Gnade ―生者の王―   作:南蛮鉄

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第二章 ご覧いただけますでしょうか

 セバスの手が、襟の留め具を外した。

 首の後ろから重さが消える。執事の腕の上で、ローブはただの黒い布の塊に戻った。留め具は三つあって、三つ目は襟の裏に隠れていた。昨夜の自分に教えてやりたい。

 その下は黒い肌着だ。装備を外したときに表示される初期の肌着で、十二年、見ずにきたものが、今は汗で背中に貼りついている。口が乾いていて、腹の下には、人間の体が朝に出す要求が一つ溜まっている。部屋の奥に使われたことのない設備があるので、使った。

 天井を見た。目が覚めたときに見た模様のうち、一つだけ場所が変わっている。八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)が一体、梁の影に八本の腕を畳んで張りついているのだ。たぶん、ずっとあそこにいた。セバスは天井を見ない。見るほどのものではないのだろう。

 一晩、あれの下で寝ていたらしい。寝言を言わなかったかどうかだけが、少し気になった。

 水は冷たい。両手ですくって顔に当てると、冷たさが目の奥まで届いた。何の匂いもしない水が、ひねればひねっただけ出てくる。それだけのことに、しばらく手を止めていた。

 扉を開けると、昨夜のメイドが昨夜の場所に立っていた。フォス。扉が閉まったときの姿勢と、一つも違わない。

「おはよう」

「おはようございます。お休みのあいだ、異状ございませんでした」

 異状というのは悟の眠りのことらしい。扉の向こうで、朝まで見張っていたのだ。

「え。本当に、一晩じゅう立ってたのか?」

「はい。光栄でございました」

 光栄の使い方が、どこかおかしい。フォスの顔は、本気だった。

「交代は」

「ただいま」

 廊下の向こうから別のメイドが来て、フォスと並んで辞儀をする。

「本日の当番、フィースでございます」

 フォスが下がった。下がる足取りに、一晩立った疲れは見えない。

 フォスのあとに、フィース。次はファンスかな。

 セバスが服を持ってきた。黒くて、簡素で、サイズが合っている。合っている理由は、聞かないほうがいい気がした。

 着替えが終わると、セバスがもう一枚、腕に掛けていたものを差し出した。さっき脱いだばかりのローブが畳まれて、執事の腕に掛かっている。

「お召し物を」

 悟はそれを見た。一時間後に六人が来る。仲間たちが一人ずつ作った者たちが玉座の下に跪いて、顔を上げる。上げた先に、黒い簡素な服の痩せた男が座っていたら、どうなるか。

 御方は御方だ、と彼らは言うだろう。だが悟は知っていた。何を着ているかで、人は人を見る。

 作る。今朝、そう決め直した。まずは、着るものからだ。

「着せてくれ」

 重さが首の後ろに戻ってくる。セバスはローブの上に、頼んでいない毛織の外套を掛けた。悟は文句を言わずに受けた。セバスも、黙っている。

 廊下を逆にたどって、途中から運ばれた道を、自分の足で歩く。息は切れる。今朝は、それを夢のせいにしなかった。切れるたびに、セバスは斜め後ろで待つ。もう一度抱っこを命じたらどんな顔になるかな。そう思いながら足を前に出し続けた。

 

 

   ◇

 

 

 玉座の間は昨夜のままだった。旗と、七色の光と、床の杖。置いておけと言ったから、置いてある。床は磨いてあって、杖のまわりだけ、磨いた跡が避けている。段の下に六人のメイドが並び、玉座の脇にアルベドが立っていて、悟が入ると全員が礼をした。玉座に座る。石の硬さが腿の裏に戻ってくる。

