マーレの手が、悟の脚に膝掛けを広げた。
「ど、どうぞ、モモンガ様」
宴から七日が過ぎた、秋の朝だった。報告の席に、その日は人が多かった。奥の壁際に今日の当番のコキュートス、扉の脇にセバス。
「さすがマーレね。御身を慮るその心がけ、偉いわ」
「……は、はい」
広げ終えたマーレの頭に、アルベドの右手が載った。左手は、既にアウラの頭に鎮座していた。アウラの目は死んでいた。
「全階層、異状ございません。外の調査のほうも、滞りなく。……さすがデミウルゴスだと存じます、モモンガ様」
デミウルゴスはぎょっとした後、無言で眼鏡を直した。アルベドの手が離れると、姉と弟は顔を見合わせてから、ため息混じりに半歩下がった。ここ数日で、頭が擦り減りそう、というのはアウラの言葉だ。
「コキュートスもセバスもさすがだわ。今は思い付かないけれど、とにかくさすがね」
壁際でコキュートスの顎がカチと鳴り、扉の脇でセバスがわずかに首を傾けた。さすが、の在庫処分だ。
「……付け加えますと、今朝から冷え込んでおります。御身は、どうぞお温かく」
デミウルゴスの一言で、悟は膝掛けを肩まで引き上げた。肩の奥が小さく鳴った。凝るほど、何もしていないのに。
「……今夜は、大浴場にでも行くか。男湯のほうな。来たい者がいたら、一緒にどうだ。回覧に入れといてくれ」
アルベドがペンを取った。書きながら、一度、手を止める。
「来たい者がいたら、と。……そのまま、書いてよろしいのですか?」
「ああ、そのままで。命令じゃないから」
言ってから、言い方を間違えたと思った。命令でも許しでもない言い方で、言われた側がどうすればいいか分からない。分からない顔が並んだ。課長の「たまには、どう?」パート2だ。
最初に動いたのはマーレだ。姉の袖を掴んだまま半歩出て、何も言えずに立っている。アウラが弟の背中を押して、マーレが一歩出た。
男の側だ、と言ったはずだった。……そうだ。男だった。茶釜さんが、そう作った。
「ぼ、ぼく、行きますっ。……行っても、いいですか。お背中、流したいですっ」
「ああ。頼む」
「勿論お供いたします。湯は、私の密かな楽しみのひとつでして」
デミウルゴスだ。言い終えたあとで、尾の先が一度揺れた。コキュートスは一番奥からゆっくりと歩いてきた。彼が近づくと空気が冷える。三歩手前で止まって、腰を折った。
「オ許シガ、アルノナラバ」
「ああ。来い」
「じゃあ、あたしたちは、あっちですね。シャルティアも、引っぱってきます」
アウラが言うと、アルベドが頷いた。大浴場は壁で二つに分かれていて、男のほうと女のほうがある。
「向こうは、わたくしが整えておきます」
「……いつもなら、男湯にまでついてきそうなのに。やけに物分かりがいいよね」
「くふ、アウラにはまだ早いわ。この際だから色々と教えてあげましょう。まずは──」
アウラは最後まで聞かずに、弟の手を引いて、扉のほうへ歩きだしていた。
悟は扉の脇を見た。セバスは、さっきから一度も顔を上げていない。デミウルゴスのほうも、扉のほうへは一度も目をやっていない。たっちさんとウルベルトさんも、同じ部屋にいるときはこうだった。どちらも相手を見ないことに、ずいぶん気を使っていた。
湯なら、少しは違うかもしれない。
「セバス。お前も、どうだ」
軽く言ったつもりだった。セバスが顔を上げる。
「ありがたいお言葉にございます。ですが、私は御身のお世話がございますので。湯殿の外にて、控えております」
それで終わるはずだった。
「断るのかね、セバス」
デミウルゴスだった。声の高さは変わっていない。
「至高の御方が、御自ら声をおかけになったのだよ。その御慈悲を、執事の務めで断る。……私には、そう聞こえたが」
部屋の温度が下がった。たぶんコキュートスのせいじゃない。セバスは一度だけデミウルゴスを見て、すぐに悟へ目を戻した。
「……畏まりました。お供いたします。申し訳ございません、デミウルゴス様」
デミウルゴスは何も言わずに、手を後ろで組んでいる。セバスはまた顔を伏せた。
