第九階層のバーの棚には、右端から順に、リキュールが十種並んでいる。並べたのはマスターで、順番にも意味がある。その順で同じ杯に重ねていくと、十の色が混ざらずに層になる。そう重ねるのがコツだった。名をナザリックという。
常連には、その名に似合うと好評だ。エクレアなどは、あれを、の一言で頼む。ただ、味は一杯で満足したくなるもので、作った本人としては、人に勧めたいものではない。美味しくなるように手を入れているが、まだ仕上がらない。試作、と呼んでいた。
マスターは副料理長で、飲み物の担当だ。曜日と時間によってはこのバーの主になる。生みの親は、ブルー・プラネット様だ。常連は、ピッキーと呼ぶ。
試しから三日目の夜で、カウンターには二人いた。デミウルゴスはいつもの席にいつもの杯。コキュートスは一つ空けた隣にいて、あいだの席の前に、少し霜が降りていた。黙って拭く。
コキュートスの手にしている杯の表面は曇っていた。強い酒だから、曇りはしても凍らない。それを手に包んで、あおる。凍らない酒を選んで出しているのは、マスターだ。空いた杯に、同じものを注ぐ。
「三日、残ったよ」
デミウルゴスは杯を回していた。今夜はまだ、一口も飲んでいない。
「人の身は傷が治るのに三日かかる。御方が御自身で仰せになった数で、我々が測ったのではない。覚えて、書いた」
「跡ハ残ッテイル。赤イ線ガ一本。……私ニ見セテクダサッタ」
コキュートスの声が少しだけ高くなった。デミウルゴスの杯が、止まった。
「……御方の御身に、私の不徳で」
デミウルゴスは、止まった杯の中を見ていた。
「違ウ。……残サレタノダ」
コキュートスは曇った杯を、一息に空けた。空いた杯に、同じものを注ぐ。
「……残された、とは」
「御方ハ、命令ダ、ト仰セラレタ。御自分ノ言葉カラ、逃ゲナカッタ。血ガ出テ、治セルモノヲ治サレナカッタ。ソノ上デ、我々ノ顔ヲ見テ、強サハ要ラナイト仰セラレタ」
「それが」
「武人ノ心ダ」
硬い声だった。硬い中に何かが入っているのはいつものことで、今夜はそれが多かった。
「強サハ要ラヌ。強サハ私ガ持ツ。御方ノ武器ハ私ダ。御方ニ要ルノハ心ダケデ、心ハオアリニナル。砂ノ上デ見タ」
デミウルゴスの杯がまた回りはじめた。いつもより二度多い。コキュートスの白い息の間隔も、短い。読めない顔が二つあって、その代わりに、杯の回り方と白い息の間隔を知っている。今のは、話を変えたい客の手つきだ。
「グは、二日で黙った」
デミウルゴスのほうから、その名を出した。
「……二日カ」
「ニューロニストが二日で。御方の御耳に何も入れなかった。あれだけ吠えていたものが、砂の上で一言も、だよ。見事だった」
「見事ダ」
「手ずから仕上げて、砂の上まで運ばせて、御方の御手で受け取っていただいた。最初の供物だ」
杯を磨く手が、一度止まりかけた。供物、という言葉が、ひだの奥に残った。この席で聞くとは、思っていなかった。
「ナザリックの誰もが羨ましがっている。ニューロニストのところへは、今、誰もが訊きに行く。何日で、どうやって。訊かれるたびに照れている。あれで乙女なんだ、彼女は」
デミウルゴスは笑って隣を見た。
「君は、羨ましくないのかね」
「羨マヌ」
即答だった。
「弱イモノヲイタブルノハ性ニ合ワヌ。アレハニューロニストノ仕事ダ。見事ダガ、私ノ領分デハナイ。……ソレニ、アレハ戦士ダッタ。戦士トハ、戦ッテ死ヌモノダ」
デミウルゴスは何も言わずに杯を回した。回し方がさっきと違った。
「……あれは」
小さな声だった。カウンターの向こうで、磨く手を止めずに聞いた。
