アルベドの手が、扉を開けた。開けたまま、外に立っていた小さな背中を、そっと中へ押す。
押されて入ってきたのはマーレで、紙を一枚、両手で差し出した。
「も、持ってきました、モモンガ様。か、回覧、です」
着替えの途中だった。上着の袖に片腕だけ通したまま、悟はそれを受け取った。
上から儀の段取りが並んで、下の余白に守護者の名前がある。どの名前の横にも小さな印がついていて、一番下のモモンガの行だけが空いていた。しかも様付きだ。
見ました、の印だ。営業の頃はもらう側だった。
「ここに、つければいいのか」
「は、はい。デミウルゴスさんが、モモンガ様にも、って……」
ペンを借りて、空いた行に印をつけた。マーレは紙を両手で受け取って胸に抱え、小走りで出ていった。
扉は、外のアルベドが閉めた。
残った袖に腕を通す。デクリメントの手が襟に金の飾りを留めた。今日は白だ。寝台に広げられたときに、裾から肩まで眺めた。白を着るのは初めてだった。
「本日は、儀でございますので」
デクリメントの目が、きらきらしている。
儀。御身の回りの当番、選抜の儀。
言い出したのはデミウルゴスだ。手の甲の布が取れた次の朝、報告の後にいつもの丁寧な声で、モモンガ様の御身の回りに就く者を改めて選び直したい、と。今の当番に不足はないが、モモンガ様にお好みをお示しいただく機会を一度設けたい。候補を並べ、芸を見せ、モモンガ様はただご覧になるだけでよい。選ぶのはこちらでいたします。
そんなものはいい、と悟は言った。今のままでいい。お好み、という言い方で、何を選ばせたいのかは察しがついた。
デミウルゴスは引かなかった。ナザリックのためにも。モモンガ様にお仕えする者がモモンガ様の目にかなった者である、ということが、全員の誇りになります。誇りと言われて断れなかった。
それが今日だ。
◇
第九階層の大広間に長い卓が置かれていた。映画で見た結婚式みたいだ。
卓の上に料理がある。料理長の全部が並んでいる。肉、パン、汁、果物、それから見たことのない皿がいくつも。色のついた菓子。層になった何か。小さな器に入った透き通ったもの。儀のために、いつもの献立の外へ出たらしい。
卓の正面に椅子が一つ。自分の席だ。その右に小さな席があって、審査員席と札が立っている。
そこにシャルティアが座っていた。黒いドレスに白い肌。座り方が固い。彼女がなぜ審査員なのかを誰も言わず、アルベドも言わない。守護者で一番強いからだろう。
広間の左右に席が並んで、守護者、プレアデス、メイドの全員の目が悟に集まっている。一番奥にコキュートスがいた。彼の周りだけ、席が空けてある。白い息が遠くで出た。悟が手を上げると、コキュートスはその場で頭を下げただけで、近づいてはこない。
その隣に紅のマントがいた。
「我輩も、列席をいたしますぞ。御方の儀とあらば、黒棺の主が欠けるわけにはまいりませんからな」
恐怖公だ。前肢に、小さな札を一枚抱えている。舞踏審査、とある。自分で書いたらしい。
「我輩、社交ダンスには一家言ありましてな。そちらの部門を、お預かりいたしますぞ」
社交ダンス。そんな項目は、回覧のどこにもなかった。だいたい、踊れないぞ、俺は。
恐怖公は卓には上がらずに、コキュートスの足元の床に札を立てて、その脇に収まった。
「コキュートス殿。ここは少々、冷えますな」
コキュートスは答えなかった。その代わりに、四本の腕の一本が卓の端から白いナプキンを一枚取って、恐怖公の上にかけた。布の下から、触角が二本覗いている。アルベドが一度そちらを見て、何も言わずに目を戻した。
「では」
アルベドが卓の脇に立った。
「御身の回りの当番、選抜の儀を始めます。進行は、守護者統括アルベドが務めます。候補は、呼ばれたら前へ」
