第七階層、赤熱神殿の一室に、黒い石の机がある。
壁の隙間から溶岩の光が差し込んで、机の上を赤く照らしていた。右に積んであるのは一年分の紙で、配下から上がってきたものと、デミウルゴスが自分で書いたもの、その全部だ。
年の終わりの夜に、彼はそれを一枚ずつ読んで、御方に差し上げる分だけを左に写し、写さないと決めた紙は机の脇に積む。御方に差し上げるのは左の束だけで、表紙には題が一つ書いてある。
御報告。
宛名はない。宛てる相手は、一人しかいない。御方はそれを、一行目から最後の一行まで全部お読みになる。だから御方の目に入る一行に、彼は嘘を一つも書かない。書くか、書かないか、そのどちらかしかない。
最後の一行は、毎年同じと決めてある。
御方におかれましては、本日もお健やかに。
◇
一年目の終わりの夜、右の束は厚く、左の束は薄かった。薄いのは、書くことがなかったからだ。
全階層。異状なし。
その下で一番長く続いたのは、同じ言葉の列だった。
森のはずれ。異状なし。
北の丘。異状なし。
東の森。異状なし。
南の街道。異状なし。
川。異状なし。
村の道。異状なし。
試しの前に、御方が宝物殿から金貨を袋に二つ出してこられて、統括に渡された。忍びはその金貨で増えている。増えた分だけ見る場所が増えて、見る場所が増えた分だけ、異状なし、の列が長くなった。その下に、排除と、国の行がある。
排除。三件。痕跡なし。
王国。戦士長、一。
脅威度──E。誤算率──E。重要度──D。
帝国。主席宮廷魔術師、一。
脅威度──E。誤算率──D。重要度──C。
エルフの王国。詳細不明。監視を継続。
脅威度──不明。誤算率──C。重要度──E。
法国。聖域。神器、一。監視を継続。
脅威度──不明。誤算率──A。重要度──A。
法国。捜索の隊。二度。以後、なし。
御方におかれましては、本日もお健やかに。
並べると、世界の形になる。鏡と、影の目と、忍びの耳で見える限りの形で、見えないものは並んでいない。見えない分は、誤算率に書く。こちらの読みが外れる見込みだ。
排除の三件は、そのまま写した。壁まで来た者を帰すな、と御方が仰せになっている。許されたことは、許されたとおりに書けばいい。
写さなかった紙は、脇に積んだ。
ハンゾウ、五。のち、十二。森のはずれ、北の丘、東の森、南の街道。異状なし。
御方がお命じになって呼んだ五体と、御方の金貨で増やした分だ。異状なし、は写した。誰が見たかは、写さない。
それから、御方が来られて間もない頃の一枚。これは、読んでも手が迷わない。
経験値。検証。実験体、二。とどめのみ、入らず。戦闘参加、入る。入るのは、やったことのクラス。ナザリックの者、身に残らず。御身への適用、不可。
影が獲ってきたもので中で試せ、と御方がお命じになって、調べた紙だ。入り方は申し上げてある。最後の一行だけは、御方に差し上げた紙には書かず、闘技場の砂の上まで口にも出さなかった。上げてみたい、と御方が仰せになったのは、この紙の後に何度かあって、そのたびに、お断り申し上げた。最後は、砂の上。入らぬようで、とだけ申し上げて、御方は御自身で、強さは要らない、と仰せになった。もう一度仰せになることは、ない。
写さなかった紙の山は、まだ低かった。最初の年は、写さないと決めた紙が、ほとんどなかった。
翌朝、アルベドが左の束を運んだ。戻ってきたのは昼で、束を机の上に載せた。
「お読みになりましたか」
「全部。一枚ずつ。最後の行まで」
「……なるほど」
「異状なし、のところで、少し長く止まっておられたわ」
デミウルゴスは束を机の中にしまった。
「何か、仰せに」
「目を増やして、これか、と」
「統括殿は、何と」
「はい。何もございません、と」
「御方は」
「……そうか、と。それから、しばらく黙っておられて」
アルベドは机の前に立ったまま、御方のお言葉を順に言った。御方のお言葉を運ぶとき、彼女は言い直さない。
