Gnade ―生者の王―   作:南蛮鉄

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第十一章 動いておりんせん!

 シャルティアの手が、日傘を開いた。

 

 黒いレースだ。傘は悟の頭の上に来て、影は肩に落ちた。差している本人の顔には、かかっていない。

 

「左は、わたしでありんす」

 

 悟はバスケットへ手を伸ばした。ナーベラルの手が、悟の指より先に持ち手をつかんだ。

 

「お持ちいたします」

 

 早い。悟は持ち手に指をかけて、少し引いてみた。ナーベラルは引かない。離しもしない。バスケットが二人のあいだで宙に浮いた。

 

「弁当くらい持てるさ。重い物じゃない」

 

「お持ちいたします」

 

 一字一句、さっきと同じだった。

 

「モモンガ様」

 

 セバスだった。斜め後ろから、穏やかな声で。

 

「恐れながら。ナーベラルの仕事を、取っておられます」

 

 悟は手を離した。ナーベラルはバスケットを抱え直して、三歩下がった。第六階層、コロッセウムの入口だった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 言い出したのは二日前の朝、報告の席だ。ここで迎える、五年目の春だった。

 

「弁当を持って、空の下で食べたい」

 

 アルベドの微笑みが、凍った。

 

「……空の、下」

 

「第六階層の、だ。外じゃない」

 

 肩から、目に見えて力が抜けた。微笑みが戻りかけて、それから消えて、守護者統括の顔になった。承知いたしました、と言って、数えはじめた。護衛の数を。森のどこからどこまでを、誰が、何人で。

 

「あー、三人くらいでいい」

 

 と悟は言った。数が途切れた。

 

「三人、でございますか」

 

「三人。それと、俺。森を歩いて、座って、食って、帰る。それだけだ」

 

 誰が三人になるかは、その場で決まった。

 

「あたしの階層ですから!」

 

 アウラがまず一人。

 

「モモンガ様の左側は、わたしが守りんす」

 

 シャルティアで二人。三人目に、アルベドは名乗り出なかった。

 

「わたくしは護衛ではございませんので、数には入りません。随行でございます」

 

「ちょっと。それは──」

 

「はいはい」

 

 アウラが手を振って、シャルティアの続きを払った。

 マーレは留守番だとアウラが決めた。木の世話があるし、今日は男の子はいいの、と言って。それを聞いたマーレがどんな顔をしたのか、悟は見ていない。

 翌朝、アルベドが報告の終わりに一つ足した。給仕にプレアデスを。それと、執事を。

 

「いや、護衛は三人だと言ったぞ?」

 

「給仕は、護衛ではございません」

 

 随行、のときと同じ声だった。分かった、と悟は返した。三人くらい、と言ったはずが、気づけば大所帯になっていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 森に入った。

 さっそく、シャルティアの日傘が枝に引っかかった。

 

「ねえ。森の中で、傘いる?」

 

 アウラが振り返った。

 

「いりんす。木漏れ日というものがありんしょう。一筋でもモモンガ様のお肩に落ちたら、どうしんすか」

 

「日なたぼっこになるだけじゃん」

 

「ぬしは、もう焼けているから平気でしょうけど」

 

「焼けてないし! これ、地の色だから」

 

 ふん、とシャルティアが鼻を鳴らした。傘はすぼめたが、悟の頭の上からはどかさない。枝をくぐるたびに、傘の先ががさがさと葉を鳴らした。葉っぱのほうが、よほど日を遮っている。

 二人の言い合いを、アルベドはもう止めない。アウラはまた先に立って、悟が追いつくのを待っては、また先に立った。後ろのほうで、エントマがときどきしゃがんでいた。

 木が切れて、丸く開けた草地に出た。

 

「じゃーん。昨日、刈りました。どこにするか決めるほうに、半日かかりましたけど」

 

「いい場所だ。よく見つけたな、アウラ」

 

「でしょ」

 

「自分の階層で、半日も迷ったのでありんすか」

 