守護者統括が当然のように進行に立って、候補を呼ぶ側に回っている。声が固い。幹事は、大抵そうだ。
「候補、一。ルプスレギナ・ベータ」
「はい!」
ルプスレギナが卓の前に出て、一礼した。
「あたしの得意は、警護です! モモンガ様のお傍で、何が来ても、あたしがお守りします! 以上です!」
「ああ。頼りにしている。……何も来ないのが一番だが」
ルプスレギナの顔がぱっと明るくなって、元気なまま席に戻った。
「候補、二。ナーベラル・ガンマ」
「ナーベラル・ガンマ。得意は魔法、雷の類でございます。……モモンガ様に害をなす者は、全て灰にいたします」
「ありがとう。頼もしいな」
ナーベラルは戻る前に、悟とまっすぐ目を合わせた。お茶会の日と、同じ目だった。
三番から五番は、続けて呼ばれた。ソリュシャンは微笑んで名乗り、エントマは語尾を長く伸ばし、シズは名前だけを言った。ユリは呼ばれていない。今日は給仕の側だ。
「候補、六」
アルベドの声が、そこで一つ空いた。
「……ニグレド」
黒い喪服が卓の前に出た。腕の中に赤子の人形がある。広間が静まって、彼女は人形を揺らし始めた。氷結牢獄の入口で見た寸劇の、二度目だ。
氷の上では、途中で礼を言って切り上げた。今日は、最後まで聞いた。料理の湯気が減っていく。アルベドが卓の脇で唇を結んで、姉を見守っていた。人形が揺れなくなったところで、悟は言った。
「……ありがとう」
ニグレドは深い礼をして、席へ戻っていく。その途中で白い目が悟をとらえて、少しのあいだ離れない。アルベドの肩から力が抜けた。
「候補、七」
一般メイドが全員、卓の前に揃った。四十一人、どれもレベル一のホムンクルスだ。並ぶと広間の端から端までになる。四十一人が一斉に頭を下げた。音がした。名乗りは、それで終わりだ。
それから、芸の番になった。ルプスレギナは目隠しをして、広間に隠された匙を、匂いだけで十本見つけた。最後の一本は、こちらの袖から出てきた。入れられた覚えはない。
ナーベラルは、魔法を三つ続けて唱えた。〈
ソリュシャンは焼いた鶏を一羽、丸ごと呑んだ。少しして、骨だけが元の形に組み上がって、皿に戻ってきた。反応に困る。
エントマは袖から糸を出して、宙に網を一枚張った。数えると、目は四十一あった。嘘だ、数えてない。コキュートスの足元で、ナプキンがびくりと跳ねて、布の下から「眷属は、おやつでは……」と小さな声がした。
シズは、第一階層から順に、罠の場所を言い始めた。床の何枚目、壁のどの石。第一階層の途中で、こちらが手を上げた。日が暮れる。
ニグレドがもう一度人形を抱き上げかけて、それはアルベドが止めた。
「一般メイド一同より、余興を。……全員で考えたものを、一人ずつ申し上げます」
列には入らず、脇で仕切っているのはユリだ。余興は勝負だった。御方に二つ名を献上して、誰のものが一番ふさわしいかを競う。献上される側に、拒否権はないらしい。
「メメント・モリ」
リュミエールが静かに言った。
「死の支配者でいらっしゃるのだから、これしかないでしょう」
悟は自分の手に目を落とした。痩せた指に、七つの指輪がある。手の甲に、赤い跡が一本。彼女たちの目には、これが死の支配者の手に見えている。設定文のとおりに。
「智謀の王」
シクススだった。
「ナザリックを、お一人で、動かしておられるのですから」
「いやいや! そんなことはないぞ、私は報告書を──」
言いかけて、シクススの顔に気づいて、残りを飲み込んだ。お一人で、と言われた。動かしているのはアルベドで、デミウルゴスで、セバスで、メイドたちだ。自分は報告書を読んで頷いているだけで、それを智謀と呼ばれた。
「いと優しき、白磁の君」
フォアイルだった。嘘のつけない顔で。
「は、はくじ……?」
「お優しいので」
「絶対無敵の──」
