Gnade ―生者の王―   作:南蛮鉄

12 / 12
第十章 ごゆるりと

 マーレの手が、悟の脚に膝掛けを広げた。

 

「ど、どうぞ、モモンガ様」

 

 宴から七日が過ぎた、秋の朝だった。報告の席に、その日は人が多かった。奥の壁際に今日の当番のコキュートス、扉の脇にセバス。

 

「さすがマーレね。御身を慮るその心がけ、偉いわ」

 

「……は、はい」

 

 広げ終えたマーレの頭に、アルベドの右手が載った。左手は、既にアウラの頭に鎮座していた。アウラの目は死んでいた。

 

「全階層、異状ございません。外の調査のほうも、滞りなく。……さすがデミウルゴスだと存じます、モモンガ様」

 

 デミウルゴスはぎょっとした後、無言で眼鏡を直した。アルベドの手が離れると、姉と弟は顔を見合わせてから、ため息混じりに半歩下がった。ここ数日で、頭が擦り減りそう、というのはアウラの言葉だ。

 

「コキュートスもセバスもさすがだわ。今は思い付かないけれど、とにかくさすがね」

 

 壁際でコキュートスの顎がカチと鳴り、扉の脇でセバスがわずかに首を傾けた。さすが、の在庫処分だ。

 

「……付け加えますと、今朝から冷え込んでおります。御身は、どうぞお温かく」

 

 デミウルゴスの一言で、悟は膝掛けを肩まで引き上げた。肩の奥が小さく鳴った。凝るほど、何もしていないのに。

 

「……今夜は、大浴場にでも行くか。男湯のほうな。来たい者がいたら、一緒にどうだ。回覧に入れといてくれ」

 

 アルベドがペンを取った。書きながら、一度、手を止める。

 

「来たい者がいたら、と。……そのまま、書いてよろしいのですか?」

 

「ああ、そのままで。命令じゃないから」

 

 言ってから、言い方を間違えたと思った。命令でも許しでもない言い方で、言われた側がどうすればいいか分からない。分からない顔が並んだ。課長の「たまには、どう?」パート2だ。

 最初に動いたのはマーレだ。姉の袖を掴んだまま半歩出て、何も言えずに立っている。アウラが弟の背中を押して、マーレが一歩出た。

 男の側だ、と言ったはずだった。……そうだ。男だった。茶釜さんが、そう作った。

 

「ぼ、ぼく、行きますっ。……行っても、いいですか。お背中、流したいですっ」

 

「ああ。頼む」

 

「勿論お供いたします。湯は、私の密かな楽しみのひとつでして」

 

 デミウルゴスだ。言い終えたあとで、尾の先が一度揺れた。コキュートスは一番奥からゆっくりと歩いてきた。彼が近づくと空気が冷える。三歩手前で止まって、腰を折った。

 

「オ許シガ、アルノナラバ」

 

「ああ。来い」

 

「じゃあ、あたしたちは、あっちですね。シャルティアも、引っぱってきます」

 

 アウラが言うと、アルベドが頷いた。大浴場は壁で二つに分かれていて、男のほうと女のほうがある。

 

「向こうは、わたくしが整えておきます」

 

「……いつもなら、男湯にまでついてきそうなのに。やけに物分かりがいいよね」

 

「くふ、アウラにはまだ早いわ。この際だから色々と教えてあげましょう。まずは──」

 

 アウラは最後まで聞かずに、弟の手を引いて、扉のほうへ歩きだしていた。

 悟は扉の脇を見た。セバスは、さっきから一度も顔を上げていない。デミウルゴスのほうも、扉のほうへは一度も目をやっていない。たっちさんとウルベルトさんも、同じ部屋にいるときはこうだった。どちらも相手を見ないことに、ずいぶん気を使っていた。

 湯なら、少しは違うかもしれない。

 

「セバス。お前も、どうだ」

 

 軽く言ったつもりだった。セバスが顔を上げる。

 

「ありがたいお言葉にございます。ですが、私は御身のお世話がございますので。湯殿の外にて、控えております」

 

 それで終わるはずだった。

 

「断るのかね、セバス」

 

 デミウルゴスだった。声の高さは変わっていない。

 

「至高の御方が、御自ら声をおかけになったのだよ。その御慈悲を、執事の務めで断る。……私には、そう聞こえたが」

 