「いちばんいいとこを選んでたの!」

 

 悟は笑った。

 アルベドが敷物を広げた。大きい。十人は座れる。跪いて広げる。四隅を引いて、しわを手のひらで押して、四隅を引き直す。悟は直し終わるのを待たずに座った。アルベドの手が、しわの上で止まった。

 

「しわの一つくらい、あったほうが座りやすいさ」

 

「じゃあ、あたしここ!」

 

 アウラはさっさと上がってきて、右隣に座った。アルベドも上がってきた。端ではなかった。まっすぐ、悟の膝のほうへ。

 

「ちょっと!」

 

「どこに座る気でありんすか!」

 

「え? いつものように、モモンガ様のお膝に」

 

「いつもはしてない」

 

「……はい」

 

 アルベドは膝を揃えて、敷物の端の端に座った。

 

「左は、わたしでありんす。朝に申し上げたとおりに」

 

 シャルティアが上がって、左に座った。座ってから、じりじり寄ってくる。右から、アウラが同じだけ寄った。

 

「近い」

 

「アウラこそ、近いわ」

 

 端の端から、アルベドが言った。

 

「あたしは最初からここだもん」

 

 メイドたちは、敷物の外に一列に立っていた。セバスは木の下だ。

 

「座れって、毎回言ってるだろ。七人に立って見られていたら、食べにくい」

 

 アルベドが指を一本こめかみに当てた。〈伝言〉だ。口で言えば届く距離だぞ。列の端でユリが顎を引いて、六人が同時に敷物の端へ腰を落とした。座っても一列だった。セバスは、立っていた。

 

「セバスもな」

 

「私は、立っているのが仕事でございます。木の下は、日も当たりませんので」

 

 悟もそこまでにした。

 ナーベラルがバスケットを開けて、ソリュシャンが杯に注いで、二人とも黙って下がった。

 アウラが時計を押した。革の帯が、擦れて色を変えている。

 ──おなか、すいたでしょ。ごはんの時間だよ。ちゃんと食べな。

 食べた。パンは柔らかく、肉は冷めても固くなっていない。果物は切り口が瑞々しい。リンゴジュースは、冷えていなくて、いつもどおりだった。

 アウラは、もう一つ目を手に取っていた。アルベドとシャルティアは、バスケットに手を伸ばさない。悟がパンを口へ運ぶと、二つの顔がそろってついてきた。

 

「取っていいんだぞ」

 

「存じております。弁当は、分けて食べるもの。……モモンガ様が、そう仰せでございました」

 

 アルベドは微笑んだまま、動かない。

 悟はバスケットから一つ取って、アルベドに差し出した。アルベドはパンを見て、悟の手を見て、もう一度パンを見た。それから両手で、押しいただいた。

 

「いただきます」

 

 食べた。真剣に食べた。背筋を伸ばして、小さく噛む。飲みこんでから、しばらく黙っていた。

 

「モ、モモンガ様の御手から、直に……これはもう、パンではございません。くふ、くふふ──ゴホン。おいしゅうございます」

 

「毎回それだな」

 

「パン一つに、大げさな」

 

「シャルティアも、どうせそうなるって」

 

 とアウラ。悟はシャルティアにも一つ渡した。シャルティアは両手で包んで、じっと見つめた。

 

「とっておきんす」

 

「ほらね」

 

「後で、か」

 

「いまは、モモンガ様の召し上がるお姿を見ておりたいのでありんす」

 

 アウラはもう三つ目を食べていた。

 

「おいしいですよ、これ。肉のやつ」

 

「アウラ」

 

 アルベドが、微笑みを崩さずに呼んだ。

 

「何?」

 

「モモンガ様がお一つ召し上がるあいだに、三つ」

 

「えー、だって、分けて食べるものって」

 

 悟は笑って、バスケットをアウラのほうへ押した。

 

「食べていい。残すと料理長が泣く」

 

 列のほうから、小さな声がした。

 

「……いいなぁ」

 

