コキュートスの手が、剣の柄をこちらへ差し出した。腕を、いっぱいに伸ばして。それ以上は寄ってこない。
冷気対策の指輪をはめている。火炎耐性と同じで、ふだんは飾りだ。外したら、この距離にも立っていられない。
握った柄には、既に冷えが移っていた。第六階層の闘技場、砂の上。全階層を巡った夏から、しばらく後。もし外に居たら肌寒くなってくる季節だ。
右手に握ったものを眺めてみる。片手で持てる長さの、短い剣だった。研ぎ澄まされた刃が、偽物の日差しを受けて、輝いていた。周りでは鈍くしておいたほうがよいのでは、とアルベド達が言い、それでは意味がない、とデミウルゴスが返している。
コキュートスが慎重な仕草で、刀身から手を離した。重い。だが、刃先は地面には付かなかった。
◇
重いものを受け取るのは、これが初めてではなかった。夏の終わりに、宝物殿で、金貨の山の前に居た。
「パンドラ。金貨を、袋に二つ、入れてくれ」
何に使うかをパンドラは訊かず、ただ言われたままに用意した。悟は受け取る前に、山を見ていた。
十二年、この山を、自分のためだけに減らしたことはなかった。当たり前だ。ギルドの金貨は、皆のものだ。四十一人が狩って、売って、積んだものがここにある。たっちさんのドロップの代金も、ぶくぶく茶釜さんが売った素材の代金も、どれがどれかはもう分からない。だから、皆のもの。四十人が去ったあとも、山は減らさなかった。それだけは、留守番にもできたことだったから。
前の日、朝の報告の席で伝えた。今後は忍びを増やす、金貨は自分が出す、と。作った声で、簡単に言えたのは、たぶんここに立っていなかったからだろう。
「……これは、みんなの金だ」
「はい。至高の御方々の」
「俺のじゃない」
パンドラは袋を抱えたまま首を傾げて、帽子のつばも一緒に傾いた。
「父上は、至高の御方々のお一人でいらっしゃいます。四十一人の金貨は、四十一人のお一人のものでもございましょう」
「…………」
そういう理屈を、この部屋で言われると、返す言葉がなかった。誰に似たんだ。……俺か。
袋を一つ、受け取った。人間の腕には、思ったより重い。
──拠点のためだ。見張りを増やす。忍びは、ここが見つからないために出す。……半分は、そうだ。あとの半分は、この体のレベルが上がるのかを知りたいからで、それは拠点の安全とは関係がない。
もう一つの袋も、受け取った。
「借りるだけだ」
パンドラに言ったのか、山に言ったのか、自分でも分からなかった。パンドラは「はっ」と答えて、父上、とだけ言って、下がった。
十二年使わなかった金を、半分は自分のために使う。
袋は、その足でアルベドに渡した。
アルベドは両手で袋を受け取って、中身も使い道も訊かず、いつもの微笑みで一礼した。左の薬指に、指輪が光っている。悟は目を袋に戻した。
言い訳を三つ用意してあったのに、一つも使わなかった。
「今夜の警護は」
「要らない」
「今夜は、でございますね」
袋を抱えて去る背中が、少しも引いていなかった。
◇
気付かない内に、剣先はとっくに地面に着いていた。腰に力をこめて、また持ち上げる。
──実験。春のうちに、影が獲ってきたもので試させてあった。デミウルゴスが紙にして、毎回律儀に届けてくる。
……入る。おそらく、ユグドラシルで経験値と呼んでいたものが。ただし、入るのは現地の者で、それも戦いに加わった者だけ。とどめを刺しただけでは入らない。ナザリックの者には、入らない。
紙にはないものが一つ。プレイヤーに入るのかどうか。試せる者はここには一人しかいなくて、その一人は、試す前に止められる。治験なら、中止だ。
言うたびに、止められた。アウラは目を逸らして、デミウルゴスに訊いてみますね、と言った。デミウルゴスは、御身には危のうございます、と腰を折った。アルベドはその先を言わせず、お食事の時間でございます、と言った。見事な切り返しで、うちの部長より上手い。命令にはしなかった。してみたい、と言っただけだから、断られた。
それでも、言うのはやめなかった。指には、ほとんど使えない指輪が七つある。拾えなかった杖がある。ただの人間が、神器を一揃い身につけている。ゲームなら笑い話だ。上げられるなら、上げる。上げない理由なんて、なかった。