ルプスレギナが自分の席から身を乗り出して言った。
「……の、続きは、まだです!」
乗り出したまま元気に止まっている。悟は笑いそうになって、こらえた。
レベル一のメイドが、たぶん同じくらい弱い御方に、二つ名を捧げている。
止めなかった。本気で考えてきたものに、違うとは言えない。
「どれも、もらっておく。ありがとう。四十一人で考えたなら、四十一個あってもいい」
「では、審査員より、講評を」
アルベドが、審査員席のほうを向いた。シャルティアは固くなったまま候補の列を眺めて、最後に悟を見た。
「……わたしには、選べんせん」
広間が一瞬静まって、その一瞬を、アルベドが早すぎるほど早く埋めた。
「では、モモンガ様の、仰せのままに」
悟は卓を見渡した。並んだ四十一人と、席に戻った六人。全員が、こちらの言葉を待っている。
「全員でいい。今のままで、頼む」
席の端で、デミウルゴスの手が紙の上で動いた。長く動いた。採点表、と誰かが言っていた。
「全員、と」
彼は微笑んでいる。
アウラは並んでいない。儀の前にデミウルゴスに何かを訊かれて、あたしはまだいいです、と言ったのを悟は廊下で聞いていた。何がいいのかは、聞き流した。アウラは今、マーレの隣の席にいる。気楽な顔で、見ているとこっちまで気が抜けた。
◇
食事が始まる前に、卓の向こうで、ひそめた声がした。デミウルゴスとアルベドだった。
「統括殿の分は」
「進行役ですもの。候補に、進行役が並ぶわけには」
「それは、残念ですね」
「……何が」
そこから先は、聞こえなかった。アルベドの声がいつもより固かったことは、覚えている。
「モモンガ様、これ、食べました? すっごい甘いんですよ」
アウラだった。席を立って、果物を一つ持ってきている。後ろからマーレが、皿ごと持ってついてきた。
「お、お姉ちゃん、勝手に席を……」
「いいの。おいしいものは、おいしいうちに、だよ」
「お、おお。ありがとう、アウラ」
受け取って、かじった。甘くて、汁が顎まで垂れる。アウラが胸を張って、マーレが慌てて布を差し出した。一番奥の席から、低い声がした。
「……ムゥ。御方ガアノヨウニ、オ健ヤカニ……爺ハ、イツデモ……」
「コキュートス」
デミウルゴスが、振り向かずに言った。
「……ムゥ」
マーレの布で顎を拭いた。爺の続きは、聞かずに済んだ。第五階層で、考えておく、と言った。あれから、まだ考えていない。
菓子は甘かった。重くて濃くて、口の中に長く残る。二つで止めるつもりだった。
シャルティアが見ていた。審査員席から、こちらの顔ではなく、首筋を。気づいたのは菓子の三つ目のときだ。襟の上、首の横。彼女はそこを見て、目を逸らして、また見る。
ペロロンチーノさんの趣味だ、と悟は思った。読んで顔を覆った設定文に、そういうことが書いてある。そういう娘に作られた。苦笑したのをシャルティアが見て、慌てて目を逸らし、逸らした先で果物を一つ取って口に入れて、噛まずに飲み込んだ。
「モモンガ様」
右隣から、少し身を乗り出している。
「明日、狩りに出とうございます。お許しを」
「狩り」
「はい。森の獣を、わたしの手で。経験値の検証の続きでありんす。獣の格で入り方が違うのかは、忍びに獲らせた分だけでは分かりんせんから」
勤勉だ。第一から第三階層の守護を一日も空けない。傍に立つ番も空けない。その上で何かをずっと研究している。何を、とは訊いたことがない。
「駄目だ」
シャルティアの唇が、半分開いたままになった。
「お前は出るな。獲るのは忍びにやらせろ。獲ってきたものを、中で調べればいい」
「……はい」
悟は広間を眺めた。守護者が全員いる。プレアデスも、メイドも、全員。いい機会だった。声を作った。