 ルプスレギナだった。隣のユリがすぐに名前を呼んで、それだけでルプスレギナの背筋がまっすぐになった。

 

「ルプスレギナ」

 

 と悟も呼んだ。背筋がさらにまっすぐになった。

 

「はいっす。……はい」

 

「来ていい。みんなも、好きに持っていけ」

 

 ルプスレギナは来て、膝をついて、バスケットから一つさらった。手つきが、アルベドとまるで違う。片手で済ませて、頭を下げて、列へ戻った。半分は、列に着く前に口の中に消えていた。ユリの目が向いたが、もう遅かった。

 ほかの四人は、ユリの顔を見てから、一つずつ取りに来た。ユリは最後に来た。

 

「そういえば、鏡の村も、今朝まで変わりなしっすよー」

 

「鏡の?」

 

 一拍、分からなかった。

 

「ああ。あの村か。……そうか」

 

 ユリが、もう一度、名前を呼んだ。

 エントマは、列にいない。草地のはずれにしゃがんで、着物の袖から手を出しては、草の根元の何かをつまんで面の下へ運んでいる。もう一つ。もう一つ。

 

「エントマ」

 

 ユリの声は大きくない。エントマがしゃがんだまま、首だけ振り返った。

 

「おやつですぅ。落ちてましたぁ」

 

「落ちていた、ではありません」

 

「虫ですぅ。ここのは、大きいですぅ」

 

「でしょ? うちの森のは、育ちがいいの」

 

 アウラが胸を張った。悟は食べていたパンを口から離した。離してから、また口に入れた。

 

「美味いか?」

 

「はい、ですぅ」

 

 袖の中で、まだ何かが動いていた。パンとどちらが美味かったか聞くのは、次の機会にしよう。

 

「モモンガ様、お気になさらず。虫です」

 

 ナーベラルが、平らな声で言った。

 

「戻ったら、手を洗わせます」

 

 とユリが言った。何のために、とは誰も訊かなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 食べ終わるころに、風が通った。草の匂いがして、木の上で何かが鳴いた。鳥のようで、鳥より低い声だ。空は青くて、雲がいつもより多い。

 

「マーレが、朝から雲を増やしてます」

 

 アウラの指が、上を差した。

 

「モモンガ様が、焼けないように」

 

 悟は空を見た。増えた雲の影が、草の上を渡っていく。

 

「よし。遊ぶか」

 

 三人が、顔を見合わせた。

 

「遊び、でございますか」

 

「狩りなら、獲物は森の奥に幾らでもおりんす。大きいのから順に、わたしが」

 

「それ、シャルティアがやりたいだけでしょ。かけっこ、とか?」

 

 アルベドが、モモンガ様のお望みの遊びを仰せください、何でも用意いたします、と言った。用意する遊び、というものが悟には分からなかった。

 

「用意は要らない。人がいればできるさ」

 

「人がいれば、何ができるのでありんすか」

 

「色々あるぞ。けいどろ。かくれんぼ。だるまさんが転んだ」

 

「けいどろ」

 

「……あれは走るな。だるまさんが転んだにしよう。立っているだけでいいんだ」

 

 悟は列のほうを見た。

 

「お前たちも来い。遊ぶぞ!」

 

 五人の目がユリに集まった。ユリが立ち上がった。そのまま、間を置いた。

 

「ボッ……私たちも、よろしいのですか」

 

 聞こえたのは悟とアウラだけらしい。アウラの口の端が、一瞬だけ上がった。

 

「固いことはいいっこなしだ。給仕は休み」

 

「畏まりました」

 

 ユリは来ないで、ルプスレギナとシズとナーベラルの背中を押した。

 だるまさんが転んだ、を教えると、六人は戦術の説明でも聞くように、真剣に聞いた。子供の遊びだぞ、これ。ルプスレギナは、途中から足を踏み替えている。

 

「では、鬼は」

 

 とアルベドが言って、そこで言葉を切った。

 