 部屋の温度が下がった。たぶんコキュートスのせいじゃない。セバスは一度だけデミウルゴスを見て、すぐに悟へ目を戻した。

 

「……畏まりました。お供いたします。申し訳ございません、デミウルゴス様」

 

 デミウルゴスは何も言わずに、手を後ろで組んでいる。セバスはまた顔を伏せた。

 それで、朝の報告が終わった。

 取り持つつもりで、一人に頭を下げさせた。なかなか上手くはいかないものだな。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 夜、湯殿の前で待っていたのは三人だけだった。マーレと、デミウルゴスと、コキュートス。

 

「……これだけか? 男の使用人も、男の姿の配下も、もう少しはいるだろう」

 

「来たい者がいたら、と書いてございましたので。……来たいかどうかを、自分で決めてよいと思う者は、ここには多くございません」

 

 後ろのセバスだった。そうか。そうだった。広すぎる湯殿に、五人。

 そこへ、目出し帽の男に抱えられて、ペンギンが通りかかった。副執事長のエクレアだ。その後ろから、料理長が空の皿を積んだ台車を押してくる。

 

「二人とも、湯だ。どうだ」

 

「なんと。いずれこの大墳墓を治める身として、湯殿の検分は欠かせませんな!」

 

「ははぁ! モモンガ様のお誘いとあらば!」

 

 セバスの眉が、ほんの少し動いた。七人になった。目出し帽の男は、エクレアの足として数えた。

 大浴場には、来てから一度も入っていない。九種類の湯に、十七の浴槽。ギルドの皆で金を出し合って、何人かが凝りすぎて、誰も使わない浴槽まで作った。

 脱衣の部屋で、セバスが悟の服を脱がせて、それから自分の燕尾を脱いだ。白い髭の下の体は、年寄りの形をしていなかった。デミウルゴスとセバスは、部屋の端と端の棚で、同じくらいきれいに服を畳んだ。もう逆に仲良いだろ。

 マーレは脱ぎながら、こちらを見ないようにしている。コキュートスは何も脱がない。突っ込むのは野暮だろう。エクレアは蝶ネクタイを外してもらうと、抱えられたまま湯殿へ運ばれていった。

 湯殿は暑い。入った瞬間に汗が出る。床の下のどこかで、低く、何かが燃えている音がする。悟は一番手前の、一番普通そうな湯を選んだ。大きな石の獅子が口から湯を吐いている、木と草に囲まれた湯だ。

 

「ここにする」

 

 洗い場に桶と椅子が並んでいる。ここでも黄色だった。伝統は守られている。悟は一つ座って、湯を汲んで、肩から被った。熱いのが背中を流れて、肌に沿って床まで落ちる。

 二度目を被ったところで、横に黄色い椅子が置かれた。マーレだ。椅子を片手に持って、もう片方の手に布を持って、顔が湯気のせいか赤い。

 

「あ、あの。お背中を。……お流しします」

 

 声が上ずっている。答えを待たずに後ろに回った。

 布が背中に当たった。マーレの手は、本人が思っているよりずっと強い。布の下で皮膚が引っ張られて、熱くなる。見た目は闇妖精の子供でも、手はレベル百の守護者のものだ。強めで、と頼んだ覚えはない。

 悟は黙っていた。言えば、マーレは手を緩めて、自分の力加減を一つずつ疑いながら洗う。それを見るより、背中が赤くなるほうがいい。

 

「……上手いな」

 

「えっ」

 

 布が、背中に貼りついた。

 

「上手い。ちょうどいい」

 

 嘘だった。そのまま通した。後ろでマーレが息を吸うのが聞こえる。

 布がまた動いた。さっきより弱い。布を持つ手から、ふっと力が抜けたのが、背中で分かった。

 そのとき、湯殿の戸が、ガラッと開いた。

 戸口に、黒いものが立っている。人の膝に届かない背丈。小さな王冠を載せて、マントの代わりに、手ぬぐいを一枚肩に掛けている。

 

「回覧、拝見いたしましたぞ! 我輩も、御相伴に──」

 

 マーレが立ち上がった。

 布を椅子に置いて、濡れた床をまっすぐ戸口まで歩いていく。何も言わない。恐怖公の胴を、片手でつかんで持ち上げた。小さな体が、宙に浮く。

 

