Gnade ―生者の王―   作:南蛮鉄

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第六章 お待ち申し上げております

 悟は、自分の手で、ギルドの指輪に触れた。

 行き先を思えば体が運ばれる。魔法の一つも出ない体でも、指輪は人間の指で働いた。

 だから行ける。宝物殿へ。指輪なしでは誰も入れない場所へ。

 熱が引いて、寝台を出てよいと言われた朝だ。その朝の報告の後で、行く、とアルベドに言った。返事までが、いつもより一瞬長い。

「お供を」

「できないんだ。指輪がない」

「……はい」

「パンドラが、いる」

「はい。宝物殿の守りは万全でございます。パンドラズ・アクターの名も務めも、存じております。……ただ、御身に万一のことが」

「ない。中だ。外じゃない」

「お戻りまで、ここに、おります」

 ここというのは自室の扉の前だ。悟はそれを聞き流した。

 行き先を思った瞬間、天井の隅で何かが動く。部屋の天井から外させた一つは、廊下に引っ越しただけだった。廊下が消えた。

 着いた場所は暗く、遠くの明かりの下で、黄色いものが床から山になって盛り上がっている。

 金貨だ。ギルドの金貨。皆で貯めたゲームの中の通貨が、山になって広間を埋めている。山の斜面を一枚が滑り落ちる音がどこかでした。悟は金貨の山の裾に立って、次の一枚が滑るまで見ていた。

 誰もいない。

 来てからずっと誰かがいて、眠るときさえ扉の外に当番が立っている。東京では、毎晩一人だった。一人で何をしていたかというと、ここにいた。

 ここには誰も来られない。天井の模様も、ついて来られない。

 静かだ。金貨がもう一枚滑った。吐いた息が広間の暗さに消えていく。咳払いを一つしてみた。誰も、お呼びでしょうか、と言わない。

 山の裾を歩くと、一歩ごとに、足の下で何十枚かがずれて鳴る。ゲームの中では音はしなかった。

 一度、滑りかけた。取る手がない。自分の足で立て直した。誰も声を上げないので、滑りかけたことにもならなかった。

 かがんで一枚拾う。重い。本物の金の重さだ。たぶん。集めるだけ集めて、維持費のほかには、使う先がほとんどなかった。大きな使い道は、一つしかない。

 死んだNPCを、戻すときだ。

 守護者を一人戻すのに、五億かかる。使う日は来ない、と思っていた。

 この山で何人戻せるか。

 手の中の一枚を、山に放った。斜面を鳴らして滑り落ちていく。

 縁起でもない。そんなことにはならない。守護者は全員生きていて、うち一人は、扉の前で帰りを待っている。

 それから、少し迷って、誰も見ていないことを二度確かめて、斜面に背中から倒れてみた。

 金貨が背中の下で崩れながら、体の形に沈んで、落ち着く。冷たくて、硬くて、ひどく寝心地が悪い。十二年、一度やってみたかった。

「……いいかんじだ」

 悪い。肩甲骨の下に角が当たっている。それでも、しばらくそのままでいた。

「──ようこそお越しくださいました!」

 声が響いた。広間の全部が鳴っている。悟は金貨の中で跳ね起きる。起きかけたところで、金貨と一緒に少し滑った。

「我が創造主! モモンガ様!」

 靴の踵がカツンと鳴る。

 金貨の山の向こうからそれは歩いてきた。軍服に制帽、帽子の正面にギルドの印。白い手袋をした右手を帽子のつばに添えて、胸を張って、歩幅を揃えて。顔は卵のようにつるりとしていて、目と口の位置に黒い穴が三つ。パンドラズ・アクター。自分が作った。

「お待ち申し上げておりました! この日を! この瞬間を! ああ(Ach)、なんという光栄でありましょう!」

 両腕が広がって、空中で一拍静止して、それから斜めに流れる。ポーズだ。意味のない、だが決まっているポーズ。

 流れた腕が、そのまま胸の前で折りたたまれた。次のポーズだ。

「宝物殿領域守護者、パンドラズ・アクター! 至高の御方の財を護り、至高の御方の御姿を写す者! 創造主の御前に、ここに(Hier)、推参つかまつりました!」

 推参の使い方が、少し違う気がする。直さなかったのは、たぶん自分だ。

「ひ、久しぶりだな、パンドラズ・アクター」

 久しぶりも何もない。作ってから、口をきいたことは一度もない。

「おお……! 久しぶり、と! この私めの名を、創造主の御口から、一字も略さず! なんたる誉れ(Welch eine Ehre)! このパンドラズ・アクター、今この瞬間を、宝物殿のいかなる財にも勝る至宝として、永劫この胸に刻みましょう!」