「モモンガ様」

 アルベドが言った。

「次にお疲れの際は、このアルベドが、お運びいたします」

「い、いや! 歩ける!」

 アルベドは微笑んで、話をそこで終えた。

「守護者が揃いますまで、しばしお待ちをいただきます。そのあいだに、プレアデスに名乗らせてもよろしいでしょうか」

「う、うむ。……ああ、頼む」

 眼鏡の娘から順に名乗った。ユリ・アルファは固い声で。ルプスレギナ・ベータの声は大きくて、ユリに横目で一度見られて肩が縮んだ。ナーベラル・ガンマは名前だけ。シズ・デルタは機械のように正確に頭を下げ、ソリュシャン・イプシロンは微笑み、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータは甘く語尾を伸ばした。

 作った人の名前を、悟は全員言える。素顔は分からないけれど。

「覚えている。全員の名前も、作った人の名前も」

 エントマが小さく「わあ」と言いかけて、ソリュシャンに袖を引かれた。

 大扉が開く。最初に来たのはシャルティアだ。走ってきたのに息ひとつ乱れず、玉座を見ないまま歩いて、段の下で膝をつく。アウラとマーレが揃った角度で続き、コキュートスが入ると空気がもう一段冷えた。最後のデミウルゴスは、扉のところで眼鏡の位置を直してから歩いてきた。

 アルベドが段を降りて、列の中央に加わる。六人が跪いている。誰も、まだ、悟の顔を見ていない。シャルティアが跪いたまま、半歩前に出た。

 五人が、階層の順に名乗った。御身の前に、が五回続いた。

 最後に、アルベドが一歩進み出る。

「守護者統括、アルベド。御身の前に」

 そして、床に向かって言った。

「第四階層守護者ガルガンチュア、及び第八階層守護者ヴィクティムを除き、各階層守護者、御身の前に平伏し奉ります。……ご命令を、至高なる御身よ。我らの忠義の全てを、御身に捧げます」

 全て、と来た。全部か。全部らしい。

 返す言葉は口の中にあった。十二年、言った覚えがないのに、ある。映画か何かで見た言葉だ。

「……面を上げよ」

 声は震えた。震えたが、言えた。

 顔が、六つ、一斉に上がる。六対の目が、悟の顔を見た。

 誰も、何も言わなかった。着るものから作った甲斐が、あったのかどうか。眉をひそめる者は、一人もいない。シャルティアの目は潤み、アウラは口の端を上げ、マーレは姉の肩を見ていた。

 痩せた人間が神の衣に毛織の外套を重ねて石の椅子に座っているのが、全員に見えている。

「ご命令を、モモンガ様」

 アルベドが言った。昨夜、彼女に言ったことを、全員に言う。そこは決めてある。夢だと思って言った言葉を、今朝は作った声で。

「誰も、外に出るな」

 六人は動かない。聞いている。

「守護者は、誰も外に出すな。外がどうなっているか、分からない。見るなら、鏡だ。……分かるまで、動くな」

 デミウルゴスが、顔を半分上げた。

「畏れながら、モモンガ様。不肖このデミウルゴス、そう仰せになるものと思っておりました。鏡による簡単な調べはすでに済ませてございますが、出るな、との仰せでしたので鏡だけで、影は一体も出しておりません。ご報告させていただいてもよろしいでしょうか」

「……あ、ああ。うむ。聞こう」

「ナザリックの周囲が変わっております。墓地の向こうにあったはずの沼地がなく、草原と、その向こうに森がございます。夜のあいだ鏡で空を見ておりましたところ、見覚えのない並びの星がございました。そして夜が明けまして──空が、青うございます」

「青い」

 ユグドラシルのナザリックはヘルヘイムの沼地の底にあって、空が青くなったことがない。

「どう見る」

「ナザリックごと、どこかへ運ばれたものと見ております。運んだ者も運ばれた先も不明でございますが、ただ一つ確かなことがございます。ナザリックの中は、一つも変わっておりません」

 一つも変わっていない。悟は自分の手を見る。変わったものが一つ、ここにある。それをデミウルゴスは数えていない。数える場所に入っていないのだ。

「……分からない」

 正直に言った。言ってから、しまったと思う。支配者は分からないと言わない。新しい部署の初日の朝礼で、課長が分からないと言ったようなものだ。だがデミウルゴスは深く頷いた。