「全員、聞いてくれ。改めて言っておく。守護者は、誰も外に出るな。調べるのも、獲るのも、忍びと影にやらせろ。経験値の検証もだ。壁まで来た者の始末は、前に許したとおりでいい」
並んだ顔を、もう一度見た。どの顔も、仲間の誰かが作ったものだ。
「それ以外で外に出ていいのは、ナザリック──アインズ・ウール・ゴウンが危険なときだけだ。……忍びは、もう増やしてある。それで、足りる」
広間が静かになった。
「ははっ」
アルベドが言い、声が揃って、守護者が頭を下げた。プレアデスが続き、メイドが続く。デミウルゴスの手が紙の上で動いて、止まった。シャルティアは審査員席で、頭を下げたまま、唇を尖らせている。
「わた……わらわは、強いでありんすのに」
独り言だったが、聞こえた。思わず、口の端がゆるんだ。
「知ってる。だから出すな、と言っている」
シャルティアが顔を上げた。耳が赤い。何か言いかけて、言わずにまた下げた。
◇
宴は長かった。その終わりに、シャルティアが暇を告げに審査員席から降りてきて、悟の椅子の脇に膝をついた。周りにはもうあまり人がいない。メイドが皿を下げている。守護者たちは少しずつ席を立っていて、アルベドは進行の後片付けで卓の向こうにいる。そこだけは、二人きりだった。
悟は足元に置いていたものを取った。分厚い本。革の表紙。背に題がない。前の日、宝物殿の金貨の山の裾で、もう一度だけ開いた。パンドラは表紙だけを見て、何も言わなかった。
「これを、お前に」
シャルティアは本に目を落としたきり、動かなくなった。
「宝物殿にあった。ペロロンチーノさんの……お前の創造主の、書き込みがある。全部のページに。私が、しばらく、読んでいた。……お前が持っているほうが、いい」
シャルティアは本を両手で、胸の高さで受け取った。開かない。開かずに胸に抱えて、本の背に頬を寄せた。それから、顔を上げる。
本を見るのだろう、と思っていた。創造主の字を、ペロロンチーノさんの字を、すぐに開いて読むのだろうと。読んで、泣くか笑うかするのだろうと。
彼女が見ていたのは、悟の顔だった。紅い目で、まっすぐに。
「……ありがとう、ございます」
声が小さかった。小さくて、震えていない。
本は、ペロロンチーノさんに返したつもりだった。返す先を、間違えたのかもしれない。
彼女は本を抱えたまま立ち上がって、礼をして下がった。
広間はもう半分片付いていて、卓の端のほうから空いていく。遠くの席では、アウラとマーレがまだ果物を食べていた。一番奥で、コキュートスがゆっくり立ち上がる。彼は宴のあいだ、その席から離れなかった。足元では、恐怖公が札を畳んでいた。踊った者は、一人もいなかった。
悟も席を立った。
廊下は涼しい。
「モモンガ様」
デミウルゴスが数歩だけ隣に並んで、すぐに半歩下がる。眼鏡の位置を直している。
「本日の儀は、これにて。……お楽しみ、いただけましたか。候補の者も、見ている者も、今日は一日、モモンガ様のお顔ばかりを見ておりました」
悟は、今日を思った。
楽しかった。
四十一人が考えてきた二つ名。続きのまだないルプスレギナ。札を畳んでいた恐怖公。本を抱えて、こちらを見たシャルティア。菓子。
「楽しかった。……うん。楽しかったよ、デミウルゴス」
デミウルゴスは深く腰を折った。
「お楽しみいただけたご様子で。……何よりでございます」
身を起こしたとき、彼は微笑んでいた。口の端だけが上がって、眼鏡の奥は動いていない。悟は、先に歩き出した。
明日からも同じ当番が来て、同じ朝が来る。それでいい。
◇
夜更けに、声で目が覚めた。
「アルベド様、御乱心!」
聞いたことのない、硬い響きだった。
扉が細く開いていて、廊下の灯りが床に一筋差している。その光を背にして、白いものが寝台の脇に立っている。