「お、おお? マーレ殿?」

 

 マーレは戸の外にそれを下ろして、戸を閉めた。

 

「あ、」

 

 悟が言いかけたときには、もう閉まっていた。マーレは戻ってきて、また椅子に座って、布を取った。

 

「……お、お背中の、続きを」

 

 手を洗ってほしいとは口が裂けても言えない。戸の向こうは、静かだった。

 

「セバス」

 

「はっ」

 

「あとで、恐怖公に湯を空けてやってくれ。……そもそも熱い湯が問題ないかも聞いとくように」

 

「畏まりました」

 

 背中の布に、一度だけ力がこもった。

 終わると、悟は布を受け取った。

 

「ありがとう、マーレ」

 

 マーレは、ぺこりと頭を下げた。

 悟は洗い場の端へ目をやった。コキュートスが、一人で離れたところに立っている。四本の腕で自分の体に湯を掛けている。腕が四本あると、背中も届くらしい。

 

「コキュートス。背中を洗ってやる」

 

 四本の腕が止まった。

 悟は椅子を持ってそちらへ歩いた。

 

「オ気持チダケ、アリガタク。……私ニ触レレバ、御手ガ冷エマス」

 

 たしかに、いくら冷気耐性の指輪があっても触れば手が冷えそうだ。

 

「あ、あの、モモンガ様」

 

 マーレだった。後ろから、おずおずと、何かを差し出している。

 デッキブラシだった。長い柄に硬い毛。床を磨くものだ。

 

「コキュートスさんには、こ、こっちのほうが……いつも、これで、お掃除のときに、みんなで……」

 

 床と同じ扱いらしい。いいのか、それで。悟は無言でブラシを受け取って、コキュートスを見上げた。コキュートスの顎が、一度だけカチと鳴った。

 

「ソレデ、結構デゴザイマス」

 

 マーレがもう一本、ブラシを持ってきた。二人で左右に分かれて、外皮の継ぎ目に毛を入れて、押して、引く。白いものが落ちて、下から青い殻が出てくる。人の背中を洗うというより、鎧を磨いている。なかなか楽しい。マーレの手はやけに慣れていて、悟が片側を終えるころには、反対側はもう光っていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 湯に入った。肩まで沈む。あ゛ぁ、が出かかって、人がいるので、あ、で止めた。朝に鳴ったところが、ほどけていく。獅子の口から湯が落ちる音がしている。

 

「どうぞ、ごゆるりと」

 

 隣で、セバスが言った。

 少し離れた浅い湯では、エクレアが浮いていた。

 腹を上にして、翼を広げて、目を閉じている。目出し帽の男が湯の際に膝をついて、流されないように指を一本添えていた。

 その向こうで、料理長が肩まで沈んでいる。豚鬼の大きな体が沈んだぶん、湯があふれて床へ流れた。

 ……いい出汁が出そうだ。口には出さない。出したら、料理長は喜ぶ気がする。

 マーレが頭に布を載せて、隣の少し離れたところに沈んで、長い息を吐いた。

 一日働いた大人が、湯に入ったときの息だった。見た目は子供なのに。

 デミウルゴスは眼鏡を外して、両手で湯を掬って、顔に掛けた。

 

「はあ」

 

 と言った。

 聞いたことのないデミウルゴスの声だった。計算のない、おじさんの声。

 コキュートスは湯の一番向こうの端にいる。獅子の口から遠い、壁際の、湯が冷えているところ。立っているのか座っているのか分からない姿勢で、白い息を落としている。

 

「デミウルゴスニハ、熱イ湯ハ平気ダロウガ。……冷エタ湯モ、悪クナイゾ」

 

「冷えた湯に用はないね。冷えて困るなら、今夜の湯を沸かしている者を、そちらに回そう。憤怒の魔将(イビルロード・ラース)だ。すぐに沸く」

 

 床の下で燃えていたのはそれか。部下を湯沸かし器にするな。

 セバスは、悟の反対隣にいた。悟を挟んで、デミウルゴスとは逆の側だ。緩衝材か、俺は。

 壁の向こうで、何か重いものがぶつかる音がした。女湯のほうだ。

 デミウルゴスが壁のほうに顔を向ける。コキュートスも向ける。セバスは向けずに、目を伏せた。

 悟に聞こえたのは、その一度きりだった。人間の耳だ。壁の向こうにはアルベドと、シャルティアと、アウラがいる。三人が何かを言っていて、ほかの者には、それが聞こえている。