「分からぬからこそ、お確かめになる。承知いたしました。分かるまでは、誰も動かぬようにいたします」

「む!? ……う、うむ。そのとおりだ。分からないなら、確かめる。それが、順序というものだ」

 助かった。

 列の中央で、アルベドだけがデミウルゴスのほうを向いていない。こちらの顔を見ていた。

 シャルティアが身を乗り出す。

「モモンガ様。わたしが外を見てまいりんす。外が何であろうと、わたしなら半刻で──」

「出るなっ」

 言った声が思ったより強い。シャルティアは言いかけた口を閉じて、頭を下げた。角度が他の者より深い。アルベドが続けた。

「昨夜のご命令どおり、全階層に通達済みでございます。何人たりとも、モモンガ様のお許しなく、ナザリックの外へは一歩も出さぬ、と。……昨夜、お許しをいただきましたとおり、御身の安全を、第一といたします。外のことは、その後に」

 昨夜と同じ言葉を同じ角度で言っている。お許し、という言葉が一つ増えている。好きにしてくれ、と言った口と、もういい、と振った手を、悟は思い出した。

「う、うむ。分かった。では、鏡で見よう」

「遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモート・ビューイング)は、お部屋に運ばせます。玉座の間よりも、お体に楽でございましょう」

 守護者たちが立った。デミウルゴスが先に扉へ向かい、コキュートスが続く。シャルティアだけが立たない。

「モモンガ様。鏡をご覧になるのなら、わたしもお傍に控えとうありんす」

「シャルティアは一階層に戻って、入口を見てなさいよ。さっき出たいって言って断られたばっかりじゃん」

 アウラだ。立ったまま、半分振り向いて言う。

「ぬしに言われる筋はありんせん。チビすけは黙って、弟の手でも引いて帰りんせ」

「……じゃあ言うけど。モモンガ様の前で胸を張るの、やめなさいよ。何枚重ねてるの、それ」

 シャルティアの白い顔が、もっと白くなった。

「わた……わらわが言ったのは背丈のことでありんす! 背丈は見れば分かるでしょ!」

「胸だって見れば分かるわよ」

「騒ガシイナ」

 扉の手前で、コキュートスが振り向いていた。顎から白いものが落ちる。

「モモンガ様ノ前ダ。遊ビスギダ」

 二人が同時に黙って、同時に玉座を見て、同時に腰を折った。

「も、申し訳ございません」

「……すみません、モモンガ様」

 悟は口を結んだ。口の端が勝手に動くのを、腹に力を入れて止める。

「……ごほん」

 この二人を作った二人は、現実では姉と弟だった。ギルドの通話でしょっちゅうこういう声を出していて、周りが笑って、誰かが「騒がしいな」と言う。姉弟のことはどちらの設定文にも書いていない。書いていないのに、作った人の分だけ似るのだ。

 胸のどこかが、少しだけ緩んでいた。

 シャルティアが深く一礼して扉へ向かいかけたのを、アルベドが呼び止めた。

「シャルティアは、お部屋に。外へ出る者が要るなら、最初に出るのは貴方よ」

 シャルティアがアウラを見て、勝ち誇った顔をした。アウラがマーレの手を引いて出ていく。すれ違いざま、二人はまだ何か小さく言い合っていた。デミウルゴスは扉のところで待っていて、微笑んで、二人を先に通した。

 

 

   ◇

 

 

 部屋に戻ると、鏡はもう壁に立てかけてある。アルベドは扉の脇に、シャルティアはその隣に控えた。遠隔視の鏡。人の背丈ほどの鏡面が灰色に曇っている。悟はその前に立って、手を伸ばした。ゲームでは意思で動かした。

 動け、と思う。曇りは曇りのままだった。手のひらをかざして、横に払ってみる。動かない。

 背中にセバスの気配がある。何も言わずに待たれているのが、一番きつい。

「……えー、ごほん。セバス」

「はい」

「お前が動かしてくれ。私は見るだけでいい」

「畏まりました」

 執事の指が鏡面をなぞると、曇りはあっけなく晴れた。草原だった。

 緑の草が風に倒れ、また起き上がる。遠くに森の線がある。空は青く、雲が白い。東京の空は生まれてから青かったためしがないし、ユグドラシルの空は作り物だ。この空は、どちらでもない。

