剃刀が、喉を撫でた。刃は皮膚の上を、下から上へ動く。右が三度、左が三度、顎の下が二度。それで終わると温めた布が来て、喉の上に数えて五つのあいだ置かれる。
毎朝同じだ。
最初の朝、刃が触れた瞬間に体を引いた。引いた分だけ刃も引いて、待って、首が戻ると続きをした。今は引かない。
来てから何週目か、数えるのをやめていた。数えようとして分からなくなった朝があって、困らなかった。朝は剃刀から始まる。それで足りた。
ナザリックでも指折りの近接の手が、髭だけを剃っている。東京では安い電動の器具で鏡も見ずに撫でていた。ここでは剃り残しが一本もない。
「お疲れさまでございました」
布が離れてセバスが言う。髭を剃られただけで、お疲れさま、と言われる。こちらは座っていただけだ。
服はベッドの上に広げられている。広げるのはデクリメントというメイドだ。普段は目をきらきらさせて動き回る小さな獣のような娘で、服を広げるときだけ職人の目になる。黒い上着と黒い下。襟の形が日ごとに違うと気づいたのは、三日目だ。それからは、襟で何かを言っているのだと思っている。何かは分からない。
悟は服を選ばない。一度、彼女が広げたものと違う、灰色の軽いものを自分で棚から出した。たまには自分で、と思っただけだ。
彼女は黙っていた。目から一瞬光が消えて、顔が崩れかけた。灰色のものを棚に戻すと、目が戻る。それ以来選んでいない。毎朝いいものだったから、それでいいことにした。
一度だけ、いいものでない朝があった。前の晩に、明日は何を着ればいいかと彼女に訊かれて、お前に任せる、と答えたのだ。答えたときは深く考えていない。翌朝ベッドの上に広がっていたのは赤だった。深い赤に金の糸で模様が縫ってあって、胸に大きな石が六つ、縦に並んでいる。石は六つとも色が違う。
どこの王様だ、と思って、王様だった、と思い直した。
「……こ、これは。えー……これを、着るのか」
「モモンガ様の、御威光を、少しでも、お召し物の上に……!」
徹夜の声だった。デクリメントは扉の脇に立っていた。一晩の全身全霊がこの赤に注がれたのが、見て取れる。悟はそれを見た。それから彼女を見た。
断れば簡単だ。だが任せると言ったのは自分だ。違う、と言えば昨夜の言葉が嘘になる。断られた顔は、灰色の朝に見ている。
「う、うむ! ……うむ。いい色だ。実に、いい。うむ」
着た。
セバスは袖を通し、六つの石を避けてボタンを留めた。鏡に、赤い服の痩せた男。胸に、信号機の倍の色が並んでいる。
……任せる、なんて言うんじゃなかった。
それで扉の脇の目がきらきらしているなら、安いものだけど。
廊下で会う者が一人ずつ足を止めて礼をし、身を起こすときに目が石の上を滑る。
この姿のことを口に出す者は、いなかった。例外は一人だけだ。あの朝、報告に来たアルベドが、扉を開けたきり入ってこなかった。
「……お似合いで、ございます。赤は、モモンガ様の御髪の黒に、それはもう、映えて、映えて、まるで……くふ、くふふ……──ゴホン。全階層、異状ございません」
「そ、そうか。……う、うむ。ご苦労」
夜、デクリメントが服を畳むとき、彼女の手がいつもより長く石の上に置かれていた。次の朝は黒だった。赤はそれきり出てこない。それからの朝も、運ばれてくる服を見ると、まず胸元を探す。探している自分に気づいて、目を逸らした。
着るのはセバスの手だ。袖を通して前を合わせ、ボタンを下から上へ留めていく。セバスの手は、毎日同じ速さだ。
セバスの手を軽く止めて、下のボタンから自分で留めたことがある。一つ目は留まり、二つ目は手間取って、三つ目で指が滑った。
セバスは、急かさない。手も出さずに、三つ目が留まるまで胸の手前で待っていた。残りを任せると、いつもの速さに戻る。悟が使った時間を取り戻そうとはしなかった。
自分で留めるより少しだけ速い。自分の手だと錯覚できる程度に。
◇
ボタンが留まるあいだ、悟は話をする。髭のときは喉が動かせないし、湯では話す気にならない。ボタンのあいだだけ口が空いている。今朝は、二つ目のボタンのところで口を開いた。
「セバス」
「はい」
「お前の創造主の話を、したことがあったか」
手が一瞬止まって、続いた。
