Gnade ―生者の王―   作:南蛮鉄

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第三章 お口に合いましたか

 メイドの手が、膝の上に白い布を広げた。

 ナプキンだ。広げる指は、悟の膝に一度も触れない。

 鏡の中の村で、あの少女が立ち上がったのは今日のことだ。鏡を消して眠って、覚めたら夕刻だった。起こしたのは腹だ。腹に穴が開いたような感じがして、その穴が鳴る。栄養食を買いそびれた夜の空腹なら知っているが、これはあれより大きい。

 部屋にはセバスとメイドが四人いる。当番のフィースが扉の脇に立ち、給仕の二人はシクススとフォアイルと名乗った。ファンスでは、ない。シクススは金の髪を背中まで垂らしていて、フォアイルは短い緑の髪で、裾が他の娘より短い。たぶん自分で詰めている。

 扉の内側に、もう一人。犬の顔をしたメイドだった。顔の真ん中に縫い跡が一本走り、袖口からのぞく手まで白い毛に覆われている。メイド長のペストーニャ。あらためて見ても、ナイスなデザインだ。

 その静かな部屋で、また腹が鳴った。思ったより、ずっと大きな音だった。

 給仕の二人の手が止まる。フォアイルの指だけが、スカートの脇で震えていた。

 悟は苦笑した。二人は笑わない。ペストーニャの耳の先が動いた。

「……あー。その、なんだ。腹が、減った」

 言ってしまえば、情けなさは半分になった。二人の顔がほどける。

「料理長が、すでに支度を。……お目覚めの前から、扉の外で待っておりました」

 セバスが扉を開けると、廊下に台車があった。銀の蓋の皿が三つ。その後ろに、上半身裸の豚鬼(オーク)が立っている。腹の入れ墨は新鮮な肉と読めて、感嘆符が二つついていた。自虐なのか判断に困る。

 シホウツ・トキツ。料理長だ。作った人は肉が好きで、好きすぎてこうなった。なぜ。

「料理長。お召し物を」

「肉を焼く者に召し物は要らん! 火の前で着る物など焦げるだけだ!」

 どんな理屈だ。

「モモンガ様のお部屋でございます」

 豚鬼は敷居をまたがずに、首だけを伸ばした。

「モモンガ様! 第六階層の牛でございます! アウラ様の森で育てた牛を三日かけて寝かせました! 表面を強火で中はほんのり赤く塩のみ! 塩のみでございます! 肉は塩に限ります!」

「三日? 来たのは、昨夜だぞ」

「いつ至高の御方がお召し上がりになってもよいよう肉は常に三日先まで寝かせてございます! 毎日でございます! 毎日寝かせて毎日入れ替えて今日ようやく出せたのでございます!」

 ……重い。肉も、気持ちも。

「お、おお……。そ、そうか。ありがとう。楽しみにしている」

「ははぁ! お口に合わなければすぐに焼き直します! 次はもう少し火を通して──」

「料理長」

 セバスが扉を閉めた。

 蓋が取られる。丸いパンと、湯気の立つ椀と、肉。

 肉は手のひらより大きな塊で、表面がこんがりと色づき、切り口がほんのり赤い。脂が光っている。湯気に匂いがある。

 悟は本物の肉を食べたことがない。

 二一三八年の東京で、肉はアーコロジーの中の食べ物だった。栄養食には肉の食感を真似た部分があって、それが肉だった。ユグドラシルの料理は能力の数値を一時上げるだけのアイテムで、味はない。法律で消されている。匂いの段階で、もう知らないものだった。