それで、朝の報告が終わった。
取り持つつもりで、一人に頭を下げさせた。なかなか上手くはいかないものだな。
◇
夜、湯殿の前で待っていたのは三人だけだった。マーレと、デミウルゴスと、コキュートス。
「……これだけか? 男の使用人も、男の姿の配下も、もう少しはいるだろう」
「来たい者がいたら、と書いてございましたので。……来たいかどうかを、自分で決めてよいと思う者は、ここには多くございません」
後ろのセバスだった。そうか。そうだった。広すぎる湯殿に、五人。
そこへ、目出し帽の男に抱えられて、ペンギンが通りかかった。副執事長のエクレアだ。その後ろから、料理長が空の皿を積んだ台車を押してくる。
「二人とも、湯だ。どうだ」
「なんと。いずれこの大墳墓を治める身として、湯殿の検分は欠かせませんな!」
「ははぁ! モモンガ様のお誘いとあらば!」
セバスの眉が、ほんの少し動いた。七人になった。目出し帽の男は、エクレアの足として数えた。
大浴場には、来てから一度も入っていない。九種類の湯に、十七の浴槽。ギルドの皆で金を出し合って、何人かが凝りすぎて、誰も使わない浴槽まで作った。
脱衣の部屋で、セバスが悟の服を脱がせて、それから自分の燕尾を脱いだ。白い髭の下の体は、年寄りの形をしていなかった。デミウルゴスとセバスは、部屋の端と端の棚で、同じくらいきれいに服を畳んだ。もう逆に仲良いだろ。
マーレは脱ぎながら、こちらを見ないようにしている。コキュートスは何も脱がない。突っ込むのは野暮だろう。エクレアは蝶ネクタイを外してもらうと、抱えられたまま湯殿へ運ばれていった。
湯殿は暑い。入った瞬間に汗が出る。床の下のどこかで、低く、何かが燃えている音がする。悟は一番手前の、一番普通そうな湯を選んだ。大きな石の獅子が口から湯を吐いている、木と草に囲まれた湯だ。
「ここにする」
洗い場に桶と椅子が並んでいる。ここでも黄色だった。伝統は守られている。悟は一つ座って、湯を汲んで、肩から被った。熱いのが背中を流れて、肌に沿って床まで落ちる。
二度目を被ったところで、横に黄色い椅子が置かれた。マーレだ。椅子を片手に持って、もう片方の手に布を持って、顔が湯気のせいか赤い。
「あ、あの。お背中を。……お流しします」
声が上ずっている。答えを待たずに後ろに回った。
布が背中に当たった。マーレの手は、本人が思っているよりずっと強い。布の下で皮膚が引っ張られて、熱くなる。見た目は闇妖精の子供でも、手はレベル百の守護者のものだ。強めで、と頼んだ覚えはない。
悟は黙っていた。言えば、マーレは手を緩めて、自分の力加減を一つずつ疑いながら洗う。それを見るより、背中が赤くなるほうがいい。
「……上手いな」
「えっ」
布が、背中に貼りついた。
「上手い。ちょうどいい」
嘘だった。そのまま通した。後ろでマーレが息を吸うのが聞こえる。
布がまた動いた。さっきより弱い。布を持つ手から、ふっと力が抜けたのが、背中で分かった。
そのとき、湯殿の戸が、ガラッと開いた。
戸口に、黒いものが立っている。人の膝に届かない背丈。小さな王冠を載せて、マントの代わりに、手ぬぐいを一枚肩に掛けている。
「回覧、拝見いたしましたぞ! 我輩も、御相伴に──」
マーレが立ち上がった。
布を椅子に置いて、濡れた床をまっすぐ戸口まで歩いていく。何も言わない。恐怖公の胴を、片手でつかんで持ち上げた。小さな体が、宙に浮く。
「お、おお? マーレ殿?」
マーレは戸の外にそれを下ろして、戸を閉めた。
「あ、」
悟が言いかけたときには、もう閉まっていた。マーレは戻ってきて、また椅子に座って、布を取った。
「……お、お背中の、続きを」
手を洗ってほしいとは口が裂けても言えない。戸の向こうは、静かだった。
「セバス」
「はっ」
「あとで、恐怖公に湯を空けてやってくれ。……そもそも熱い湯が問題ないかも聞いとくように」
「畏まりました」
背中の布に、一度だけ力がこもった。
終わると、悟は布を受け取った。
「ありがとう、マーレ」
マーレは、ぺこりと頭を下げた。