「鬼は、モモンガ様に、背を向けることになりますでしょうか」

 

「そうだな。木を見るから、背中は向ける。それが鬼だ」

 

「……わたくしには、できません。御身に背を向けて、御身から目を離して、数を数えるなど」

 

「わたしも、できんせん」

 

「モモンガ様の背後から近づく、というのも、私には」

 

 ナーベラルだった。

 

「不敬かと」

 

「ただの遊びだ」

 

「はい。不敬かと」

 

「仕方ないな。俺がやる。鬼は楽なんだ、数えるだけでいい。ナーベラルは、やりたくなければそこで立っていていいぞ」

 

「立っております」

 

 悟は木に額を寄せて、目を閉じた。樹皮が痛い。鬼は楽だと言ったのは、自分だ。

 

「だーるーまーさーんーがー、こーろーんーだ」

 

 振り向いた。

 六人が止まっていた。

 アウラは右足を上げたまま。シャルティアは日傘を傾けたまま、ドレスの裾も揺れない。アルベドは一歩を踏み出した形で、微笑みも崩さない。ルプスレギナは両腕を前に出した妙な形で、笑いをこらえている。シズは、最初の場所に、最初の形で立っていた。一歩も出ていない。ナーベラルも元の場所で、言ったとおりに立っているだけだった。

 六つの石が草の上に立っている。

 風が吹いた。草が揺れて、木が揺れて、シャルティアの銀の髪だけが風に流れた。

 

「動いたっ」

 

「動いておりんせん!」

 

 シャルティアの声が森に跳ねた。

 

「髪が動いてたぞ」

 

「髪はわたしではありんせん。風でありんす」

 

「大人げないですよ、モモンガ様」

 

 とアウラが言った。足はまだ下りていない。

 

「風でございます、モモンガ様」

 

 アルベドまで言った。ルプスレギナの肩が、笑いで揺れた。

 

「ルプスレギナ、動いた!」

 

「っ……いまのは、揺れただけっす。風っす」

 

「お前のは風じゃない。笑ってただろ」

 

「……はいっす」

 

 ルプスレギナが悟の隣に来て、立った。来るときの足取りが、やたらと軽かった。

 

「分かった分かった。風は厳しすぎたな」

 

 二度目に首を回すと、アウラとシャルティアとアルベドが、さっきの倍の距離を縮めた形で止まっていた。いつ動いたのか分からない。シズは、まだ最初の場所にいた。

 

「シズ。来ていいんだぞ」

 

「……了解」

 

 言っただけで、その場にいた。

 三度目は、唱え終わる前に、背中に何かが触れた。指の先だ。軽い。服の上から、肩甲骨のあたりに一本。振り向くと、アルベドがいた。真後ろに。

 

「触れました! モモンガ様の、お背中に、この指で! ──ゴホン。触れました」

 

「どうやって?」

 

「歩いて、まいりました」

 

「俺が唱えはじめたとき、あそこにいたよな」

 

 悟は十歩は向こうの草を指した。

 

「歩いて、まいりました」

 

 草地の端まで逃げていたのは、アウラだけだった。アルベドは、真後ろから一歩も動かない。

 

「触ったら、逃げるんだ」

 

「モモンガ様の御側を離れる決まりは、聞いておりません」

 

「いま、言った」

 

「……では、次から」

 

 悟は一歩も歩かずに、アルベドの肩に手を置いた。

 

「捕まえたっ。次の鬼は、アルベドだ!」

 

 アルベドの微笑みが、ほんの少し引きつった。

 

「……木を、見るのでございますね」

 

「見る」

 

 アルベドは木のところへ行くまでに、三度悟を見た。木の前に立つと、背中ががちがちになった。

 

「統括殿の背中を眺めるのは、いい気分でありんすねえ」

 

 シャルティアが、日傘の下でころころ笑った。

 

「だるまさんがころんだ」

 

 一息で言って、アルベドが振り向いた。早い。悟は、上げた足を下ろしかけたところだった。

 

