十二年続いた世界が、今夜の零時に終わる。
その最後の夜を、モモンガは玉座で迎えようとしていた。二一三八年、ユグドラシルのサービスが止まる日。かつて四十一人で埋めた席に、今は一人しかいない。
今日、顔を出してくれたのは三人だった。最後のヘロヘロさんは二年ぶりで、明日も早いからと詫びた。
「ああ、いいですいいです! 明日も仕事なんでしょう? ほら、寝ないと」
ヘロヘロさんは零時を待たずに落ちていった。引き止めなかった。だから一人で待っている。
壁には四十一の旗が垂れている。辞めた者の旗も、外していない。名を見れば、骨や虫や粘液や鳥の顔が浮かぶ。現実の顔は、一人も知らない。声だけは覚えている。
玉座の横に、守護者統括のアルベド。白いドレスに黒い翼。下の段に執事のセバスと、戦闘メイドが六人。全員、置かれたままの姿勢で動かない。NPCだ。動くわけがない。
「……仕事、ご苦労」
言ってみる。八体は、前を向いたままだ。自分の声が薄く響いて消えた。
零時まで、五分を切っている。空中に手を伸ばして、アルベドの設定を開いた。タブラさんの長い文章が、画面の端まで続いている。ないはずの口角が、思わず上がった。文章の末尾に、品のない一行がある。
しばらく眺めて、それから消した。空いた場所に、少し迷ってから、こう入れた。
モモンガを愛している。
悪戯だ。誰も見ない。零時になれば、この設定ごと世界が消えるのだから。……最後にやることが、これか。みんなはいまの自分を見てどう思うだろう。我ながらみっともなくて、目を逸らした。
段の下に、セバスと六人のメイドが立っている。
どうせ、最後だ。もう一つだけ、やってみたいことがあった。ギルド長には、NPCに姿勢を取らせる命令の権限がある。ずっと使わずにきた。使おうとするたびに、コンソールを閉じてきた。
辺りを見渡す。当然、誰も見ていない。
「ひれ伏せ」
セバスと六人のメイドが、音もなく片膝をついた。頭を垂れ、動かなくなる。滑らかで、何の意味もない。
……悪くない。かなり悪くないぞ。誰にも見られていなくて、本当によかった。
膝の上のスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを、片手で持ち上げた。みんなで何か月もかけて素材を集めた杖だ。最後の瞬間くらい、手に持っていたかった。
視界の端の時計が、二十三時五十九分を回る。
残り、十二秒。十一、十。
モモンガは目を閉じた。
零時。
──────世界は終わらなかった。
強制ログアウトの白い画面も、終了のメッセージも、来ない。閉じた瞼の裏が暗いままで、それがいつまでも続いた。
──────匂いがする。
ユグドラシルに、嗅覚はない。法律で消されている。
石と、布の埃と、古い香のようなもの。
目を開けて、杖を握っている自分の手を見た。皮膚があった。
痩せた指に、短く切った爪。手の甲に浮いた、青い血管が二本。毎日会社の端末を叩いている、鈴木悟の手だ。
その指に、九つの指輪。骨の指にはめていたものが、肉のある指に、きっちり合っている。
黒いローブの裾が、石の床まで垂れていた。
杖が手から滑り落ちた。さっきまで握れていたものが、急に重かった。石の床に当たった音が、高い天井に長く残る。拾おうとして、腰を浮かせて、やめた。腿がわなないた。
──待て。
空中に手を伸ばした。アイテムボックスを開く動作。十二年で何万回やったか分からない。手だけが宙にあった。
