悟は、自分の足で、第一階層の階段を降りた。
誰にも手を引かれない。手は要らない、と言ってある。前にシャルティア、後ろにアルベド。横を歩く者はいない。
夏になっていた。全階層を巡る、と言い出したのは自分だ。第一階層から順に、会ったことのない者に会いに行く。
アルベドは、畏まりました、と言って、全階層に通達を出した。モモンガ様が巡られる、各階層、各領域、迎える支度を、と。支度は要らない、と悟は言った。いつものままでいい。
階段は長い。攻めてくる連中がうんざりするように作った長さで、今日うんざりしているのは、作った側だった。
それでもシャルティアの足取りは軽い。軽すぎて、後ろ向きに降りている。こちらに顔を向けたまま、踵で次の段を探りながら。
「第一階層から第三階層までは、わたしがお預かりしている階層でありんす。本日は、隅から隅までご覧に入れたいでありんす。墓所の苔も──」
長い裾が、一段ごとに踵へ絡みかけている。見ているほうが落ち着かない。
「お、おい、危ない。振り向くな。足元を見ろ」
「はい、モモンガ様!」
くるりと前を向いた。向いたまま、しゃべりつづける。
「──植え替えさせんした。湿りの具合も──」
声だけが、ずっとこちらを向いていた。いつものままでいい、と言った階層の苔が、植え替わっている。
しゃべっているうちに、階段が終わっていた。下りきったところに、
前で、ちょっと足を止めた。
「いつも、ご苦労だな」
それだけ言って、先へ行った。
第一階層は墓地だ。
通路の向こうを、骸骨が二体、歩いていった。こちらを見ない。設定を持たないアンデッドで、湧いては消える。ゲームの頃と同じで、誰が通っても歩みを変えない。
回っている。自分が何もしなくても。ポップは湧いて、罠は動いて、
いいギルドだ、と思った。作った連中が、揃いも揃って凝り性だった。
「おっと」
浮いた継ぎ目の一つに、悟はつまずいた。
転ばなかった。右足の爪先が継ぎ目につっかえて、体が前に流れて、左足が出て、踏みとどまった。それだけだ。
──止まった瞬間、周りも、止まった。
先を歩いていたシャルティアが振り向いている。振り向くな、と言ったのに。顔から色が消えていた。元から白いのに、いまは蒼白そのものだ。後ろでは、アルベドが両手を広げていた。背中に触れない距離で。セバスはいつの間にか斜め前にいた。倒れる先に、立っていた。いや、セバス? ここに来てからいままで、いなかったよな。
三人とも、声も出さず、動かない。骸骨だけが、向こうで歩いている。
「い、いや、いや! 大丈夫だ、大丈夫。つまずいただけだ。ほら、立ってる。な?」
「御身は」
アルベドの声が、聞いたことのない高さだった。
「御身は、ご無事で」
「無事だ。つまずいただけだ。誰でも、つまずく。……で、セバス。お前、どこにいた」
「お邪魔にならぬよう、離れて控えておりました」
セバスは、それ以上は言わなかった。離れていた者が、なぜ倒れる先にいる。
三人の肩から力が抜けないまま、アルベドが空中に向かって何かを言った。〈
ペンギンが、来た。目出し帽の男の腕に抱えられて、階段をものすごい速さで降りてくる。イー、という声が墓地に響いた。
「お呼びにより、参上いたしました」
エクレア・エクレール・エイクレアーは、目出し帽の腕から石の床に下ろされて、嘴を床に近づけた。
「……継ぎ目に、浮きがございます。三ミリ」
三ミリ。目盛りはどこにあるんだ。
シャルティアが、その場に膝をついた。
「わたしの階層で、モモンガ様のおみ足を……。床の検めが、足りておりませんでした」
「いやいや、待て。床は元からこうだ。古く見えるように、わざと継ぎ目を浮かせて作ったんだ。私たちが。シャルティアの落ち度は何もない」
作った本人がつまずいているのだから、世話がない。
「……はい。寛大なお慈悲に、感謝いたします」
「ほら、立て立て。せっかく似合ってるドレスが汚れるぞ」
手を取って、立たせた。シャルティアの目が潤んでいた。アルベドが目元を押さえている。セバスまで目を伏せていた。目出し帽の男は号泣していた。イー、イー、と嗚咽が墓地に響く。それ泣き声なのか。
エクレアだけは、乾いた声のままだった。
「至高の御方々のお拵えとあらば、直すわけにはまいりません。私の管轄でもございません。が、モモンガ様の歩かれる床である以上、私の問題でもございます」
「エクレア」
「はい」
「何を、するつもりだ」