 ナイフを右手で取る。自分の手で。

 刃が肉に入ると、しっかりした手応えがあった。切り口から汁が出る。フォークで刺して口に入れて、噛んだ。

 塩。

 最初に来たのは塩だ。塩なら知っている。だがその後ろから来たものを、知らなかった。

 腕の内側が、粟立った。

 熱い。柔らかい。噛むと汁が出て、その汁は塩とも甘いのとも違う。言葉がない。気づくと、もう次を噛んでいる。

 二口目を切って、噛む。三口目を切ろうとして、ナイフが止まった。

 皿の上に何かが落ちた。汁が跳ねたのだと思う。もう一つ落ちた。上からだ。自分の目から。

 理由は分からない。肉を食って、泣いた。拭こうとしてナイフを持っていることに気づき、置いて、手の甲で頬を擦る。

 扉が開いた。廊下にアルベドが立っていて、その背中にデミウルゴスの手がある。手が彼女を軽く押し、彼女が一歩入ると、デミウルゴスは扉の陰に消えた。

 シクススとフォアイルが固くなっている。フィースが目元を押さえ、ペストーニャの耳が後ろに倒れた。

「モモンガ様が、喜んでおられるのよ。人の身の涙は、喜びでも出るものと聞いているわ」

 アルベドが言うと、二人の肩から力が抜けた。ペストーニャの耳も戻る。

 当たっている。本人より先に、名前をつけられた。

 アルベドが近づいてくる。手に白いハンカチ。差し出すのかと思ったら差し出さずに、そのまま悟の頬に当てた。

 近い近い近い。

 金の瞳が、腕の長さより近くで微笑んでいる。椅子の背に体を引くと、引いた分だけ彼女が来る。彼女に非はない。悪いのは、あの一行を書いた自分だ。

「い、いや! 自分で拭く。自分で拭けるから。……ありがとう」

 アルベドはハンカチを離して、その手を胸の前で握った。

「で、では、せめてお口元だけでも、わたくしが……いえ、お肉を、お切りするところから──失礼いたしました」

「いやいや! そこまでしなくていい。肉くらい、自分で切れる。切れるから」

 アルベドは一歩下がって、口元に手を当てた。

「くふふ」

 困っている顔を、照れている顔と読んだらしい。訂正は、しないでおく。

 肉に戻った。三口目は、うまかった。

 扉が、まだ細く開いている。隙間の向こうに料理長が立っていた。止められたまま、帰っていなかったらしい。腕を組んで仁王立ちで、御方が肉を口に運ぶのを見ている。

 四口目を噛んでいるとき、豚鬼の顔が歪んだ。牙の生えた口がぐっと閉じて、小さな目から何かが落ちる。拭かない。もう一つ落ちた。

 ユグドラシルでも、彼の場所は厨房だ。彼の皿を、十二年、誰も味わわなかった。四十一人、誰も。

 セバスが、音もなく扉を閉めた。閉まる直前、豚鬼がさっきよりも深く頭を下げるのが見えた。

 

 

   ◇

 

 

 パンをちぎると、中が白くて柔らかい。噛むほど甘い。小麦、という言葉が浮かんだ。知らないのに。

 椀は汁で、野菜が沈んでいる。野菜に味があるのを、初めて知った。

 六口目で穴がほとんど閉じた。皿の上には、まだ半分ある。料理長の目分量は、痩せた人間には二倍だった。

 残せない。三日寝かせて、入口で頭を下げた者の肉だ。悟は給仕の二人を見た。

「……二人とも、腹は減ってないか」

 二人が固まった。

「モモンガ様の、お召し上がりものを」

 シクススの声が小さい。

「私はもう、入らない。残すのは、料理長に悪い。だから、食べてくれ」

「ですが」

「命令だ」

 言ってから、笑いそうになった。命令という言葉を、肉の残りに使っている。

 二人はセバスを見た。セバスの目がペストーニャへ行き、ペストーニャの耳が、一度だけ前に倒れる。

 シクススが新しい皿を持ってきて、肉をきっちり同じ大きさに分けた。一片をフォアイルの皿に、一片を自分の皿に。自分に給仕している。

 二人は皿を手に持って、卓の脇に並んで立った。

「……ん? いや、待て。立ったまま食べるのは、品がな──……ごほん」

 咳で潰した。半分は、もう出ていた。シクススの顔が一段白くなる。

 この部屋の卓には椅子が六脚ある。埋まっているのは、悟の一脚だけだ。

「座ってくれ。椅子なら、ほら、こんなに余ってる」

「お、恐れ多うございます。モモンガ様と、同じ卓になど……」

 シクススの横で、フォアイルが皿を持ったまま首だけで何度も頷いている。

「か、構わん。……むしろ、だな。こういうときは、みんなで食べたほうが楽しいんだ。うん」

 支配者の声は、最初の「か」で割れた。

「他の者も、座ってくれ。……今日だけで、いいから」

「いえ。私は」

 セバスはそれだけ言って、執事の位置を動かなかった。ペストーニャも、フィースも倣う。

 椅子の脚が、床を短く擦った。

 アルベドが座っていた。悟のすぐ隣に。背筋を伸ばして、膝の上で手を揃えて、微笑んでいる。

「仰せの、ままに」

 言ったのは、座った後だった。

 早い。

「モモンガ様の、仰せのとおりに」

 セバスが言うと、二人は向かいの椅子に浅く腰掛けた。椅子の前半分しか使っていない。

「頂きます」

 シクススが皿に向かって、手を合わせた。

「い、いただきます!」

 フォアイルの声は大きくて、言ってから自分で首をすくめた。

 フォアイルは一口が大きい。頬を膨らませて噛んで、目が見る間に細くなる。

「うまいだろ」

「おいし……っ、んっ、んむっ、はい! あ、いえ、その……っ」

 口の中の肉と返事が喧嘩をしている。シクススに横目で一度見られて、フォアイルは肉ごと言葉を飲み込んだ。シクススは小さく切って、きちんと噛む。速さは半分だが、フォークが止まらない。