「あれは、御方に捧げるにはいささか品がなかった」
デミウルゴスが、自分の選んだものを悪く言うのを、初めて聞いた。
「吠えるものだ。森の東の、グとか呼ばれていた、泥の中の小汚いトロールの親玉さ。……本来なら、せめて王国戦士長ほどの者を用意すべきだった。あれなら御方の御手にかかる格がある。だが戦士長が消えれば王国が騒ぐ。騒げば御方の御耳に入る。御耳に入れぬために、いつの間にか消えても誰も気づかぬものを、と探して、あれしかなかった」
ぼやきに聞こえた。水を一杯、黙ってデミウルゴスの杯の脇に置く。
「御方の御手にかかるものとして私が選んだ。選び直す機会は、もうない」
言い終えたときには、もういつもの顔に戻っていた。置いた水には、手が伸びなかった。
玉座の間でも、執務室でも、この顔が崩れることはないのだろう。崩れるのは、この席でだけだ。
扉が開いて、下のほうから入ってきた。小さい。冠に紅のマントに王笏。床をカウンターまで歩いてくる歩き方が紳士だった。
「お邪魔いたしますぞ」
恐怖公だった。「いらっしゃい」とマスターは言って、カウンターの端の小さな台に、いつもの杯を置いた。恐怖公の背丈に合わせた、専用のカウンターだ。杯は指ぬきほどの大きさで、どちらも手製だ。
口に入れるものを出す店に、この客が来る。顔に出したことはない。出しても、たぶん読まれない。
元々は、来てほしい客ではなかった。それでも、誘ったのはマスターのほうだった。御方が黒棺に御自身の足でお入りになった、という話がこのバーに届いた夜に、台と杯を作り始めた。御方が自ら訪ねられた相手を、この店が締め出すわけにはいかない。
あの巡りの後、恐怖公やニューロニストたちへの風当たりは、目に見えて弱くなった。御方がお入りになった場所を、下僕が避けるわけにはいかない。無論、黒棺には入りたくはないが。
台に上がる前に、恐怖公は前肢を一本ずつ口元へ運んで、丁寧に拭った。触角も、根元から先まで。マントには染み一つない。客の中では、たぶん一番きれいだ。これこそがマナーだ。どこかの階層守護者にも見習って欲しい。
デミウルゴスが軽く会釈を返した。拒む色はなかった。コキュートスは、気にもしてない様子だ。
「おや、供物の話をしておられましたかな」
「ええ。ニューロニストの」
デミウルゴスの尾が、一度ゆるく揺れた。
「羨ましいですな」
恐怖公の触角が、二本そろって前へ傾いた。
「我輩もいずれ。我輩の工程は短いですぞ。手早く折って、御方の御前にお運びする。その日が来るとよいのですがな」
指ぬきの杯を前肢で持ち上げて、口をつけずに、しばらく見ていた。
「御方は、我輩の棲家にお入りになった。守護者の方々さえ近づかれぬ場所に、あの御身で。……疑っておられたなら、来られるはずがありませんな。あれは、信頼ですぞ。我輩はそう承っております」
デミウルゴスは微笑んだだけで、コキュートスは白い息を一つ吐いただけだった。扉がまた開いて、当番の服を着たメイドが入ってきた。シクススだ。カウンターの三人に頭を下げて、マスターの前に立った。
「御方から。リンゴジュースを、と」
頷いた。
リンゴは第六階層のもので、毎朝アウラ様の森から届く。冷やさずに寝かせておく。冷やすと御身に障るとペストーニャ様が言った。氷も入れない。それも言われた。絞るのは手でだ。味が違う。違うかどうか御方が仰ったことはないが、違うと思っている。
絞って杯に注いだ。八分で止める。満たすと運ぶ途中で揺れて、こぼれれば当番が泣く。泣かせたことは、まだない。