開かない。開け方が、体のどこにもない。視界の端にいつもあったもの──時計、体力の帯、仲間の名前の列──も、消えていた。
〈
頭だけが、困ったときの手順を勝手になぞりはじめた。ログアウト。運営への問い合わせ。明日は朝から外回りで──
何が起きても、ログアウトすれば終わる場所だった。それが、終わらない。
「……だれか」
声が漏れた。細くて、高くて、掠れている。ただの、鈴木悟の声だった。
「──お呼びでしょうか、モモンガ様」
アルベドが、こちらを向いていた。
さっきまで前だけを見ていた金色の瞳が、縦に裂けた瞳孔ごと、まっすぐこちらに据えられている。微笑んでいた。悟の顔を見て。薄い眉も、寝不足の目も、頬のこけたところも、骨の王のどこにもなかったものを全部見て、それでも微笑みは揺れなかった。
息が、止まっていた。肘掛けを掴んだ指が、石から離れない。
怒声か、何者だ、という声を待つ。どちらも来なかった。セバスが、六人のメイドが、跪いたまま一斉に顔を上げた。七つの顔が悟を見て、どれも表情を変えない。
──動いた。
NPCが喋った。そういうふうには、誰も作っていない。作ることができない、はずだ。
「こ、こは」
問いの形にもならなかった。それでもアルベドは答えた。
「ナザリック地下大墳墓、第十階層、玉座の間でございます」
知っている。柱の数まで知っている。訊きたいのは、別のことだった。
「アルベド」
「はい」
「……私の顔は、どう見える」
声がうわずらないように腹に力を入れた。入れても、語尾はかすれる。
アルベドは首を傾げた。翼の先が、かすかに揺れる。
「モモンガ様のお顔でございます」
「あ、え?」
間の抜けた声が出た。アルベドは微笑んだまま、何も足さない。それで、終わりだった。
……まじか。
他に答えはない、とアルベドの顔に書いてあった。骨の王が座っていた席に、同じ王が座っている。姿の違いは彼女のどこにも引っかからない。
救われたのかどうか、分からなかった。肩が耳のほうへ上がったまま、下りてこない。
……殺される、ではなかった。先に来るものがあった。相応しくない、と言われることだった。
たっちさんなら。最初にこのギルドの頭に立っていた、あの人のほうが。
だから、作ろうとした。声を。顔を。鏡の前で練習した魔王の真似事を、今、本気で。作りかけたものが、喉のどこかで引っかかっている。
玉座の下の六人を見た。眼鏡のユリ。褐色の肌のルプスレギナ。黒髪のナーベラル。眼帯のシズ。金髪の縦ロールのソリュシャン。着物のエントマ。六つの顔が、同じものを見上げていた。
誰一人、骨がどこへ行ったのかを訊かなかった。
歯の根が合わない。
「お手が」
アルベドが一歩近づいた。
「──震えておられます」
「い、いや。寒いだけだ。……そう、寒い。ここは、冷えるな」
「ただちに」
彼女が振り向いたときには、セバスはもう控えの間から戻って、段を上がってきていた。腕に毛織の外套を掛けている。
「失礼いたします」
セバスの手が、肩に外套を掛けた。神器の上に、ただの毛織物。
暖かい。ローブは悟を温めなかった。外套は温めた。背中の震えが、一つ収まる。
「どこにあったんだ、これは」
「控えの間に。冷える晩のために、置いてございました」
「冷える晩なんて、ここには一度もなかっただろう」
「はい。今夜が、初めてでございます」
アルベドの翼の先が、少しだけ逆立って、すぐに畳まれた。
NPCは悔しがらない。悔しがる設定を、誰も書いていない。
書いたのは、さっきの一行だけだ。
その先は、考えないことにした。
──────夢か?