秋になって、何度目かで、通った。
「なりませ──」
「では、御身に一切の危険のない形で、戦っていただきましょう。戦って、入らなければ、それまで」
アルベドが言い終わるより先に、デミウルゴスの声が重なっていた。それまで、と言われて、アルベドは黙った。その沈黙が承知の代わりで、決まるまでが早かった。
その結果が、今日だ。秋は少し深くなっていて、悟は闘技場の砂の上に、剣を持って立っている。
守護者は闘技場のあちこちに散っている。アルベドは砂の上、こちらのすぐ後ろ。デミウルゴスは砂の際。アウラとマーレは観客席の最前列で、シャルティアはその後ろ。セバスは斜め前。ペストーニャが砂の外に立っていて、耳がずっと前を向いている。見物の席順まで、決まっているらしい。
闘技場の向こう端に、コキュートスが戻っていた。鈍く光るものを持っている。鎖だ。手にした鎖の先に、何かがいる。
試し、と彼らは言った。言葉はもともと自分のものだ。言葉だけ渡したら、砂と鎖と観客席まで付いてきた。
金属の擦れ合う音が、砂の上を渡ってきた。
コキュートスが鎖を引いてくる。引かれてくるものは大きく、人の形をしていて、手足を縛られて引きずられても、コキュートスの胸まである。トロールだ。ゲームにもいた種族で、体のあちこちに傷がある。トロールの傷は塞がるはずなのに、塞がらないようにしてあった。血が砂に落ちている。
虫の息、と誰かが言った。コキュートスはトロールを砂の真ん中に横たえ、鎖を引いて、首を砂に押しつける。体は動かない。動けないのだ。目だけが動いていた。
「外で、捕らえたものでございます」
デミウルゴスが言った。訊く前に。
「喋るのか」
「以前は、よく。……今は、喋りません」
なぜ、とも、どこの者かとも、訊かなかった。
「モモンガ様」
デミウルゴスが言った。
「お手を。御自身でお倒しください。……戦われた、という形でございます。相手はコキュートスが押さえておりますので、御身に危険はございません」
形、と言った。悟は剣を提げて、そこまで歩いた。砂が靴の下で鳴る。
首が目の前にある。太い首に、皮膚と、血。息をしていて、吸うたびに胸が少しだけ上がる。目がこちらを見ている。口は動かない。
殺してくれ、と言われた気がした。
剣先が震えている。止まるまで待った。止まらない。
息を吸った。吐いた。トロールの胸が、こちらと同じ間で上下している。
剣先を、トロールの肌に当てた。
刺した、というより、押した。刃が皮膚に入って、入ってから抵抗が来て、その向こうで何かが切れた。胸が一度大きく上がって、下がって、それきり上がらなかった。目は最後まで、こちらを見ていた。
血が砂に広がっていく。剣を抜くと、手が濡れていた。温かい。人の形をしたものの血だ。
何も、起きなかった。手には、感触がこびりついていた。
ゲームの中では起きた。倒した瞬間に数字が動いて、体の中で何かが上がり、光って、音がする。十二年、何回も見た光だ。
今は何も起きない。血が温かいだけだ。
「……やはり」
デミウルゴスが砂の際から言った。訊く前に。
「御魂の格が、変わっておられません。輝きが、お倒しになる前と同じでございます。……いかがでございましょう」
「何も」
「何も、入りませんか」
「ない。何も」
悟は剣を握ったまま、砂の際を見た。
「見えるのか」
「おぼろげに、でございます。輝き、としか、申し上げられませんが」
デミウルゴスは紙に何かを書いてから言った。
「ナザリックの者には入りません。それは確かめてございます。……御身にも、入らぬようで。この世界の理と拝察いたします」
滑らかだった。用意してあった言葉のように。手の中の短い剣には、まだ血がついている。
「これは、とどめだ。戦いじゃない」
言った。デミウルゴスの眼鏡が光った。
この体はナザリックの者ではない。現地の者でもない。プレイヤーの体で、紙のどこにもない。紙にないものを、入らぬようで、とは言えない。
結論の決まっている会議を、前の世界で何度も見た。誰も嘘を言わない。誰も本当のことも言わない。最後に一番正しい顔をした者が、決まっていたことを言う。トロールは半死半生にして、喋らなくしてから連れてこられた。刺して、入らなくて、入らない体なのだと言われて、それで諦める。そこまでが書いてあった。
