悟は、自分の手で、ギルドの指輪に触れた。
行き先を思えば体が運ばれる。魔法の一つも出ない体でも、指輪は人間の指で働いた。
だから行ける。宝物殿へ。指輪なしでは誰も入れない場所へ。
熱が引いて、寝台を出てよいと言われた朝だ。その朝の報告の後で、行く、とアルベドに言った。返事までが、いつもより一瞬長い。
「お供を」
「できないんだ。指輪がない」
「……はい」
「パンドラが、いる」
「はい。宝物殿の守りは万全でございます。パンドラズ・アクターの名も務めも、存じております。……ただ、御身に万一のことが」
「ない。中だ。外じゃない」
「お戻りまで、ここに、おります」
ここというのは自室の扉の前だ。悟はそれを聞き流した。
行き先を思った瞬間、天井の隅で何かが動く。部屋の天井から外させた一つは、廊下に引っ越しただけだった。廊下が消えた。
着いた場所は暗く、遠くの明かりの下で、黄色いものが床から山になって盛り上がっている。
金貨だ。ギルドの金貨。皆で貯めたゲームの中の通貨が、山になって広間を埋めている。山の斜面を一枚が滑り落ちる音がどこかでした。悟は金貨の山の裾に立って、次の一枚が滑るまで見ていた。
誰もいない。
来てからずっと誰かがいて、眠るときさえ扉の外に当番が立っている。東京では、毎晩一人だった。一人で何をしていたかというと、ここにいた。
ここには誰も来られない。天井の模様も、ついて来られない。
静かだ。金貨がもう一枚滑った。吐いた息が広間の暗さに消えていく。咳払いを一つしてみた。誰も、お呼びでしょうか、と言わない。
山の裾を歩くと、一歩ごとに、足の下で何十枚かがずれて鳴る。ゲームの中では音はしなかった。
一度、滑りかけた。取る手がない。自分の足で立て直した。誰も声を上げないので、滑りかけたことにもならなかった。
かがんで一枚拾う。重い。本物の金の重さだ。たぶん。集めるだけ集めて、維持費のほかには、使う先がほとんどなかった。大きな使い道は、一つしかない。
死んだNPCを、戻すときだ。
守護者を一人戻すのに、五億かかる。使う日は来ない、と思っていた。
この山で何人戻せるか。
手の中の一枚を、山に放った。斜面を鳴らして滑り落ちていく。
縁起でもない。そんなことにはならない。守護者は全員生きていて、うち一人は、扉の前で帰りを待っている。
それから、少し迷って、誰も見ていないことを二度確かめて、斜面に背中から倒れてみた。
金貨が背中の下で崩れながら、体の形に沈んで、落ち着く。冷たくて、硬くて、ひどく寝心地が悪い。十二年、一度やってみたかった。
「……いいかんじだ」
悪い。肩甲骨の下に角が当たっている。それでも、しばらくそのままでいた。
「──ようこそお越しくださいました!」
声が響いた。広間の全部が鳴っている。悟は金貨の中で跳ね起きる。起きかけたところで、金貨と一緒に少し滑った。
「我が創造主! モモンガ様!」
靴の踵がカツンと鳴る。
金貨の山の向こうからそれは歩いてきた。軍服に制帽、帽子の正面にギルドの印。白い手袋をした右手を帽子のつばに添えて、胸を張って、歩幅を揃えて。顔は卵のようにつるりとしていて、目と口の位置に黒い穴が三つ。パンドラズ・アクター。自分が作った。
「お待ち申し上げておりました! この日を! この瞬間を!
両腕が広がって、空中で一拍静止して、それから斜めに流れる。ポーズだ。意味のない、だが決まっているポーズ。
流れた腕が、そのまま胸の前で折りたたまれた。次のポーズだ。
「宝物殿領域守護者、パンドラズ・アクター! 至高の御方の財を護り、至高の御方の御姿を写す者! 創造主の御前に、
推参の使い方が、少し違う気がする。直さなかったのは、たぶん自分だ。
「ひ、久しぶりだな、パンドラズ・アクター」
久しぶりも何もない。作ってから、口をきいたことは一度もない。
「おお……! 久しぶり、と! この私めの名を、創造主の御口から、一字も略さず!
踵が鳴って、手袋が帽子のつばに戻る。つばに添える指は二本で、残りの三本は軽く曲げる。そこまで決めて入力した夜を、覚えている。誰にも見せる予定のない設定欄に、指の本数を書いた。
「うむ……まあ、なんだ……うん」
顔が熱い。骸骨のころは、ここで赤くならずに済んだ。
十年前の自分がかっこいいと思っていたものが全部そこにある。軍服。敬礼。ドイツ語。ポーズ。長い台詞。大げさな抑揚。十年前の鈴木悟が深夜に一人で設定画面に打ち込んだ、全部。
それが、金貨の山の前で、まだポーズを続けている。止め方は、設定欄のどこにも書いていない。
──だっさ。
俺、こんなの作ったのか。
口を結んだ。ここは、笑うところではない。半年放っておいた相手が、全力で迎えてくれている。
守護者の前なら、ここで、やめろ、と言って済ませていた。
パンドラが、もう一度踵を鳴らした。帽子のつばをつまんで、横に倒す。一拍置いて、ぐるりと前へ戻す。そんな動きは、書いた覚えがない。つばに添え直した指は、二本のままだ。
二本だ。頑なに。そしてなぜ、帽子を回したんだ。無駄に。
「くくっ」
思った瞬間に笑いが喉から出た。
「あはははは」
声が出た。
人間の口から人間の声で笑った。腹から出た。止めようとして、止まらない。膝に手をついて、笑い続ける。
パンドラズ・アクターはポーズのまま固まっている。それから腕を下ろして、帽子のつばにもう一度手を添えた。
「お笑いになった……!」
声が震えていた。
「創造主が、お笑いになった! この私を御覧になって!