 フォークを置いたまま、二人の皿を見ていた。自分で食べるより、見ているほうがうまい。

 誰かと飯を食った。最後がいつだったか、思い出せない。会社の机で一人で栄養食を齧るのが、食事だった。

 隣では、アルベドが皿もないのに座っている。そちらは、見なかった。

 皿が空になると、二人はほとんど同時に立って、もう給仕の位置にいる。アルベドも立った。立つのは、座るときほど早くなかった。

 フォアイルが口の汁を手の甲で拭きかけて、慌ててナプキンを使う。

「お口に、合いましたか」

 シクススが訊いた。自分たちが食べ終わってから訊く。順番が逆だ。

「ああ、合った。料理長に、そう伝えてくれ。塩だけで、よかった、と」

「畏まりました。表面を強火で中はほんのり赤く塩のみ。次回も同じでよろしいでしょうか」

「ああ。同じで頼む」

「承りました」

 メモは取らずに、そのまま覚えたらしい。

「ではそう、料理長に伝えておきますわん。……下がりがけに、廊下で泣いているのを拾ってまいりますわん」

 ペストーニャが言った。拾う役も、たぶん彼女なのだろう。

「お食事の回数は」

 セバスが言った。

「料理長がお尋ねでございます。朝、昼、夜、それから夜半に軽いものを一度、都合四度を考えておりますが」

「人の身は、三度と聞いておりますわん」

 ペストーニャが小さく言って、口をつぐんだ。

「料理長は、四度と」

「料理長は、肉の数で数えますわん」

 鈴木悟は、一日に一度だった。忘れれば零度だ。

「朝と夜の、二度でいい。四度も食べたら、体が持たない」

「二度、でございますね」

「ああ。その分、夜を楽しみにしてる、と言っておいてくれ」

 セバスは一礼した。

「全階層に通達いたします。……できますれば、モモンガ様のお手で、紙に」

 紙が来て、悟は一行だけ書いた。端末で育った字は、紙の上だと自分でも読みにくい。セバスはその紙を両手で受け取って、額の高さに掲げた。

 ……食事の回数の紙だぞ、それ。

 皿が下げられた。ペストーニャが医者の目で、悟の腹のあたりを見る。

 部屋の六人が、命令を待っている。

「……今日は、もういい。下がってくれ」

 六人が揃って一礼する。

 給仕の二人が下がると、扉の向こうでシクススが誰かに今日のことを話していた。相手の声が、一つだけ聞こえた。

 ──いいわね。私の番まで、あと何日かしら。

 リュミエール、と呼ばれていた。四十一人で一巡、四十一日に一度、扉の外に朝まで立つ。

 廊下のずっと向こうで、何かが吠えた。豚鬼の声で、言葉の形をしていなかった。

 

 

   ◇

 

 

 悟はベッドに横になった。腹が満ちている。穴がない。

 天井の模様が、今夜も一つ多い。

 明日も、また来る。塩だけで、表面を強火で、中はほんのり赤く。シクススが覚えた。

 顎に手をやると、二日分の髭があった。会社に行かなくても、髭は伸びるらしい。朝になれば、剃刀も来るのだろう。

 

 

   ◇

 

 

 御方が肉を召し上がっていた、その夕刻。デミウルゴスからアルベドへ、口頭で報告が一つ上がっていた。アルベドはそれを、御方のお休みを妨げぬよう翌朝の報告に回し、その報告でも他の事項の後に、一行で済ませた。

 陽光聖典 隊長ニグン以下 捕獲 氷結牢獄

 騎士の分は、処理、痕跡なし。

 翌朝、報告の末尾を読んで、悟は頷いた。そうしてから、口を開く。

「……情報を」

「はい」

「何者か。どこの国か。ここが、どこか。……聞き出せ」

「畏まりました。ニューロニストに任せます。国の名より先のことも、あの者なら引き出せましょう」

 その名前がどんな意味を持つのか、悟は知っていた。

 分かった、と言った。

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