「青いな」

「はい。青うございます」

 セバスの声が、デミウルゴスの言い方と同じだった。それが少し可笑しかった。

「森のほうへ」

 景色が流れる。森のはずれ。川。丸太を一本渡しただけの橋。それから、畑。人の手で区切られた四角い土地が、森に沿って並んでいる。

 畑か、と思った。誰かが耕して、誰かが区切った。区切りの線が、まっすぐではない。歩いて決めた線だ。

「もう少し、先へ」

 畑の向こうに、屋根が見えてきた。藁で葺いた屋根が、二十ほど。壁は土か木で、どれも低い。どこかの屋根から、煙が細く一本上がっている。

 村だ。

 電線がない。看板もない。道は踏み固めた土で、その端に井戸が一つある。井戸。教科書の挿絵でしか見たことがない。

 ゲームの中の村なら、何度も通った。決まった場所に決まった顔の住人が立っていて、話しかければ決まったことを言う。この村も、そういうものかもしれない。

 鏡の端で、何かが動いた。

 鶏だ。土をつついて、首を振って、またつつく。その後ろを、人間が一人歩いていく。肩に何か担いで、空いたほうの手で首の後ろを掻いた。

「人がいるっ」

 言ってから、自分の声が高くなっているのに気づいた。

 男が畑で腰を伸ばす。女が井戸から水を汲んで、桶を二つ天秤棒で担ぐ。子供が鶏を追って、鶏のほうが速い。井戸のそばでは年上の娘が小さな妹の髪を結ってやっていて、妹が動くたびに娘が何か言い、妹が首をすくめる。

 声は聞こえない。それでも、その娘が何を言っているかは分かる気がした。じっとしていなさい。そういうことを言う顔だ。

 ユグドラシルのどこにもいなかった、ただ生きている人間が、ただの村でただの朝を過ごしている。

 娘が妹の頭をぽんと叩いて、立ち上がった。

 その背後の家から、煙が上がった。屋根が燃えている。

 鎧を着た男が燃える家の前を歩いていた。見覚えのない鎧だ。剣を持っていて、剣は濡れていて、足元に動かないものが倒れている。別の家からも、煙。別の男。別の剣。

 井戸の前で、女が倒れていた。背中に矢。その隣に男。喉。動かない。

 思わず鏡から目を伏せた。いやなものを見てしまった。首を持ち上げ、また視線をもとに戻す。

 今度は子供が走っている。

 悟は鏡に手を伸ばして、引っ込めた。

 ──骨の王なら、行けた。

 〈転移門(ゲート)〉を開けば、一歩で村の中に立てる。鎧の男たちは骨の王を見た瞬間に終わって、魔法を一つ選ぶ時間さえいらないだろう。

 今の悟には、開く門がない。行く必要もない。

 鏡を伏せようと手を伸ばした。その鏡の横には、セバスが立っていた。鏡面に指を添えて、次の言葉を待っている。その背中に、一瞬、白い鎧が重なった気がした。見えるわけがない。白髪の執事が立っているだけだ。

 鏡の中で、少女が走っていた。井戸のそばで妹の髪を結っていた娘だ。まだ大人になりきっていない。妹の手を引いて、村の外へ、森へ。畑の畝につまずいて妹が転び、少女が引き起こす。背後から鎧の男が追ってくる。走ってはいない。走らなくても、追いつく。

 少女が転んだ。妹を抱えて起き上がろうとして、起き上がれない。

 男が、剣を上げた。

「助けろ!」

 自分の声だと分かるまでに、間があった。

「お任せください」

 アルベドだった。悟の声の終わりに重なるほど早い。彼女は振り向きもしない。空中に向かって、一言だけ。

「シャルティア。鏡の村。今」

 シャルティアが鏡を一目見た。次の瞬間、黒い門が開いて、閉じた。もういない。

 ──待て。

 言ってしまった、と思ったのが一拍遅かった。外に出るな、と昨夜命じ、今朝も命じた口で、外へ出せと言ったのだ。あの村がどこの誰の村かも、鎧の男たちが何者かも知らない。安全を取るなら、出す場面ではなく、鏡を消す場面だろう。