頭がそこへ逃げた。ダイブ機器の中で自分は寝ていて、零時に接続が切れる瞬間の脳が、最後の夜にこういう夢を見せている。そう考えれば、筋は通った。匂いも寒さも、言うことをきかない腿も、皮膚のある手も、喋るアルベドも、夢の体がそう感じているだけだ。
夢なら、覚める。覚め方は知っていた。夢の中で眠れば、本当のほうで目が覚める。子供の頃からそうだった。怖い夢の中で目を閉じると、自分の部屋の低い天井が見える。
眠ればいい。
そう決めたら、肩から力が抜けて、どうでもいいことを考えた。
見上げた先に、四十一の旗がある。名前を追うと、声が勝手に聞こえてきた。ウルベルトさんなら、なぜ骨じゃないんだと嘆くだろう。ペロロンチーノさんなら、人間になれたんならまずやることがあるでしょうとつっこむだろう。
夢なら、まったく、よくできた夢だ。旗の布に毛羽まで立っている。四十一人で言い合って作った部屋が、本物の石の冷たさで、ここにある。
苦笑が漏れた。サービスが終わる夜に、終わったあとの夢まで見ている。そこまで、ここが好きだったか。
好きだったな。
アインズ・ウール・ゴウン。四十一人で付けた名前を、最後は一人で、下ろさずにきた。
床の杖を、セバスが拾おうと身をかがめた。
「ああ、いいよ。そこに置いといてくれ」
なぜかそう言っていた。夢の中で出すような、軽い調子で。セバスは一礼して下がった。杖は床に残った。
「モモンガ様」
セバスが段の下から言った。
「お部屋へお戻りになられてはいかがでございましょう。お疲れのご様子にお見受けいたします。寝所の支度は、すでに整えてございます」
疲れている。言われて分かった。体が重くて、目の奥が熱い。ここで疲れるのは、いつも頭だけだったのに。
「そうだな。……うん、寝るかっ」
出た声は、自分でも驚くほど気が抜けている。夢の中なら、作らなくてよかった。
アルベドが一歩前に出た。
「ご命令を。──モモンガ様、どうか、ご命令を」
命じられる前から、喜んでいるのが分かる。何か言わないと、この顔は下がらないらしかった。
瞼が落ちかけていた。考えるのは朝でいい。朝になれば低い天井が見える。
……まだ、覚めなくていいけど。
見なかったことにした。何でもよかった。朝には消える。口から出たのは、染みついた癖だった。
「ああ……誰も、外に出るなよ」
アルベドは動かない。聞いている。
「外、どうなってるか分かんないし。分かるまで、誰も出さないでくれ。……朝まででいい。朝になったら、考えるから。考える、から」
もういい、と手を軽く振る。
千五百人が攻めてきた夜も、全員がこの旗の下にいた。誰も出なかったから、落ちなかった。悟が言ったのは、それだけのことだ。言い終える前に、もう半分忘れていた。
アルベドが深く頭を下げた。
「守護者統括として、全階層に通達いたします。何人たりとも、モモンガ様のお許しなく、ナザリックの外へは一歩も出さぬ、と」
一歩も出さぬ。悟はそれを聞き流した。
「それから」
そのままの姿勢で、彼女は続けた。
「御身の安全を、第一といたします。全階層の警備を、モモンガ様のお部屋と、この玉座の間に集めます。外のことは、その後に」
セバスと六人のメイドが同時に頭を下げた。下げ方が揃いすぎていて、可笑しい。夢の中の人形みたいだ。
はいはい。御身の安全。最優先。いいよ、好きにしなよ。朝になれば、全部、低い天井の下に消える。……そして乾いた飯を食って、出社するだけだ。
「ああ、いいよ。好きにしてくれ」
さっきよりもっと軽い声だった。アルベドが何かを復唱している。中身は耳を素通りした。
手は震えていない。夢だと決めた時点で、震える理由は置いてきた。
立ち上がると、外套が肩から落ちかけて、セバスが直した。段を降りる膝が笑う。アルベドが手を差し伸べかけて、止めた。悟はその手から目を外した。
六人のメイドのあいだを通り過ぎるとき、ユリがわずかに顔を上げた。上げて、悟の足元を見て、また下げた。
ゲームでは転移で済ませていた第九階層への道は、長い。壁は黒く、床は磨かれていて、天井は高い。自分の足音が一つだけ響く。セバスの足音はしない。
途中で、立ち止まった。息が切れている。廊下を歩いただけで、だ。二一三八年の鈴木悟は駅の階段で息を切らす男で、その男がここにいる。