 

「何か、言っているのか」

 

「いえ」

 

 デミウルゴスが壁から顔を戻した。

 

「何も。……湯の音でございましょう」

 

 ナザリック一の知恵者にしては、雑な嘘だった。

 そろそろ上がるか、と腰を浮かせたところで、目の前が白くなった。のぼせたらしい。膝が笑った。

 笑った膝を、両側から手が支えた。

 右の手はセバス。左の手は、デミウルゴスだ。二人の手のあいだに、悟の体がある。二人の目が、悟の肩越しに一度だけ合った。

 先に手を引いたのは、デミウルゴスだった。

 

「……お任せするよ、セバス」

 

「恐れ入ります」

 

 セバスの手が、悟を湯の外へ上げた。

 

「お上がりください。……長くなりました」

 

 

 

   ◇

 

 

 

 その夜、第七階層の、溶岩の光が差す机の上に、一枚の紙があった。

 

 玉体、肉眼にて拝察。御胤を成す器官、有。

 

 書いた者はインクが乾くのを待って、紙を引き出しにしまった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

モモンガさん、強くてニューゲーム(作者:たなたなああ)(原作:オーバーロード)

ユグドラシルに初めてログインした瞬間、鈴木悟の中に流れ込んできたのは、十二年分のプレイの記憶と、その先――異世界で魔導王として生きた日々の記憶だった。▼仲間が去っていくこと。最後の夜、玉座の間に一人きりになること。そして、守護者を自らの手で失うこと。▼すべてを知るモモンガは、もう一度ユグドラシルを始める。今度こそ、何一つ失わないために。▼原作知識を持ったモモ…


総合評価:54/評価:-.--/連載:10話/更新日時:2026年11月06日(金) 17:00 小説情報

ギルド武器と同化したモモンガの話(作者:Yamada-3)(原作:オーバーロード)

 ユグドラシル最終日。円卓の間でヘロヘロの言葉に憤りを覚えたモモンガは、好き勝手する事にした。▼※初投稿なので色々と拙い部分があるかもしれませんが、どうかご容赦を。また、アンチ・ヘイトのつもりはありませんが、念のために。▼ 書籍やWebを読み返しながら書くので、更新は遅いです。多分。


総合評価:33/評価:-.--/連載:3話/更新日時:2026年10月11日(日) 12:15 小説情報

オーバーロード 現地人に転生した弱体鈴木悟さん(作者:モモンガ・アインズ)(原作:オーバーロード)

ユグドラシルでのサービス終了と同時に、本編世界に現地人として転生した鈴木悟。▼王国の片田舎で事情持ちの両親と一緒に暮らしており、アバター「モモンガ」の力をある程度継承していたために本編世界では異例の強さを持っていたものの、「モモンガ」よりは弱くなっていた。▼自然豊かな世界でどう生きようか。そう考えている間に、平穏は崩れ去る──。▼毎日20時更新予定です。▼R…


総合評価:3138/評価:8.34/完結:13話/更新日時:2026年11月01日(日) 20:00 小説情報

オーバーロードはダークエルフになりました(作者:トドロ)(原作:オーバーロード)

シャルティアとかアルベドはあったけどアウラってないなと思って作った妄想の産物▼モモンガ様が成長したアウラの姿で冒険するだけの話▼※モモンガ様強化要素があります


総合評価:537/評価:7.2/連載:12話/更新日時:2026年10月31日(土) 18:07 小説情報

鈴木悟の分身がオーバーロード世界にいたら(作者:ぶりブリザード)(原作:オーバーロード)

鈴木悟ことモモンガはユグドラシル終了後、王国に原作通り転移するのではなく、▼10周年の丸山くがね先生のコメントにある“あなたの分身がオーバーロード世界にいたら”の自分の分身設定を割り振る場面に転移した。▼モモンガはゲームの続きと勘違いした。


総合評価:6403/評価:8.72/未完:8話/更新日時:2026年10月27日(火) 17:16 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>