「先導いたします」
エクレアは胸を張って、よちよちと一歩前に出て、その先の床を嘴で検めた。
「右足から、どうぞ。……はい。こちらの床は、塵一つございません」
「お、おう……。わ、分かった」
悟はため息を吐いてから、右足を出した。出さないと、話が進まない。エクレアがもう一歩、よちよちと進んで、嘴を床に近づけて、止まった。
「……お待ちを」
声が低くなった。
「異物、発見。……数ミリ。砂粒でございます。おそらく、第一階層のアンデッドどもが、足に付けて運んだもの」
周りが、また、止まった。
シャルティアの手が、何も持たないまま、得物を握る形になった。目は、通路の向こうの骸骨に向いている。骸骨は、睨まれても歩みを変えない。
砂粒には、まだ誰もつまずいていない。
アルベドが〈伝言〉をまた早口で始めた。第九階層の清掃の者を、全員集めさせる声だ。セバスが懐から白い布を出して、エクレアの示した一点を拭って、布を三度畳む。
砂粒が一つ、消えた。
「左足を、どうぞ」
悟は左足を出した。エクレアがまた一歩前に出て、次の床に嘴を近づける。
ペンギンに歩き方を教わっている。左右の足を、一歩ずつ。会社の健康診断でも、ここまでは言われなかった。
「右足から、どう──」
「やめろ」
四人がこちらを見た。目出し帽も見た。
「こんなことは、しなくていい。……命令だ。先導は要らない。床は、床でいい。私は、つまずく。つまずいて、転んだら、起きる。それでいい」
誰も声を出さない。エクレアが辞儀をして、その姿勢のまま目出し帽の男に拾い上げられる。抱えられたまま、嘴をもう一度床に向けて、やめた。イー、と目出し帽が言って、二人は階段を上がっていった。
シャルティアが立ち上がり、アルベドの〈伝言〉が途中で切れた。セバスの布は、もう懐に戻っている。
それからは、誰かの目がずっと足元にあった。振り向くと、どの目ももうこちらの顔にある。前を向くと、また足元に戻ってくる。現場を押さえられないのでは、やめろとも言えない。
◇
第二階層。
黒棺、という名の場所だ。棺というからには、中身は一つであってほしかった。
扉の前で、シャルティアが足を止めて、こちらを見た。この階層の守護者なのに、扉の取っ手から、半歩離れて立っていた。後ろに、
「モモンガ様。この先は……」
「知っている」
知っているから、来たくなかった。それは顔に出さない。設定文を読んでいる。誰が作ったかも覚えている。覚えていて、ここだけは転移で素通りしてきた。
「開けてくれ」
「……はい。中は、わたしがご先導いたします」
声は張っていた。取っ手を握った手が、細かく震えている。後ろで、日傘の花嫁が半歩下がった。
さっきの継ぎ目と砂粒の分を、ここで取り返すつもりらしい。今日は、先導の申し出が多い。
「シャルティア。無理はするな」
「無理など──」
「外で待っていてくれ。命令だ」
「……承知、いたしました」
取っ手から、指を一本ずつ離して下がった。震えていた手にしては、離し方が惜しそうだった。
扉が開く。
匂いが先に来た。甘くて、腐った果物の底のような匂い。それから、音。乾いたものが乾いたものの上を何千と走る音。それから、見えた。
床が、動いていた。よく見ると、床の上の黒いものが動いている。一匹ずつは小さくて、全部で、床だ。壁の下のほうまで、床だ。ゴキブリだった。
──うわあ。
いや、そうじゃない。無理じゃないことにする。
喉が、動いた。腹の底から上がってきたものを飲み込んで、喉で押し戻した。決めていたとおり、顔には出なかった。動いたのは、喉だけだ。
骨の王には、これがなかった。ゲームの中には匂いがなく、ゴキブリの海を前にしても見るだけだった。まあ見ているだけでもキツかったけど。
人間の体には、ある。二一三八年のアパートに出たのは、一匹だ。その一匹で、一晩眠れなかった。
仲間が作った者の家で、吐き気をこらえている。
会ったことのない者に会いに行く、には、口に出さなかった続きがある。十二年、見た目で避けてきた者にこそ。見た目で狩られるほうなら、ゲームの中で慣れていた。見た目で分けるほうには、慣れたくない。
中へ、一歩踏み出す。また一歩。ペンギンが恋しくなった。
部屋の奥に段があって、段の上に椅子があって、椅子の上に三十センチほどの直立したゴキブリがいた。紅のマントに、小さな冠と、小さな王笏。顔が、正面を向いている。頭から背丈ほどもある触角が二本伸びて、左右に振れている。こちらを確かめているのだと、少し遅れて気づいた。