「脅威が見つかれば、教えろ」
デミウルゴスは右の束の新しい一枚に、それをそのまま書いた。
「二つ目の前に、間があったわ。……他のギルドメンバーの痕跡があれば、教えろ。ただし、ナザリックに危険を招いてまでは、探さなくていい」
ペン先が一度紙から浮いて、また下りた。
「三つ目。金貨のことは、二人で何とかしろ」
「四つ目は」
「あとは、二人に任せる」
四行になった。書き終えてから、彼は眼鏡の位置を直した。
「二人、と仰せになったのですね。統括殿と、私と」
「ええ。わたくしを見て、二人、と」
二人、と仰せになった。統括に任せる、で足りるところを、二人、と。数えられたのだ。
デミウルゴスは紙の四行から目を上げなかった。目の前に立っているのは、御方の一番近くに立つ者だ。次を訊いた。
「金貨のことは、二人で」
「宝物殿の山には、もう手をつけさせない、ということよ。袋を二つ渡されたとき、そういうご様子だったわ。お借りになるだけ。……返すおつもりなのよ」
「でしょうね」
わざわざ御方にお確かめするまでもない。当然のことだ。
デミウルゴスは右の束の、ハンゾウの行を見た。
「金貨なら、外にあります。金貨になる資源なら、幾らでも。……あらゆる資源が」
「箱なら、あるわ」
アルベドは扉のほうを見た。扉の外に、箱が置いてあった。
「御方が、宝物殿から出してこられたの。四つ仰せになった後に、一度お部屋を出られて、戻ってこられたときに、お持ちになっていたわ。渡されただけで、お言葉はなかった」
エクスチェンジボックス。入れたものが、材料の値で金貨になる箱だ。宝物殿の中にあって、宝物殿から出たことがなかった。
「品は、わたくしが集めます」
「箱は、第七階層の外れに」
アルベドは頷いて、四行の一番下を見た。
「あとは、二人に任せる、と」
「外のことは、全部、ということですか」
「ええ」
アルベドは四行の一番下から目を離さずに、もう一言だけ足した。
「……それで、いいのよ」
誰に向けた声でもなかった。
デミウルゴスは、座っていられなくなって、立った。立って、することがなかったので、四行の紙を両手で持ち上げて、溶岩の光に透かした。御方のお言葉が、赤い。
「忍びは、明日から増やすわ」
「金貨は」
「二人で、何とかするのよ」
御方のお言葉が、そのまま彼女の口から出た。デミウルゴスは紙を下ろした。
「では、そのように」
御方々の行のことは、二人とも口にしなかった。
◇
二年目、忍びが一体増えた。宝物殿の山から金貨は一枚も出ていない。箱に最初に入ったのは、壁まで来て帰らなかった者と、その持ち物と、森の獣だった。死んだものなら、箱は受けて、跡も残さず、わずかな金貨を返す。一年入れ続けて呼べたのが一体だったので、集める量を増やした。
忍びは森のはずれを越えて、王国の町へ行った。一番近い町で、エ・ランテルという名を彼が初めて紙に書いたのは、この年だ。
忍びが聞いて、選ぶ。選んだ者には、外の金を渡す。金は、忍びが町の蔵から持ってくる。帳面に載っていない金だけだ。なくなっても、なくなったと言えない。箱から出る金貨には、外のどの国の刻印もない。こちらへ辿れる糸は、細くしておく。
根、とデミウルゴスは名付けた。
右の束に、国の中の行が増えた。城壁が三重であること。門の数。衛兵の交代の刻。市場の立つ日。商会の名と、荷の動く道。町の中で消えても誰も探さない者が、どの通りに寝ているか。
月の終わりには配下の悪魔が来て、膝をついて言う。
「デミウルゴス様。エ・ランテル。三人、入りました」
「どこに」
「門に一人。市場に一人。……冒険者組合の、下働きに一人」
「ご苦労」
右の束に一行書く。
牧場は、この年、箱の隣にできた。仮面の道化が来るようになったのも、この年からだった。何も言わずに右の束の上に紙を一枚置いて、頭を下げて出ていく。牧場の紙だ。
牧場。プルチネッラ。皮、まだ紙にならず。