「モモンガ様。動いておられました」

 

「いやいや、上げただけだ、足を。ちょっとだけ。な?」

 

「上げておられました」

 

「捕まったか」

 

「いいえ。モモンガ様が近づかれる必要は、ございません。わたくしが、まいります」

 

 アルベドは木を離れて、悟のほうへ歩いてきた。

 

「鬼が来ちゃだめなんだって」

 

 アウラが草地の端で言ったが、アルベドは止まらなかった。悟の前まで来て、跪いた。

 

「捕まえました」

 

「それは、鬼が捕まるほうだな」

 

「鬼で、構いません」

 

「ずるいでありんす!」

 

「それ、モモンガ様のとこに来たかっただけじゃん」

 

 アウラが戻ってきて、アルベドの後ろで天を仰いだ。アルベドは跪いたまま、首だけで振り返った。

 

「何か?」

 

 木の下でセバスが、顔を横に逸らした。悟は笑いを手のひらで押さえた。押さえきれなくて、肩が揺れた。

 

「よし、そろそろ終わりにしようか。疲れた」

 

 悟は敷物に横になった。アウラが隣に座って、草を一本抜いて、口にくわえる。

 

「行儀」

 

 とシャルティアが言った。アウラはくわえたまま、だってモモンガ様が寝ころんでるし、と口をとがらせてから、悟の顔を窺った。

 

「くわえてていい。今日は、そういう日だ。行儀は明日からでいい」

 

 列で、ルプスレギナが同じことをしようとして、ユリに草を取り上げられた。

 空がある。マーレの雲が増えていて、端が白く、真ん中が薄い灰色で、ゆっくり動いている。草の匂いがして、どこかでまた鳥のようなものが鳴いた。目を閉じたつもりはなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 開けたとき、空が黒かった。

 黒いレースだ。日傘が顔の真上にあって、その横から黒い翼が半分かぶさっている。上のほうで、声をひそめた言い合いが続いていた。

 

「翼をどけなんし。傘の影の邪魔でありんす」

 

「傘こそ畳みなさい。わたくしのほうが、広く覆えるのだから」

 

 悟が瞬きをすると、傘がさっと離れて、翼が音もなく畳まれた。空が戻った。二人とも、何事もなかった顔をしている。

 足が温かい。見ると、膝から下に白と薄い灰色の毛糸のものが掛かっていた。持ってきた覚えがない。

 

「これは」

 

「……わたくしが」

 

 アルベドは膝の上で指を組んだ。

 

「編みました。モモンガ様がお眠りの時間に、毎晩すこしずつ。目の数を数えておりましたら、ちょうど今日、足りまして」

 

「これを、編んでいたのか」

 

「はい」

 

「ああ、上手だな。目が揃ってる。俺には編めない」

 

 アルベドは俯いた。

 

「くふっ……お、お褒めに、あずかり、くふふ……──失礼いたしました。ありがとうございます」

 

 毎晩どこで編んでいたのかは、知っている。寝台の脇の、灯りを一つだけ残した椅子の上だ。悟はそれは言わずに、編み目を数えた。

 

「アウラにも編んでやってくれ。夜の森は冷えるだろう」

 

「……仰せのままに」

 

 仰せのままに、の前の間が長かった。

 

「いらないです」

 

 アウラが森のほうを向いたまま言った。

 

「わたしは要りんす」

 

「貴方のぶんは、毛糸が足りないわ」

 

「まだ数えてもいないでありんしょう!」

 

 アウラは少し離れたところで、森のほうへ手を上げていた。木立のあいだに大きいものがいる。狼のようなもの。アウラの手が下に向くと、それは木立の奥へ引っこんだ。

 

「モモンガ様が寝てると、見に来るんです。挨拶、させてもいいですか」

 

 悟が頷くと、アウラは口笛を一つ吹いた。木立から、さっきのものが出てきた。草地を横切ってきて、敷物の手前で首を低くした。顔から胸へ、金の筋が走っている。アルベドの腰が浮いて、シャルティアが日傘の柄を握り直した。