 取り消す言葉を探しているあいだに──

 鏡の中で、男の剣が、振り下ろされる途中で止まった。止まって見えた。剣を持っていた腕が、肩から先、ない。男は自分の腕のあった場所を見て、何かを言おうとして、言えなかった。首が、ついていない。

 少女は目を閉じていた。目を開けたとき、男は地面にあった。二つに分かれて。

 白いものが、鏡の端を横切る。一度。二度。燃える家の前の男が崩れた。井戸の向こうの男が崩れた。畑のほうへ逃げようとした男が、逃げる前に崩れた。村の中の鎧は、悟が数えるより早く、全部、もう地面にある。

 一分も経っていない。

 取り消す言葉は、もう要らない。外に出るなという命令を、アルベドは一秒も惜しまずに捨てたのだ。

 少女が妹を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がって、周りを見る。死んだ男たちと、燃える家と、倒れた村人と、生きている村人。生きている村人が一人ずつ家の陰から出てきて、何が起きたのか飲み込めない顔をしている。老人が一人、膝をついて、空に向かって何かを言った。少女は空を見なかった。妹の顔を見て、それから自分の手を見ている。

 鎧の男たちが崩れるのを見ているあいだ、何も感じていなかった。鏡の向こうの崩れ方は、十二年、画面の向こうで見てきた崩れ方と同じだ。少女が立ったときだけ、何かが動いた。

 名前は知らない。

 アルベドが、また空中に向かって言った。

「……終わった。十二。一人も逃さず。……姿は、見せていない。そう。血の狂乱は……ええ、大丈夫ね。ご苦労様」

 アルベドは悟に向き直り、膝をついた。

「先のご命令よりも、今のご命令を優先いたします。モモンガ様のお言葉は新しいほうが上でございますから、出るな、は、助けろ、に譲りました。……モモンガ様の御慈悲でございます」

 人間の村を助けた。それを彼らがどう見るか。甘い、と見るか。弱い、と見るか。慈悲、と彼女は言った。それなら、それでいい。

 今朝は息を数えて喋っていたのに、助けろ、は数えずに出て、そのまま通ってしまった。

 アルベドは、まだ膝をついている。彼女が行かなかった、と悟は気づいた。

「アルベド」

「はい」

「お前は、行かなかったんだな」

「御身の傍を、離れません」

 即答だった。

「外へ出る者は、他におります。モモンガ様のお傍に立つ者はわたくしで、それはわたくしにしかできないお役目でございますから……くふ。失礼いたしました。順番を、違えません」

 シャルティアが危ないかどうかは、その順番のどこにも入っていない。書いたのは、あの一行だけ。

 シャルティアが部屋に来たのは、それから間もなくのことだった。扉の前で膝をついた姿は今朝のままで、黒いドレスに白い肌、血の一滴もついていない。十二人を一分で地面に並べてきた者には見えない。頬がほんの少し赤い。

「モモンガ様。ご命令、果たしてまいりんした。村の鎧は一つ残らず、わたしの手で」

 声が弾んでいる。ペロロンチーノさんが作った娘だ。設定文を読んで顔を覆ったものだ。その娘が悟の一言で村へ行って、人を殺して、帰ってきて、褒められるのを待っている。

「怪我は、なかったか」

 訊いてから、訊く相手を間違えたと思った。シャルティアは首を傾げる。

「わたしの、でありんすか?」

 ゆっくり一度、まばたきをした。

「……一匹が矢を放ちんした。当たってはいませんし、当たったところで、どうということはありんせん。わたしの体は、矢の一本で止まるようにはできておりませんから」

「……よくやった」

 言った瞬間、シャルティアの目が輝いた。彼女は深く深く頭を下げて、下げたまましばらく上げなかった。怪我を訊かれたことはもう彼女の中にないように見える。褒められたことだけが、そこにある。