アルベドだった。何も着ていなかった。いつもの白いドレスは、足元にある。黒い髪が肩に落ちていて、角が闇の中で輪郭だけ浮かんでいる。左手の薬指に、指輪が一つ光っている。
その体に、黒いものが巻きついていた。八本の腕。腕の数だけの刃。刃は肌の手前で止まっていて、腕だけが、彼女を寝台から引き離す向きに締まっている。
天井の一つは、この部屋から外させてある。廊下から来たのだ。
アルベドは抗わなかった。巻きつかれたまま、目を悟から外さない。
悟は寝台の上で体を起こした。口の中が乾いている。
「いい。下がれ」
作った声が、先に出た。
刃が畳まれて、腕が離れた。黒いものは床に下りずに壁を伝って、扉の上から廊下へ戻っていく。最後の一本が隙間から抜けると、扉が外から静かに閉められた。当番だろう。床の光が細くなって、消えた。
枕元の灯りを一番小さく点けた。
アルベドは同じ場所から動いていない。
「お待ちするのに、疲れました」
声は落ち着いていた。顔も上げたままだ。
一歩、こちらに寄った。彼女の膝が寝台の端に触れた。
「今夜は、と二度、申し上げました。……三度目は、ございません」
くふ、と喉の奥で鳴った。白い手が掛け布の端にかかる。
その手を、上から押さえた。彼女の指が冷たい。
帰れ、が出てこなかった。口にすれば、彼女は従う。拒否するのも、あの一行の上でやることだった。受け入れるのも突き放すのも、あの一行を書いた手でやるしかない。
骨の王にはなかったものが、この体にはある。それは、否定しようがなかった。今日の広間に候補が並んだのが何のためかも、分かっていた。そのうえで、濁した。
友人の子供みたいに思っているんだと。そう言えば誰も傷つかないから。自分も。
悟は掛け布を引き寄せて、彼女の肩に掛けた。金の目が、そこへ落ちる。賜り物を受けるように、白い指が前を合わせた。
「アルベド。……私は」
そこで、止まった。作った声だった。この期に及んで、まだそれが出る。
一行。言わなければいい。そうすれば、ずっとこのままだ。明日の朝も、ずっと。
息を吐いた。吐いた分だけ、声が高くなった。
「俺は、お前たちが思っているような者じゃない」
彼女の目が小さな灯りを一つ映して、まっすぐこちらに向いている。肩の掛け布の前を合わせた指に、力が入った。扉の外では、今夜の当番が朝まで立っているはずだった。自分の息の音が、やけに大きく聞こえる。
「……外に」
その先が、出てこなかった。言えば、取り消せない。
膝の上で、自分の手を一度握って、開いた。アルベドは急かさなかった。
「外に、もう一つ、世界がある。王国や法国のことじゃない。もっと外だ。俺は、そこから来た。そこでは、空がいつも煙っていて、青い空は、ここでしか見たことがない。……ユグドラシルは、その世界の人間が遊びに来る所だった。仕事から帰って、眠るまでの何時間かだけ、来る。遊びだ。ゲーム、と向こうでは言う」
「はい」
その目が、続きを待っている。
「ほかの四十人も、外の者だった。仕事がある。家庭や友人がいる。だから、一人ずつ来なくなった。外のほうが、本物だったから。あたりまえのことだ」
終わりの夜も、そう言い聞かせた。
「……俺には、ここしかなかった。だから、時間も、稼ぎも」
彼女の目から、残っていた笑みが引いた。
自分の手の甲に、アルベドの目が落ちた。赤い跡が一本、浮いている。
「俺は、たいした者ではない。外では、小学校しか出ていない、ただの勤め人だった。それが、慰めに、最後の時間まで、ここにしがみついていただけ。智謀の王なんかとは、真逆なんだ」
掛け布の前を合わせたアルベドの左手で、指輪が小さな灯りを拾っている。
「……お前の。その心は、俺が刻んだ」
アルベドの唇がわずかに開いた。
「刻まれた、と仰いますと」