茶番だった。そう分かっても、腹は立たなかった。分かったのは別のことだ。彼らの恐れは一つしかない。御身に傷がつくこと。そのために、ここまでする。自分が頼んだのは、その恐れに、自分から近づくことだった。
彼らの恐れが正しく聞こえた。正しすぎて、少し、怖かった。
守護者たちは動かない。アウラが観客席で何かを言いかけて、飲み込んだ。シャルティアは砂の際とこちらを見比べている。コキュートスは鎖を手にしたまま、もう向こう端まで下がっている。悟は剣を持ち直した。
「──可能な限り、弱いやつを、連れてこい」
台本になかったことを、言った。アルベドがこちらを見て、デミウルゴスも見た。
「この辺りで、一番弱いのでいい。それと、戦う。本当に。それで、倒せもしないなら、諦める」
なりません、とアルベドが言った。今度は言い終わった。御身が、とシャルティアが言った。御身が、刃の前に立たれるなど。だめです、とアウラが言った。絶対、だめです。マーレが、モ、モモンガ様、と言って杖を握った。セバスが半歩前に出た。遠くでコキュートスが言った。御身ニ、刃ヲ、向ケサセルワケニハ。
デミウルゴスだけが何も言わなかった。悟は全員を見て、言った。
「命令だ」
この言葉を彼らに使ったことはある。肉の残りを食べさせるときに。やめろ、と言うときに。自分のために使ったのは、初めてだった。
砂の上が静かになった。デミウルゴスが腰を折った。
「……そこまで、仰せならば」
「──御身が傷ついたら、誰が償うの!」
アルベドだった。デミウルゴスに向けた、悲鳴じみた叫びだった。一度きりで、そのあとに言葉はなく、砂の上の空気が重く、冷たくなる。悟は一歩下がっていた。向けられたのは自分ではないのに、膝が笑う。アルベドはデミウルゴスを殺す気だった。こちらのために。まだ一滴も流れていないのに。
それで、我に返った。命令だ、と言った。十二年、画面の中で上げていた数字のために、この場にこれを呼んだ。取り消す言葉を探した。探しているあいだに、デミウルゴスが答えた。
「償いであれば、私が」
それだけ答えて、片手を上げた。鎖の音が、また聞こえた。
コキュートスが別のものを連れてきた。小さい。痩せた野の犬で、鎖は首にだけ、傷はない。眠っていて、砂の上で腹が上下している。
「用意してあったのか」
「念のため、でございます」
デミウルゴスは腰を折ったままだった。
「この世界のあらゆる獣を調べました。最も弱いものを一体、モモンガ様がそう仰せになる場合に備えて。……外の村の農夫が鍬で追い払う程度の、野の犬でございます。眠らせてございます」
読まれていた。
台本になかったことを言ったつもりだった。だが、台本には続きがあった。たぶん、開かせたくなかった頁が。腹を立てる暇はなかった。デミウルゴスが言った。
「一つだけ、お聞き届けを」
頭は下がったままだ。
「危険と判断した瞬間、コキュートスが、割って入ります。モモンガ様の御意思に、反してでも。……これをお許しいただけぬのであれば、私は、ここで、自害いたします。御身に刃を向けさせた者として、生きてはおられませんので。どうか、お考え直しを」
自害、と言った顔は静かで、予定を読み上げるような顔だった。飲まないなら死ぬ。声の調子は変わらなかった。
悟はコキュートスを見た。遠くで、鎖ごと低く構えている。
「……コキュートスが、止める。それでいい」
デミウルゴスが頭を上げた。顔は何も変わっていない。アルベドは口を閉じたまま、一歩下がった。
◇
砂の真ん中に、柵が組まれていた。腰の高さの木の柵で、人が一人と犬が一匹入る広さがある。眠った犬が、その中に運ばれた。
悟は柵をまたいで、眠っている犬を見て、それから柵の外を見た。砂の際と観客席から、全員がこちらを見ている。
この獣は、目を覚ましても、こちらを見ない。見るのはこいつらだ。ゲームの獣は怯えない。本物は怯える。鍬で逃げる獣が、こいつらの前で戦うわけがない。
「頼む。全員、出てくれ。獣から見えないところから、見ていてくれ。……コキュートスだけ、柵の裏に残ってくれ」
誰も動かない。アルベドが口を開いて、閉じた。デミウルゴスが一礼した。