 踵が鳴って、手袋が帽子のつばに戻る。つばに添える指は二本で、残りの三本は軽く曲げる。そこまで決めて入力した夜を、覚えている。誰にも見せる予定のない設定欄に、指の本数を書いた。

「うむ……まあ、なんだ……うん」

 顔が熱い。骸骨のころは、ここで赤くならずに済んだ。

 十年前の自分がかっこいいと思っていたものが全部そこにある。軍服。敬礼。ドイツ語。ポーズ。長い台詞。大げさな抑揚。十年前の鈴木悟が深夜に一人で設定画面に打ち込んだ、全部。

 それが、金貨の山の前で、まだポーズを続けている。止め方は、設定欄のどこにも書いていない。

 ──だっさ。

 俺、こんなの作ったのか。

 口を結んだ。ここは、笑うところではない。半年放っておいた相手が、全力で迎えてくれている。

 守護者の前なら、ここで、やめろ、と言って済ませていた。

 パンドラが、もう一度踵を鳴らした。帽子のつばをつまんで、横に倒す。一拍置いて、ぐるりと前へ戻す。そんな動きは、書いた覚えがない。つばに添え直した指は、二本のままだ。

 二本だ。頑なに。そしてなぜ、帽子を回したんだ。無駄に。

「くくっ」

 思った瞬間に笑いが喉から出た。

「あはははは」

 声が出た。

 人間の口から人間の声で笑った。腹から出た。止めようとして、止まらない。膝に手をついて、笑い続ける。

 パンドラズ・アクターはポーズのまま固まっている。それから腕を下ろして、帽子のつばにもう一度手を添えた。

「お笑いになった……!」

 声が震えていた。

「創造主が、お笑いになった! この私を御覧になって! 素晴らしい(Wunderbar)! なんという、なんという日でありましょう!」

 またポーズを取って、今度は片膝をつき、片腕を天に向ける。笑われて、ポーズが増えた。

 悟はもう一度笑った。自分の声が広間に響いて返ってきて、返ってきた声を聞いて、また笑う。ようやく収まったとき、目が濡れていた。肉を食べたときとは違う濡れ方だ。

「……笑うだろ、あれは」

「おお! 光栄の至りでございます!」

「褒めてない」

「は、はぁ」

「パンドラ」

「はっ!」

「もういい、立て立て」

「はっ!」

 立った。立つときもポーズだった。

「ついでに、そのドイツ語も、やめろ」

「我が神のお望みとあらば(Wenn es meines Gottes Wille)」

 やめる気がない。悟は三度目に笑った。短かった。

 セバスの上にはたっちさんがいて、アウラとマーレの上には茶釜さんがいて、シャルティアの上にはペロロンチーノさんがいる。そう入力されている。

 パンドラの創造主の欄にだけ、自分の名前がある。こいつの上には、自分しかいない。

 ほかの誰かには、いつか言われるかもしれない。こいつには、言われない。自分が作った者は、自分を、相応しくないとは言わない。言う設定が、ない。

 悟は金貨の山の裾に腰を下ろした。ここでは、座る前に椅子が来ない。

「元気そうだな、お前。……来てから、ここには一度も来てなかった。悪かったな」

「無論でございます! お越しのない間も、宝物殿の管理、財の勘定、いずれも滞りなく! モモンガ様のお越しを、一日千秋の思いで──それに先ほどの、金貨の上でのお寛ぎも、まことに堂に入っておられました!」