夜には、給仕の当番のメイドが来る。
「本日の、お夕食。すべて、お召し上がりになりました」
「残し、なし」
「はい。パンも、汁も」
「……結構。ご苦労」
メイドが下がると、引き出しから一枚を出して書く。罫が入っていて、縦に月、横に項目が並んでいる。
髪。お食事。お眠り。
階段の段数と、息の数。体重、拝察。
宝物殿の入室の回数。
御寝所。御胤。
脅威度の欄も、誤算率の欄も、この紙にはない。測る欄が、御方にだけない。
数字は、ほとんど変わらないままだ。変わらない、と書くために、毎月数える。髪の欄は、この年も全部、黒だった。宝物殿の欄は、最初の年の秋に一度跳ね上がって、宴の夜のあとで下がった。それからは、月に三度か、四度。本を読みに、と御方は仰せになる。どの本かは、仰せにならない。御寝所の欄に入る名は、一つだった。統括。
年の終わりの夜、左の束は、最初の年の半分になった。
全階層。異状なし。
第七階層。牧場。羊。皮は、スクロールの紙に。
森のはずれ、北の丘、東の森、南の街道、川、村の道。異状なし。
排除。六件。痕跡なし。
王国。エ・ランテル。衛兵、商会、把握。
法国。聖域。神器、一。監視を継続。
脅威度──不明。誤算率──A。重要度──A。
至高の御方々。痕跡、なし。
御方におかれましては、本日もお健やかに。
至高の御方々の行は、この年から書き始めた。見える所に、なかった。なかったものを、なかった、と書く。この行だけは、毎年、同じ字で書ける。
牧場の行は、羊、と書いた。それで御方にはお分かりになる。言い換えたつもりもない。羊の皮で紙を作ろうとしているのも本当で、その羊が何本の脚で歩くかは書く意味もない。
翌朝、アルベドが運んだ。昼に戻ってきた。
「お読みになりましたか」
「全部。……排除のところで、止まっておられたわ」
「六件、に」
「ええ。排除は、増えているな、と」
「統括殿は」
「はい、と。そうしたら、場所は、と訊かれたわ」
束は、引き出しに半分入ったところで残った。
「場所、と」
「壁まで、でございます、と答えたわ。……そうか、と仰せになって、それきり」
「ご命令は」
「なかったわ」
尾の先が、床の上で一度だけ跳ねた。
アルベドが出ていってから、彼は右の新しい一枚に御方の問いを書いた。数ではなく、場所。御方が確かめられたのは、壁の外へ広がっていないことだ。壁まで、は本当だ。
右の紙の排除には、中身がある。狩人が消える、と聞いて森へ入ったエ・ランテルの冒険者の組が三つ。野盗が二度。森を抜けようとした逃げ人が一人。組合の下働きに入れた根が、森へ向く依頼をそらしているから、これで済んでいる。左に写すのは、件数だけだ。
その夜、仮面の道化が紙を一枚残していった。
牧場。供給、二。エ・ランテル。
供給は、排除とは別の欄だ。左に写す欄が、最初からない。二では、紙の試しにも足りない。
左の束が薄いほど、御方は何もお案じにならない。
◇
三年目、根は王国の底へ伸びた。八本指、と呼ばれる者たちの中に二人。帝国の宮廷に一人。月の終わりの報告は短かった。
「八本指。二人、入りました」
「ご苦労」
「帝国。一人。宮廷の、書記の下に」
「ご苦労」
報告は、今も膝をついて口で運ばれる。〈伝言〉を唱えられる者は多くない。手元の巻物は、急ぎのときにしか使わない。羊の皮は、まだ巻物にならない。
八本指は、金では靡かなかった。金なら、向こうのほうが多く持っている。根は、別のもので張った。
八本指の品が箱に入り始めたのは、この年だ。硬貨は根に回して、箱には品のほうを入れる。宝石や金の器は材料だけで値が張るから、皮や牙とは桁が違った。それでも、出てくる金貨は、入れた物の値打ちに、いつも足りない。
年の半ばに、アルベドが報告のついでに言った。
「箱は、休みなく使っているわ」
「御方は」
「箱のことは、一度もお訊ねにならないわ」
「でしょうね」
引き出しの紙。
髪、黒。お食事、残しなし。お眠り、長い。