またポーズを取って、今度は片膝をつき、片腕を天に向ける。笑われて、ポーズが増えた。
悟はもう一度笑った。自分の声が広間に響いて返ってきて、返ってきた声を聞いて、また笑う。ようやく収まったとき、目が濡れていた。肉を食べたときとは違う濡れ方だ。
「……笑うだろ、あれは」
「おお! 光栄の至りでございます!」
「褒めてない」
「は、はぁ」
「パンドラ」
「はっ!」
「もういい、立て立て」
「はっ!」
立った。立つときもポーズだった。
「ついでに、そのドイツ語も、やめろ」
「
やめる気がない。悟は三度目に笑った。短かった。
セバスの上にはたっちさんがいて、アウラとマーレの上には茶釜さんがいて、シャルティアの上にはペロロンチーノさんがいる。そう入力されている。
パンドラの創造主の欄にだけ、自分の名前がある。こいつの上には、自分しかいない。
ほかの誰かには、いつか言われるかもしれない。こいつには、言われない。自分が作った者は、自分を、相応しくないとは言わない。言う設定が、ない。
悟は金貨の山の裾に腰を下ろした。ここでは、座る前に椅子が来ない。
「元気そうだな、お前。……来てから、ここには一度も来てなかった。悪かったな」
「無論でございます! お越しのない間も、宝物殿の管理、財の勘定、いずれも滞りなく! モモンガ様のお越しを、一日千秋の思いで──それに先ほどの、金貨の上でのお寛ぎも、まことに堂に入っておられました!」
「……み、見てたのか。いつから」
「無論でございます!」
「忘れろ。今すぐ忘れろ」
「
「分かった。分かった」
悟が手を上げると、パンドラが口をつぐんだ。つぐんだ口は穴だった。
「で、財布のほうは、どうなんだ」
「承りました! 金貨、総数──」
一枚の単位まで言おうとするのを、悟は三桁目で遮った。
「もういい。お前が数えてるなら、それでいい。数えてるやつが一人いる、と分かれば十分だ」
「はっ! では、奥へ。──ご案内いたします!」
踵が鳴った。パンドラが先に立って、金貨の山のあいだを歩いていく。広間の奥の小さな部屋に、ギルドで集めた
「モモンガ様」
パンドラが踵を鳴らした。
「お目にかけたいものが、ございます。……いえ、お目にかけさせていただきたい、と申すべきでありましょうか。私の、務めの一つを」
「務め」
「はっ!」
パンドラの輪郭が、揺れた。揺れて、伸びた。軍服が、黒いローブになる。卵の顔が消えて、消えた場所に骨がある。頭蓋骨。眼窩の奥に、赤い光。ローブの襟から骨の首が伸びて、骨の手が袖から出ている。
骨の王が、そこに立っていた。
十二年、画面の中で見ていた姿だ。レベル百の、
その者が、痩せた人間に向かって、頭を下げた。下げた頭が、まだこちらの頭より上にある。
「このとおりでございます。創造主の御姿を、いつでもお見せすることができます。お力も八割までは。宝物殿に踏み入る者があれば、この姿で迎え撃つのも私の務めの一つでございます」
声まで、似ている。似ているだけだ。
自分だったものだ。捨てた覚えはない。剥がれて、ここに、八割の形で立っている。
眼窩の赤が、一段明るい。明るくしたのは、たしか自分だ。夜中に。
見ているうちに、その赤い光がこちらの顔を見ているのが分かった。パンドラの目だ。骨の奥から創造主を見て、褒められるのを待っている。
「……うん。もういい。戻ってくれ」
「はっ!」
輪郭が揺れて、卵の顔が戻った。悟は、止めていた息を吐いた。卵の顔のほうが、まだ見ていられる。
「……その姿は、今後は控えてくれ」
「は」
「必要ないときは、な」
「はぁ……承知いたしました」
帽子のつばが、少しだけ下がっていた。用件を、ちょうど思い出したことにした。
「奥に、行きたいんだが」
「霊廟でございますね。至高の御方々のお姿は、今朝も一体残らず磨いてございます」
「今朝も、って。毎朝か」
「毎朝でございます! ウルベルト様の角は磨くほどに艶が増し、ぶくぶく茶釜様のお防具は磨くほどに丸みが増し──」
「丸みは増えないだろ」
「増したように、見えるのでございます!」
「分かった分かった。……ああ。久しぶりに、見たい」
「では、指輪を」
パンドラが白い手袋の手を差し出した。霊廟の手前には指輪を持った者を迎え撃つ罠があって、ここから先は、指輪を外さなければ入れない。作ったときに、そう決めた。指輪を盗まれても、奥までは来られないように。用心深い連中だった。自分も、手を挙げた側だ。