「……み、見てたのか。いつから」

「無論でございます!」

「忘れろ。今すぐ忘れろ」

「承知(Jawohl)! 永久に、記憶いたします!」

「分かった。分かった」

 悟が手を上げると、パンドラが口をつぐんだ。つぐんだ口は穴だった。

「で、財布のほうは、どうなんだ」

「承りました! 金貨、総数──」

 一枚の単位まで言おうとするのを、悟は三桁目で遮った。

「もういい。お前が数えてるなら、それでいい。数えてるやつが一人いる、と分かれば十分だ」

「はっ! では、奥へ。──ご案内いたします!」

 踵が鳴った。パンドラが先に立って、金貨の山のあいだを歩いていく。広間の奥の小さな部屋に、ギルドで集めた世界級(ワールド)のうち、守護者に預けていない分がある。悟は入口で足を止めて、中を見た。使う理由が、今はない。

「モモンガ様」

 パンドラが踵を鳴らした。

「お目にかけたいものが、ございます。……いえ、お目にかけさせていただきたい、と申すべきでありましょうか。私の、務めの一つを」

「務め」

「はっ!」

 パンドラの輪郭が、揺れた。揺れて、伸びた。軍服が、黒いローブになる。卵の顔が消えて、消えた場所に骨がある。頭蓋骨。眼窩の奥に、赤い光。ローブの襟から骨の首が伸びて、骨の手が袖から出ている。

 骨の王が、そこに立っていた。

 十二年、画面の中で見ていた姿だ。レベル百の、死の支配者(オーバーロード)。七百十八の魔法。鏡に映せば、いつも目の高さにいた。こうして見上げると、背が高い。

 その者が、痩せた人間に向かって、頭を下げた。下げた頭が、まだこちらの頭より上にある。

「このとおりでございます。創造主の御姿を、いつでもお見せすることができます。お力も八割までは。宝物殿に踏み入る者があれば、この姿で迎え撃つのも私の務めの一つでございます」

 声まで、似ている。似ているだけだ。

 自分だったものだ。捨てた覚えはない。剥がれて、ここに、八割の形で立っている。

 眼窩の赤が、一段明るい。明るくしたのは、たしか自分だ。夜中に。

 見ているうちに、その赤い光がこちらの顔を見ているのが分かった。パンドラの目だ。骨の奥から創造主を見て、褒められるのを待っている。

「……うん。もういい。戻ってくれ」

「はっ!」

 輪郭が揺れて、卵の顔が戻った。悟は、止めていた息を吐いた。卵の顔のほうが、まだ見ていられる。

「……その姿は、今後は控えてくれ」

「は」

「必要ないときは、な」

「はぁ……承知いたしました」

 帽子のつばが、少しだけ下がっていた。用件を、ちょうど思い出したことにした。

「奥に、行きたいんだが」

「霊廟でございますね。至高の御方々のお姿は、今朝も一体残らず磨いてございます」

「今朝も、って。毎朝か」

「毎朝でございます! ウルベルト様の角は磨くほどに艶が増し、ぶくぶく茶釜様のお防具は磨くほどに丸みが増し──」

「丸みは増えないだろ」

「増したように、見えるのでございます!」

「分かった分かった。……ああ。久しぶりに、見たい」

「では、指輪を」

 パンドラが白い手袋の手を差し出した。霊廟の手前には指輪を持った者を迎え撃つ罠があって、ここから先は、指輪を外さなければ入れない。作ったときに、そう決めた。指輪を盗まれても、奥までは来られないように。用心深い連中だった。自分も、手を挙げた側だ。

 悟は右手の薬指から指輪を抜いた。抜けた。来てから一度も抜いていない指輪だ。湯の中でも、眠るときでも。抜いた指に、跡が白く残っていた。指輪を、パンドラの手袋の上に置く。

「落とすなよ」

「お預かりいたします。この身に代えましても」

「そこまでじゃない」

 パンドラはそれを両手で受け取って、胸に当てたまま、ポーズを取った。

 

 

   ◇

 

 

 霊廟は広い。天井が高く、床が黒く、壁に沿って台座が並んでいる。像の足元にだけ、淡い灯。台座の上には、辞めた仲間が置いていった装備を着た像。

 四十一体。いや、三十七体だ。四つの台座が空いている。空いている理由は、知っている。言わなかった。

 置いていった。この家ごと。そう思ったことがあるのを、像の前では思わないことにした。

 最初の台座は、たっちさんだ。白い全身鎧に、剣と盾と、赤いマント。これを着て、助けに来た人だ。手を伸ばして籠手に触れた。冷たい。着られない。レベルが足りない。たっちさんのものは、たっちさんにしか着られないほうがいい。