 少女が立った。褒めたのはそこだ、ということにする。

「モモンガ様」

 デミウルゴスの声だ。部屋の入口に、いつの間にか立っている。

「失礼いたします。鏡を、少し広くご覧いただけますでしょうか」

 セバスが鏡をなぞった。村が小さくなり、周りの森と草原が入ってくる。村の北、森に近い小さな丘の上に、人がいた。三十、四十。鎧ではなく揃いの服で、何人かは杖を持っている。全員が、燃える村を丘の上から動かずに見ている。

「村を焼いた者どもを、ずっと見ておりました。騎士の鎧はおそらく偽りで、丘の上の揃いの服が本隊、指揮をしていた側かと存じます」

 まだ誰も殺していない。見ていただけだ。見ていただけの人間を、どうするか。骨の王なら、どうしたか。分からなかった。

 殺せ、とは言えない。見逃せ、とも言えない。口が開いて、閉じた。

「御身の安全のうちでございます。見ていただけの者が、次も見ているだけで済むとは限りませんので」

 デミウルゴスが、胸に手を当てる。

「お任せください」

 もういい、と手を軽く振った。昨夜と同じ振り方だった。

 デミウルゴスが出ていくと、アルベドが、鏡の前に立った悟を下から見上げている。

「お掛けになられては。お立ちのまま、ずっとご覧になっておられました」

 言われて自分が立っていたことに気づく。膝が震えている。椅子に座った。沈んだ。

 鏡の中では村人が、自分たちの側の死体を運びはじめていた。少女は妹を抱いたまま家の前に座っている。ただ、座っている。

「鏡を」

「はい」

「……消してくれ」

 セバスが鏡面をなぞると、村が灰色に沈んで、消えた。部屋が静かになる。

「モモンガ様」

 アルベドが言った。

「あの村は、以後、どのように」

「見ていてくれ」

「見る、と」

「鏡で。誰かに。……村が、どうなるか。それだけでいい」

「畏まりました。プレアデスの一人に任せます。毎朝、鏡で。村がどうなったかだけを、ご報告に添えます」

 それで決まった。毎朝、誰かが鏡であの井戸を見る。見るだけなら、この体にもできる。

 悟は椅子の背に体を預けた。体が重い。少女が立ち上がったときに張っていたものが切れて、その後にこれが来たらしい。

「少し、休む」

「お休みくださいませ」

 アルベドの声が遠くなる。ベッドまで歩いたか運ばれたか覚えていない。毛織の外套が肩に掛かった。セバスの手だ。

 目を閉じる前に、鏡の中の少女の顔が浮かんだ。妹を抱いて自分の手を見ていた顔。

 昼の眠りは夜の眠りより来るのが早かった。

 

 

   ◇

 

 