「ございません」
「たっちさんは」
と悟は言った。言ってから、何から言えばいいのか分からなくなる。
「……正義の人だった」
セバスの手はボタンを一つ留めた。
「ここではない場所に、守るべき者たちがいる人だった。写真……姿絵を見せてもらったことがある。……いや、見せてもらってはいない。話に、聞いただけだ」
もう一つ留まる。
「私は、あの地に降り立った最初の頃に、知らない連中に何度も殺された。異形種は、そういう扱いだった。狩られる側だった。もう去ろうと思っていた。そこに、たっちさんが来た。白い鎧で。……誰かが困っていたら助けるのは当たり前だと言って、助けてくれた。あれがなければ、私はあの地を去っていた。去っていたら、ナザリックもなかった」
また一つ。
「それが、始まりだった。たっちさんがいなければ、ギルドはなかった。最初に頭に立っていたのも、たっちさんだった。何かがあって、降りた。それ以上は、言わなかった。残った者で決めて、私になった。……それから、去った。皆と、同じように」
最後のボタンが留まった。
セバスは襟を直して、一歩下がる。そのまま頭を下げた。深く、長く。上げたとき、顔はいつもの顔だった。
「お話しくださり、ありがとうございます」
長く話した。セバスは、何も訊かなかった。
扉が開いたのは、その直後だ。ノックはあった。あったが返事の前に開いて、開いた扉の向こうに目出し帽の男がいて、男の両腕にペンギンが抱えられている。黒い蝶ネクタイに黄色い冠羽。
「イー!」
目出し帽の男が言う。それ以外は言わない設定だ。運ばれているほうが、腕の上で胸を張った。
「モモンガ様。本日の清掃について、ご報告申し上げます」
エクレア・エクレール・エイクレアー。副執事長。餡ころもっちもちさんが作った。設定文の最初に、誇りある、と書いてある。
「モモンガ様のお部屋は、本日も私が、自らの手で清掃いたしました。床、壁、天井。天井でございます。メイドどもは天井を忘れます。私は忘れません。それから、奥の設備も」
悟は奥の設備を見ないようにした。
「舐められる、と申し上げても過言ではございません」
「舐めないぞ」
「無論でございます。例えでございます」
例えでも、嫌だ。
エクレアは腕の上で身を乗り出した。
「モモンガ様のお部屋だけは、誰にも譲りません。メイド長にも、統括殿にも。これは私の仕事でございます。私がナザリックを手に入れる日まで、この部屋は私が磨きます」
手に入れる、と言った。餡ころもっちもちさんが冗談で書いて、誰も真に受けなかった一文が、目出し帽の腕の上にある。
悟は苦笑した。声は出さない。本気の仕事を笑うことになる。
「わ、分かった。頼む。……天井も、な」
とだけ言った。エクレアは嘴を上げたまま、目出し帽に運ばれて出ていった。扉が閉まる直前に、またイー、と聞こえる。
入れ違いに、アルベドが朝の報告に来た。〈
「氷結牢獄の、隊長が死にました」
「……死んだ」
「国の名と、少しばかりのことは、ニューロニストが取りました。その先を何度か訊いたところで止まったそうです。……仕掛けがあるようです。何かを訊かれると死ぬ、という類の。残りの幾人かにも同じものがあるものとして、扱っております」
仕掛け。ユグドラシルに、そういう物はなかった。
取れたものを、アルベドは並べた。多くはない。スレイン法国という国があること。神を信仰する国で、神は六つ、六百年前に降りた、ということになっていること。あの村は法国のものではなく隣の王国のもので、法国の者は帝国の騎士の格好をして焼いていたこと。なぜ焼いたのかは、隊長が死んだ先にあった。
六百年前に降りた神が、六つ。
プレイヤーだ。
根拠はない。ないのに、指先が冷えた。六百年前に、自分と同じようにここへ来た者がいたのかもしれない。いたなら、その者たちは、どうなった。
「……ユグドラシルじゃない」
当たり前のことを、いまさら声に出した。アルベドの顔は動かない。
「外は、影で見ろ。
「影は、すでに幾つか。……増やします」
村を助けた日のことだ。もういい、と振った手の先で、影はもう出ていた。