 全員の名前を言えた。声に出して言った。一人ずつ、台座の前に立って。呼ばれた像は、こちらを見ない。それで、続けて呼べた。

 霊廟を出ると、パンドラの踵が一つ鳴った。こらえていたらしい。

 脇の小部屋の箱には、ギルドの指輪の予備が並んでいた。一つつまみ上げる。これを渡せば、アルベドもここに来られる。

 今朝の、返事までの一瞬が浮かんだ。

 指輪を、手のひらで二度転がした。三度目は転がさずに、布の窪みへ戻した。蓋を閉じた。

 箱の隣に、分厚い本があった。余白に、ペロロンチーノさんの字で、このモンスターは胸がでかい、と書いてある。全部のページが、その調子だ。

 世界級は入口から見ただけで置いてきた。持って出るのは、胸がでかいの本だ。

 理由ははっきりしていた。読みたかった。

 本を抱えて戻ると、パンドラが指輪を差し出す。両手で、胸の高さで。悟が受け取って薬指にはめると、白い跡の上に指輪が戻った。

「パンドラ」

「はっ!」

「モモンガ様、は、ここではやめてくれ」

「では、何とお呼びいたしましょうか」

「何でもいい」

 パンドラは少しのあいだ黙った。ポーズを取らなかった。

「……父上」

「…………ぉぅ」

 悟は本を抱え直した。

「……また来るよ」

 パンドラズ・アクターの顔の穴が三つ、こちらを向いていた。それから踵を鳴らして帽子のつばに手を添える。ポーズではない。ただの敬礼だった。

「お待ち申し上げております」

 短かった。

 

 

   ◇

 

 

 本を抱えたまま指輪に意思を向けると、自室の扉の前に立っていた。目の前に、アルベド。朝と同じ場所、同じ姿勢だ。こちらが急に現れたので、翼が一度大きく開いて、閉じた。それから膝をついた。

「お帰りなさいませ」

 声が少し掠れている。彼女の目が本の背を一度見て、すぐこちらの顔に戻る。

 ここにおります、と言ったとおりだった。扉の脇では、当番のメイドが守護者統括の後ろで頭を下げている。

「ずっと、立っていたのか」

「はい」

「次は、座って待っていてくれ」

「お言葉、もったいなく存じます」

 メイドたちと同じ答えだった。言葉も、角度も。待つときは、統括も座らないらしい。隣の椅子には、一番に座るくせに。

 

 

   ◇

 

 

 その夜、部屋を一人にするまでに、少しかかった。

「本日より、御寝所の内で、夜の警護を務めます」

 扉の前で、アルベドが言った。半日立っていた足で、まだ立っている。

「い、いらない。扉の外に、当番がいるだろ」

「当番は扉の外。わたくしは扉の内。寝台の脇で、朝まで、御身を」

「いらないって」

「では、寝台の足元で」

「場所の話じゃない!」

 アルベドが微笑むと、くふ、と喉の奥で鳴った。引く気配が、どこにもない。

 寝台の脇で朝まで、の意味が分からないほど、鈍くはない。

 突き放す言葉なら、いくらでも浮かんだ。浮かんだ端から、喉で止まった。あの一行を書いた手で、突き放すのか。

「……今夜は、一人で寝たいんだ」

「今夜は、でございますね」

 アルベドは扉の外へ下がった。言い直す前に、扉が閉まる。

 部屋は一人になった。

 壁に立てかけた遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモート・ビューイング)は、曇っているときはただの鏡だ。十二年、鏡の前で練習した声がある。骸骨の顔でやると様になった声だ。その顔なら、今日、正面から見てきた。試してみた。

「騒々しい、静かにせよ」

 小さい声で言った。扉の外に当番がいる。寝衣の痩せた男が、誰も騒いでいない部屋で、静かにせよ、と囁いた。

 ……だっさ。

 鏡の中の男は、笑っていなかった。

 

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