悟は洗い場の端へ目をやった。コキュートスが、一人で離れたところに立っている。四本の腕で自分の体に湯を掛けている。腕が四本あると、背中も届くらしい。
「コキュートス。背中を洗ってやる」
四本の腕が止まった。
悟は椅子を持ってそちらへ歩いた。
「オ気持チダケ、アリガタク。……私ニ触レレバ、御手ガ冷エマス」
たしかに、いくら冷気耐性の指輪があっても触れば手が冷えそうだ。
「あ、あの、モモンガ様」
マーレだった。後ろから、おずおずと、何かを差し出している。
デッキブラシだった。長い柄に硬い毛。床を磨くものだ。
「コキュートスさんには、こ、こっちのほうが……いつも、これで、お掃除のときに、みんなで……」
床と同じ扱いらしい。いいのか、それで。悟は無言でブラシを受け取って、コキュートスを見上げた。コキュートスの顎が、一度だけカチと鳴った。
「ソレデ、結構デゴザイマス」
マーレがもう一本、ブラシを持ってきた。二人で左右に分かれて、外皮の継ぎ目に毛を入れて、押して、引く。白いものが落ちて、下から青い殻が出てくる。人の背中を洗うというより、鎧を磨いている。なかなか楽しい。マーレの手はやけに慣れていて、悟が片側を終えるころには、反対側はもう光っていた。
◇
湯に入った。肩まで沈む。あ゛ぁ、が出かかって、人がいるので、あ、で止めた。朝に鳴ったところが、ほどけていく。獅子の口から湯が落ちる音がしている。
「どうぞ、ごゆるりと」
隣で、セバスが言った。
少し離れた浅い湯では、エクレアが浮いていた。
腹を上にして、翼を広げて、目を閉じている。目出し帽の男が湯の際に膝をついて、流されないように指を一本添えていた。
その向こうで、料理長が肩まで沈んでいる。豚鬼の大きな体が沈んだぶん、湯があふれて床へ流れた。
……いい出汁が出そうだ。口には出さない。出したら、料理長は喜ぶ気がする。
マーレが頭に布を載せて、隣の少し離れたところに沈んで、長い息を吐いた。
一日働いた大人が、湯に入ったときの息だった。見た目は子供なのに。
デミウルゴスは眼鏡を外して、両手で湯を掬って、顔に掛けた。
「はあ」
と言った。
聞いたことのないデミウルゴスの声だった。計算のない、おじさんの声。
コキュートスは湯の一番向こうの端にいる。獅子の口から遠い、壁際の、湯が冷えているところ。立っているのか座っているのか分からない姿勢で、白い息を落としている。
「デミウルゴスニハ、熱イ湯ハ平気ダロウガ。……冷エタ湯モ、悪クナイゾ」
「冷えた湯に用はないね。冷えて困るなら、今夜の湯を沸かしている者を、そちらに回そう。
床の下で燃えていたのはそれか。部下を湯沸かし器にするな。
セバスは、悟の反対隣にいた。悟を挟んで、デミウルゴスとは逆の側だ。緩衝材か、俺は。
壁の向こうで、何か重いものがぶつかる音がした。女湯のほうだ。
デミウルゴスが壁のほうに顔を向ける。コキュートスも向ける。セバスは向けずに、目を伏せた。
悟に聞こえたのは、その一度きりだった。人間の耳だ。壁の向こうにはアルベドと、シャルティアと、アウラがいる。三人が何かを言っていて、ほかの者には、それが聞こえている。
「何か、言っているのか」
「いえ」
デミウルゴスが壁から顔を戻した。
「何も。……湯の音でございましょう」
ナザリック一の知恵者にしては、雑な嘘だった。
そろそろ上がるか、と腰を浮かせたところで、目の前が白くなった。のぼせたらしい。膝が笑った。
笑った膝を、両側から手が支えた。
右の手はセバス。左の手は、デミウルゴスだ。二人の手のあいだに、悟の体がある。二人の目が、悟の肩越しに一度だけ合った。
先に手を引いたのは、デミウルゴスだった。
「……お任せするよ、セバス」
「恐れ入ります」
セバスの手が、悟を湯の外へ上げた。
「お上がりください。……長くなりました」
◇
その夜、第七階層の、溶岩の光が差す机の上に、一枚の紙があった。
玉体、肉眼にて拝察。御胤を成す器官、有。
書いた者はインクが乾くのを待って、紙を引き出しにしまった。