、その手にそっと重ねる。冷たさが指先から伝わる。
「もっと、他に……」
言葉は途切れ、疲れた息だけが漏れた。
「……なぁ、あんた。もし、俺が次に来なかったら――」
続きは言わず、自嘲気味に笑って重い扉を開けた。
振り向いた視線の先、人形の虚ろな瞳はどこか遠くを見つめていた。彼女の視線の先には何があるのか。
私が見ているのは血に塗れたヤーナムの街並みだが、彼女はもっと別の、恐ろしくも美しい何かを映しているのかもしれない。
その横顔を見つめていると、言いようのない孤独と、奇妙な安堵が胸を締め付けた。
――聖杯の澱が沈殿するヤーナムの最奥。
私は既に限界だった。
指先は震え、視界の端から音が消えていく。どれほどの血に塗れてきたかも、もはや思い出せない。
だが、指先には、あの薄暗い工房で彼女に渡そうと誓った「婚姻の指輪」が深く食い込んでいる。
「これさえ、渡せれば……」
声はもう、喉の奥で乾いて溶けた。
崩れ落ちる視界の中、頭に響く赤子の泣き声が徐々に消えていく。
ただ、意識の底の澱みで、あの冷ややかな手触りだけが揺れる。
――彼女に。
これを渡せば、この救いなもない泥のような魂も、ほんの少しだけ軽くなるのだろうか。
運命はいつも、冷酷だ。
……意識が、昏く蕩ける。
漆黒の海に沈むような感覚。
思考は霧散し、私が誰であり、何を求めていたのかという重圧さえもが、底なしの闇へと溶けていく。
ただ、深い空白の中に、「彼女」への名残だけが、まるで腐敗しない毒のように残り続けた。
呼吸は既に途絶え、最後の心臓の鼓動が地層へと吸い込まれていく。
ヤーナムの最奥、聖杯の澱が沈殿するその場所は、永遠の沈黙と死臭が混じり合う禁忌の地であった。祭壇の上、忌まわしき「ヤーナムの石」が、冷たく鈍い光を放っている。
どれほどの時が経ったのだろう。
不意に、泥のような重みとともに、私は「在った」。
冷え切った大地に手をつき、緩慢に体を起こす。背中には、青白く揺れる頼りない灯火。
肉体の熱はとっくに途絶え、まるで乾いた木片を繋ぎ合わせたような歪な四肢。
……なんだ、……。
ここはどこで、何のために立ち上がったのか。
記憶のすべてに分厚い霧がかかり、何ひとつ像を結ばない。
会いに行かなくては、……誰に?
行かなくては、……どこへ?
……あいつは、……誰だ。
問いは頭の中で虚しく反響し、霞のように消えていく。
何も分からない。何ひとつ理解できない。
それなのに、すぼめた手の中――強く握りしめた銀の指輪が、皮膚を灼くような冷たさで胸の空白を苛む。
……、渡さなくては。
頭が理解を拒むより早く、歪な四肢が勝手に軋んだ音を立てた。
言葉を紡ぐ術も、途惑う思考すら置き去りにして、身体が引きずられるように足を踏み出す。
理由も、名前も、すべてを失ったまま。
ただ指先に残る冷たさだけを標にして、身体は泥が這うように、暗闇の彼方へと進み出していた。