第五階層の氷は、声をよく運ぶ。足音も。
だから二人は氷河の真ん中で小さな声で話している。周りには何もない。白い地面と白い壁と、天井から垂れた氷柱。コキュートスは場所だけ貸して、離れたところに立っている。聞こえる距離にいない。
シャルティアは氷の上で足を鳴らした。
「それで。ぬしは、わたしを呼び出して、何が言いたいのでありんすか」
デミウルゴスが眼鏡の位置を直すと、宝石の目に氷の白が映った。
「御方が来られてから、半年が過ぎた」
「知っておりんす」
「私は、そのあいだ、数えていた」
「何を」
「御方のお食事の量。お眠りの時間。階段を上がられるときの歩数と、息の数。それから、お髪の色」
シャルティアは少し顔をしかめて、何も言わない。自分も見ていた。数えてはいない。見ていた。御方のお姿を見ない日はない。
「そのあいだ、御方は、何もお変わりになっていない」
「当然でありんしょう。御方は御方でありんす」
「ああ。御方は御方だ。……だが、御身は」
デミウルゴスはそこで一度言葉を切った。
「御身は、人の身だ」
シャルティアは黙った。知っている。全員が知っている。痩せていて、温かくて、首筋に血の通う体だと。知っていて、あの日にこの男が一度口にしたきり、誰も口にしない。
「人の身は、止まる」
とデミウルゴスが言った。
「病で。傷で。あるいは、何の理由もなく。人間の体は、明日にも止まる。牢で一人見た。傷でも病でもなく、問いの途中で止まった」
「御方を、牢の人間と並べるの?」
「並べてはいない。御身の話をしている。……御方の御意思がどうであれ、御身は人の身の理で動いている。ここまで何事もなかったのは、運が良かったというだけだ」
氷の上を風が走った。シャルティアはその風が自分の髪を動かすのを少し待ってから、言った。
「止まらせんせん」
「どうやって」
「わたしの血なら」
言った瞬間、デミウルゴスの顔がほんの少しだけ動いた。笑いかけて、こらえたように見えた。
「それでは、御方が君の眷属になってしまう。血で作られた者は血の主に従う。それが君の力の理で、理は御方にも例外なく働くだろう」
「…………」
「御方が、君の下につく。君の血で作られ、君の意思で動く。それは、御方ではない。御方を御方でなくしておいて、永遠を差し上げても、それは不敬だ」
分かっていて、言ったのだ。言わなければ、その道が自分の中にいつまでも残る。
「……意思を保ったまま、転化する方法を」
とシャルティアは言い直した。
「御方の御意思と、御方の上に誰もいないことを、そのままにして。御身だけを、止まらないものに変える。そういう方法を」
「聞いたことがない」
「なら、探しんす」
「幾年かかる」
「……分からない」
幾年、への答えはない。宝石の目が氷の白から外れて、この階層にはない、どこか遠くを見た。手袋の指が、何かを持つ形に一度だけ曲がって、ほどけた。口が開きかけて、閉じる。
この男がしまったものは、訊いてもどうせ出てこない。
「君の身を、損なうかもしれない。知らぬ術を、自分の体で試すことになる」
「それが、何でありんすか」
デミウルゴスは頷いた。
「ああ。何でもない。……訊いただけだ」
自分の身を数に入れる者は、ナザリックにいない。シャルティアはデミウルゴスの目をまっすぐに見た。
「でも、やりんす」
デミウルゴスはしばらく黙っていた。それから深く頭を下げた。守護者が守護者に下げる角度ではない。
「お願いします。貴方にしか、できません」
「任務は」
「そのままで。第一から第三階層の守護を、一日も空けずに。御方のお傍に立つ番も、そのままで。……研究は、その合間に」
「合間」
「君には、夜があるだろう?」
シャルティアは少し笑った。アンデッドは眠らない。御方が眠っておられるあいだも起きていて、終わりがないことを疲れとは呼ばない。
「夜は、わたしのものでありんす」
「ああ。だから、君にしか」
