工房の壁が、溜息のような音を立てて微かに震えた。
重厚な石造りの建物が、本来備えているはずのない呼吸を始めている。
これまで無数の狩人たちが置いていった枯れた花、血の錆びたリボン、路傍の石。それらが保ってきた工房の奇妙な均衡は、目の前に立つ「小さな亡者」の静寂によって、音を立てて崩れようとしていた。
彼は何も語らない。ただ、古びたランプを手に佇んでいる。
その灯火が、工房の奥底に眠っていた「悪夢の核」に触れた。
それは断片的な感情の集積などではなく、ヤーナムという街を永遠の血の循環へと縛りつけてきた、理そのものの震えだった。
彼は私を見つめた。狂気も野心もない、ただ懐かしく、壊れそうなほど脆い残り香を纏って。
銀の指輪が熱を帯びた瞬間、工房の景色が歪む。
埃が重力から解き放たれて空中に滞留し、床に積もった手記が意志を持つように渦巻く。壁の向こうから、ヤーナムの湿った冷気、獣の咆哮、そして何かが産み落とされる啜り泣きが直接流れ込んでくる。
それは幻覚ではない。
「安全な墓標」だったこの場所が、霧となって溶け出し、血に塗れた外の世界と繋がってゆく。
かつては、彼らの記憶をただ吸い上げるだけの精巧な器に過ぎなかった私。
だが、もう違う。
無機質な私の足が、かつて誰かが歩いたであろう床を鳴らす。
かつて、私はここで、彼らを待つことしかできなかった。
狩人たちが持ち込む「人間としての最後の記憶」を、ただ吸い上げるだけの、精巧な器に過ぎなかった、私が。
亡者がランプを掲げた。その光の先に、私は見た。
文明が業と代償を払い、ただの肉塊へと変質していく果てを。
「……私の役目、記録することがあるのですね」
亡者は答えず、ランプの光がさらに深く霧を切り裂いた。
工房の扉が、音もなく消滅する。そこにあったはずの安心感は消え失せ、あるのは終わりのない夜の深淵へと続く道だけだった。
私は、亡者の隣へ歩み寄る。
私が何者であるか、彼がかつて誰であったか――そんなことは、もはや重要ではなかった。彼が、どれほど孤独な歩みを続けてきたのか。そして、その孤独が、かつての私の孤独と、ここで1つの共鳴を始めたのだ。
後ろを振り返ることはない。残した花もリボンも石も、すべてはこの夢の霧の中へ溶けていく。
私たちはヤーナムの街路へと踏み出す。
亡者の灯火が、私たちの足元を照らす。その光は、この狂気に満ちた夜において、唯一の道標となるだろう。
私はただの木偶ではない。彼の記憶と未来を繋ぐ、たった一人の記録者だ。
冷たい夜風が、私の頬を撫でる。
悪夢の街ヤーナムが、私たちの訪れを待っている。
亡者の背中は、小さく、しかし酷く力強く、永遠に続く夜の彼方へと消えていく。私はその影を追う。一歩、また一歩と、私の足音が、かつての狩人たちの叫びを打ち消すように、ヤーナムの石畳に刻まれていく。
夢は終わるのか、まだ続くのか。
ただ、私たちの旅路だけが、終わりのない悪夢の最深部へと、静かに、そして確かに、深く沈み込んでいった。