「それから、金貨で呼べる傭兵がいるだろう。隠れるのが上手いやつを、何体か。忍びの類だ。手持ちの金貨で足りる数でいい。壁まで来てから見るのでは、遅い。来る前に見たい」
「畏まりました」
「もう一つ。経験値だ。この世界で入るのか、どう入るのか。影が獲ってきたもので、中で試せ。……私の体で試す前に」
アルベドの目が悟の手に行って、戻った。
「御身で、とは」
「試す前に、だ。先に、他で試せ。デミウルゴスに言ってくれ」
アルベドの目が、また手に行った。今度は戻らなかった。
「……御身でお試しになる日は、まいりません。まいらぬように、他で、いくらでも、いくらでも試させます。百でも、千でも、御身の代わりになるものなら──」
そこで、口を閉じた。
「……畏まりました。デミウルゴスに、そのように」
三つ言って、三つとも通った。稟議も、要らないらしい。
残りの四十人も、来ているかもしれない。それも調べさせるか。……調べる手は、影と忍びだけだ。そんな余裕は、ない。
探さない、と決めたら、少しだけ息が楽になった。会いに行って、去った理由を聞かされるよりは。
◇
午後にお茶会があった。プレアデスのお茶会は定期的に開かれていて、六人で近況を報告し合う。ユリが始めたものだ。
悟に声をかけたのも、ユリだった。ユリ・アルファ。眼鏡の長女。報告の末尾に、モモンガ様がもしお望みであれば、と添えただけだ。添えた声に固さがあった。課長の「たまには、どう?」と同じ種類の固さだ。断れない。
第九階層の小さな部屋。円い卓に七つの席。六つに六人、一つに悟。
給仕はセバスで、茶を注ぐのはソリュシャンだった。金髪の縦ロール。注ぎ方がきれいで、注ぐ音がしない。七つのティーカップに揃った高さで茶が入り、入れ終えると音もなく座る。有能という言葉が座り方にまである。
悟は茶を飲んだ。ちょうどいい。熱くもぬるくもない。卓の真ん中に菓子の皿がある。エントマの袖が、皿のほうへ少しずつ動いている。
「エンちゃん、まだっすよ。お許しが出てからっす」
「……まだ、ですぅ?」
「まだっす」
「さっきから、ずっと、まだですぅ」
ユリが咳払いをした。袖が、元の位置に戻った。
「……ソーちゃん、これ、ぬるくないっすか」
小さくするつもりの声で、小さくなりきっていない。
「モモンガ様に、合わせたわ」
ソリュシャンはカップから目を上げずに答えた。
「あ」
ルプスレギナが固まった。そのままカップを両手で持ち直して、すごい速さで空にする。ユリの眼鏡が動いただけだった。
「ちょうどいいぞ。うむ。私には、ちょうどいい」
言ってから、助け舟になっていないことに気づいた。ルプスレギナのカップは、もう空だった。
人間の舌にちょうどいい温度を、この娘はどこで知ったのか。測ったのだろう。六人は、人間の舌の温度で茶を飲んでいる。
「では、始めます」
とユリが言った。
「本日は、モモンガ様がご臨席です。各自、ご報告申し上げなさい。簡潔に、順に」
ユリは眼鏡を指で押し上げた。
「ユリ・アルファ。第九階層の見回り、異状ございません。……強いて申し上げるなら、廊下の燭台が一つ、芯が短くなっておりました。替えてございます」
議題がない会議ほど、報告は細かくなる。
「ナーベラル」
「ナーベラル・ガンマ。異状ありません。……第九階層の廊下で、羽虫を一匹、潰しました」
黒髪のポニーテール。声が低くて、平らだ。
それは異状ではないのか。
「はいっす!」
ルプスレギナだ。褐色の肌に赤茶の三つ編み。声が部屋の大きさに合っていない。
「ルプスレギナ」
「はいっす! ルプスレギナ・ベータ、報告するっす! 今週も、鏡の村を見てたっすよ! 村、だいぶ直ったっす。焼けた家は建て直してて、井戸のとこの妹のいる娘、元気っす! 毎朝、水汲んでるっすよ!」
悟のカップが、口の手前で浮いたままになった。
妹のいる娘。鏡の中で妹の髪を結っていた娘。妹を抱いて自分の手を見ていた娘。
「そうか。……よかった」
「はいっす! それと、森のほうから人間が二匹、こっちに来たっす! 村のじゃないっす。狩人みたいなのが二匹。墓地の壁のとこまで来たんで、壁に触られる前にって、あたし、一歩だけ出て──」
声が弾んだ。