シャルティアは話が終わったと思って、氷の上でもう一度足を鳴らした。帰ろうとしたところで、デミウルゴスが言う。
「もう一本、ある」
「まだ、何か」
「人の身は止まる。……だが、人の身は子を成す。御方の玉体から御胤を賜ることができる。止まるものが、止まらぬものを残せるのだ」
シャルティアは足を止めた。意味を取るのに、少しかかる。
「わたしには、できない」
軽く言ったつもりだったのに、軽く言えなかった。声が思ったより遠くへ行く。
アンデッドは子を成さない。眷属は作れる。御子は、宿せない。
「ああ。君には、できないだろう」
デミウルゴスは慰めない。それでよかった。
「統括殿なら、あるいは。悪魔の身で、人の子が成せるのか。それは、統括殿自身にも、まだ分かっていない。……だが、分からないなら、分かるまで、やってみる価値はある」
「ぬし」
統括殿と張り合うのは、ほかの全部でいい。
「それから、プレアデスの何人か。メイドたち。人の形をしている者は、全員、候補だ。保険は、多いほうがいいからね」
「ぬしは」
とシャルティアは言った。
「それを、御方に」
「申し上げない」
即答だった。
「御方の御身に手を出すのは、不敬の極みだ。薬も、術も、実験も、ない。人の身が子を成すことは、実験しなくても分かっている。私にできるのは、一つだけだ」
「……何を」
「背中を押す」
シャルティアはデミウルゴスの顔を見た。
「統括殿の背中を。あるいは、他の者の。御方の前に、立たせる。環境を整える。席を、設けてもいい。それだけだ。それ以上は、手を出さない」
笑うつもりはなかったのに、シャルティアは笑った。声が氷の上を遠くまで行く。コキュートスの頭が、少しだけこちらを向いた。
「ナザリック一の知恵者が」
「ええ」
「仲人を」
「ええ」
デミウルゴスは恥じなかった。まっすぐに言った。
「御方が、他の至高の御方々のように、去られるよりは。……ずっと、いいだろう」
笑いが止まった。
シャルティアは創造主の顔を思い出す。思い出せる限りの顔を。ペロロンチーノ様は去った。四十の御方々は去った。残ったのは御方お一人で、人の身で、玉座に座っておられる。去られたあとの、誰も来ない日々も、わたしたちは玉座の下から見ていた。
人の身は明日にも止まる。
「……分かった」
とシャルティアは言った。
「わたしは、器を。ぬしは、背中を」
「ああ。統括殿が御胤を賜る、そちらを」
「順番は」
「御子を授かってから、転化する。御子がおられてから、御方を止まらないものに。……そうでなければ、御子が生まれない」
「分かりんした」
二人は頷いて、それから同時に同じことを言った。
「御方には、申し上げない」
言ってから顔を見合わせた。
「御方の在り方に、口を出すのは」
「臣下の分ではない」
立ち去りかけて、シャルティアは氷の向こうに動くものを見た。氷結牢獄の、さらに奥へ何かが運ばれていく。コキュートスの配下の蟲が二匹、人間を一人ずつ引きずっている。揃いの服。御方が来られた次の朝に村の北の丘にいた者たちの服だ。
「あれは」
「念のための、材料だよ」
とデミウルゴスが言った。
「丘の上の三十余りのうち、生かして持ち帰った幾人かだ。半年、問いを止めてあった。……今日から、ニグレドの牢に。御方の安全のための、蘇生の研究に使う」
「蘇生?」
シャルティアは首を傾げた。
「御方は、死にんせんのに」
「ああ」
デミウルゴスは氷の向こうの引きずられていくものを見ていない。
「念のため、だ」
訊く意味は、なかった。御方は死なない。自分が死なせない。器を作る。何年かかっても。
◇
その夜は、お傍に立つ番だった。第九階層の廊下で、御方とすれ違った。
セバスを連れて、湯から戻られるところだ。髪が濡れていて、首筋に湯の名残で血の色が少し浮いている。
シャルティアは膝をつく。御方はいつものように少し困った顔で頷かれた。
立ち上がって御方の背中を見送りながら、シャルティアはその首筋を見ていた。
明日から、毎日、見よう。