宝物殿、月に三度、四度。
御寝所、統括。
年の終わりの夜、左の束は、前の年より、また一行減った。
全階層。異状なし。
排除。十件。痕跡なし。
八本指。詳細、把握。
帝国。帝都。詳細、把握。
法国。聖域。神器、一。監視を継続。
脅威度──不明。誤算率──A。重要度──A。
至高の御方々。痕跡、なし。
御方におかれましては、本日もお健やかに。
排除の十件には、帝国の側から墓を荒らしに来る者が混じり始めた。
八本指、詳細、把握、と書いた。中から、とは書かなかった。
牧場の行は、書かなかった。前の年に、御方はお読みになって、何も仰せにならなかった。
翌朝アルベドが運んだ。戻ってきたのは、昼より前だった。扉が開いたとき、彼はまだ、前の夜に写さなかった紙を、山の上で揃えていた。
「お読みになりましたか」
「全部。……朝餉の皿が下がる前に、お読み終えになったわ」
揃えていた手が止まった。
「何か」
「ご苦労、と」
「それだけですか」
「それだけよ」
デミウルゴスは止まっていた手で、山の端をもう一度揃えた。端は、もう揃っていた。
◇
四年目、根は聖王国と法国に届いた。根を張った国は、これで四つになった。右の束は、最初の年の三倍の厚さだ。
法国の根から来た一枚を、彼は二度読んだ。読んで、右に置いた。左の法国の行は、最初の年から一字も変えなかった。脅威度、不明。測っていないものを、測ったようには書かない。
王国の紙は、この年、帝国の紙の下に綴じ直された。年の戦がエ・ランテルで終わり、エ・ランテルは帝国のものになる。講和で王が退き、第一王子が立った。前の王は、帝都へ。第三王女も、同じ帝都へ。戦士長は、前の王について行った。王と王女のことは、右に置く。御方のお耳に入れるほどのことでは、ない。
仮面の道化の紙に、この年、供給の行が増えた。村の名は書いていない。鏡の村は、その中に入っていない。御方が来られてすぐに、鏡で、見ていてくれ、と仰せになった村だ。四年、一日も欠かさず見てある。見ている村に、手は触れない。
引き出しの紙。髪の欄は、四年、黒だった。白、なし、を四十八回。御寝所の欄は、ずっと統括だった。御胤の欄には、まだ何も書いていない。宝物殿の欄も、同じ数のままだった。
年の終わりの夜、左の束は、数えるほどの行になった。
全階層。異状なし。
排除。十五件。痕跡なし。
聖王国。詳細、把握。
王国。帝国に属。戦士長、帝都。
脅威度──E。
法国。聖域。神器、一。監視を継続。
脅威度──不明。誤算率──A。重要度──A。
至高の御方々。痕跡、なし。
御方におかれましては、本日もお健やかに。
排除の十五件のうち八件は、王国と帝国の戦から流れてきた兵だった。
机の横の、写さなかった紙の山は、座った彼の肩の高さになっていた。
翌朝アルベドが運んで、昼に戻ってきた。束を机に置いて、しばらく黙っていた。
「お読みになりましたか」
「全部。一枚ずつ。最後の行まで」
「何か」
「……ありがとう、と」
デミウルゴスは眼鏡に手をやった。ずれてはいなかった。束を引き出しにしまうとき、奥の、月と項目の紙の端が指にかかった。御胤の欄の端だった。
「統括殿」
「何かしら」
「やはり他の者にも、御慈悲を賜る折があってもよろしいかと」
「あ?」
デミウルゴスは、紙を束の下に入れた。
「お健やかで」
「ええ。お健やかよ」
アルベドが出ていった。
御方が何も仰せにならなかったものは、翌年には書かれなくなる。四年、そうしてきた。四年分の、御方の目に入らなかった行と、牧場の手前の、御方が御自身で出してこられた箱を、溶岩の光が同じ赤に染めている。
デミウルゴスは右に新しい一枚を重ねた。五年目の一枚目だった。法国の根から来た紙で、書いてあるのは、神殿の門を出入りする者の数だ。
それから左に、まだ何も写していない一枚を置いた。最後の一行だけは、もう決まっている。
御方におかれましては、本日もお健やかに。