 

「大丈夫だってば。この子、いちばんおとなしいの」

 

「フェンか」

 

「覚えてたんですか!」

 

「久しぶりだな」

 

 悟は手を伸ばした。硬い毛で、下が温かい。息が手の下で上がって、下がった。

 

「やっぱり、いい獣だ」

 

「でしょ」

 

 列から、一人が立っていた。シズだった。眼帯でないほうの目が、獣に据わっている。その目を外さずに、一歩出て、そこで足を揃えた。ユリが名前を呼びかけて、呼ばなかった。

 

「シズ、触りたい?」

 

 アウラが言った。シズは答える代わりに悟を見た。

 

「ほら、シズもこい」

 

「……了解」

 

 シズは来て、悟の隣に膝をついて、獣の首に手を置いた。置いた手がしばらく動かず、それから毛の中にゆっくり沈んだ。顔は変わらない。変わらない顔の、手だけが毛の中にある。獣は首を低くしたまま、じっとしていた。

 悟が撫でていたより、ずっと長かった。

 

「シズ」

 

 ユリの声で、シズの手が毛から出て、膝の上に収まった。

 

「……了解」

 

 立って、列に戻る途中で一度だけ振り向いて、獣を見た。獣はアウラの手が下りると木立へ帰っていって、アルベドの腰が元の位置に落ち着いた。

 よっこいしょ、と口から出た。

 

「あ。モモンガ様、いま、よっこいしょって」

 

「言ってない」

 

 体を起こすと、背中が、がさがさ鳴る。

 

「モモンガ様、じっとしててください。背中、草だらけです」

 

 アウラが後ろに回って、背中の草を取る。一本ずつ。髪からも一本。取った草を手の中に集めて、どうするか考えて、自分の服のポケットに入れた。

 

「お鼻が、赤うなっておりんす」

 

 触ると熱い。作り物の日でも、鼻は焼けるらしい。マーレが雲を増やしてもだ。

 

「傘、意味なかったじゃん」

 

「お休みのあいだは、ずっと差しておりんした!」

 

「いや、焼けただけだって。大げさだな、まったく」

 

「ペストーニャに」

 

「いい。明日になれば、落ち着く」

 

 アルベドの目が悟の鼻を見て、指が一本、こめかみに上がりかけた。

 

「空は、そのままでいい。いい天気だ」

 

 指が、下りた。

 日が傾く前に、片づけた。

 ソリュシャンがバスケットの中をのぞいて、アルベドのほうへ顔を寄せた。

 

「残し、なし」

 

 アルベドが頷いた。

 空のバスケットを、三人が同時に見た。

 

「帰りは、あたしが」

 

「行きはナーベラルが持ちんした。帰りはわたしの番でありんす」

 

「軽いものでしたら、わたくしが」

 

 悟は三人が見ているあいだに、持ち手に手をかけた。軽い。来るときの半分もない。

 

「軽いなら、俺でもいい」

 

 全員が、止まった。アウラの手が伸びた形で、シャルティアの口が開いた形で、アルベドは微笑みのまま。列の六人は、立ち上がりかけた形のまま。木の下のセバスまで、一歩踏み出した姿で、止まっていた。

 

「だるまさんは、もう終わったぞ」

 

 悟はバスケットを腕に掛けて、歩き出した。三歩で、ナーベラルが隣に来た。

 

「お持ちいたします」

 

 朝と同じ声だ。持ち手に彼女の手が掛かると、悟の指はひとりでに開いて、バスケットはもう向こうの腕にあった。朝より、うまくなっていた。

 シャルティアは、自分の分を布に包んで、畳んだ日傘と一緒に抱えている。

 

「次は、マーレも連れてきていいですか」

 

 アウラが振り返らずに言った。

 

「ああ。……いいアイデアだ」

 

 背中に、草の匂いが残っていた。アウラが取りきれなかったのが、まだ一本、どこかにあるのかもしれない。

 

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