「通路の、暗がりに」
守護者たちが砂から消えた。早かった。砂の際と観客席が空になって、通路の暗がりに目が並んだ。柵の裏にコキュートスだけが残った。頭を低くして、鎖を持って、白い息を止めている。冷気も来ない。息を止める虫というのは、初めて見た。
静かになった。悟は剣を持って、眠っている犬の前に立った。犬の腹が上がって、下がる。鼻の先で、寝息が砂粒を一つ転がした。待った。剣を持って犬を起こすのは、さすがに違う気がした。どれだけ待ったかは分からない。
犬の耳が動いて、目が開いた。起き上がって、こちらを見る。囲いの中には、剣を持った人間が一人。ほかには何もいない。
黄色い目だった。小さい犬の、小さい目だ。その目に見られた瞬間、体が凍った。剣を持った腕も、砂を踏んだ足も、動かし方を忘れた。
犬が、唸った。唸り声が、腹の底まで響く。あの痩せた体から出る音ではなかった。めくれた唇の下で牙の根元の肉が赤く、歯の隙間から唾液が糸を引いて、砂に落ちた。
心臓が鳴りやまない。通路の暗がりの全員に、聞こえていそうだった。
獣が身を沈めて、飛んだ。思ったよりずっと速い。剣を前に出した、というより、顔の前にかざしただけだった。獣はその剣に当たって跳ね、砂に落ちて、すぐ起きる。小さいくせに、起き上がるのだけは一人前だ。
獣の肩から血が出ている。刃がかすったらしい。当てたつもりは、まるでない。
獣がまた来た。今度は低く、足を狙ってくる。振った剣は空を切り、体ごと前へ流れて、流れた先に獣がいた。ゲームなら、ここで回避を押している。
牙は袖に当たって布を裂き、その下の皮膚には届かなかった。噛まれなかったのは、たぶん運だ。
もう一度振る。今度は獣の背に当たった。深くはない。それでも当たった。獣が鳴いて、砂を蹴って距離を取る。
砂に血の跡が二つ。獣の肩と、獣の背の分だ。こちらの肩は上下していて、剣が重く、腕が上がらない。獣はこっちを見て唸っている。まだ元気だ。こっちより、ずっと。
三度目。
獣が来る。突き出した剣に獣が当たった瞬間、柄が手の中で滑った。さっきのトロールの血だ。滑った刃が回って、右の手の甲を通った。
熱かった。
痛いより先に、熱い。熱くて、それから痛い。手の甲に線が一本開いて、そこから血が出ていた。自分の血は、さっきの血より赤かった。
剣が砂に落ちた。
獣が、飛んだ。遅かった。何もかもが遅かった。砂を蹴った後ろ足の爪。宙で開いていく顎。舌の上の泡。濡れた牙の一本一本が、順に見えた。
死ぬ。
殺される。
死ぬ、という扉に、手がかかった。ゲームの中で何千回死んでも、一度も手をかけたことのない扉だった。
飛んだ獣が宙で止まって、砂に落ちた。首に鎖が巻きついていて、鎖の先にコキュートスがいる。柵の裏から、柵を越えて、いつの間にそこまで来たのか分からない。獣はもう動かなかった。
闘技場から、音が消えていた。通路の暗がりにいた者は、もう一人も暗がりにいなかった。
アルベドが目の前にいて、こちらの手を見ている。何も言わない顔だ。拳を両方握って、開かない。指の色がなくなっている。彼女の周りの空気が重くなって、うまく吸いこめない。彼女から来ているのが分かる。向ける先が、どこにもない。
デミウルゴスが砂の際にいた。紙は足元に落ちたままで、拾わない。唇を噛んでいる。眼鏡の奥の目は手に行ったまま動かない。噛んだ唇が白くなって、それから赤くなった。
観客席でアウラが立ち上がっていた。手すりを両手で掴んで、顔がこちらを向いている。身を乗り出しすぎて、手すりが軋んでいる。
マーレが杖を両手で握っていた。泣いていない。顔に、何もなかった。いつものおどおどが消えていて、唇も動かない。瞬きをせずに、手だけを見ている。周りの誰より静かだった。
シャルティアが来ようとして、来られずにいた。戻りかけて、また来ようとする。手が宙で何かを掴もうとして、掴むものがない。
セバスは、真後ろにいた。
コキュートスだけが違っていた。鎖を携えたまま柵の脇にいる。変わらない顔が、手ではなく、砂に落ちた剣を見ていた。それからこちらを見て、深く頭を下げた。白い靄が長く漏れる。
誰も、何も言わなかった。
「……もういい。終わりだ。入らなかった。……入ったかどうか、分からない。分からないなら、入らなかった」
