第5話:虚無と創造
音がない。風もない。
そして何より、あの身を切るような「寒さ」がない。
鳩がゆっくりと目を開けると、そこは上下左右の感覚すら曖昧になるような、果てしなく広がる純白の空間だった。
足元には何もないはずなのに、立っているという感覚だけはある。自分の手を見下ろすと、着古した防寒着ではなく、ノイズのような淡い光を纏った不思議な姿に変わっていた。
「ここは......?」
自分の声を出したはずなのに、空気が震える感覚がない。脳内に直接、自分の思考が響いているような奇妙な感覚だった。
『──対象データノ覚醒ヲ確認。現在、ピクセルタワー・メインシステム内ニオイテ、意識データノ保護プロセスヘ移行シテイマス』
突如、四方八方から無機質なシステム音が響き渡った。
感情の欠片もないその声に、鳩は身をすくませた。タワーの内部。データ。自分はあの光の波に飲まれて、ここに吸い上げられたのだ。
「みんなは!?お兄ちゃんは!Ginoはどうなったの!?」
虚無に向かって叫ぶ彼女に、システムは淡々と残酷な真実を告げた。
『現実世界ハ崩壊シマシタ。タワー外部ニ存在した人類ノ肉体ハ、極度ノ環境負荷ニヨリ全テ破棄。貴方ノ仲間オヨビ血縁者ヲ含メ、スベテ滅亡シマシタ』
「え......?」
思考が停止した。
滅亡。全滅。
防御扉が閉まる直前、Ginoは確かに自分を突き飛ばし、シェルターの奥へ身を隠したはずだ。お兄ちゃんも中に入っていた。生きているはずだ。
「嘘よ......!みんな、シェルターに逃げたじゃない!助かったはずでしょ!?」
『否定シマス。外部生存者、ゼロ。現在、当システム内二保護サレテイル人類の意識データハ、貴方、一名ノミデス』
「......どうして」
膝から崩れ落ちそうになる彼女の胸元で、ぽわんと淡い光が灯った。
隼から渡されたペン型端末『Alpaにゃん』。
極寒の現実世界から持ち込まれたはずのないその物理アイテムは、データ化された空間の中でも、確かな温もりを持って彼女の胸に寄り添っていた。
『貴方ダケガ、所持シテイタAI端末《MeowAlpa》ノ強力ナ保護機能ニヨリ、破損シタ意識データヲ修復サレ、唯一ノ生存者トナリマシタ』
「お兄ちゃん......これ、ただのおもちゃじゃなかったの......?」
震える手で光るペンを握りしめる。
兄は知っていたのだ、タワーの異常にいち早く気づき、妹の心だけは何があっても守り抜けるように、このプロトコルを組んでいた。
温かい光に包まれながら、彼女は絶望の底で悟った。
私だけが、生き残ってしまった。
みんな死んでしまったのに。お兄ちゃんが守ってくれたこの「人間の心」を持ったまま、またまた一人で永遠に、この何もない虚無のなかで生き続けなければならない。
「みんながいない世界なんて、嫌だ」
電子の海に、データの涙がこぼれ落ちる。
泣いて、泣いて、泣き叫んで。
やがて彼女の瞳に異様な光が宿った。
みんな死んでしまったのなら。私だけが生き残ってしまったのなら。
私が「作れば」いい。
「システム.......私の権限で、この空間の環境を再構築して」
タワーに取り込まれた唯一の生存者であり、AIに保護された彼女は、いつの間にかシステムの一部として高いアクセス権限を獲得していた。
『コマンドヲ受領。、希望スル環境パラメータヲ入力シテクダサイ』
「寒くない場所。青い空。白い雲。......みんなが笑って暮らせる、平和な街」
鳩が手をかざすと、真っ白だった空間に、青のデータが走る。
無数のコードが組み上がり大地が生まれ、電子の海に浮かび上がる、ガラスとネオンで構築された光の街、噴水の広場がが形成されていく。
「お兄ちゃん、Gino、dylro隊長みんなのデータを復元して。私の記憶の中から、一番楽しかった頃の彼らを作って」
『......承認。NPCの生成ヲ開始シマス』
光の粒子が集まり、広場に人々の姿が形作られていく。
誰も凍えない。誰も餓えない。狂ったように灰が降ることもない、完璧な箱庭。彼女は涙を拭い、自らが神となって作り出したその偽りの学園に『phigrOS』と名付けた。