悟は右手の薬指から指輪を抜いた。抜けた。来てから一度も抜いていない指輪だ。湯の中でも、眠るときでも。抜いた指に、跡が白く残っていた。指輪を、パンドラの手袋の上に置く。
「落とすなよ」
「お預かりいたします。この身に代えましても」
「そこまでじゃない」
パンドラはそれを両手で受け取って、胸に当てたまま、ポーズを取った。
◇
霊廟は広い。天井が高く、床が黒く、壁に沿って台座が並んでいる。像の足元にだけ、淡い灯。台座の上には、辞めた仲間が置いていった装備を着た像。
四十一体。いや、三十七体だ。四つの台座が空いている。空いている理由は、知っている。言わなかった。
置いていった。この家ごと。そう思ったことがあるのを、像の前では思わないことにした。
最初の台座は、たっちさんだ。白い全身鎧に、剣と盾と、赤いマント。これを着て、助けに来た人だ。手を伸ばして籠手に触れた。冷たい。着られない。レベルが足りない。たっちさんのものは、たっちさんにしか着られないほうがいい。
全員の名前を言えた。声に出して言った。一人ずつ、台座の前に立って。呼ばれた像は、こちらを見ない。それで、続けて呼べた。
霊廟を出ると、パンドラの踵が一つ鳴った。こらえていたらしい。
脇の小部屋の箱には、ギルドの指輪の予備が並んでいた。一つつまみ上げる。これを渡せば、アルベドもここに来られる。
今朝の、返事までの一瞬が浮かんだ。
指輪を、手のひらで二度転がした。三度目は転がさずに、布の窪みへ戻した。蓋を閉じた。
箱の隣に、分厚い本があった。余白に、ペロロンチーノさんの字で、このモンスターは胸がでかい、と書いてある。全部のページが、その調子だ。
世界級は入口から見ただけで置いてきた。持って出るのは、胸がでかいの本だ。
理由ははっきりしていた。読みたかった。
本を抱えて戻ると、パンドラが指輪を差し出す。両手で、胸の高さで。悟が受け取って薬指にはめると、白い跡の上に指輪が戻った。
「パンドラ」
「はっ!」
「モモンガ様、は、ここではやめてくれ」
「では、何とお呼びいたしましょうか」
「何でもいい」
パンドラは少しのあいだ黙った。ポーズを取らなかった。
「……父上」
「…………ぉぅ」
悟は本を抱え直した。
「……また来るよ」
パンドラズ・アクターの顔の穴が三つ、こちらを向いていた。それから踵を鳴らして帽子のつばに手を添える。ポーズではない。ただの敬礼だった。
「お待ち申し上げております」
短かった。
◇
本を抱えたまま指輪に意思を向けると、自室の扉の前に立っていた。目の前に、アルベド。朝と同じ場所、同じ姿勢だ。こちらが急に現れたので、翼が一度大きく開いて、閉じた。それから膝をついた。
「お帰りなさいませ」
声が少し掠れている。彼女の目が本の背を一度見て、すぐこちらの顔に戻る。
ここにおります、と言ったとおりだった。扉の脇では、当番のメイドが守護者統括の後ろで頭を下げている。
「ずっと、立っていたのか」
「はい」
「次は、座って待っていてくれ」
「お言葉、もったいなく存じます」
メイドたちと同じ答えだった。言葉も、角度も。待つときは、統括も座らないらしい。隣の椅子には、一番に座るくせに。
◇
その夜、部屋を一人にするまでに、少しかかった。
「本日より、御寝所の内で、夜の警護を務めます」
扉の前で、アルベドが言った。半日立っていた足で、まだ立っている。
「い、いらない。扉の外に、当番がいるだろ」
「当番は扉の外。わたくしは扉の内。寝台の脇で、朝まで、御身を」
「いらないって」
「では、寝台の足元で」
「場所の話じゃない!」
アルベドが微笑むと、くふ、と喉の奥で鳴った。引く気配が、どこにもない。
寝台の脇で朝まで、の意味が分からないほど、鈍くはない。
突き放す言葉なら、いくらでも浮かんだ。浮かんだ端から、喉で止まった。あの一行を書いた手で、突き放すのか。
「……今夜は、一人で寝たいんだ」
「今夜は、でございますね」
アルベドは扉の外へ下がった。言い直す前に、扉が閉まる。
部屋は一人になった。
壁に立てかけた
「騒々しい、静かにせよ」
小さい声で言った。扉の外に当番がいる。寝衣の痩せた男が、誰も騒いでいない部屋で、静かにせよ、と囁いた。
……だっさ。
鏡の中の男は、笑っていなかった。