「一匹は足から。走れなくしてから、もう一匹が戻ってくるまで待って、戻ってきたとこで、その──」
「ルプスレギナ」
ユリの声は大きくないが、ルプスレギナの声を途中で切った。切られた瞬間、笑顔のまま、顔が固まる。ユリは悟のほうへ向き直って、頭を下げた。
「申し訳ございません。言い聞かせておりませんでした。私の責任でございます。罰は、いかようにも」
「……え?」
ルプスレギナが言った。
「え?」
顔から色が引いていく。
「……外」
シズだった。眼帯でないほうの目が、ルプスレギナを見ている。
「……一歩」
ルプスレギナの口が開いて、閉じた。
「──あ」
真顔になった。
「大変、申し訳、ございません」
頭をきちんと下げる。角度が正しい。彼女はそれを知っていて、さっきまで笑っていた。
悟は、カップを置く。
二匹、と言った。狩人が二人、壁まで来て、死んだ。足から。走れなくしてから。それを彼女は、報告の続きとして、声の調子を一段上げて言った。狼が獲物を主人の前に並べるように。
止めたのはユリだった。
死んだ二人のことは、考えていなかった。考えていたのは、弾んだ声のほうだ。
「ルプスレギナの申し上げたのは」
別の声がした。ナーベラルだ。
「下等生物の話でございます。墓地に寄ってきた羽虫の話で、モモンガ様がお気になさるようなことでは、ございません」
悟は彼女に目を向けた。ナーベラルは悟を見ている。まっすぐに。
「虫けらと、モモンガ様は、違います。モモンガ様は、人間ではありません。モモンガ様は、モモンガ様です」
部屋が、静かになった。ユリが何かを言おうとして、言わない。ソリュシャンは微笑んでいる。エントマは着物の袖の中で両手を揃えている。シズは、片目でナーベラルを見て、それから悟へ目を移した。
的外れだ。それでも、彼女なりに、ルプスレギナをかばっている。
自分は人間だ、と言うことはできた。
言わなかった。
「ナーベラル」
「はい」
「……分かった。ありがとう」
ルプスレギナに向いた。
「ルプスレギナ」
「はい。申し訳──」
「よくやった」
真顔が、揺れた。
壁の外まで、人間が来ていた。次は、壁の内側かもしれない。
「壁まで来た者を、帰すな。帰せば、ここが知られる。近づくもの、脅かすものは、排除していい。許可する。……一歩で足りるなら、一歩でいい」
見られて帰すほうが、一歩出るより悪い。
ユリが、息を吐いた。長く、静かに。それから眼鏡の位置を直した。
「畏まりました。統括殿に、お伝えいたします」
「ああ」
ルプスレギナの真顔が、ゆっくり崩れていった。口の端が上がって、上がったのを押さえようとして、押さえきれていない。
「エントマ」
ユリが続けた。
「エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ、ですぅ。異状、ありませんですぅ」
「シズ」
「……異状、なし」
小柄な眼帯の娘が言って、しばらく悟の手を見ていた。カップを持つ痩せた手を。口を結んでいた。
「ソリュシャン」
「ソリュシャン・イプシロン。異状ございません。茶のお代わりは、いつでもお申し付けを。……それから、次の鏡の当番は、私でございます。壁まで来るものがあれば、私が」
声は丁寧で、いつもより早かった。
「ずるいですぅ。次はエントマの番ですぅ」
「順番よ」
ソリュシャンが、にこやかに返した。
「……以上です。モモンガ様、何か」
ユリが悟を見た。六人が見た。悟は茶を飲んだ。カップのふちが歯に当たって、かちりと鳴った。ちょうどいい。
「いや、ない。茶が、うまい」
ユリが頷いて、卓の上の菓子に目で許しを出す。エントマが袖から出した手が菓子を一つ取って面の下へ運ぶ。運ぶ速さが報告のときの声よりずっと速い。二つ目。三つ目。ユリは見ない。
悟も一つ取った。焼き菓子で、端が崩れて、口の中で甘さがほどける。うまい。もう一つ、と手を伸ばしたところで、袖から出た小さな手と皿の上でぶつかった。エントマの手が、袖の中へ引っこみかけた。
「いいよ。先に取ってくれ」
「……ありがとう、ございますぅ」
皿を少しだけ彼女のほうへ押した。押された皿を、エントマは両手で引き寄せた。
ルプスレギナは菓子に手を伸ばさず、にやにやしている。にやにやが止まらないまま、隣のシズの袖を引いた。