 御方がお休みのあいだ、第九階層の一室に、守護者が集まっていた。

 集めたのはアルベドだった。統括として、これからの計画を立てる。その前に、一つだけ、先に出る話があった。

「よくやった、と仰いんした」

 シャルティアが、部屋に入ってから三度目の同じことを言った。

「聞いたわよ。三回」

 アウラが言った。椅子からぴょんと降りて、少し背伸びをして、大げさな手振りでシャルティアの頭を撫でる。

「よかったね、えらいえらい」

「な、なにをしんすか、チビすけ!」

 白い耳の先まで、さっと赤くなった。払いのけた手が、そのあと行き場をなくしている。

「……まったくもう。では、四回目を聞きなんし。よくやった、と。わたしに」

「四回目は、もう結構よ」

 アルベドが言った。翼が開きかけている。

「そのお声なら、わたくしは御身のお傍で伺っておりましたもの。繰り返してもらわなくても、覚えているわ」

「ぬしは、行かなかっただけでありんしょう」

「行かなかったのではないわ。離れなかったの」

 シャルティアは鼻を鳴らして、それから言った。

「……それと」

 シャルティアの声が、そこで少し変わった。

「怪我はなかったか、と」

 言ってから、自分の両手を見た。血は一滴もついていない。ついていないのに、見た。

「御方が、訊かれんした。十二を並べて戻ったわたしに、一番最初に。……この身の、怪我を」

「それが?」

 アウラが促す。

「それが、でありんす。分かりんせんから、言っているの。わたしの怪我など、御方が数えるものではない。数えるものではないのに、数えられた」

「お言葉が何のためかを、わたくしたちが量るのではないわ。量ろうとした時点で、御方の上に自分を置いている」

 アルベドは立ったまま言った。

「量るのは、お言葉をどう形にするか。助けろ、と仰った。だからシャルティアを出した。村の者に姿を見せず、一人も逃さず、御方が鏡から目を離されるより先に。怪我はなかったか、と仰った。だから──」

 そこで言葉を切った。

「──御方に、二度とそれを訊かせない。そのやり方を、まだ決めていないだけ。……至高の四十一人の頂点にして、お一人になられても、この地を保たれた御方。慈悲深き君。わたくしが伝えるのは、御方のお言葉だけ」

「慈悲」

 デミウルゴスが、静かに首を振った。

「私は、別のものを見たね。御方は、分からない、と仰った。至高の御方が我々の前で、分からない、と仰ったのだ。あれは命令だよ。君たちもそう受け取っただろう? 分かれ、と仰ったのだ。外のことを、我々が御方に代わって分かれ、と」

「分かるのはいいけど。御身の安全って、どこまでのこと? 壁まで? 森まで? それとも、あの村まで入るの?」

「御身に近づくもの、すべて」

 アルベドの答えに、間はなかった。

「……昨夜、好きにしてよい、と御方は仰せになったわ」

 デミウルゴスが頷いた。

「そういうことだ。御方のお言葉は、一つも違えていない」

「そ、そう、ですね……」

 マーレが姉の袖を握ったまま言った。

「ぼ、ぼく……御方が、ずっと、ぼくたちの顔を見てて……一人ずつ……。ぼくなんかが、お眼鏡に、かなってるのか、って……」

「見てたね」

 アウラが肘掛けに顎を乗せて言う。

「あたしたちの顔を、一人ずつ。何か探してるみたいに。……御方、寒そうだった。外套、着てた」

「震エテオラレタ」

 コキュートスだった。部屋の隅に立っていて、立っているだけで、その一角が白かった。

「寒サデハナイ。武人ニハ分カル。アレハ恐レダ。何ヲ恐レテオラレルノカハ、私ニハ分カラヌ。……ダガ、恐レナガラ、命ジラレタ。出ルナ、ト。震エル声デ。助ケロ、ト。私ハ、アレヲ、強サダト思ウ」

 誰も、それに答えなかった。

「御方が今のお姿をお選びになった理由は、我々には推し量れない」

 デミウルゴスが言った。

「推し量れないことを推し量ろうとするのは、不敬というものだ。御方は御方だ。……ただ一つだけ、考えておくべきことがある。御方は今、血の通うお体でおられる。アルベド、君が一番近くで見ただろう。頬の色、手の震え。……そういうお体だ」

「それが、何か」

「それならば」

 デミウルゴスは続けた。

「人の身は傷つく。矢の一本で、刃の一つで。……だから、我々がお守りする。一本も御身に届かせぬように。他に、することはない」

「不敬ヤモシレンゾ、デミウルゴス」

 四本の腕は、どれも動かない。

「御方ノ御身ヲ、傷ツクモノトシテ語ッタ」

「語った。語らねば、守れない」

 コキュートスの顎が鳴った。鳴って、止まった。

「……ソノ通リダ」

 アルベドが翼を畳んだ。

「いいでしょう」

 部屋の中央に立った。立った瞬間、守護者たちの顔が、統括に向ける顔に変わった。頭が下がる。跪きはしない。跪くのは御方にだけだ。

「では、これからの計画を立案します。第一に──」

 誰も、その先を疑わなかった。

「御身の安全」

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