手の甲から血が砂に落ちた。一滴。二滴。
「お手当てを」
ペストーニャだった。砂の外から走ってきて、犬の顔で耳を伏せて、両手を前に出している。
「お手当てを、させてくださいわん。すぐに治りますわん。一瞬で、傷も跡も残りませんわん。どうか、どうかわん」
治癒の魔法なら、彼女にできる。ルプスレギナにも、マーレにも。一瞬で消える。線は閉じて、血は止まって、痛みはなくなる。何もなかったことになる。
手の甲の線は、まだ開いている。へりが白くなって、それから赤くなっていく。痛みが脈を打っていた。
「いや、いい」
「モモンガ様」
「人間は、傷が治るのに、三日かかる」
言った。人間、と口に出したのは、来てから初めてだった。
「三日、かかる。それを、させてくれ」
ペストーニャの耳は伏せたまま動かない。前に出した両手が、宙に残って、それから下りた。
「……畏まりました、わん」
声が小さい。
「布を。清い布を。それだけは、させてくださいわん」
悟は頷いた。布が手の甲に巻かれた。白い布にすぐ赤が滲む。滲んだ赤を、ペストーニャはしばらく見ていた。
アルベドが息を吐いた。小さな息だ。それを悟は聞いて、心配してくれている、と思っておいた。傷が浅かったことに安堵したのだと。
砂の上で、悟は言った。守護者たちに。全員に。
「外に出ないのだから、強さは要らないよ」
血が出たとき、彼らの顔を見た。アルベドの拳。デミウルゴスの唇。立ち上がったアウラ。マーレの、何もない顔。台本に、あの顔はなかった。あれを、もう一度、見せる気は、ない。
農夫が鍬で追い払うものに、勝てなかった。それも分かった。分かりたかったことだ。野の犬に袖を裂かれて、自分の剣で自分の手を切った。ユグドラシルなら、画面を撮られて、ギルドで一週間は笑われている。
十二年、笑い話を笑う側にいた。笑い話のほうが、自分だった。
デミウルゴスに、見えるか、とは訊かない。プレイヤーに入るのかどうかは、分からないままになった。分からないまま、置く。
アルベドの顔が、わずかに緩んだ気がした。デミウルゴスは微笑んで、落とした紙を拾って、何かを書き足している。
コキュートスが、鎖を持ったまま頭を下げた。下げたきり上げず、そのあいだに口元が二度、白く煙った。
◇
三日のあいだ、手の甲の布は毎朝新しくなった。巻くのはペストーニャだ。傷を見て、耳を伏せたまま巻く。治りますわん、と言ったのは一度だけだった。
一日目の夕食で、右手で匙を持とうとして、持てなかった。布の下で傷が引きつる。左手に持ち替えると、匙が言うことを聞かずに汁がこぼれた。左手で食べる練習は、十二年してこなかった。
卓の向こうで、二人が同時に一歩出た。
「わたしが、お口まで、お運びいたしんす!」
「シャルティア。それは統括の──わたくしの役目です」
「いつ決まったのでありんすか、そんなこと」
「今よ」
「い、いや、自分で食べる! 左手でも、食べられるから」
悟が言うと、二人は同時に一歩下がって、こちらの左手を見る。匙が口に届くまで、二人とも息を詰めていた。届いた。二人が同時に肩を落とした。給仕のメイドまで胸を撫で下ろしている。
……飯くらい、普通に食わせてくれ。
三日のあいだ、守護者の全員がその手を見た。朝、セバスが剃刀を当てるとき。ボタンを留めるとき。目が手に行く。報告に来たアルベドの目が手に行くたびに、拳が閉じる。第六階層でアウラの目が手に行く。マーレの目も。廊下ですれ違うシャルティアの目が、手に行く。メイドの目が。デミウルゴスの目も。デミウルゴスは、目が行くたびに、唇の同じところを噛む。
三日のあいだ、アルベドは報告の席で一度もデミウルゴスを見なかった。二日目の朝、廊下の角の向こうで、低い声を一つだけ聞いた。
「償うと言ったのは、どの口」
答えは聞こえなかった。角を曲がると、二人とも、いつもの顔で頭を下げた。
手のことは、誰も何も言わない。見て、目を逸らして、また見る。
人間は傷が治るのに三日かかる。それを全員が見て、覚えた。たぶん、どこかに書いた。
二日目と三日目、宝物殿へ行った。パンドラは傷の手を見て、何も言わずに、金貨の山に座る場所を空ける。