「見たっすか、さっきの。よくやった、って」
「……見た。聞いた」
「よくやった、っすよ」
「……二回目」
お茶会が終わるまで、ルプスレギナはそうして座っていた。
その横顔を、シズが目だけで見ていた。
席を立つと、袖に何か貼りついている。丸い小さな紙で、一円、と書いてある。値札なら、ずいぶん安い。
◇
夜、服を脱ぐときもセバスの手だ。朝と逆の順で、朝と同じ速さで。服から茶の匂いがした。
湯殿は第九階層の小さいほうを使う。大浴場の隣で、作った者たちは家族風呂と呼んでいた。家族で入った者はいない。小さいほうでも、東京の部屋の全部より広い。
張った湯を、セバスは先に見る。湯面、浴槽の口、湯の出る口に手を入れて、壁の継ぎ目を指でなぞる。順は毎晩同じで、三晩で覚えた。この湯殿も、あの頃、仕掛けに凝っていた何人かが作った。湯に入った者を驚かせる類の仕掛けだ。誰が何を仕込んだか、悟は半分も覚えていない。それを、セバスは毎晩、指で確かめている。
湯殿の隅に、青いのがいる。
黄色い桶に湯を汲んで、脱衣の台の脇に置く。桶は黄色と決まっている。伝統だ、と誰かが言っていた。セバスが片手を湯に入れて引き上げ、それから言う。
「お湯加減は、いかがですか」
悟は足を入れる。
「……ちょうどいい」
毎晩同じだ。肩まで沈む。
「あ゛ぁ……」
出すつもりのない声だった。セバスは聞かなかった顔をしている。そういう執事で、よかった。
湯の中で自分の手を見た。痩せた指に九つの指輪。外されないのですか、と最初の頃にセバスが訊いた。外さない、と答えた。理由は、うまく言えない。骨の王のものの中で、まだ自分の指に合っているものだ。それ以来訊かれない。
右の人差し指のものだけ、長く見る。
撃てない。指輪が免じるのは経験値だけだ。〈星に願いを〉を覚えるには、九十五まで上げた体が要る。そこは免じてくれない。ボーナスを全部つぎ込んで当てた品が、レベル一の指ではただの輪だ。三度分の願いを人間の指にはめたまま、湯に沈めている。何を願うかは、考えない。
湯から上がると布が来る。体を拭くのはセバスだ。自分で拭こうとして、布のほうが先に体に当たっていた。それでやめた。
寝衣に替えて部屋に戻る。扉を閉める前に、セバスに言った。
「天井の、一つ多いのは、もういい。明日からは、この部屋には要らない」
セバスは、天井を見なかった。
「畏まりました」
◇
夜中に目が覚めると、喉が渇いている。蛇口の水をそのまま飲む気には、まだなれない。東京で覚えた癖だ。
扉を開けると、今日の当番のメイドが昼のままの姿勢で立っていた。頭を下げる前に一瞬、目が全身を見る。足元から顔まで。異状がないかを見た目だ。
「お目覚めでございますか」
「水を、もらえるか」
座っていいよ、とは言わなかった。何が返るかは、フォスで知っている。水を待つあいだ彼女を見ていたのを、彼女は別の意味に取ったらしい。
「大丈夫でございます。朝まで、ここを離れませんから」
心配したのは、彼女の足のほうだった。
水を飲んで部屋に戻った。当番の前の日は、一日休むのだと、昼に聞いている。休んで、溜めて、扉の外に立つ。休みの使い道がそれだ。
枕元の小卓に、指輪が一つ置いてある。九つの指輪とは別に、来たときから物入れにあったものだ。リング・オブ・サステナンス。疲れと眠気と空腹を、まとめて消す。来て二週目に、一度はめて過ごした。眠くならず、腹も減らない。朝と夜の区切りがなくなって、三日目には、自分がいつから起きているのか分からなくなった。四日目の夜に外して、その夜は朝まで目が覚めなかった。
以来、はめていない。徹夜の前の栄養ドリンクのようなものだ。会社の引き出しにも、いざというときの一本が入っていた。
天井の一つを外させるのも、たぶん同じだ。眠っているあいだも、上から見られている。見られているあいだは、一日が終わらない。扉の外なら、まだいい。扉がある。
しばらく眠れなかった。扉の向こうに、当番が朝まで、姿勢を崩さずに立っている。知ったまま眠った。
明日も、お湯加減を訊かれる。明日も、ちょうどいい、と答える。
それが、少しも嫌ではなかった。