それが、段を降りてくる。その足元の黒い海が割れて、道になった。割れ方が、やけに行儀がいい。道の上を、紅のマントが二本の後ろ脚で歩いてくる。王笏を握っていない残りの脚が、マントの陰で、それぞれ少しずつ動いている。
──住居最悪、恐怖公。ナザリックの五大最悪、そのひとつ。
「モモンガ様」
声は低く、丁寧だった。
「忠義の者、恐怖公でございますぞ。本日は、我輩の棲家にお運びいただき……」
言葉が一度、途切れる。そら豆状の複眼が、こちらの喉に向いていた。喉がまた動く。それも、見られた。
恐怖公は、もう目の前まで来ていた。棘の並んだ前肢を、差し出しかけていた。握手の形だ。その前肢が途中でためらって、引っ込んだ。
「……我輩ごときに、御手は過分ですな」
引っ込めた前肢をマントの内側に収めて、彼は深く頭を下げた。悟はその場に立って、手を出さずにいた。
出せば、彼は握る。握らせるのは、違う気がした。
「……そうか」
言えたのはそれだけだった。
「それでも、お越しくださいましたな」
恐怖公の冠は、床を向いたままだった。
「我輩の棲家は、ナザリックの誰もが近づきたがらぬ場所ですぞ。守護者の方々も。メイドたちも。……モモンガ様も本来であれば、お運びになる必要のない場所でございます。それを、ご自身の足で、お越しくださった」
声が少し震えていた。触角の先も。
「もったいのうございます」
黒い海が静かになっていた。何千という乾いた音が、絶えている。悟は頷いた。それから、何か一つ、ちゃんと言いたくなった。
「その冠、似合ってるな」
恐怖公の触角が、二本とも跳ね上がった。
「お、おお……! これは、これは、我輩の創造主より賜りし、我輩の誇りでございますぞ! 王笏と揃いでございまして、こちらの宝玉は、角度によって──」
王笏が掲げられて宝玉が光ると、黒い海が一斉に向きを変えた。
「──失礼。眷属どもまで浮かれております」
「いいよ。……また、来る」
「お待ちしておりますぞ」
頷いて部屋を出た。出るまでに、喉はあと二度動いた。
扉の外で、シャルティアがこちらの顔色をうかがった。平気な顔を見て、ほっと肩を下ろす。平気な顔は、作ったものだが。
日傘の花嫁だけが、さっきより一歩遠い。……匂う?
◇
第三階層の骨と影の通路は、足を緩めずに過ぎた。前を行くシャルティアの説明が、早口になった。こちらの歩く速さに、説明のほうが合わせている。骨は見慣れている。十二年、鏡に映っていたのは骨だった。むしろ少し落ち着いた。骨に落ち着く人間というのも、どうかと思う。
第四階層では、地底湖のほとりからローパーが近づいてきて、喉が一度動いた。ローパーは十歩離れたところで進むのをやめて、触手を一本、ゆっくり下げる。それが礼で、それ以上は近づかない。悟も、手を上げた。
第五階層は、氷だ。遠い氷河の向こうから、声だけが渡ってきた。
「御身ガ、凍エマス。……ドウカ、ソコカラ」
コキュートスは頭を下げて、そこから動かない。白い息が遠くで大きく出た。
「遠いな」
「申シ訳ゴザイマセン。私ガ、冷ヤシテオリマス」
自分の体温を謝られたのは、初めてだ。
同じ氷の奥、氷結牢獄の入口に、女が立っていた。黒い喪服に、長い黒髪。顔には皮がなく、筋肉がそのまま外にあって、目と歯だけが白い。ニグレド。タブラさんが作った三姉妹の長女で、アルベドの姉だ。彼女はこちらを見て、傍らの揺りかごを、静かに揺らし始めた。
寸劇が始まる。これを経ないと、彼女は会話に入れない。スキップのできないイベントだ。
アルベドが、半歩、こちらの前に出た。
「姉の、作法でございます。お付き合いいただかなくとも」
「いいんだ。付き合うよ」
人形が壁に投げられて、壁が泣き、赤子たちが這い出してくる。鋏を握ったニグレドが来た。アルベドは半歩前に出たまま、戻らなかった。
鋏の先が鼻先で止まって、告発が始まる。子供をさらった覚えはない。ないが、謝りたくなる勢いだった。
「……ありがとう。続きは、また今度」
付き合う、と言った手前、半分までは付き合った。ニグレドの声が途切れ、鋏が下りて、赤子たちが壁に戻っていく。彼女は深く頭を下げた。悟は、そこから先へは進まなかった。
真実の部屋は、氷結牢獄の奥にある。入らない代わりに、部屋のほうが入口まで来た。