……夢の中で、息が切れるだろうか。
心臓がまた鳴りかけた。押し込んだ。駅の階段の夢を見れば息は切れる。そういうものだと決めた。
セバスは斜め後ろで待っている。息が整いかけたところで、静かに言った。
「お運びいたしましょうか」
老執事に抱えられて廊下を運ばれていくギルド長を、一瞬、思い浮かべた。まあいいか。夢だ。
「あー、うん。そうだな、運んでくれ」
「畏まりました」
体が浮いた。軽々と、だった。
……お姫様だっこは、違うと思う。
悟の足は、そこから一度も床に着かなかった。
自室の扉は、悟を抱えたままのセバスが開けた。扉の脇に、メイドが一人立っている。四十一人いるほうの、一般メイドだ。悟が見ると、一礼した。
「本日の当番、フォスでございます。朝まで、こちらに」
名乗る声の終わりが、少しだけ上ずっていた。
朝まで。扉の外に、立っている。
「立ちっぱなしはきついだろ。ほら、座っていいよ。椅子なら、そこにあるし」
我ながら、なんて体勢でこんなこと言ってるんだ。
「お言葉、もったいなく存じます」
悟はそこで引いた。言い方が分からない。
「朝まで、って、何時までだ」
「モモンガ様がお目覚めになるまで、でございます」
それは朝じゃなくて、こっちの都合だ。言っても、座らないだろう。
無駄に豪華なベッドがあった。使ったことのない家具だ。ユグドラシルに眠りはない。ログアウトがあるだけだ。
セバスが、悟をそこに下ろした。沈んだ。
柔らかさというものが腿の裏から背中へ上がってくる。玉座の硬さの、ちょうど反対のものだ。……なんだこれ。アパートの薄い布団とは、別の生き物だ。そのまま後ろへ倒れかけて、セバスがいるのを思い出して、座り直した。
「お召し物を」
とセバスが言った。ローブのことだ。襟の留め具に手をやって、外し方が分からなかった。ゲームでは脱ごうと思えば脱げた。
「いや、いいよ。今日はこのまま寝る」
「畏まりました」
セバスはずり落ちた外套を取って、横になった悟の上に掛け直した。神器のローブの上に、毛織の外套。二枚の下で、体が温まっていく。
扉が閉まる音を聞いた。扉の向こうにメイドが立っている。朝まで。
目を閉じる。
考えない。眠る。眠れば、覚める。
暗さの奥で、何かが近づいてきた。
眠りが来るのが、来る前にわかった。
◇
…………………………目が覚めた。
天井がある。高くて、暗くて、見覚えのない模様が彫ってある。自分の部屋の、低い天井ではなかった。
手を上げた。皮膚。爪。血管。九つの指輪。口の中が乾いて、背中が汗で湿っている。夢の中の体は、こんなに正確に朝を知らない。
目覚ましは鳴っていなかった。鳴らないまま目が覚めた朝がいつ以来なのか、思い出せない。体の芯まで眠ったあとの重さが、まだ手足の先に残っていた。
扉の外で気配が動いた。
「……お目覚めでございますか、モモンガ様」
小さな声だ。朝まで、と言った娘が、朝まで立っている。悟は天井を見たまま、しばらくそうしていた。
覚めなかった。なら、昨夜のことは、全部本当だ。
跪いていた七つの顔。一歩も出さぬ、という声。御身の安全を第一に、という声。好きにしてくれ、と言って手を振った自分。言ったことを、彼らは本当に聞いた。
手が震えだす。昨夜、震えなかった分が、まとめて来た。
震えが収まらないのは、彼らが跪いている相手が、自分だからだ。顔が見えていて、それでも跪いた。今は、まだ。いつか見抜かれて、言われる。相応しくない、と。
決めなければならないことが山ほどある。山の一番上に一つだけ、順番の決まっているものがあった。掛け布の中で、喉を一度鳴らした。
「あー、あー」
高い。昨夜の、鈴木悟の声だ。
「えー、ごほん。……ん、んんっ」
もう少し低く。腹から。十二年、ボイスチャットで魔王をやってきた喉だ。やれないはずがない。
「……セバスを」
昨夜の声ではなかった。腹から出した、低くて短い声。作り直した声だった。
扉が開く音がして、執事が入ってきた。昨夜と同じ姿勢で、同じ距離に立つ。
「お呼びでしょうか」
「守護者を、呼べ。全員だ。玉座の間に。……一時間後」
「畏まりました」
セバスは出ていった。足音はしない。
悟は、起き上がった。