盆に載せてシクススに渡した。カウンターの三人が杯を見ていた。デミウルゴスは眼鏡の奥から、コキュートスは首を少し回して、恐怖公は端の台で立ち上がって。三人とも何も言わずに、杯が扉の外へ出て扉が閉まるまで見ていた。
御方は起きておられる。廊下の先の部屋で、重い本を読んでおられる。夜にリンゴジュースをと仰るのはそういうときで、一杯を空けると、本を閉じてお休みになる。それを当番から聞いて知っていた。
「御子ノ部屋ハ」
珍しく、コキュートスが口火を切り直した。
「第五階層ニ用意シテアル」
デミウルゴスが杯を置いた。
「……第五階層に」
「暖カイ部屋ダ。氷ノ奥ニ、私ノ冷気ガ届カナイ場所ヲ選ンダ。壁ヲ厚クシタ。床ニ毛ヲ敷イタ」
「いつから」
「試シノ後カラ」
デミウルゴスは、置いた杯に手を戻さなかった。そのあいだの顔だけは、読めた。計算の顔だ。
「統括殿が、いつとは」
「訊イテイナイ」
「そうだろうね」
「爺ハ訊カナイ。今日、考エテオク、ト仰セラレタ。待ツ」
「……一人では、心もとないな」
恐怖公が王笏を持ち直した。
「我輩も乳母の一人に」
二人は黙った。そのまま手元の杯を見つめる。二人のほうへ、恐怖公の触角が向く。マスターは杯を磨く手を、止めてはいない。縁を一周磨くあいだ、誰も口をきかないままだ。
「御方は永遠であらせられる」
磨き終えた杯を、棚に戻す。
「御子がおられてもおられなくても、御方は永遠であらせられる。我輩はそう承っておりますぞ」
「誰から」
「誰からということはございませんな。我輩がそう承っておるのですぞ」
デミウルゴスは微笑んで杯を取った。
「そのとおりだとも」
コキュートスが曇った杯を引き寄せて、見た。
「砂ノ上デ」
「ああ」
「御方ハ一度、本当ニ戦ワレタ。アレハ台本ニナカッタ」
デミウルゴスは眼鏡の位置を直した。声は穏やかだった。
「御方がもう一度仰せになることはない。そのようにした」
コキュートスは返事の代わりに新しい杯を頼んだ。頼み方がいつもと違った。
「リンゴジュースヲ」
マスターは二つ目を絞って、注いで、八分で止めて、コキュートスの前に滑らせた。コキュートスはそれを掴んだ。表面が白く曇って、見るまに厚くなり、中が凍っていくのが外から分かった。飲めないまま、握っている。
三人を見た。三人とも、それぞれの杯を見ている。
棚に手を伸ばした。右から一本目、二本目、順に下ろして十本をカウンターに並べて、杯を三つ出す。普通の杯を二つと、指ぬきほどのを一つ。
一種目を底に。二種目をその上に、混ざらないように匙の背を伝わせて落とす。三種目、四種目。どの色も、下の色と混ざらなかった。十種目を一番上に。小さい杯にも同じ順で同じ十を入れた。
三つを三人の前に並べた。誰も注文していない。
「……これは」
デミウルゴスが杯を持ち上げて光に透かした。十の色が、順に見える。
「……試作です」とマスターは言った。
「ナザリックか」
デミウルゴスは名前を知っていた。知っていて頼んだことがなかった。頼まない理由を、訊いたことはない。
恐怖公が小さい杯を両の前肢で持ち上げた。コキュートスが凍った杯を置いて、十の色のほうを持った。持った瞬間に表面が曇ったが、曇りの下に、十の色が残っている。三つの杯が上がった。先に声を出したのは、恐怖公だった。
「偉大なる御方に」
「御方と、至高の御方々に」
デミウルゴスはそう言い足して、ようやく今夜の一口目を飲んだ。恐怖公の杯は、もう空だ。コキュートスは杯を上げたまま少し間を置いて、それから、曇った杯を傾けた。
ナザリックが、御方に、と言って飲まれたのは、初めてだった。
二杯目を頼んだ者は、いなかった。