白い体。溺死体のように膨れている。頭は蛸で、顔の下から触手が六本垂れている。黒い革の帯が、膨れた体に食いこんでいる。指は四本で、爪が派手に塗ってある。頬に、紅。
──役職最悪、ニューロニスト・ペインキル。
「あらあらあらあらん!」
声は野太くて、濁っていて、語尾が跳ねていた。
「モモンガ様! モモンガ様が、おねえさんに会いに来てくださったのねん! 聞いてはいたけど、本当に! 本当にいらっしゃったのねん!」
触手が六本、揺れている。設定文どおりなのに、実物はおねえさんとは程遠い。
喉が動いた。黒棺とは別のきつさだ。なまじ人の形に寄せてある。腹の底のものが、喉のもう少し上まで来た。
押し戻した。そうあれと作ったのは、こちら側だから。
「や、やあ。……元気そうだな、ニューロニスト」
「おねえさん、ずっと、ずうっと、お待ちしていたのよん。お会いできたら、何をしようかって、何を言おうかって……ああ、言葉が出ないわん。お茶もお出ししたいし、お部屋もお見せしたいし、新しい道具もお見せしたいのだけど、それはまた今度ねん!」
触手の一本が伸びてきた。伸びてきて、顔の手前まで来て、震えている。触れたい。触れていいのか。触れたい。触手の先がそう言っている。
悟は一歩、前に出た。
触手が触れた。冷たくて、少し湿っていて、思ったより柔らかい。頬の上をゆっくり一度、撫でた。
腹の底のものが、喉を越えかける。越えさせなかった。顔に出さないまま、触手が離れるのを待った。背中で、翼の擦れる音がした。
「ああ……」
ニューロニストは触手を自分の胸に当てて、揺れていた。
「おねえさん、もう、何も要らないわん。今日のことを、ずっと、ずうっと、覚えているわん」
気づいていない。喉が動いたことに。一歩出る前に、一度、息を止めたことに。ただ、六本の触手が揺れている。
それでよかった。
「また、来る」
「ええ、ええ! いつでも! おねえさん、いつでもここにいるわん!」
牢を出るとき、悟は一度だけ振り返った。白いものが入口で触手を振っている。六本とも。
角を一つ曲がったところで、アルベドが白いハンカチを出した。今度は、差し出した。
「お頬を」
「いらん」
ハンカチは引かれなかった。頬の高さに、まだある。無視した。それでも彼女はこちらを見ていた。
第六階層に降りると、森の入口でアウラとマーレが待っていた。
「あの大穴だけは、本当に、見なくていいです。あたしの階層ですから。あたしが、見てますから」
「行くよ。……大丈夫だ、アウラ」
蠱毒の大穴の底では、大きなものが、顔も上げずに匂いを放っていた。人を生きた巣にする者。──五大最悪、餓食狐蟲王。アウラが、穴とこちらのあいだに小さな背中で立った。守られているほうが、背が高い。
「……もう、いいですか」
「……ああ」
アウラの肩から力が抜けた。帰りの森の道で、マーレが杖で匂いを払い、残りをアウラが手で扇いでいた。払われているのがこちらに付いた匂いだと分かったのは、森を半分過ぎてからだ。
第七階層は、熱い。顔の片側だけが焼ける。料理長なら、そろそろ裏返す。神殿へ向かう道の脇で、溶岩の面が一度、高く燃えた。何かが落ちたらしいが、見えなかった。燃えたあとの面は、前より明るい。
溶岩に照らされた神殿の前で、デミウルゴスが椅子を一つ用意して待っていた。骨でできている。肘掛けの曲がりがやけに優美だった。
「趣味でございます。お気に召しましたら、お部屋にも一脚」
「い、いや、いい! いいんだ。……いい椅子だな。うむ」
何の骨かは、訊かなかった。
デミウルゴスの尾が、一度だけ揺れた。それから黙ってこちらの喉を見て、微笑んだ。微笑みの意味を、悟は読まなかった。
◇
第八階層には、行かなかった。あそこにいるのは、会いに行く相手ではない。ナザリックが落ちる日のために、取ってあるものだ。
第九階層の自室に戻ると、扉の前に箱があった。小さな黒い箱だ。当番のメイドが、辞儀のまま言う。
「第二階層より、使いが一匹、参りまして。これを、置いて、戻りました」
一匹。
開けなかった。開けられなかった。中に何があるかを考えないまま、部屋に入れて、棚に置いた。
開けないことを、恐怖公は分かっているだろう。分かっていて、置いた。
箱を見ていたら、引っ込んだ前肢が浮かんだ。十歩手前で下がった触手も。
部屋では、セバスが待っていた。
「湯殿のお支度が、整っております」
「いや……今日は、もう寝る」
頬を撫でた触手の冷たさが、まだ残っている。落とすのは、明日でいい。