「どういう者なのかを決める文が、お前にある。タブラさんが定めた、長い文だ。向こうでは、お前たちは動かなかった。喋りもしなかった。ただ、玉座の横に立っているだけだった」
翼の先が少しだけ動いた。
「最後の夜に、その文の末尾の一行を、俺が消して、書き換えた。……モモンガを愛している、と。誰も見ないと思って、書いた。終わる夜だったから」
言ってしまえば、短かった。それで、全部だった。
手のひらに、汗をかいていた。彼女の手がこの首に来ても、払う理由はどこにもない。払う力も、この体にはない。
しばらく、どちらも黙っていた。布の前を合わせていた彼女の指が、やがて、ゆっくり下りた。腰の黒い翼が一度だけ、音を立てずに畳み直される。
「刻まれたもの、かもしれません」
穏やかな声だった。
「ですが、モモンガ様。わたくしは刻まれる前から、見ておりました」
玉座の横に立つ彼女の姿なら、覚えている。目一つ動かさなかった。
「……な、にを」
布の前で、アルベドが指輪の手を揃えた。
「四十一の御方々が、あの間を埋めておられた頃も。お一人ずつ、遠のいていかれた頃も。……モモンガ様が、ただお一人で、この墳墓を保っておられた頃も。誰も来ない日の玉座の横で、わたくしは動けないまま、ずっと見ておりました」
言葉は、まっすぐに続いた。
「わたくしのこの心は、その一行からではなく、そのお姿を拝見したから生まれたものでございます。そう、確信しております。……お疑いでしたら、今、その一行をお消しくださいませ。消えたあとも、わたくしは、ここから離れません。それで、証明いたします」
消せば、何が残るのか。タブラさんの書いた彼女が戻るのか、それも分からない。分からないものを、彼女は差し出している。
悟は右手を宙に上げた。
指先が何もないところを探る。あの夜は、ここに彼女の文があった。長い文の終わりに、一行。
開かない。
アルベドの目が、宙の手を追っていた。
「もう、それすらできないんだ」
手を下ろした。下ろした手を、見た。
「……だが、ありがとう」
アルベドが寝台に膝をのせた。掛け布ごと両腕が伸びてきて、悟の頭を抱えた。額が布越しに、彼女の肩口に当たる。
「──よく、頑張りましたね」
言ってから、腕が強張った。
「過ぎた真似を、申し訳ございません」
アルベドの腕が、ほどけかける。
悟の手が、その腕を押さえた。
よく、頑張りましたね。
そう言われたのは、いつ以来だろう。最後にそう言った人は、自分を学校へ行かせるために無理をして、先にいなくなった。
それからは、誰にも言われていない。視界の端の名前の列が一つも灯らない夜に、一人で維持費を稼いでいたあいだも。見ている者はいないと思っていた。終わりの夜にヘロヘロさんがくれた「感謝します」は、ギルド長に向けたものだった。
声は殺した。扉の外に当番が立っている。奥歯を噛んで、息を詰めた。詰めた分が、目から出た。肩の揺れが、止まらない。
腕に、力が戻った。さっきより深く、頭を包む。後ろ頭に彼女の手が置かれて、動かない。
声は最後まで出さずに済んだ。顔を押しつける先が、あった。
顔を上げると、すぐ近くに金の目がある。
「……悟だ」
その目が、一度だけ瞬いた。
「鈴木、悟。……俺の、名前だ」
あの一行には、モモンガ、と書いた。鈴木悟とは、書いていない。書いていない名前で呼ばれるなら、と思った。確かめる方法は、ない。
彼女は長いあいだ黙っていた。それから、声には出さずに、唇だけでその名をなぞった。一度。もう一度。
腕がまた、頭を抱き寄せた。
◇
翌朝、目を開けると、金の目がこちらを見ていた。視線で目が覚めたのも初めてだった。一晩中、という顔をしていた。
報告に来たデミウルゴスは何故かお辞儀をして、廊下で会ったコキュートスも同じ所作をした。こちらからは、伝えなかった。