三日目の夕方、布を外した。線は閉じていた。跡が赤く残っている。消えないのだろう。
◇
その夕方、悟は第五階層へ行った。止めてくれた礼を、まだ言っていなかった。指輪で。一人で。行く前にセバスに一つ頼んだ。
「外套を」
「外套、でございますか」
「毛織のやつだ。最初の夜の」
セバスは何も訊かずに持ってきた。最初の夜、神器の上に掛けられたあの外套だ。畳んで、どこかにしまってあった。肩に掛けた。
第五階層は氷だ。階段を降りきると空気が一段冷えて、白い息が出る。手すりを、傷のないほうの手でつかんだ。外套の中で体が温かい。
遠くにコキュートスがいた。いつもの場所だ。氷河のずっと向こう。階層の入口から一番遠いところ。彼はそこに立って、こちらを向いたまま近づいてこない。それが彼の礼だ。
彼の体は冷気そのものだ。集まりのたびに、彼の周りだけ人が空いた。彼はそれを当然のこととして受けて、遠くからこちらを見ていた。
悟は歩き出した。氷の上を。ここで転んだら、また全員が止まる。外套の前を片手で合わせて。手の甲の赤い跡が、外套の下にある。
コキュートスが動いた。一歩、下がろうとした。冷気が届く前に下がる、いつもの礼だ。
下がれなかった。来た者から下がるのは、礼の逆になる。そこまで考えたのか、足が一歩の途中で止まって、氷の上でわずかにきしんだ。
悟は歩いた。
冷気が来た。外套から出ている頬に、目に当たる。吐く息が白くなって、その白さが濃くなっていく。寒い。それでも歩ける。外套がある。毛織の、ただの布。神器ではない布が、冷気の中でこの体を温めている。
コキュートスの三歩手前まで来た。白い息が二人のあいだにある。こちらのと、コキュートスのが混ざって、消えた。
「モモンガ様」
コキュートスの声は硬くて低い。氷が砕けるような音だ。
「オ寒ウゴザイマス。ドウカ、オ下ガリヲ。コノ階層ノ冷気ハ、私ガ抑エテモ消エマセヌ」
「いい」
「御身ニ、障リマス」
「外套がある」
言って、悟は外套の襟をつまんで見せた。
コキュートスは答えずに、深く頭を垂れた。垂れた頭から、冷気が氷の上に落ちる。上げたとき、彼の目がこちらの手に行った。悟は右手を外套から出して、手の甲を見える高さに上げた。赤い跡。
「……傷ハ」
「治った。三日で」
「三日」
「人間は、そうだ。……止めてくれて、助かった」
「役目デシタ。鎖ヲ持ッテ、柵ノ裏ニ。モモンガ様ガ、ソウ仰セニナッタ」
コキュートスの目は、手の甲から動かなかった。
「砂ノ上デ」
「ああ」
「モモンガ様ハ、一度、本当ニ、戦ワレマシタ」
それきり、言葉がなかった。白い息が一つ出た。
「……そうだな」
「ソノ後デ、強サハ、要ラナイ、ト、仰セラレマシタ」
砂の上で、自分が言ったことだった。
「ああ」
間があった。長い間だ。白いものが三度、顎の下からこぼれた。
コキュートスは建御雷さんが作った。強くあれ、と作られた者だ。その者の前で、強さは要らないと言った。
間の後で、コキュートスはもう一度頭を下げた。さっきより深く、長く。
「御意」
それで何かが決まった気がした。
外套の前を、しばらく閉じなかった。
コキュートスが身を起こして、こちらの手の赤い跡をまた見てから言った。
「サレド」
「ああ」
「鍛錬ハ、続ケマス。イズレ、私ノ背ニ、オ乗リクダサル方ノ、タメニモ」
モモンガ様、ではなかった。方、だった。
御子。
傷の手を見ながら、いつも遠くで頭を下げるだけだった者が、御子を背に乗せて走る日のために鍛錬を続ける、と。
悟は答えられなかった。そのあいだ、コキュートスは白い息を細くして待っていた。急かさない。待つことに終わりがないように、待っていた。
「……考えておく」
それ以上は、出てこなかった。
コキュートスの変わらない顔から、白い息が一つ、大きく出た。
「ハッ」
氷の上を戻った。外套の前を合わせて。戻るあいだ、冷気が背中に当たっている。振り向かなくても分かる。彼は同じ場所に立って、こちらの背中を見ている。
階段の下で、悟は外套を握りしめた。
考えておく。
言ってしまった。言った言葉は通る。通る、ということを鏡の前で知った。知っていて、口にした。砂の上で、もう一つ、知った。通った言葉の先で、誰かが死ぬ。
考えない、とは、言えなかった。